イタリア






イタリア共和国

Repubblica Italiana











イタリアの国旗 イタリアの国章
(国旗) (国章)


国の標語:なし


国歌:Il Canto degli Italiani(イタリア語)
イタリア人達の唱歌


イタリアの位置





































公用語

イタリア語[1]

首都

ローマ
最大の都市
ローマ

政府












共和国大統領

セルジョ・マッタレッラ

閣僚評議会議長(首相)

ジュゼッペ・コンテ


面積











総計

302,780km2(69位)
水面積率
2.4%


人口











総計(2017年)

60,430,000人(23位)

人口密度
xxx人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2008年) 1兆5,722億[2]ユーロ (€)


GDP (MER)





合計(2008年) 2兆3,138億[2]ドル(7位)


GDP (PPP)











合計(2008年)
1兆8,145億[2]ドル(10位)
1人あたり 30,580[2]ドル


成立



















イタリア統一運動
1861年3月14日

ローマ遷都

1871年7月2日

ファシスト政権成立

1922年10月22日
共和制移行
1946年6月2日



通貨

ユーロ (€) (EUR) [3][4]

時間帯

UTC +1(DST:+2)

ISO 3166-1
IT / ITA

ccTLD

.it

国際電話番号
39





  1. ^ 南ティロルではドイツ語とラディン語、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリアではスロヴェニア語、ヴァッレ・ダオスタではフランス語。

  2. ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧 ([1])


  3. ^ 1999年以前の通貨はイタリア・リラ。


  4. ^ イタリアのユーロ硬貨も参照。




イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA: [iˈtaːlja] ( 音声ファイル), イタリア語: Repubblica Italiana)、通称イタリアは、南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。




イタリア上空からの衛星画像




目次






  • 1 概要


    • 1.1 中世のイタリア


    • 1.2 近現代史




  • 2 国名


  • 3 歴史


    • 3.1 南部問題の起源


    • 3.2 ローマの高楊枝


    • 3.3 資本主義の故郷


    • 3.4 西方問題


    • 3.5 イタリア再分割


    • 3.6 トリコロールを掲げて


    • 3.7 普仏戦争という転機


    • 3.8 金融スキャンダル先進国


      • 3.8.1 敗戦まで


      • 3.8.2 民主化の限界


      • 3.8.3 すべての道は






  • 4 政治


    • 4.1 行政


    • 4.2 立法


      • 4.2.1 憲法改革案を否決


      • 4.2.2 緊急財政法案可決




    • 4.3 司法




  • 5 警察


  • 6 情報機関


  • 7 軍事


    • 7.1 陸軍


    • 7.2 海軍


    • 7.3 空軍


    • 7.4 カラビニエリ




  • 8 地方行政区分


    • 8.1 主要都市




  • 9 地理


  • 10 経済


    • 10.1 戦後の経済史


    • 10.2 貿易とエネルギー


    • 10.3 南北格差


    • 10.4 花形産業


    • 10.5 マフィア




  • 11 交通


    • 11.1 道路


    • 11.2 鉄道


    • 11.3 海運


    • 11.4 空運




  • 12 国民


    • 12.1 主要民族 


      • 12.1.1 少数民族・難民




    • 12.2 言語


      • 12.2.1 方言・地方言語


      • 12.2.2 外国語




    • 12.3 宗教


    • 12.4 保健




  • 13 文化


    • 13.1 食文化


    • 13.2 文学


    • 13.3 哲学


    • 13.4 音楽


    • 13.5 美術


    • 13.6 映画


    • 13.7 イタリアに関する芸術作品


    • 13.8 世界遺産


    • 13.9 結婚


    • 13.10 祝祭日




  • 14 スポーツ


    • 14.1 サッカー


    • 14.2 バスケットボール


    • 14.3 モータースポーツ


    • 14.4 登山


    • 14.5 野球


    • 14.6 競馬




  • 15 脚注


    • 15.1 注釈


    • 15.2 出典




  • 16 参考文献


  • 17 関連項目


  • 18 外部リンク





概要


イタリアは文化・経済ともに先進国であり[1]、ユーロ圏では第3位、世界では第8位の経済大国である[2]
西に港へ適したリグリア海、東には大陸棚が海の幸をもたらすアドリア海がある。南にはティレニア海がある。以下の二小節はイタリア史の一部であり、要約ではない。古代と近世、19世紀前半、戦間期の財政、および第二次世界大戦後は後述(#歴史)。



中世のイタリア


ギリシア時代から都市国家が成立。なお、伝説では紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。伝承によれば、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制を開始した。サムニウム戦争(紀元前343年 - 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(紀元前264年 - 紀元前146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、286年にディオクレティアヌスが帝国の統治機構及び皇帝位を東西に分割すると[注釈 1]、イタリアは西の皇帝権(西方正帝)の管轄となった。5世紀末に西方正帝が廃止されるとローマ皇帝ゼノンによってオドアケルがローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任命され、これが国号としてのイタリアの走りとなった。


オドアケルが493年に東ローマ帝国に滅ぼされた後はローマ皇帝アナスタシウス1世によりテオドリックにイタリア王位が授けられて東ゴート王国が設立されたが、その東ゴート王国も東ローマ帝国によって滅ぼされ、553年にイタリアは80年ぶりのローマ皇帝領となった。しかし、帝国にとってもはやイタリアは1属州に過ぎず、さらにランゴバルド人の侵入により、ローマのイタリアに対する支配力は大きく低下した。なお、イタリアに常駐した最後のローマ皇帝は7世紀のコンスタンス2世である。彼は南イタリアとアフリカを中心に帝国を再編成しようと意図したが、失敗に終わった。8世紀には、東ローマ帝国の勢力はイタリア半島の南端部にまで後退した。その後は南端部の東ローマ帝国、シチリア島のイスラム教徒、ローマを中心としたローマ教皇領、北部には神聖ローマ皇帝といった勢力が割拠した。この他多数の都市国家が発展、11世紀になると東ローマに代わりノルマン人が侵入した。これらの中にはイタリアの統一を試みる者もいたが、ローマ教皇庁の思惑もあって分裂状態が続く。



近現代史


18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年に、ナポレオンが失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。


1861年2月に、ジュゼッペ・ガリバルディらの戦果を継承したサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一し、1861年3月17日にイタリア王国を樹立した。王名が新生イタリアで1世に戻らないのは、ガリバルディらがナショナリズムを掲げたにもかかわらず、統一イタリアはサルデーニャ王国の版図そのものということにされたからである。1866年8月25日、不平等条約である日伊修好通商条約を締結し日本と国交を樹立した[注釈 2]。1873年には岩倉使節団がイタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアを歴訪しており、当時の様子が「米欧回覧実記」に一部イラスト付きで詳しく記されている。[3]


1922年には、ファシスト党のベニート・ムッソリーニが首相となる。その後ムッソリーニは権力の集中を進め、1929年にはローマ教皇庁との間にラテラノ条約を結び、関係を修復する。ムッソリーニ首相とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の指導の下、政治経済の回復に成功し各国からの称賛を得たものの、その後1935年にはエチオピアを再度植民地化すべく第二次エチオピア戦争によりエチオピアへ侵攻するなど拡張政策を取る。さらに1937年には日本とドイツと共に日独伊防共協定を結び、1939年9月に勃発した第二次世界大戦には、1940年6月に参戦し同年9月には日独伊三国同盟を締結、1941年12月にはドイツと共に対米宣戦布告を行った。1943年後半には敗色が濃い中ムッソリーニが失脚し連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるサロ政権が北イタリアを支配する状況になる。しかし、1945年5月8日にドイツが敗北したことにより同政権は崩壊した。王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押ししたかたちのサヴォイア王家は国民の信頼を失いつつあった。伝統的に王国時代が長い南イタリアでは王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤であったカトリック教会が国民投票で中立を宣言したこともあり、大戦終結後の1946年6月2日に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定されウンベルト2世は廃位、サヴォイア家による君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立した。1948年に、初代大統領にエンリコ・デ・ニコラが就任。その後の冷戦では、社会主義勢力の影響を受けながらも、アメリカ合衆国や西ドイツなどとともに西側諸国の1国として東側諸国と対峙した。主要国首脳会議の参加国であり、現在も政治や経済だけでなく、文化的な側面においても世界的に重要な位置を占める。



国名


正式名称はイタリア語で、Repubblica Italianaレプッブリカ・イタリアーナ)。通称、Italia [iˈt̪aː.l̺i̯a] ( 音声ファイル)イターリア)。


公式の英語表記は、Italian Republicイタリャン・リパブリク)。通称は、Italy [ˈɪtəli] ( 音声ファイル)イタリ)。


日本語の表記は、イタリア共和国。通称はイタリアであるが、イタリヤと表記されることもある。古くはイタリーとも表記された(発音は英語のItaly、フランス語のItalieに近い)。また、漢字による当て字で、伊太利亜、伊太利、以太利[4]などと表記することもあり、伊と略されることもある。


イタリアという単語は元々、半島の南端部の狭い地域の名だったということである[要出典]。由来についての有力な説は、古ラテン語の vitulus (ウィトゥルス、雄の子牛)から転じたという説である。また、古代ローマの歴史家・ハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、ギリシャ人が現在のカラブリアに上陸した時、初めて接触した民族がイタロス人(英語版)Ἰταλός)だったため、その地域が「イタリア」と呼ばれるようになったという。この伝説についてはアリストテレスやトゥキディデスも言及している。



歴史




南部問題の起源


古典古代から、現在のイタリアに相当する地域には、エトルリア人、マグナ・グラエキア人及びその他文化が栄えた。それらは最終的に古代ローマが併合した。紀元前4-2世紀にローマはケルト人・フェニキア人・ギリシア人と争い、地中海の覇権を手にした。これによって栄えたラティフンディウムは皇帝などに所有され、イタリアで自由民を使うウィラと混ざってイギリス的な囲い込みが進み、やがてラティフォンドと少し名を変えた。それは近代に論じられた「南部問題」の一つとなり、戦後憲法で貴族を追放する根拠の一つとなった。ユリウス・カエサルが、エジプト内乱へ介入してから帰還すると、無産貧民や退役兵をカンパニアへ大量植民した[5]。イタリア南部はコリントスに等しい植民地だったのである。ヘレニズムの流れを持ったアンティゴノス朝やセレウコス朝を滅ぼしたローマであったが、植民しなければ立ち行かないほど疲弊したイタリアに社会政策を打ち出した。その一つとしてアウグストゥスが属州産小麦を毎年イタリアに供給する官職を設けたが[6]、そういう生産調整まで担える制度が「南部問題」の一つである製粉税のルーツとなってしまう[注釈 3]。フラウィウス朝の現金なリストラにより富裕な属州人が元老院議員となった[8]。パンとサーカスの時代にトラヤヌス帝が古いフォルムの外に図書館や記念碑、弓形の国際市場を建設した[9]。そしてイタリアのラティフンディウムを担保にとって育英制度の融資を営んだ[10][注釈 4]。元老院議員資格としてイタリアに土地を保有することを定め、トラヤヌスは顧客をしっかり確保した[12]。彼のころイタリアは地中海物流の結節点、あるいは巨大な税関となった。オリーブとワインがスペインと競争するようになり、アナトリアからレバント由来の羊毛・オーク・キリスト教が輸入された[13]



