大正天皇







































































































大正天皇

大正天皇




第123代天皇



在位期間
1912年7月30日 - 1926年12月25日
明治45年7月30日 - 大正15年12月25日

即位礼
1915年(大正4年)11月10日
於京都御所
大嘗祭
1915年(大正4年)11月14日・15日
元号
大正 : 1912年 - 1926年
追号
大正天皇
1927年(昭和2年)1月19日追号勅定
摂政
長男:皇太子裕仁親王
内閣総理大臣

先代
明治天皇
次代
昭和天皇

誕生
1879年(明治12年)
8月31日
午前8時20分
日本の旗 日本、東京府赤坂区[注釈 1]青山御所
崩御
1926年(大正15年)12月25日
午前1時25分(宝算47)
日本の旗 日本、神奈川県三浦郡葉山町
葉山御用邸
大喪儀
1927年(昭和2年)2月8日
於新宿御苑
陵所
多摩陵(東京都八王子市長房町)

嘉仁
称号
明宮

父親
明治天皇
母親
柳原愛子
皇后
貞明皇后
1900年(明治33年)5月10日大婚
子女

皇居
宮城
栄典
大勲位
学歴
学習院中途退学
親署
大正天皇の親署
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大正天皇(たいしょうてんのう、1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。


諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。お印は(じゅ)。


明治以降の皇室で、初の一夫一妻制を採った天皇。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 誕生


    • 1.2 少年時代


    • 1.3 結婚・巡啓の日々


    • 1.4 践祚・即位


    • 1.5 摂政任命


    • 1.6 晩年




  • 2 皇子


  • 3 系譜


  • 4 陵・霊廟


  • 5 人物像


    • 5.1 病状に関するもの


    • 5.2 その他




  • 6 遠眼鏡事件


  • 7 脳病の原因


  • 8 軍における階級


    • 8.1 日本軍の階級


    • 8.2 外国軍の階級




  • 9 栄典


  • 10 文献


  • 11 出典


  • 12 注釈


  • 13 外部リンク






生涯



誕生


1879年(明治12年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京市の青山御所(現在の東京都港区、赤坂御用地敷地内の赤坂迎賓館)で誕生した。生母は典侍・柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重度な病気を患った。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。


このような状態ではあったが、明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず、また、側室出生の親王・内親王ら4人も、第三皇子である明宮(嘉仁親王)の出生以前に相次いで薨去していたこともあり、嘉仁親王が皇太子となった。




少年時代




1892年(明治25年)、13歳当時の皇太子・嘉仁親王




1890年、皇太子嘉仁親王、飛鳥山公園


嘉仁親王は誕生の翌年、皇室の風習により、中山忠能の屋敷に里子に出された。この間、父親の明治天皇は養育にほとんど口出しをせず、干渉はしなかった。1885年(明治18年)3月、嘉仁親王は青山御所に帰宅したが、明治天皇と複数の側室との間に誕生した弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、嘉仁親王は家族と接する機会があまりなかった。


1887年(明治20年)8月31日、嘉仁親王は8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となる(儲君は皇后の実子とされる慣例があったので)。東宮侍従の小笠原長育より礼法教育を受ける。「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、「生母が柳原愛子」と言われてもなかなかそれを信じなかった[1]


同年9月に学習院に入学した。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校。この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話が残されている。しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳格な規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった[注釈 2]


1889年(明治22年)、旧皇室典範の制定により嘉仁親王は皇太子となり、立太子礼を挙行する。他方、学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中途退学。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。この時に帝王学の一環として重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教授した川田甕江からは大きな影響を受け、漢詩作成を趣味としたという。


父・明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった皇太子嘉仁親王の養育を教育から健康まで総合的に施すため、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、自身の第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を授与することで、有栖川宮の祭祀を継承させている。



結婚・巡啓の日々




1900年(明治33年)、結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王




1907年(明治40年)、訪韓時の皇太子・嘉仁親王一行。前列右より 韓国皇太子・英親王(李垠)、皇太子・嘉仁親王、韓国皇帝・純宗、有栖川宮威仁親王、後列最左は伊藤博文




1904年(明治37年)、迪宮と淳宮を可愛がる皇太子嘉仁親王。左端は侍従


1897年(明治30年)8月31日、皇太子嘉仁親王は満18歳となり、貴族院の皇族議員となった。祖母・英照皇太后の喪中のため、成年式は翌年の1897年(明治31年)に延期された。