ローマの高楊枝


消費地でしかない性格をみかねたセプティミウス・セウェルスが、政策でイタリアを属州同然にあつかい400年近く続いていたイタリア住民所有地の免税特権を剥奪した[14]。セウェルス朝は強権体制に拘って金繰りの厳しさを味わった。民族移動時代にローマは外敵と内紛と戦後処理に苦しんだ(3世紀の危機)。イタリアに関しては荒廃をさほど強調できないとする説が近年有力である[15]。軍人皇帝の頻繁な交代をよそに、ヘレニズム的な法制・徴税・通貨発行は機能を損なうことがなかった。ヘレニズム的な皇帝権の分散が終わると、税負担が貴族と教会を除いて重くなりつづけた[16]。そのため都市参事会層は転落するか、または皇帝権力に庇護されて高官となった[16]。ユスティニアヌス1世が東ゴート王国と争った535年から552年の間、イタリアは荒廃しローマが廃墟となることもあった[17]。そして568年、イタリアはランゴバルド王国が支配するところとなった。ランゴバルドはローマ=ラヴェンナ枢軸地帯へ侵入した[18]。この危機を脱するためローマ教皇は、756年ピピンの寄進を受けた。こうして枢軸地帯を寄進された教皇庁と南イタリアを領有する東ローマ帝国が鋭く対立することになった[19]


一方で843年ヴェルダン条約が、870年メルセン条約が結ばれ、北イタリアは旧中フランクとして近代にわたり東西から侵略されることが運命づけられた。そして962年、イタリア政策の犠牲となった[20]



資本主義の故郷


西暦1000年のイタリアは次の各国に支配された。元中フランク王国であったイタリア王国がコルシカ島をふくむ北半分のほぼ全域を統べたが、ヴェネツィア共和国は自治を守った[21]。ラツィオ州辺りに教皇領が残った[21]。教皇領とイタリア王国の南で、ナポリ等イタリアの都市国家を囲むように、カプア公国・ベネヴェント公国・サレルノ公国が割拠した[21]。イタリア半島の「くるぶし」から下が東ローマ帝国領で、アッバース朝がシチリア島を占拠した[21]。1004年、イヴレーア辺境伯アルドゥイーノ・ディヴレーアに敵対するイタリア諸侯の要請で、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世が遠征してきて、イタリア王に即位したが住民の反乱に遭って帰国した。1014年ローマで戴冠し、アルドゥイーノ派諸侯に反抗された。1022年カプア公国とサレルノ公国を占領した[22]。ノルマン人による南イタリア征服の間、ノルマンディー公国の住民が南部へ入植していった。ノルマン人は東西教会の分裂において教皇と連携した。1093年、教皇ウルバヌス2世はノルマン人の支援を受け対立教皇を追放した[23]


現代の資本主義は中世イタリアを起源とする[24]。イタリア商人はイタリアでロンバルディア同盟を組み、1176年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世を大敗させた[25]。ロンバルディアは、後にサルデーニャ王国にとり垂涎の土地となる。皇帝は1161年からシチリア王国の反乱軍を支援していたが、大敗が1186年イタリア政策を転換し、息子のハインリヒ6世とコスタンツァを結婚させた[26]。イタリア商人はシャンパーニュの大市を例とする国際市場でも活躍した。すると教皇の要請もあってシチリア王国へフランス勢力の逆輸入がおこった。ここでバルセロナ商人がペドロ3世のシチリア王位獲得計画を支援し、また東ローマのアンドロニコス2世パレオロゴスがペドロと同盟した[27]。ペデロ側についたジェノヴァ共和国はクリミア半島南部までも領土に獲得していた。1282年シチリア晩祷戦争がおこり、断続的に90年間も続いてシチリア王国の版図を分断した[28]。この戦争ではクロスボウが威力を示し、欧州の軍政を変革させるきっかけとなった。なお、ジェノヴァに圧迫されたヴェネツィアからマルコ・ポーロが新天地を求め東方見聞に出かけた。



西方問題


14世紀、連続するアヴィニョン捕囚と教会大分裂がイタリア政策を国際化した。いうなれば西方問題となった。


イタリアはルネサンス期に多くの学者・芸術家・博学者を生み出し、文化を繁栄させた。15世紀に本格化し、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ガリレオ、ミケランジェロ、マキャヴェッリが世に出た。コロンブス、ヴェスプッチ、ヴェラッツァーノのような探検家は、極東及び新世界への新航路を発見し、ヨーロッパの大航海時代における先導に一役買った。


旧イタリア王国(北イタリア)は15世紀中葉の時点で多くの国家に分裂していた。既にふれたジェノヴァとヴェネツィアだけでなく、比較的大きなサヴォイア公国・ミラノ公国・フィレンツェ共和国・シエーナ共和国や、ウルビーノを例とする幾つかの公領とモンフェッラートを例とする幾つかの侯国ができていた[29]。1454年ローディの和がイタリアの大同団結を実現させ、またカピチュレーションの草分けとなった。しかしメディチ家独裁体制が崩壊すると、スペイン帝国が興隆したところへイタリア戦争が起こり、ジェノヴァがついにクリミア半島から撤退した。1494年から翌年にかけて、ボルジア家の教皇アレクサンデル6世がフランスのシャルル8世にさまざまな譲歩を強いられた。1505年フランチェスコ・デ・タシス1世が郵便事業を開拓した。


1527年、神聖ローマ皇帝カール5世がローマを略奪、メディチ家をフィレンツェから追放したうえ、教皇クレメンス7世を監禁した[30]。1529年、カールは第一次ウィーン包囲を目前に教皇と和し、ナポリ王国をわがものとする代わりにメディチ家の復帰を約束した。翌年にかけてカールはボローニャへイタリア諸国の代表者を集めて領土問題に決定をくだしてゆき[31]、最終的に1559年カトー・カンブレジ条約でイタリアに対する自己の覇権を認めさせた[32]。その4年前、カールは息子のフェリペ2世にミラノ公国を譲っていた[33]。イタリア政策の要衝であったミラノがスペイン王に帰属したのは宗教改革への対抗であった。北側ミラノ・ヴェネツィアと南側フィレンツェ(トスカーナ大公国)の間に、パルマ公国・モデナ公国・マントヴァ公国・フェラーラ公国・サンマリノ共和国ができていた[34]。ミラノは北でスイスに接した。ジェノヴァとフィレンツェはスペイン国債を大量に引受けた[35]



イタリア再分割


ユグノー戦争をきっかけにユグノー資本と競争となり、17世紀の経済面でイタリアはスペインと凋落をともにした。三十年戦争の1620年、ミラノはスイスグラウビュンデン州を支援しプロテスタントを虐殺した[36]。ヴェネツィアとサヴォイアが新教徒側へついた。1625年、彼らはスペインの軍事輸送を中継するジェノヴァを攻撃した[36]。1627年、スペインがデフォルトし、ミラノがサヴォイアと協定した[37]。以後、ジェノヴァは債権者の地位をコンベルソにゆずった。1635年、フランスがピネローロを足場に、サヴォイア・マントヴァ・パルマと結んでミラノ包囲網を組んだ[38]。1647年、ナポリでマサニエッロの叛乱が起こり、翌年スペインが鎮圧した。教皇領は1598年フェラーラを吸収していたが[39]、1631年ウルバヌス8世がウルビーノ公国を編入したので[40]、アドリア海へのアクセスを拡充した一円地となった。1641年からトスカーナとの国境にある穀物山地の公国を占領、8年後に再出兵し併合した(Wars of Castro)[40]。仏蘭戦争をきっかけにフランスがユグノー排斥を再開し、これにともなう財政逼迫により現在のピエモンテ州にあたる地域で「モンテ」という小口公債が出回るようになった[41]。イギリスで名誉革命が起こると、サヴォイアがフランスを見切り敵対関係となった。


スペイン継承戦争でサヴォイアとマントヴァがフランス・スペイン側についた[42]。他のイタリア諸国は中立を守った。サヴォイアは1703年にオーストリアへ寝返った[43]。オーストリアがヴィットーリオ・アメデーオ2世にロンバルディアの譲渡を申し出たのである。1706年5月にルイ14世がトリノを包囲し、9月にヴィットーリオと従兄弟エウジェーニオ(サヴォイア家系)が総攻撃をかけてフランスを破った[43]。翌年オーストリアはミラノ・マントヴァだけでなくナポリ王国を奪った[44]。講和でイギリスの意向により、サヴォイアはシチリアを領有した[44]。その後シチリアとサルディーニャをスペインが奪回し、オーストリアが反撃した。両島の領有権はハーグ条約 (1720年) で決まった[45]。サルデーニャ王国は名前と裏腹にピエモンテを基盤とし、貴族と教会の権限を弱め、官僚制による中央集権を進めた[46]。1733年ポーランド継承戦争で、カルロ・エマヌエーレ3世がミラノ公を名乗った[45]。シチリア王国は丸ごとスペインの手に落ちた[45]。コルシカ独立戦争の末、1768年フランスがコルシカ島をジェノヴァから買収した[47]。サルデーニャ王国の制海権を握るコルシカ島の位置取りは、王国と将来のリソルジメントに対するフランスの影響力を確固たるものとした。1776年フェルディナンド1世がベルナルド・タヌッチ(Bernardo Tanucci)補佐官を罷免した[48]。マリア・カロリーナがジョン・アクトン(Sir John Acton, 6th Baronet)海軍将校を重用した[49]。財政面ではフランチェスコ・マリオ・パガーノ(Francesco Mario Pagano)がフリーメーソンとして封建制を批判し、また1786年にナポリを訪れたイルミナティに共鳴して支部を設立した[49]



トリコロールを掲げて


1797年10月、ナポレオンがオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ[50]。チザルピーナ共和国とリーグレ共和国の独立が承認され、しかし旧ヴェネツィア共和国の大半はオーストリアに譲渡された。1801年、エトルリア王国が成立した[51]。1802年、フランスがサルデーニャ王国を併合した[51]。1805年、リーグレも併合され、衛星国としてのイタリア王国に旧ヴェネツィアが統合された[51]。1806年、フランスがナポリ王国を支配しカルボナリが誕生した。入会地がコムーネに割譲され、それをコムーネが農民一人ひとりに分配し、残りを旧領主のものとした[52][注釈 5]。貧しい農民は譲り受けた狭い農地で生活することができず売却するしかなかったので[53]、入会地の復活を求めてリソルジメントまで争い続けた。シチリア島はイギリスへ穀物とワインを供給したり、大陸封鎖令で排除されているイギリス製品を密輸出していた[54]。ナポリからブルボン王家が同島のパレルモへ逃れたが、1811年にウィリアム・ベンティンクが同地へイギリス全権の司令官として着任すると、ブルボン家が島の議会に貿易の上納金を課していた問題に介入・調停した[54]。これにより、後のリソルジメントでジュゼッペ・ガリバルディの遠征軍がエトナ火山にあるネルソン提督の所領を農民反乱から保護するほどの地盤を築いた[55]。イギリスとイタリアの関係はレモンに始まり、最終的にグリエルモ・マルコーニという輝かしい結晶を生む。


ウィーン体制はサルデーニャ王国の版図を復旧させた。この王国はリーグレを併合したとき、サン・ジョルジョ銀行の負債を継承した。オーストリア勢力がミラノまで回復し、ロンバルド=ヴェネト王国ができた。ヴェネツィアには重い関税がのしかかった。両シチリア王国の誕生によりスペインに隠れてイギリスが勢力を回復した。一方でブルボン=パルマ家の反動政治が挫折し、パルマ公国はナポレオン時代の制度を大部分において継承した。パルマはリソルジメントのとき、サルデーニャの正規軍がナポレオン3世の許諾を得てナポリへガリバルディ勢力を牽制しに行く出発点となる。1848年革命が三大保守国家にコペルニクス的転回をもたらした。トスカーナ大公国、サルデーニャ王国、教皇国家に憲法が発布された[56]。各国の憲法はいずれも、フランスの1830年憲章とベルギーの1831年憲法をモデルとしていた[56]。サルデーニャ王国では憲法発布と前後してワルドー派とユダヤ人に対する法的差別が撤廃された[57]。なお、グレゴリウス16世はロスチャイルドから40万ポンドを借り入れていた[58]


第二次イタリア独立戦争及び第三次イタリア独立戦争により、1859年から1866年までの間に現在のイタリアの大部分の統一がもたらされた(リソルジメント)[59]。しかしこれはサルデーニャ王国がフランスと連携して行ったもので、ナショナリズムが捨て置かれたので歴史学では統一戦争という表現が適切でないとされている[60]。第二次イタリア戦争の講和で、オーストリアがロンバルディアをフランスに譲渡し、フランスがそれをサルデーニャへ譲るという有様であった[60]。サルデーニャ王国のカミッロ・カヴールは英仏から外債と材料を調達し鉄道を敷設したが、鉄鋼業に注文はゆかず膨大な負債だけが新生イタリア王国に継承された[注釈 6]。フランスは「独立」を支援した見返りとしてサヴォイアを譲り受けたが[64]、1864年フランス銀行がサヴォワ銀行の発券機能を買収し、フランスとしてピエモンテからサルデーニャ島までの政治経済を支配することとなった。



普仏戦争という転機


19世紀後半から20世紀前半まで、新たなイタリア王国は急速に工業化し、また植民地帝国を獲得して列強となった[65][66]。しかしながら、イタリア南部及び農村部の大部分が工業化から除外された。南部では1861年初めから農山村多数による反乱が起こった。この「山賊大反乱」を、ブルボン家や教皇庁が積極的に支援した[67]。このときから貧民が国外へ離散するようになった(Italian diaspora)。以降の移民輸出数と行き先は政治性を露骨に示すものであった。政府は5年を費やして反乱を鎮圧した。


1866年初めに国債価格が暴落した[68]。邦人投機家がそれを買戻したときに金が流出した[68]。これが取り付けに発展すると、政府はナツィオナーレ銀行(Banca Nazionale nel Regno d'Italia, 現イタリア銀行)の銀行券を法定通貨にした[68]。金との兌換が停止されて、リラは下落した[68]。普墺戦争でヴェネト(未回収のイタリアを除いた旧ヴェネツィア共和国)を回復したが、それは講和を仲介したナポレオン3世がオーストリアから譲り受け、イタリアに渡した結果であった[69]。このころ修道院を自治体に払い下げて公共施設にし、教会所有地を没収し競売にかけて国庫の足しにする法律がそれぞれ成立した[70]。普仏戦争は転機となった。ローマ駐屯のフランス兵が本国へ召還されて、しかもドイツに敗れると、イタリア軍は教皇領を占領してそのまま首都にしてしまった。カヴールの政教分離主義はナショナリズムに折れて、教皇庁の建造物等を限定的に保障する法律が制定された[71]


1870年代半ば王国は鉄道の国有化を推進したが、ロスチャイルドの北イタリア会社は重役等のつながりまでも絶つことはできなかった[72]。三国同盟 (1882年) は国内の金融をドイツ帝国のように兼営銀行主体へ傾かせ、またその資本をスイスに近い北部へ投下させた。イタリア商業銀行(Banca Commerciale Italiana, 現インテーザ・サンパオロ)、そしてクレディト・イタリアーノとローマ銀行(それぞれCredito ItalianoとBanco di Roma, 後者は教皇庁と関係。ともに現ウニクレディト)がそれであった[73]。三国同盟は移民の輸出にも影響し、ドイツ資本に追従する形でイタリア人が南米に渡っていった[74]。その人数は第一次世界大戦の始まるまで安定していた。



金融スキャンダル先進国



敗戦まで


1890年代は露仏同盟の形成途上に1893年恐慌がおこり、国内でもさまざまな変化を生じた。建築ラッシュが急ブレーキを踏んで発券銀行の不正疑惑に発展したので、ジョヴァンニ・ジョリッティ内閣が六発券銀行のうち南部のナポリ銀行とシチリア銀行を除いた四行をイタリア銀行に再編した[75]。ファッシが流行り[76]、エジソン社が水力発電所をアッダ川に建設し[77]、ロスチャイルドに通じるアニェリ家のフィアットが創業した[78]。三国協商の形成途上であった20世紀初頭から北米をめざす移民が増えだした[74]。そしてアメリカでは1904年にバンク・オブ・イタリア(現バンク・オブ・アメリカ)が設立された。国内では山賊の系譜でマフィアが誕生した。農民としてはカナダの小麦プールに加わった[注釈 7]。1912年に全国保険機構(Istituto Nazionale delle Assicurazioni)が設立された[80]。これは当初、生命保険の国家独占事業体となるはずであったが、ベニート・ムッソリーニが独占化を否定した[80]。設立を推進した官僚アルベルト・ベネドゥーチェ(Alberto Beneduce)が、ファシスト政権下で公共事業体設立を主導した[80]。1912年4月4日成立した法律は、生命保険を国家独占するというもので、実際にエクイタブル生命とニューヨーク生命がイタリア事業を国有化された[81]。第一次世界大戦でオスマン債務管理局をめぐる形勢が変化し、トルコ一般保険会社の英仏企業持分がトルコ政府を通してゼネラリ保険へ委譲された[82]。イタリアは三国同盟を離脱し、連合国側で勝利した。戦中は移民輸出の総数が200未満であったけれども、1920年に北米行きだけで300人超が流出した[74]。このようなイタリアは相対的安定期にファシズム体制となった[83]


1925年秋、ヴォルピ財務大臣(Giuseppe Volpi)が渡米してJPモルガンから10億ドルの借款を得た[84]。帰国後、南部三行が留保していた通貨発行権をイタリア銀行に吸収させた[84]。1926年アジップが創業した。先の三大兼営銀行が世界恐慌で危機に陥ると、1931年11月に動産信用金庫(IMI, 現インテーザ・サンパオロ)が設立された[85]。国民の貯蓄・預託金を運用する42機関が出資した。世界恐慌前のブームに遅れたこの投信会社は、中小企業のジャンク債引受を期待されたが応じなかった。国の保証付きで独自債券を発行し、まるでミレニアムをすぎた日本の財投改革と似たようなことをやっていた。業を煮やしたファシスト政権は1933年に産業復興公社(IRI)を立ち上げた[85]。これは基幹産業と金融機関のいくつかを国有化したコンツェルンであった。IMIとIRI双方の設立を主導したのは先のベネドゥーチェであった。1936年の銀行法で兼営銀行が禁止された。IRIは1937年に暫定機関から国家持株会社となった。兼営銀行システムは崩れ、普通銀行は長期融資から撤退した。IRIは新規に株式投資を展開、三大銀行・鉄鋼・電力・海運・機械等の有力企業を傘下に収めた[86]。第二次世界大戦中、IRIは海運・造船の8-9割、鉄鋼の5割前後、機械の2割超を支配した[87]。イタリアは枢軸国側へ参加し、パルチザンによる内戦を生じた。連合国は彼らに待機をよびかけ[88]、イタリア戦線で勝利した。



民主化の限界


講和後、1947年5月から第4次ガスペリが組閣、ルイージ・エイナウディを登用し、金融引き締めにより深刻なデフレをもたらした[89]。12月、イタリアは国民投票の結果を受けて憲法で君主制を撤廃した。新憲法は憲法裁判所の設置を決めていたが、1956年まで見送られ、それまで違憲立法審査ができなかった[90][注釈 8]。新憲法は20の州を設けて自治を認めていたが、実際に州制度が導入されたのは4つの特別自治州だけで[注釈 9]、1963年に1州ふえたのを除くと、残りは1970年まで実施が見送られた[90]。民法や刑法なども、立法されるまでファシズム時代のものが適用された[90]。IRIも存置され、欧米全体の投信が成長するにともない、1960年代前半にかけて好景気を享受した。地中海貿易全体に政治経済両面から国際社会によるてこ入れがなされ、イタリアの場合バノーニ計画の一環としてアウトストラーダ建設用に巨額のユーロ債が発行された。それから企業の集中・合併が進んだ。エネル以外では、1966年モンテディソン(Montedison)が設立された[92]。すぐにEni(炭化水素公社)とIRIが参加して官民共同出資となった[92]。1968年には日本のように学生闘争が起こった[92]。1973年、ンドランゲタがジョン・ポール・ゲティ3世を誘拐。1976年、セベソ事故。イタリアには会社更生法が存在しないが、オイルショックを契機に代替制度が生まれた。1977年、産業国家参加管理会社(GEPI)がIMI, IRI, Eni等の出資で設立されたのである[93]。経営不振企業の株式を取得し改善に参加することで自立を促すことを目的としていたが、実態は恣意的なプライベート・エクイティ・ファンドであった[93]。1981年EniとIRIがモンテディソン株を売却し撤退したが、Eniとモンテディソンは以来、汚職がらみの金融スキャンダルがつきまとった[92][注釈 10]。翌1982年、5月に教皇ヨハネ・パウロ2世が渡英して国教会と和解に臨み、6月にロベルト・カルヴィが暗殺された[94]。1984年からトンマーゾ・ブシェッタがマフィア内部の情報を次節のファルコーネに提供し[95]、当局がマフィアの大物たちを告発していった。1980年代半ばに南部開発公庫が廃止され、クラクシ内閣が南部住民へ生活保護を名目とした色々な給付金をばらまき、なかでも1978年に始まった国保の悪用が批判された[96]。マイケル・ミルケンの逮捕されるあたりまで、コラジョヴァンニ司祭が支援するマーティン・フランクル(Martin Frankel)が7つの米保険会社から4500億リラを横領し、会社自体も買収・搾取し、約1兆5000億リラの負債をかかえさせた。彼はトレドにクリエイティブ・パートナーズという投信会社をつくったが、米司法当局に捜査されている間、ロスチャイルド・インターナショナル・インベストメントの名前とスイス銀行の口座をつかって、進行中の投資に対する追及をかわしていた。



すべての道は


イタリアは1990年までに先進国の一つになり[97][98][99]、世界第5位の経済大国になった[100]。イタリアは世界的な軍事・文化・外交において大きな役割を果たし[101]、主要な地域大国であると考えられている[102][103][104]。欧州連合の原加盟国及び指導国であり、国連・NATO・OECD・OSCE・DAC・WTO、G4・G6・G7・G8・G10・G20、地中海連合・ラテン連合・欧州評議会・中欧イニシアティブ・アジア欧州会合・コンセンサス連合を含む多くの国際機関の加盟国である。しかし、リソルジメントを主導したフランスに対し巨額の対外債務を抱えており、国際的地位もそれなりである。ジョヴァンニ・ファルコーネがマフィアに殺害されてほどなく発足した第1次アマート内閣のとき、あのEniとモンテディソンが汚職の舞台となって、国会議員だけでも144人が捜査対象となり、クラクシ元首相には70も容疑がかけられた(タンジェントポリ)[105]。そんなどさくさにまぎれて公共事業体の民営化を進めてきたが、1993年の新金融業法で兼営銀行が復活した。1993年は、3年前の地方自治法の改正を受け、地方選挙制度が大きく改正されて首相公選制が導入された。ランベルト・ディーニ内閣が総辞職してから、イタリアは長期的な政権空白を経験した。1996年5月、元IRI総裁のロマーノ・プローディ連立内閣が発足し、瓦解までに通貨統合だけは成し遂げた[106]。そこでロング・ターム・キャピタル・マネジメントが、(イタリア銀行などから)イタリア国債を買って、それを担保にレポ借入でリラを調達し金利スワップで運用した[107]