1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王は九条節子(さだこ)と結婚した。このとき妻の節子は15歳であった。この早い結婚については、「病弱の皇太子に早めの結婚を」との意図があった旨を『明治天皇紀』では記述しているが、両親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、結婚は非常に嬉しい出来事だったようである。結婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。


健康が回復してからの嘉仁親王は日本各地を行啓し、その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば漢詩を創作している。明治天皇や昭和天皇が和歌を好み多く詠んだのとは対照的である(#人物像の節に詳述)。


1907年(明治40年)、嘉仁親王は大韓帝国を訪れ、皇帝・純宗や皇太子・李垠と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。


また、嘉仁親王は欧米への外遊を希望する詩作を行っており[2]、民間でも新聞社説で嘉仁親王の洋行を歓迎する報道がなされたが、父・明治天皇の反対により洋行は実現されなかったという[3]。次代の長男・皇太子裕仁親王(摂政宮、後の昭和天皇)は1921年(大正10年)にヨーロッパ訪問を行っている。


明治の末期頃には、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している[4]。また、エルヴィン・フォン・ベルツは、欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している[5]



践祚・即位


1912年(明治45年/大正元年)7月30日、明治天皇の崩御を受けて「第123代天皇」に践祚し、「大正」と改元した。践祚直後に起こった大正政変では、天皇の詔勅を利用して反対勢力を押さえ込もうとする桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発し、立憲君主制とはいえ、父・明治天皇と異なり政治的な判断が不得手であることが国民の目からも明らかとなった。


践祚後は、全く自由の許されない超過密スケジュールで、極度に多忙な日々を送ることとなる。しかし、1913年(大正2年)5月には肺炎で一時重体に陥り、全快まで約1ヶ月を要した。その後は葉山御用邸および日光田母沢御用邸で静養に務めた。葉山に滞在中はヨット「初加勢」で城ケ島へクルーズし、随員が船酔いにかかる中で天皇だけが壮健な様子を示し、周囲を感激させている。この夏を境に、定期的に御用邸での静養が取り入れられた[6]


即位の礼は1914年(大正3年)に行われる予定であったが、妻・貞明皇后の第四子懐妊(後の三笠宮崇仁親王)により1年延期となり、1915年(大正4年)に京都御所で行われた。



またこの間の1914年(大正3年)8月23日に、イギリス帝国との日英同盟を締結していた日本はドイツ帝国に宣戦布告を行い(大隈重信首相、第2次大隈内閣)、第一次世界大戦に参戦した。


1917年(大正6年)には、立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫り、初代朝鮮総督の寺内正毅首相率いる寺内内閣がそれを押しとどめる事件も起きている。


御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された天皇の自由を奪っていくことになる。



摂政任命


1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を病欠することが多くなる。1919年(大正8年)の年末には食事を摂ることも勅語を音読することもできなくなるほど病状は悪化していた[注釈 3]。1920年(大正9年)3月26日、東京帝国大学教授三浦謹之助は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した[7]。これを受けて松方正義内大臣が原敬首相に摂政の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした[8]


またこの間、1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦が終結し、連合国の一国「五大国」として戦勝国の一員となった日本は、その後のパリ講和会議にも参加し、国際連盟常任理事国の地位を得るなど、アジア・太平洋地域での自国の権益を拡大していった。


摂政設置の動きが活発化するのは翌1921年(大正10年)半ばからである。5月から8月末日までに、原首相や山縣元老を中心に根回しが行われ、政府内の了解が固まった[9]。10月4日に宮内省(現在の宮内庁)から「快方に向かう見込みがない」旨の病状発表がなされた後に、各宮家から了解を取り、10月11日には妻・貞明皇后の了解を得、10月27日には松方内大臣が大正天皇と当時20歳だった長男の皇太子裕仁親王(昭和天皇)の承諾を得た[10]


原首相暗殺事件を挟み、11月20日には「宮中重要会議」が近いことが新聞報道され、22日には議題が皇室典範の摂政に関する条項[注釈 4]に関連すること、24日には議題が「皇太子殿下の重大御任務」であることなど、間接的表現で皇太子の摂政就任が近いことが報道された[11]。そして11月25日午前11時に皇族会議が皇太子を議長として開かれ、摂政設置案を満場一致で可決。午後1時には枢密院会議が開かれ、皇族会議の発議に対して満場一致で同意する。枢密院会議が午後2時に終了した直後の午後2時30分に、天皇は詔書[注釈 5]を発し、皇太子裕仁親王を摂政に任命した[12]