1999年にアメリカのマーティン・フランクルがローマへ高飛びし、ハンブルクへ逃れてゆき、やがて2001年初頭に逮捕された。彼を支援したコラジョヴァンニも同年クリーブランドで逮捕された。2002年6月に第2次ベルルスコーニ内閣が北部同盟と国民同盟で混成された[108]。翌月、主催国としてジェノヴァでサミットを開催したが、反グローバリゼーションを主張する激しい抗議行動にみまわれ、デモ参加者を射殺するまでに至った[108]。ベルルスコーニ内閣は議会の多数にものをいわせ、労働・移民・司法・メディア等の分野で強引な政策を実施した[108]。首相は海底ケーブルの敷設ブームにあってメディア利権に固執した。政府が議員を買収する悪習は19世紀末から続いている(トラスフォルミズモ)[109]。地方自治を定めた憲法第5部も改正してしまい、「緩やかな連邦制」を導入するあたり外資の進出を促しており、民族による統一をイタリアは達成できていない。2003年、レナート・ダルドッツィ(Renato Dardozzi)が死亡した[注釈 11]。彼は1974年から1990年代後半にかけて宗教事業協会の資産管理に携わったが、その極秘資料と、それを公表せよとの遺言をのこした。2004年、イタリアの破毀院がバチカン・ラジオによる電磁波障害をめぐる裁判において、国内訴因は教皇庁が被疑者であっても、正当な捜査が保障されるとの認識を示した[注釈 12]。2005年、エトナ火山が噴火し、国内総生産伸び率がゼロとなった。2006年、バチカン金融当局長のレーネ(René Brülhart)が情報を提供、シーメンスが教皇庁へ贈賄していたことが分かった[110]。2007年、REIT制度化(SIIQ)。イタリアは世界金融危機でPIIGSとなった。11月ベルナルド・プロヴェンツァーノが逮捕された。2008年12月17日、マフィア99人を一斉検挙した。2009年、5月に『バチカン株式会社(Vaticano S. p. A.)』が出版された。これはダルドッツィの資料に基く暴露本であり、ポール・マルチンクスの後継であるデ・ボニス(Donato De Bonis)などの金融スキャンダルを書いている。同年6月にはキアッソ米国債事件が起こった。2010年2月28日ガーディアンが、『バチカン株式会社』の売れ行きと内容に無反応なイタリアのメディアをベルルスコーニの手先であるかと挑発した。2010年3月17日、ミラノ市がデリバティブ詐欺容疑で、ドイツ銀行、JPモルガン・チェース、UBS、デプファ銀行(Depfa Bank)を起訴した[111]。ミラノ市が2005年に実施した17億ユーロ相当の売りオペに関係したスワップ取引の金利調整で、被告4行が隠れ手数料をせしめたという。隠れ手数料は、JPモルガン・チェースが4500万ユーロ、ドイツ銀行が2500万ユーロ、デプファ銀行が2100万ユーロ、UBSが1000万ユーロ。2011年、福島第一原子力発電所事故をうけて原子力反対運動が顕著となり、同年6月に行われた国民投票の結果、再度国内原子力開発を断念することになった[注釈 13]。2012年、イタリア北部地震。同年末、政府の財政収支均衡原則を憲法に盛り込んだ。2013年イタリア総選挙は外為相場を揺さぶった。2014年、欧州中央銀行によるストレステストで、イタリアの銀行14行のうち9行が不合格となった。2015年、憲法裁判所判事を務めてきたセルジョ・マッタレッラが2月に大統領となり、また5月にFIFA汚職事件がおこり、7月9日ナポリでベルルスコーニへ贈賄罪で禁錮3年の判決がくだった。2016年という一年間に、フェルディナンド2世・デ・メディチが創業したモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行は株価を88%も下げた。2017年2月15日、議会が同行以下、経営難の金融機関に最大200億ユーロを注入する法案を可決した。6月1日、欧州委員会も同行への支援を政府と合意した。前後して3月3日、ロイヤル・ダッチ・シェルとEniが、ナイジェリアの油田権益を巡る贈賄罪で起訴されたことがわかった。



政治







セルジョ・マッタレッラ大統領





パオロ・ジェンティローニ首相



行政


国家元首は共和国大統領。選出方法は間接選挙制で、条件は50歳以上、任期は7年となる。通常は内閣や議会の決定に基づく形式的な権限を行使するにすぎないが、首相任命権や議会解散権などを通じて実権を発動する可能性を秘めている。行政は首相と内閣が統轄する。首相は、大統領が指名し、議会が承認する。各省の大臣は、首相の指名に基づき、大統領が任命する。議院内閣制を採用しており、内閣は議会の信任を得なければならない。
かつては「おはよう、今日の総理は誰?」というジョークが広められたほど、首相の交代が頻繁な国として名高く、今もその傾向はおさまっていないが、1990年1月-2013年4月現在の間での首相は9人(延べ13人)と、日本の15人(延べ16人)に抜かれている。ちなみに、同じく首相が政権を代表する議会内閣制の先進国での同期間における首相在任者は、ドイツが3人、イギリス、カナダが各5人である。



立法




イタリア議会 (Parlamento Italiano)


イタリア議会は元老院(上院)と代議院(下院)で構成される両院制(二院制)である。元老院は、任期5年の民選議員(315議席)、および終身議員(現在8名)とで構成される。大統領経験者は本人が拒絶しない限り、終身議員たる資格がある他、科学や芸術などの分野で国の名誉を高めた功労者の中から大統領が指名した者が終身議員となる。一方、代議院は全630議席で、任期5年の民選議員によって構成される。また日本では衆議院の優越が認められているが、イタリアでは両院の権能は完全対等、双方とも大統領によって解散されうる。



憲法改革案を否決


2006年6月25-26日、憲法改革案を問う国民投票が行われ、開票の結果、60%を超す反対で否決された。改革案は、退陣したベルルスコーニ右派連立政権が2005年末、野党・中道左派勢力の反対を押し切って議会を通過させたもの。改革案の中味は、議会の解散権を大統領から首相に移し、保健や教育、警察などの権限を国から州 (regioneに委譲するというもの。開票結果は、反対が61.7%。そのうち、南部で74.8%、中部で67.7%、北部で52.6%の多数を占めた。投票率は53.6%であった。



緊急財政法案可決


2010年7月15日、上院は、ベルルスコーニ政権が提出していた緊急財政法案を賛成170、反対136、棄権0で可決した。政府は、月内にも下院を通過させて法案の成立を目指す。しかし、最大野党の民主党は、16、17日の両日、全国規模の抗議行動を計画している。本法案は5月に提案され、公務員給与増の凍結、省庁予算の削減、地方自治体への交付金削減などの実行によって、今後2年間に財政赤字比率を国内総生産(GDP)比3%以内に下げる発表している。



司法






イタリアの刑事司法は市民6人と裁判官2人が一緒に審理する参審裁判と裁判官だけによる裁判がある。参審裁判は殺人など重大事件が対象で、重罪院で審理される。重罪院の控訴審は重罪控訴院で、参審裁判による。上告審は日本の最高裁に当たる破棄院が担当するが、憲法判断が必要なケースは、憲法裁判所に移送される。参審員はイタリア語で「市民裁判官」と呼ばれ、35歳以上60歳以下で一審は中卒以上、控訴審は高卒以上。くじ引きで選んだ市民に希望者を加えた名簿から、3か月ごとに再びくじ引きで選出し、その期間中に起訴された事件を担当する。



警察



イタリアにおける法執行機関・警察機構は、複合であり、国家レベルの組織のみでも5つある。その他に、地方自治体の警察組織として、県レベルの地方警察 (Polizia Provinciale)、コムーネレベルの自治体警察 (Polizia Municipale) がある。国家レベルの警察組織は以下のものである。




  • カラビニエリ (Carabinieri) - 国家憲兵。国防省所属、警察業務は内務省の指揮を受ける。主に重大事件などの警察業務を扱う。


  • 国家警察 (Polizia di Stato) - 内務省所属。主に軽犯罪や交通事案を取り扱う。


  • 財務警察 (Guardia di Finanza) - 経済財務省所属。経済犯罪、脱税事案、知的財産権事案、組織犯罪、税関任務、国境警備、不法移民事案を行う。国境警備隊・沿岸警備隊としての側面もあり、準軍事組織となっている。


  • 刑務警察 (Polizia penitenziaria) - 司法省所属。刑務所の警備・管理・運営。


  • 森林警備隊 (Corpo forestale dello Stato) - 農業食料森林省所属。国立公園を中心とする環境・野生生物保護、山火事消火などの防災任務を行う。


このほか、イタリア沿岸警備隊がイタリア海軍の傘下にあり、海上交通整理、捜索救難、漁業監視、不法移民に対する海上監視などを行っている。



情報機関


イタリアの諜報機関は、イタリア独立戦争のときから軍部内に存在した。試行錯誤により成長したが、民間と連携しないわけにはいかなかった。その相手は大手海運会社であった(Compagnia Rubattino)。19世紀末にグリエルモ・マルコーニが短波無線を発明し、20世紀初頭に軍事・海運で実用化されていったので、暗号解読が諜報機関の大切な仕事になった。第一次世界大戦が終わって海外へ移住する者が多くなり、諜報機関は国内外の管轄を分けて動くようになった。1925年インテリジェンスが組織された(Servizi segreti italiani)。こうした諜報機関は警察とは違うので、マフィアを十分に制御してこなかった。それは第二次世界大戦後の組織(SIFAR)や、1965年に置かれた国防情報庁(SID)も同様であった。そして1974年、元SID所属の大佐(Vito Miceli)が逮捕されてしまった。これはイタリア諜報機関と連携するNATOにとっても看過できることではなかった。1977年、もれた政財界のスキャンダルが世論という火に油を注ぎ、諜報機関は若干の改革を余儀なくされた。下の分業がその結果である。




  • SISMI (Servizio per le Informazioni e la Sicurezza Militare) - 情報・軍事保安庁


  • SISDE (Servizio per le Informazioni e la Sicurezza Democratica) - 情報・民主主義保安庁


2000年、前者がスキャンダルにまきこまれ長官が辞職した(Nicolò Pollari)。2006年テレコムスキャンダルがおきた(Scandalo Telecom-Sismi)[112]。国内情報共同体を調整する国家安全保障省庁間委員会が設置されて、この盗聴事件は何年も調べられた。こうした活動は軍事作戦としての諜報活動から逸脱していた。



軍事





ISAFとしてアフガニスタンに従軍する陸軍部隊(アルピーニ兵)。イタリア陸軍は西部地区の軍指揮も委ねられている。





カヴール級空母




イタリア空軍のフレッチェ・トリコローリ




カラビニエリ




  • 2004年末に徴兵制が廃止され、2005年より志願制。任期は、1年から4年の期限付と終身の2種。
    • 最年少の兵士は、18歳。


  • 軍事費は、202億ドル。GDP比は、1.64%。


  • フィアットやアエルマッキなどの軍事企業が国産の戦闘機や戦闘車両を生産し、中近東やアジア諸国に輸出している。

  • 独自の核戦力は保持していないがアメリカ合衆国とニュークリア・シェアリングを行っているので核抑止を可能としている。


陸軍



2007年現在現役兵約110,000人、予備役約33,500人が所属。



海軍



冷戦期においてはソ連黒海艦隊との戦闘を仮想目標とし、大きな海軍戦力を擁していた。今日でも海軍重視の傾向は変わらず、法改正によって保有が可能となった軽空母ジュゼッペ・ガリバルディ級に次いでカヴール級空母が戦列に加わるなど、予算削減で新型戦車の配備が滞りがちな陸軍に比べて一層の強化が進められている。日本の海上自衛隊とは装備面でも共通点が多く、海軍国としての役割も類似している。また海軍旗艦カヴールと入れ替わる形で旧式化しつつあった軽空母ガリバルディの改修が開始された。



空軍



4万5879名の要員からなり、F-16・タイフーンなど一線級の空軍機を保有している。航空機の国産化にも熱心で、アエリタリア(旧フィアット社航空機部門)が開発したG.91軽戦闘機は戦後復興から間も無い時期(1956年)でありながら高い性能を誇り、同じく国産に拘るイギリスやフランスは拒んだものの、ドイツ空軍やポルトガル空軍への採用が決定し、「ジーナ」の愛称で20年程前まで長らく愛用されていた。KC-767などのように、世界でイタリアと日本のみが保有する機種もあり、組織間交流も盛んである。


近年はタイフーンに見られるような欧米での共同開発機に意欲を見せ、空母を増産した海軍の意向もあってか、オランダと共にF-35の開発計画でイギリスに次ぐ協力を示している。



カラビニエリ




正式名称はカラビニエリ (Carabinieri) で、国家憲兵である。日本では、そのままカラビニエリと称するほか、「国家憲兵」、「憲兵隊」、「国家警察」、「国防省警察」、「軍警察」など様々に訳されている。


平時は各種の警察活動として、警備や事件・事故対応、マフィアや反政府グループなどの犯罪組織の摘発などを担当しており、戦時には戦地での警察・憲兵活動を行う。またテロ対策・要人警護・人質救出などを担当する独自の特殊部隊(国家憲兵隊特殊介入部隊)を保持していて、同部隊はイラク戦争など海外戦争においても戦歴を重ねている。



地方行政区分




イタリアの州



イタリアの地方行政区分の最上単位は、20の (regione) である。各州はさらに、110の (provincia) に分かれる。各県にはさらに、コムーネ(comune)(市町村と似た行政区分)が存在する。ローマにはさらに、ローマのムニチーピオ(イタリア語版)が存在する。

































































































































名称
人口(人)
州都/主府/本部
備考

ピエモンテ州
Piemonte
4,394,580

トリノ(トリノ県)
Torino
1

ヴァッレ・ダオスタ州(特別自治州)
Valle d'Aosta
126,732

アオスタ(州と県が同じ)
Aosta
2

リグーリア州
Liguria
1,565,566

ジェノヴァ(ジェノヴァ県)
Genova
3

ロンバルディア州
Lombardia
10,001,304

ミラノ(ミラノ県)
Milano
4

トレンティーノ=アルト・アディジェ州(特別自治州)
Trentino-Alto Adige
1,061,318

トレント(トレント自治県)
Trento
5

ヴェネト州
Veneto
4,907,284
ヴェネツィア(ヴェネツィア県)
Venezia
6

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州(特別自治州)
Friuli-Venezia Giulia
1,218,068

トリエステ(トリエステ県)
Trieste
7

エミリア=ロマーニャ州
Emilia-Romagna
4,447,580

ボローニャ(ボローニャ県)
Bologna
8

トスカーナ州
Toscana
3,743,370

フィレンツェ(フィレンツェ県)
Firenze
9

ウンブリア州
Umbria
889,817

ペルージャ(ペルージャ県)
Perugia
10

マルケ州
Marche
1,539,316

アンコーナ(アンコーナ県)
Ancona
11

ラツィオ州
Lazio
5,893,935

ローマ(ローマ県)
Roma
12

アブルッツォ州
Abruzzo
1,322,585

ラクイラ(ラクイラ県)
L'Aquila
13

モリーゼ州
Molise
310,685

カンポバッソ(カンポバッソ県)
Campobasso
14

カンパニア州
Campania
5,840,219

ナポリ(ナポリ県)
Napoli
15

プッリャ州
Puglia
4,066,819

バーリ(バーリ県)
Bari
16

バジリカータ州
Basilicata
571,133

ポテンツァ(ポテンツァ県)
Potenza
17

カラブリア州
Calabria
1,966,819

カタンザーロ(カタンザーロ県)
Catanzaro
18

シチリア州(特別自治州)
Sicilia
5,055,838

パレルモ(パレルモ県)
Palermo
19

サルデーニャ州(特別自治州)
Sardegna
1,654,587

カリャリ(カリャリ県)
Cagliari
20


主要都市




















































































































都市

行政区分
人口

都市
行政区分
人口
1

ローマ (ローマ県)
ラツィオ州
2,718,768
11

ヴェネツィア (ヴェネツィア県)
ヴェネト州
268,993
2

ミラノ (ミラノ県)
ロンバルディア州
1,299,633
12

ヴェローナ (ヴェローナ県)
ヴェネト州
264,191
3

ナポリ (ナポリ県)
カンパニア州
973,132
13

メッシーナ (メッシーナ県)

シチリア州
243,997
4

トリノ (トリノ県)
ピエモンテ州
908,263
14

パドヴァ (パドヴァ県)
ヴェネト州
210,173
5

パレルモ (パレルモ県)
シチリア州
663,173
15

トリエステ (トリエステ県)
フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州
205,356
6

ジェノヴァ (ジェノヴァ県)
リグーリア州
610,887
16

ターラント (ターラント県)
プッリャ州
195,130
7

ボローニャ (ボローニャ県)
エミリア=ロマーニャ州
372,256
17

ブレシア (ブレシア県)
ロンバルディア州
189,742
8

フィレンツェ (フィレンツェ県)
トスカーナ州
364,710
18

プラート (プラート県)
トスカーナ州
185,603
9

バーリ (バーリ県)
プッリャ州
322,511
19

レッジョ・ディ・カラブリア (レッジョ・カラブリア県)
カラブリア州
185,577
10

カターニア (カターニア県)
シチリア州
298,957
20

モデナ (モデナ県)
エミリア=ロマーニャ州
179,937
2007年国勢調査




地理




地形図




最高峰モンテ・ビアンコ (仏名モンブラン)


イタリアは地中海に突き出した長靴型イタリア半島、および周辺の島(サルデーニャ島、シチリア島など。コルシカ島はフランス領)から構成されている。東はアドリア海、西でティレニア海とリグリア海、南でイオニア海と地中海に面している。国境を接する国としては、大陸部では西側をフランス、北側をスイスとオーストリア、東側をスロヴェニア。アドリア海を挟んで、クロアチア、アルバニア、ギリシアなどとも地理、歴史的に結びつきが強い[113]。キリスト教・カトリック教会の治めるバチカン市国があるが、これはイタリアの首都ローマが周囲を囲んでいる。他にもアドリア海近くのサンマリノ共和国を包み込むように接する。さらに、スイス領内には飛び地として面積1.7km²ほどのカンピョーネ・ディターリアを持つ。


領土内北部ではアルプス山脈が東西に弧を描き、国境を成している。国境にはマッターホルンや、モンテローザ、モンブランのような高峰があり、イタリアの最高点はフランスとの国境線上のモンブラン頂上付近にある。アルプスは北西部で分岐し、イタリア半島を縦断するアペニン山脈を形成する。アペニン山脈はイタリア半島の気候をアドリア海側とティレニア海側とで非常に異なったものにする役割を果たしている。特にアドリア海側は寒冷であり、海岸部ではときにボラ(冬の北東季節風)の影響が及んで冷たい潮風が吹きつける。また火山国でもあり、とくに中部(アブルッツォ州、ラツィオ州)と南部ではしばしば地震が起こる。エトナ山、ヴェスヴィオ山等が有名で、エトナ山はヨーロッパ最大の活火山であり、ほとんど常に噴火している。時には大きな噴火を起こすこともあるが、特別に危険な火山とは見なされておらず数千人が斜面と麓に居住している。イタリアには多くの川があるが、ポー川、アディジェ川、テヴェレ川が上位三位の長さを持つ。テヴェレ川はアルノ川源流近くに源を発し、ローマ市内を抜けて流れることで有名である。



経済






イタリアは欧州連合 (EU) 加盟国であり、その単一市場の構成国である。



戦後の経済史


イタリア国内は気候、土壌、高度が地域差に富んでいるため、旧来さまざまな農作物の栽培が可能である。ポー平原を中心に半島全体で冬小麦を産する。半島南部沿岸で野菜と果物が採れる。イタリアは世界有数のワイン生産国であり、オリーブとオリーブ・オイルの生産量も多い。酪農も主要な産業であり、ゴルゴンゾーラ、パルミジャーノ・レッジャーノをはじめ約50種類のチーズが生産される。


第二次世界大戦以降、工業が急速に発展し、農業国から転換した。重要な工業に、繊維工業と、硫酸、アンモニア、水酸化ナトリウムの製造などの化学工業がある。そのほか自動車、鉄鋼、ゴム、重機械、航空機、家電製品、パスタなどの食料品の製造業が盛ん。工業の中心地はジェノヴァ、ミラノ、ローマ、トリノである。


1958年から1963年にかけてイタリアはGDP年率+6.3%の目覚しい経済発展を遂げ、1959年5月25日イギリスの日刊紙がイタリアの経済復興の目覚しさをさして、「奇跡の経済」と名付けた。1960年代後半から圧迫されてきた膨大な財政赤字をたてなおした。しかしモンテディソンをめぐるスキャンダルをはじめとして、イタリアの政治経済は混乱していった(#民主化の限界)。


1980年代初頭にはバブル経済を経験し、GDPでECの牽引役を担う存在であり、巨大な植民地大国だったイギリスを抜き世界第5位となったものの、1990年にはまた戻っている。1990年イタリアの銀行制度は欧州共同体に同調し大幅に変更され、公営銀行の削減、外国資本に対する規制緩和がおこなわれた。以後政府は輸出を活性化させ、研究開発の促進よりも為替相場をリラ安に誘導することを選択した。EMU(経済通貨統合)への第1陣参加を実現するため、1993年から政府は大規模な歳出削減策を継続して実施した。その結果、財政赤字のGDP比は94年の9.5%から99年には1.9%にまで改善され、目標としていたEUの財政基準(3.0%以内)を達成することができた。1990年代半ば産業復興公社(IRI)が分解され、多くの企業が民営化した。1998年12月31日に1ユーロ=1936.27リラという交換レートが固定された。法定通貨として長年「リラ」が使われて来たが、2002年1月1日からEUの単一通貨ユーロ(EURO、エウロ)の紙幣や硬貨が流通し、リラは2月末をもって法的効力を失った。


2010年欧州ソブリン危機により、EU各国は財政赤字を対GDP比3.0%以内に抑える基準の達成を迫られた。2014年5月、イタリアは財政赤字のGDP比率が低下させる裏技として、麻薬取引や売春、密輸などの地下経済に着目し、これらを2015年からGDP統計に加算と発表した。2011年のイタリア銀行による推計では、イタリアの地下経済の規模はGDPの10.9%を占める規模とされている[114]


IMFによると、2013年のイタリアのGDPは2兆719億ドルである[115]。世界9位であり、EU加盟国ではドイツ、フランス、イギリスに次ぐ4位である。また、同年の一人当たりのGDPは34,714ドルである。



貿易とエネルギー


イタリアの森林業資源はとぼしく、木材の多くを輸入にたよっている。森林はまず古代ローマ人によって、その後19世紀に大部分が伐採されてしまった。それぞれの目的はマラリア防止と近代化であった。その結果土壌の浸食がすすみ、林業の発展の障害となってはいたが、近年は状況の好転がみられる。


1970-80年代にヨーロッパ共同体(現、EU)加盟国との貿易が増加したが、イタリアは石炭、石油などの原材料を輸入に依存しているため、貿易赤字がつづいていた。しかし、90年代初頭、リラ切り下げで、外国市場にとってイタリア製品の価格が低下したため、輸出が増加した。貿易相手国の5分の3近くはEU加盟国で、おもな輸出相手国はドイツ、フランス、アメリカ合衆国、イギリス、スペイン、輸入相手国はドイツ、フランス、オランダ、イギリス、アメリカ合衆国、スペインなどである。イタリアはヨーロッパの輸出大国の中で、ドイツに伍して輸出が成長している唯一の国である。2008年より過去7年間、ドイツは7.8%、イタリアは7.6%の割合で輸出が成長している。輸出先で成長著しいのは、南アメリカ (+79.3%)、トルコ (+35%)、OPEC諸国、ロシア、中国である。


イタリアはエネルギー資源の輸入国であり、ガス、石炭、石油の大部分を外国に依存している。イタリアの発電量の82%は、石油、天然ガス、石炭、亜炭をもちいた火力発電が生みだしており、13%が水力発電によるもの。イタリアは1950年代後半から原子力発電の研究開発を開始し、当時の世界原子力技術で最先端であり、1965年時点には3カ所の原子力発電所が稼動していた。しかしながらチェルノブイリ原発事故などがきっかけとなり、1987年の国民投票で原発の全面停止を決定。運転を停止する。1990年には停止中の原子力発電所の運転を再開しないことが決まった。


石油・ガス会社のEni (Eni S.p.A.) はイタリアで最も売り上げと利益の多い企業であり、スーパーメジャーの一角を占めている。もとは公営電力会社であったENELはヨーロッパにおける大手電力会社で、地熱発電技術では100年の経験蓄積がある。



南北格差




10000 Lire紙幣



戦前からずっと、ミラノとローマがイタリア金融の中心である。主要銀行としてはEU圏1位の資本を持つウニクレディトなどがある。


イタリア経済が依然としてかかえる課題は、南部の工業化の遅れである。ミラノやトリノなどの北部は工業化が進んでいるが、南部やサルデーニャなどの島嶼部は農業や観光業や軽工業中心なので南北格差が大きい。中心工業地帯はジェノヴァなどで、工業化が遅れている南部のターラントには半官半民の製鉄所があり、第三のイタリアが新たな経済の牽引役となっている。政府による工業化育成の努力も、労働力の問題や、多くの産業がマフィアとの結びつきによって成り立っているため大企業の南部進出がはばまれるといった複雑な現実に直面している。多くの労働者が職をもとめて南部から北部へ移住しており(国内移民)、南部で耕作が放棄されるなどして一時期は大きな社会問題となった。


国内移民はルーマニアやポーランドなど、他のEU諸国からの移民や中東系の外国人移民が増加した現在では言及される事が少なくなった。しかし依然として北部・中部に比べて産業が乏しい南部・島嶼部という経済格差は開いたままになっている。北部の7州2自治州(ピエモンテ州、リグーリア州、ロンバルディア州、ヴェネト州、エミリア=ロマーニャ州、ヴァッレ・ダオスタ自治州、トレンティーノ=アルト・アディジェ自治州、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア自治州)、中部4州(トスカーナ州、ウンブリア州、マルケ州、ラツィオ州)はフランスのパリ周辺やドイツ西部の工業地帯に匹敵する経済力を有している。


対する南部5州(アブルッツォ州、カンパニア州、バジリカータ州、プーリア州、カラブリア州)は、戦後復興で著しい経済成長を遂げたアブルッツォ州を除いてポルトガルやギリシャなど欧州後進地域と同程度の経済水準から抜け出せていない。島嶼部2自治州(サルデーニャ自治州、シチリア自治州)では資源豊かな島という似た歴史を持ちながら明暗がはっきり分かれており、情報産業が発展したサルデーニャ島に対してシチリア島は農業中心で犯罪組織による経済への悪影響も未だ根強い。



花形産業




フィアット・500


ジロ・デ・イタリアの主催国だけあって、イタリア車は有名である。


イタリアの経済に占める自動車産業の割合は、国内総生産の8.5%にものぼる。国内ではコンパクト・カー、エコノミー・カーが上位を占めている。エコロジカルな自動車の売れ行きが伸びている。輸出車の売上高は800億ユーロ(約10兆4000億円)規模である。南北格差が要因となり輸出がのびなやんでいる。フィアットがドイツのクライスラーやアメリカのゼネラルモーターズと提携している。
北部の都市モデナにはフェラーリやランボルギーニ、アルファロメオがある。なお、フィアット・パンダは欧州における新車登録台数3万3593台(2009年3月)でEUトップとなっている。2位はフォルクスワーゲン・ポロ。





ジョルジオ・アルマーニ


19世紀頃から近代服飾・装飾産業が発展し、20世紀から現在にかけては、服飾ブランドのベネトンやプラダ、グッチ、ジョルジオ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチ、ジャンフランコ・フェレ、バレンチノ、靴のサルヴァトーレ・フェラガモやトッズ、宝飾品のブルガリなどが世界各国に輸出されている。


イタリアは幼稚園の先端的教育方法でアトリエリスタと呼ばれる芸術的、工芸的活動の専門家を配置し、人間を育成している。バイオリンなどの楽器。ガラス細工や工芸美術品も主な産業となっている。


他にも伝統的に映画産業や観光産業が盛んである。イタリア映画のみならず、イタリアを舞台にした映画が世界中で作られ公開されており、それらの映画が観光産業を後押ししていると評価されている。世界観光機関によると、2015年イタリアの国際観光客到着数は5位であり、世界経済フォーラムの2017年旅行・観光競争力レポートによるとイタリアの競争力は136カ国中8位である。



マフィア


歴史が示すように、マフィアはイタリアの経済と社会に多大な影響力をもっている。もともと中世後期にシチリアで生まれた秘密結社で、親族組織からなり、冷酷な暴力とオメルタというきびしい掟で知られる[注釈 14]。19世紀後半にはシチリアの田園地帯を支配し、地方当局への介入、ゆすり、市民に対するテロ活動をおこなっていた。戦間期はムッソリーニがマフィアを弾圧したので、彼らは移民に混じって北米に渡った。この時代をのぞいて、マフィアはイタリア南部を中心に合法・非合法活動を展開した。合衆国で服役中のラッキー・ルチアーノが第二次世界大戦のハスキー作戦に協力してから、マフィアは戦後の国際政治にまで関係するようになった。そして1970年代までに世界のヘロイン取り引きの大部分がマフィアの支配下に入った。Confesercentiの報告書で、マフィアの総売上高は900億ユーロに相当するという。この犯罪収益は資金洗浄の対象である。



交通




道路






アッピア街道。





アウトストラーダ(イタリアの高速道路)の図。


古くから地中海域の交通の要衝として栄え、古代ローマの頃には歴代執政官によって街道が整備され、それはアッピア街道のように史跡として残っているのみならず『執政官街道』と呼ばれ、現在も使用されている。ローマ帝国時代のローマは、「全ての道はローマに通ず」とさえ呼ばれた。新世界発見後は帝国郵便が整備された。


ムッソリーニ時代よりアウトストラーダ (Autostrada) と呼ばれる有料高速道路網が整備されはじめた。さらに、フィアット社のバックアップもあり高速道路網が全土に敷き詰められている。ただし車が便利と言い切れない。在ミラノ日本国総領事館は、「イタリアにおける運転手のマナーは他の国と変わらず自己中心的で交通ルールはあってないようなもの、交通事故の危険性も日本に比較し遙かに高い」と説明している。



鉄道






ユーロスター・イタリア。


フェッロヴィーエ・デッロ・スタートのグループ会社であるトレニタリアと呼ばれる旧国鉄 (Ferrovie dello Stato) の業務を引き継ぐ民営鉄道会社が全土を網羅し、ローマ-フィレンツェ間の高速新線(ディレティッシマ)を中心にユーロスター・イタリアと呼ばれる高速列車も多数運転されている。旧国鉄以外ではヌオーヴォ・トラスポルト・ヴィアッジャトーリ(NTV)、チルクムヴェスヴィアーナ鉄道やスッド・エスト鉄道などがある。


また、ローマ、ミラノ、ナポリなどの主要都市には地下鉄が整備されている。一部の都市では路面電車やケーブルカーが走っており、市民の足となっている。



海運


ローマ帝国時代前から地中海海域の海運の要所として重要な地であったこともあり、海運が古くから盛んである。現在も地中海クルーズの拠点とされることも多く、有名な港としてはナポリやヴェネツィア、ジェノヴァ、ブリンディジなどがある。



空運






アリタリア航空のA330-200型機。


政府が主要株主のアリタリア航空が、イタリアのフラッグキャリアとして国内線と域内及び中長距離国際線を運航する他、イタリアを本拠地として運航を行う航空会社として、メリディアーナ航空や、エア・ドロミティなどの航空会社があり、それぞれが国内線や域内国際線を運航している。


現在、日本との間にはアリタリア航空が東京(成田国際空港)とローマ及びミラノの間に直行便を運航させている。


また、パリやアムステルダム、チューリヒなどのヨーロッパの主要都市や、バンコクや香港、ドバイなどのアジアの主要都市経由で行くこともできる。



国民



少子高齢化が進み、1人の高齢者を2.9人で支える高齢社会に突入しており(2012年)、OECD各国では日本、ドイツの次に少子高齢化が進行している[116]



主要民族 























民族構成(イタリア)

イタリア人
  
93%
その他
  
7%




イタリアの人口ピラミッド


古代ローマ人を祖先とするイタリア民族が国民の主流を占める。国家公用語のイタリア語がロマンス諸語に属する事や、ローマ人がラテン人を中心とした勢力であった事から一般的にラテン系と考えられる事が多い。しかし他の欧州諸国と同じく単純化できるものではなく、ラテン人以外のイタリック人、エトルリア人、フェニキア人、古代ギリシャ人、ケルト系、ゲルマン系など多様な祖先が民族の形成に影響を与えている。また近世・近代におけるフランス系、オーストリア系、スペイン系との関わりもある。


イタリア統一後、標準語の制定、方言や地方言語の廃止、徴兵制や初等教育の普及によって国民の均一化を進め、段階的に民族意識の浸透が進んだ。イタリア民族主義(英語版)の高まりは未回収のイタリアを求める戦争を生み、民族の完全統合を目指す民族統一主義(イレデンティズム)の語源ともなった。イタリアにおけるナショナリズムが最も大きく高まったのは第一次世界大戦であり、国粋主義や民族運動が高揚した。こうした流れは最終的に二十年以上に亘って続くファシズム政権を生み出し、全体主義体制によってイタリア化(英語版)と呼ばれる民族浄化政策が推進された。



少数民族・難民



イタリア国内における少数民族としては南チロルのチロル人などが上げられる。かつてイストリア半島などではスラブ系の住民も存在したが、上記の通りファシズム体制下で徹底した弾圧を受けた。ファシズム政権後の現代では一定の自治権を認められつつあるが、統一以来の集権政策も継続されている。近年は地中海やアドリア海に面しているという要素から移民や難民の流入が続き、失業や貧困、治安問題、生活習慣や宗教上の軋轢など大きな社会問題を引き起こしている。


移民大国のフランスやドイツには及ばないものの2016年における外国人人口は502万6153名を数え[117] 、イタリア国民の1割近くに達しつつあり、移民2世・3世の定着も進んでいる。移民グループで最も多いのは同じローマ人を祖先とするルーマニア人で、2014年時点で100万名以上が移民しており、国内で批判の対象とされる事も多い。次いで地中海やアドリア海を越えて訪れるモロッコ人とアルバニア人が挙げられる。アジア系では中国系移民(華人)がトップを占め、数年で倍近く増加している。


対テロ戦争、アラブの春、シリア内戦、イスラム国の台頭などで中東が混乱してからは海路でイタリアに不法上陸する者が急増した。2013年10月には、ソマリア人とエリトリア人を主に載せた船が沈没、368人が死亡する事件があり、それ以降、イタリア海軍は不法移民を救助する活動に力を入れているが[118][119]、国民の間では難民への反感も高まっている。



言語



公用語はイタリア語。エスノローグによる調査ではイタリア国民の内、約5700万名がイタリア語を使用していると報告している[120]。欧州連合による調査ではイタリア語を母国語としているのはEU圏内で約6500万名になっている[121]



方言・地方言語


等語線のラ・スペツィア=リミニ線があり、この線の北西の北イタリア(西ロマニアの側)と、南東にあたる中南部のイタリア(東ロマニアの側)では言葉が異なる。東ロマニアに分類される中部イタリアのトスカーナ州の言葉を中心に標準語が形成されている。北イタリアではフランス語などに近い西ロマニアの言葉であるガロ・イタリア語を使用する[注釈 15]


イタリアは歴史的に別の国に分れていた期間が長いため方言の差が激しいとされているが、そもそも言語成立の過程にも複雑な事情が絡んでいる。古代ローマで話されていた言葉(ラテン語)の俗語形である「俗ラテン語」が、ローマ消滅以降にかつての統治領(イタリア・フランス・スペインなど)ごとに統一性を失って方言化した際、イタリア各地のラテン語方言がイタリア地方特有の変化を遂げたと判断した人々が、近世になってこれらを一つの言語体系(イタリア語)と定めた事に起因する。


言語と言語の違いを研究する作業は古くから言語学の分野で行われていたが、どの程度の類似性をもって「同じ系統の言語」(方言)とするのか、或いは「異なる系統の言語」とするのかの客観的判断はほとんど不可能で、結局は個々人の価値観に頼るしかなく、民族問題や領土主張との兼ね合いもあって政治的判断が下されるケースが多い(「言語とは軍に守られし方言である」という皮肉も存在する)。よってイタリア語も方言の集合体とするか、無数の独立言語とするかは政治的に決定され、当時の民族主義政策に基づいて方言であるとされた。近年はEU統合の流れから欧州各国で方言を地域言語と認める動きが芽生え始めており、イタリアでも方言を地域言語として承認するべきかどうか盛んに意見が重ねられている。こうした現象はイタリアだけでなく、同じ経緯を持つ他のロマンス諸語でも発生している他、ゲルマン語派のドイツ語でも方言の尊重と権利拡大が進められている。


現在、エスノローグはイタリア共和国内に以下の少数言語の存在を認めている。



  • イタリア語(国家公用語)

  • ガロ・イタリア語(ヴェネト州以外の北イタリア)


  • ヴェネト語(ヴェネト州)


  • ナポリ・カラブリア語(南イタリア)


  • シチリア語(シチリア州と南部の一部)

  • サルデーニャ語(サルデーニャ州)



外国語


一部の特別自治州、ヴァッレ・ダオスタ州でフランス語、トレンティーノ=アルト・アディジェ州ではドイツ語も使用する。フリウリ地方ではフリウリ語、南ティロルではラディン語という、イタリア語よりラテン語に近いレト・ロマンス語系の言葉を母語とする住民もいる。また、最南部のカラブリア州には東ローマ帝国統治下(マグナ・グラエキア)の影響を残すギリシャ語系のグリコ語の話者も存在する。さらに、オスマン帝国時代のアルバニアからイタリア南部に定着した人々の子孫はアルバニア語の方言を母語とする。サルデーニャ島では、イタリア語系のサルデーニャ語(イタリア語の一方言とする説もある)が話される。アルゲーロではスペイン支配の影響からカタルーニャ語の方言が話される。



宗教





バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂。
























































イタリアの宗教 (2017年)[122]
宗教


キリスト教

80

80
 


カトリック教会

78

78
 


プロテスタント

1

1
 


他のキリスト教諸派

1

1
 


その他の宗教

5

5
 


無宗教

15

15
 


概して特定の宗教を信仰しない

9

9
 


無神論

6

6
 

合計
100

100
 





2014年の推定では、キリスト教のカトリック教会が75.2%[注釈 16]と最大で、残りの大半が無宗教または無神論者で、数%のムスリムの他、その他宗教が1%未満となっていた[123][124]


4分の3と最大多数のカトリックであるが、信条はリベラルであり、カトリック教会の教義に反して同棲・離婚・妊娠中絶などについては大多数が肯定的であるとの報告も出ている[125]


プロテスタントは少数で、アラブ系移民の増加により、イスラム教は近年増加傾向にある。



保健



イタリアの医療は、1978年より税金を原資とするユニバーサルヘルスケアが施行されており[126]、公営・民営の混合制度となっている。公営制度はServizio Sanitario Nazionaleと呼ばれる公費負担医療であり、保健省が方針を定め、現場は地方自治体が運営している。保健支出は2008年にはGDPの9.0%ほどであり、OECD各国平均の8.9%より若干上であった。2000年にはWHOより、医療制度の効率性は世界2位、市民の保健状態については世界3位と評されている[127]


平均余命は82.7歳[128]、2013年には世界8位であった[129]。健康上のリスクとしては、イタリアは他の西欧各国と同様に肥満者が増えており、人口の34.2%が太りすぎと自己申告、また9.8%が肥満だと自己申告している[130]。日常的な喫煙者は2008年では人口の22%であり[131]、2005年からは公共のバー、レストラン、ナイトクラブにおいては隔離された喫煙室が設けられるようになった[132]



文化



北イタリアのトスカーナ地方はルネサンス発祥の地であり、また、その中心地でもあった。この影響下で数多くの芸術家が輩出され、同時に作品も制作された。詳しくはルネサンスの項を参照されたい。


また、ジュゼッペ・ヴェルディの『アイーダ』などオペラや音楽なども多く知られる。民衆音楽ではカンツォーネと呼ばれるナポリの歌謡曲が有名である。バレエも発祥の地とされる。現代においてもノーベル賞作家を輩出。映画においても絶えず世界的な作品を送り出している。



食文化




エスプレッソ



主にパスタやパンを主食とし、北部のポー川流域では米をよく食べる。北部の一部地域にはパンの代用としてトウモロコシの粉でできたポレンタを食べる地域もある。イタリア料理は地方色が強く各地方料理の集合体のようなものであり、北部はバターやチーズを多く使い、南部はトマトやオリーブオイルを多用する傾向がある。また沿岸部は魚を食べるが、内陸部はほとんど食べない、シチリア島はマグリブの食文化の影響があり、北東部はオーストリア料理やハンガリー料理など中欧に近い食文化があるなど地域色豊かである。食事にワインを合わせる習慣があり、基本的にその土地のワインを飲む。また、サラミ、ハムなどの肉製品、チーズの種類の豊富なことも特徴である。コーヒーの消費も多く、イタリア式のいれ方にはエスプレッソ、カプチーノ、カフェ・ラッテが有名。また、ヨーロッパとしては珍しくタコも食べる。イタリア料理のピザなどもある。



文学






ダンテ・アリギエーリ
サンドロ・ボッティチェッリ作


近代イタリア語の基礎はフィレンツェの詩人ダンテ・アリギエーリによって創設され、彼の偉大な作品『神曲』は中世ヨーロッパで最高の文学作品だと考えられている。イタリアはそれ以外にも祝福された文学者に不足しなかった。例を挙げるならジョヴァンニ・ボッカチオ、ジャコモ・レオパルディ、アレッサンドロ・マンゾーニ、トルクァート・タッソ、ルドヴィーコ・アリオスト、フランチェスコ・ペトラルカのような人物の名が挙げられ、彼等の最も知られた表現の媒体は彼等がイタリアで生んだソネットだった。近代の文学者であり、ノーベル文学賞受賞者には、1906年受賞の国民主義詩人ジョズエ・カルドゥッチ、1926年受賞の写実主義作家のグラツィア・デレッダ、1934年受賞の近代劇作家ルイージ・ピランデッロ、1959年受賞の詩人サルヴァトーレ・クァジモド、1975年受賞のエウジェーニオ・モンターレ、1997年受賞の風刺家かつ劇作家ダリオ・フォの名が挙げられる[133]



哲学




ルネサンスの時代には、ジョルダーノ・ブルーノやマルシリオ・フィチーノ、ニッコロ・マキャベリ、ジャンバティスタ・ヴィコのような傑出した哲学者が現れた。


20世紀の前半において、イタリアではベネデット・クローチェやジョヴァンニ・ジェンティーレによって新ヘーゲル主義が新観念論に昇華した。ジェンティーレの哲学はファシズムの理論的支柱となった。その他にも特筆されるべき哲学者として、マルクス主義の新たな読み方を発見し、サバルタンやヘゲモニーといった概念に繋がる思想を生み出したアントニオ・グラムシや、市民社会論的にヘーゲルを読み直したジョエーレ・ソラーリが挙げられる。


20世紀後半においてはマルチチュードを新たな概念として昇華したマルチチュード学派のアントニオ・ネグリや、ホモ・サケル論で知られるジョルジョ・アガンベンなどが活躍している。



音楽







現在も世界で用いられる音楽用語の多数がイタリア語であることから推察できるように、イタリアはルネサンス期以来、もっとも長い期間、西洋音楽をリードし続けた。18世紀後半のウィーン古典派の台頭、続くバッハの復権などによって主導権はドイツ圏に移ったが、ことオペラに関してのみはヴェルディ、プッチーニらの大作曲家を輩出したイタリアがなお大勢力を保ち続け、古典派まではドイツ人作曲家も大部分のオペラをイタリア語で作曲したこともあり、今なおオペラといえばイタリアというイメージは強い(ただし、長年の財政難からカンパニーを維持できない歌劇場が多く、現在では上演数に関してはドイツに三倍の差をつけられてしまった。首都のローマ歌劇場すら今世紀に入って管弦楽団と合唱団の全員解雇が宣告されたことがある)。一方で交響曲など器楽曲分野では他国にやや見劣りがする感は否めない。また、北イタリアが長くオーストリアの支配を受けたこともあって、イタリア音楽とドイツ音楽をともに得意とする演奏家が伝統的に多く育っており(逆にイタリア音楽を得意とするドイツ系演奏家はカラヤンなどごく少数である)、世界の演奏市場で重要な役割を果たしている。



美術







ルネサンス後期のイタリア美術をマニエリスムという。それ以降、イタリア独自性は作品から消えてしまった。


19世紀後半、色彩豊かなマッキア派が登場した。20世紀はじめに未来派という好戦的なモードが生まれた。1910年代は形而上絵画という抽象画の量産が社会不安を象徴した。イタリアらしさは外圧に原像をかき消されて表現できなくなっていった。


第二次世界大戦後にアルテ・ポーヴェラやトランスアバンギャルドといった美術運動がみられた。



映画






フェデリコ・フェリーニ


イタリア映画の歴史はリュミエール兄弟が活動写真の公開を始めてからわずか数カ月後に始まった。最初のイタリア映画は、教皇レオ13世がカメラに祝福して見せた数秒間のものだった。イタリアの映画産業は1903年から1908年の間に3つの映画会社と共に生まれた。ローマのチネス、トリノのアンブロシオ、イタラ・フィルム社がそれである。他の会社はすぐにミラノやナポリに設立された。間もなくこれら最初の会社は公正な制作力に達し、作品はすぐに外国に売られていった。映画は後にベニート・ムッソリーニによって第二次世界大戦までプロパガンダのために使われた。


戦後、イタリアの映画は広く認知され、1980年頃の芸術的な凋落まで輸出された。この時期の世界的に有名なイタリアの映画監督としては、ヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニ、セルジオ・レオーネ、ルキノ・ヴィスコンティ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ダリオ・アルジェントなどの名が挙げられる。ネオレアリスモと呼ばれる重厚な現実主義から出発し、次第に奔放華麗な前衛性を獲得、さらに残酷味を前面に出したマカロニウェスタンからホラーへと展開する娯楽映画など、その幅は驚くほど広い。お国柄を生かした歴史劇や、日本での紹介は少ないが喜劇の伝統も厚い。世界の映画史に残る作品としては、『甘い生活』、『続・夕陽のガンマン』、『自転車泥棒』などが挙げられる。



イタリアに関する芸術作品


音楽




  • J.S.バッハ作曲 『イタリア協奏曲』


  • メンデルスゾーン作曲 交響曲第4番 イ長調『イタリア』


  • チャイコフスキー作曲 『イタリア奇想曲』


  • ベルリオーズ作曲 交響曲『イタリアのハロルド』


  • レスピーギ作曲 交響詩『ローマの噴水』『ローマの松』『ローマの祭』


文学




  • ゲーテ著 『イタリア紀行』


  • ハンス・クリスチャン・アンデルセン著 『即興詩人』


映画



  • ルキノ・ヴィスコンティ 『白夜』

  • フェデリコ・フェリーニ 『甘い生活』

  • ヴィットリオ・デ・シーカ 『昨日・今日・明日』


  • 宮崎駿 『紅の豚』


  • オードリー・ウェルズ 『トスカーナの休日』


漫画




  • 天野こずえ 『アクア (ARIA)』『ARIA (漫画)』


  • 荒木飛呂彦 『ジョジョの奇妙な冒険 Part5 黄金の風』


  • 相田裕 『GUNSLINGER GIRL』


  • 天野明 『家庭教師ヒットマンREBORN!』


  • 大河原遁『王様の仕立て屋~サルト・フィニート~』



世界遺産



イタリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が45件、自然遺産が4件存在している(2013年現在)。
2014年時点で、世界遺産が最も多い国である[134]



結婚


婚姻の際には基本的には夫婦別姓で、結合姓も認められている。子の姓に関しては、伝統的には父親の姓としていたが、父親の姓としなければならない、という法律は存在しない、との理由で、母親の姓を子の姓としてよいことが裁判を通し2012年に認められた[135]


イタリアは極めて離婚が少ない国として知られている[136]



祝祭日




















































































イタリアの祝祭日
日付 日本語表記 イタリア語表記 備考
1月1日 元日 Capodanno  
1月6日 主の公現 Epifania Befana
移動祭日 復活祭 Pasqua  
移動祭日 復活祭後の月曜 Lunedì dell'Angelo Lunedì di Pasqua, Pasquetta
4月25日 解放記念日 Festa della Liberazione 1945年
5月1日 労働祭 Festa dei lavoratori  
6月2日 共和国祭 Festa della Repubblica 1946年
8月15日 聖母被昇天祭 Ferragosto Assunzione
11月1日 諸聖人の日 Ognissanti  
12月8日 聖母の無原罪の御宿りの祭日 Immacolata Concezione  
12月25日 クリスマス Natale  
12月26日 聖ステファノの祝日 Santo Stefano  


スポーツ



伝統的にサッカー(カルチョ)とF1やミッレミリアなどのモータースポーツ、自転車競技やマリンスポーツ、バレーボールが特に盛んで、他にも北部山岳地域にコルティーナ・ダンペッツォなどのスキーリゾートが多数あることから、スキーなどのウィンタースポーツも盛んである。また、中部にはアペニン山脈があり、登山も盛ん。バスケットボール、野球というアメリカ発祥のスポーツもプロリーグもあるなど他の欧州諸国に比べて盛んで、代表チームは国際大会の常連にもなっている。最近ではシックス・ネイションズに加わってラグビーも人気が高まっている。



サッカー






ミラノのサン・シーロスタジアム


カルチョと呼ばれるフィレンツェ古代サッカー発祥の地として知られ、イングランドフットボールと双璧の存在となっている。


イタリアはサッカーで今まで多くのスタープレイヤーを輩出してきた。FIFAランキング(2014年2月発表)は第8位。W杯にはこれまで全18回中16回出場しており、そのうち優勝4度[注釈 17]、準優勝に2度輝いている。


イタリア代表はユニフォームの青い色からアズーリと呼ばれる。カテナチオ(「鍵をかける」という意味)と呼ばれる鉄壁の守備を軸として現在に至る。近年は攻撃陣のタレントも豊富で、かつての守備だけのチームではなく、伝統の堅い守備からの素早い攻撃をするチームになりつつある。また各国からはそのプレーを「サッカーをしているというより、仕事をしている」とまで言われる。また、伝統的に綿密な戦術を重んじる傾向があり現代サッカーのフォーメーションを数々考案してきた(アリゴ・サッキ、ジョバンニ・トラパットーニ他)。


イタリアの国内リーグであるセリエAは世界最高峰を争う程のレベルにあり、世界中のスター選手を集めている。また、コッパ・イタリアと呼ばれるカップ戦も行われる。主なクラブチームはACミラン、SSラツィオ、インテル・ミラノ、ユヴェントス、ASローマなど。これらはチャンピオンズリーグの常連でもある。また、日本人選手でもACミランの本田圭佑、インテルの長友佑都がいる。(2016年現在)2009-2010シーズンのチャンピオンズリーグではインテル・ミラノが優勝を果たした。



バスケットボール



国内には欧州屈指の強豪リーグの一つ、セリエAと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。外国人としては史上2人目、ヨーロッパ人選手としては史上初のNBAドラフト1位指名をされた、アンドレア・バルニャーニが最も有名。代表はこれまでオリンピックに12回、世界選手権に6回出場している。2004年アテネオリンピックではアメリカの銅メダルを上回る銀メダルを獲得。バスケットボール欧州選手権(通称『ユーロバスケット』)では、1997年に銀メダル、1999年に金メダル、2003年に銅メダル獲得。近年、NBA選手を続々と輩出して今後も躍進が期待される。代表チームのニックネームは「Gli Azzurri」。



モータースポーツ






フェラーリF1マシン


フェラーリやアルファロメオ、ドゥカティを筆頭に、モータースポーツの創成期からイタリアは多くのコンストラクターとレーシングドライバーを輩出してきた。


近年はF1のワールドチャンピオンを獲得するドライバーこそ少ないものの、常にトップクラスのドライバーが存在している。2輪ロードレースの世界ではヴァレンティーノ・ロッシがMotoGPにおいて5年連続最高峰クラスワールドチャンピオンとなった。



登山


北にはアルプス山脈、半島にはアペニノ山脈、その他エトナ山などイタリアは様々な山岳地域に恵まれているので登山も盛んである。南チロルやアオスタ、トスカーナなど、上記の山脈に近い地域では山スキーのメッカである



野球


ヨーロッパ野球選手権大会優勝10回、準優勝15回と長年にわたって欧州内ではオランダのライバルとして君臨。オリンピックにもこれまで4回の出場経験がある。WBCにはイタリア系アメリカ人メジャーリーガーと国内プロリーグイタリアンベースボールリーグの選手が出場する[注釈 18]
2012年の第32回ヨーロッパ野球選手権大会では、2011年のワールドカップで優勝、2013 ワールド・ベースボール・クラシックでベスト4に進出したオランダを2度破るなど、無敗の完全優勝で1989年、1991年大会以来の連覇を達成した。


2013年の2013 ワールド・ベースボール・クラシックでは、1次ラウンドでメキシコとカナダに勝利し、初の2次ラウンド進出を果たした。カナダにはコールド勝利をおさめた。2次ラウンドでは、ドミニカ共和国とプエルトリコに2連敗して2次ラウンドで敗退した。


2014年11月時点でのWBSC世界野球ランキングが11位のため、イタリア代表は2015 WBSCプレミア12に出場する。



競馬


イタリアも競馬が盛んな国の1つであったが、21世紀のユーロ危機以降は賞金不払い問題など危機的な状況に陥っており、サラブレッド生産頭数が1/4に落ち込んでいる。歴史のあるミラノ大賞典や伊ダービーといった大競走もG1の格付けを維持できていない。平地競走より人気のあった繋駕速歩競走も状況は悪く、スタンダードブレッドの生産頭数も半減している。


21世紀以降、イタリア競馬は崩壊しているものの、かつてその規模に似つかわしくないほど強力な競走馬を輩出した歴史を持つ。20世紀世界最強馬の候補として常に言及されるリボー、非常に人気のあった競走馬であるヴァレンヌの2頭は世界の競馬関係者に記憶される存在である[137]。また14戦不敗のネアルコは競走馬としてはリボーほどの評価は得ていないが、その子孫は強力に繁栄してその血を持たないサラブレッドは殆どいない状況となっている。



脚注


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注釈





  1. ^ 二つの国に分裂したという意味ではなく、一つの国の東西を二つの政府・皇帝で分権したという程度に過ぎない。


  2. ^ イタリア在日大使館の説明では、日本側全権が柴田剛中・朝比奈昌広・牛込重忝の三名で、イタリア全権は海軍軍人であり国王使節のヴィットリオ・アルミニヨン(Vittorio F. Arminjon)であった。翌年元旦に発効、蚕卵紙が輸出されるようになった。これは試験的なもので、イタリア等のヨーロッパ各国はオスマン帝国の蚕卵紙を改良して用いた。ルイ・パスツールが微粒子病の防止策を考案してからも西欧の養蚕は用地を工業から取り返すことができず、トルコからの逆輸入がおこった。


  3. ^ 製粉税は1848年の革命期から民衆による反対運動が本格化した。自家消費用に製粉するだけでも、納税しなければ水車小屋から持ち出せないという過酷なものであった。遅く1883年末に廃止された[7]


  4. ^ このような融資が育英目的にとどまったとは考えにくい。本土最大の土地所有者が皇帝であって、必ずしもその土地が一円でない[11]。これは抵当流れの結果であろう。大土地所有者層である元老院議員の小プリニウスは、図書館の建設資金や育英資金を拠出した[12]


  5. ^ 日本でも地券発行の際に共同用益権を破壊した。


  6. ^ カヴールは1000ヘクタールの所有地に土地改良と技術革新を施し経営した[61]。1850年10月、農商大臣となった[62]。視察経験を活かし、列強各国と通商条約を結んで自由貿易を推進した。鉄道だけでなく、海運、灌漑、銀行にも公的資金を積極的に投入した[63]


  7. ^ 以前からイタリア産小麦はロシア産・アメリカ産との苦しい競争にさらされていた[79]


  8. ^ 1950年代アミントレ・ファンファーニがシチリアに党の統治制度を導入したとき、マフィアが制度に関係した[91]


  9. ^ シチリア島、サルデーニャ島、ヴァッレ・ダオスタ、トレンティーノ・アルト・アーディジェ


  10. ^ 1979年、キリスト教民主党はENIの役員ポストを社会党への分け前として与えたが、すぐに原油輸入をめぐるENIの汚職が摘発され、クラクシの立場が強くなり、後でクラクシの関与するスイス銀行の匿名口座に後述のカルヴィから巨額が振り込まれた[94]。1980年代末にモンテディソンとENIは共同出資して石油会社エニモントを設立したが、その株取引でモンテディソン社長のガルディーニがENIから巨額を受け取り、その金がクラクシなどの政治家へわたっていた[95]


  11. ^ ダルドッツィはIRIが1933年に設立したトリノ電信会社(STET)でキャリアを積んだジェットセット(Jet set)。ピエモンテ水力発電会社(SIP, 現テレコム・イタリア)の重役となるはずだったが、1974年バチカン国務省の要請により宗教事業協会の財政再建に抜擢された。


  12. ^ 1987年、同破毀院は宗教事業協会総裁らの逮捕をめぐる事件で、イタリアの司法権がおよばないと判断していた。


  13. ^ 一度目の断念はチェルノブイリ原子力発電所事故後の国民投票によるが、2003年の大停電により早急な電源開発促進政策がとられていた。


  14. ^ マフィア類似の犯罪組織として、コルシカ島のユニオン・コルス(コルシカ・ユニオン)に代表される「ミリュー」、ナポリの「カモッラ (Camorra)」、カラブリアの「ンドランゲタ (Ndrangheta)」、プッリャの「サクラ・コロンナ・ウニータ (it:Sacra Corona Unita)」、ローマの「シカーリ」などがある。


  15. ^ この中でもロンバルディア州の言葉はロンバルド語という。


  16. ^ カトリック75.2%の内訳は、33.1%が「信仰を実践している」、42.1%が「実践していない」であった。また全カトリックの28.8%が「毎週教会に行く」と回答した。


  17. ^ 5度のブラジルに次いで2番目に多い。


  18. ^ イタリアンベースボールリーグには日本野球機構にかつて在籍していたレベルの高い選手が多い。




出典





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  10. ^ 『イタリア史』 94頁


  11. ^ 『イタリア史』 101頁

  12. ^ ab『イタリア史』 99頁


  13. ^ 『イタリア史』 102-103頁。ただしキリスト教を除く。


  14. ^ 『イタリア史』 108頁


  15. ^ 『イタリア史』 111頁

  16. ^ ab『イタリア史』 117頁


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参考文献




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  • パンフィロ・ジェンティーレ/野上素一訳 『イタリア現代史』 世界思想社 1967年

  • 北原敦編 『イタリア史』 山川出版社 2008年



関連項目















  • イタリア関係記事の一覧

  • イタリアの世界遺産

  • イタリア式庭園

  • オペラ

  • イタリアの企業

  • イタリア百科事典

  • イタリアの都市リスト

  • イタリアーノ



外部リンク






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日本政府



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観光



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  • イタリア写真 (イタリア語)


その他



  • Italy BetterLife Index - OECD

  • JETRO - イタリア

  • 2015年ミラノ国際博覧会


  • イタリアのウィキメディア地図 (英語)


  • オープンストリートマップには、イタリアに関連する地理データがあります。













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