同時に宮内省から『天皇陛下御容體書』が公表されるとともに、出生以来の病歴が別途発表された[13]。このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった[注釈 6]。 この後、大正天皇が政務に復帰することは無かった。



晩年




1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪


1922年(大正11年)4月にイギリスのエドワード王太子(後の国王エドワード8世、現在のエリザベス2世女王の伯父)が訪日し1か月近く滞在した際、天皇の病状を憚った日本側は天皇と英国王太子(皇太子)の面会を設定しなかった[14]。一方、6月20日には長男の皇太子と久邇宮家の良子女王(香淳皇后)の婚姻の勅許を下している[15]


1925年(大正14年)5月10日には結婚満25年の節目を迎え、皇太子らから賀詞を受けた他、貞明皇后とともに夫妻で久々に謁見所に出御、皇族総代、加藤高明内閣総理大臣、濱尾新枢密院議長から祝福を受けている。同年12月19日に重度の脳貧血の発作を起こし、貞明皇后も驚愕、翌日未明まで看病を続けたが、この心労で皇后も体調を崩し、半月ほど寝込むほどであった。これ以降、天皇は4ヶ月に渡り、ほぼ寝たきりとなった。


1926年(大正15年)5月8日には病床を離れ、歩行も可能となったが、同月11日には再度脳貧血の発作が見られ、病床に就いた。8月10日、天皇は帯で縛りつけられるようにして車に乗せられ、原宿駅から葉山へ向かった。その後、天皇の病状悪化はとどまらず、言語障害、記憶障害、歩行困難に加えて神経痛も進み、仕人(つこうど)の小川金男によれば「手の指を自由にお曲げになれないので、侍従が手の平にリンゴをおのせして、それから一本一本指を曲げてさし上げ」るような状態となる[16]


その後、日光・沼津の各御用邸で転地療養を続けた後、1926年(大正15年)8月10日に葉山の御用邸に転地して以来、しばらくは病状が落ち着いていたが、9月11日に脳貧血の発作を再発、10月下旬には食欲が減退、気管支炎の症状もみせ、日中でも寝ていることが増えてきた。


11月に病状悪化が進み、同月下旬以降には体温が上昇、やがて流動食しか喉を通せなくなった。12月8日に再び気管支炎が悪化、体温上昇も著しくなり、翌日以降も症状は改善せず、病床で療養する日々が続いた。


このようななか、宮内省から『天皇陛下御異例』と言う見出しで病状経過の発表があったのが、12月15日であった。同時に9月11日に「脳貧血の御症状」を再発、10月27日から「御睡眠勝ちにして御食気減少」し、11月14日以降は「軽微なる御せきおよび少量の御かく痰あらせら」れ、12月に入ると「御体温昇騰し御脈拍御呼吸数とも増進」したことが明かされた。その翌日12月16日には「天皇御病状頗る重篤」に陥り、各皇族、王族、元帥、閣僚らが続々と参邸する事態となった。


東京日日新聞など新聞各紙は16日以降、連日、号外を出して一進一退する天皇の病状を伝えた。しかし、24日、冬の陽光に包まれていた葉山御用邸は午後から厚い雲に覆われ、いつしか雪も舞い始め、雷鳴も響いた。同日の東京朝日第1号外には「今朝の御容体 暫次不良に拝す」、第2号外には「聖上陛下御容体 御険悪に向はせ給ふ」、第3号外には「益々御危険」、第4号外には「全く御絶望」、25日、同第1号外には「聖上御危篤」と発表された。


同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま、心臓麻痺により[17]崩御(死去)。宝算47。臨終の床に生母を呼んだのは妻・貞明皇后の配慮だったという。


崩御後には「大正天皇」と追号され、1927年(昭和2年)2月8日、天皇として史上初めて、関東の地にある多摩陵(東京都八王子市長房町)に葬られた。毎年12月25日には大正天皇例祭が行われている。



皇子




4人の皇子


貞明皇后との間に4皇男子をもうけた。




  • 迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年(明治34年)- 1989年(昭和64年)) - 第124代昭和天皇


  • 淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年(明治35年)- 1953年(昭和28年)) - 秩父宮


  • 光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年(明治38年)- 1987年(昭和62年)) - 高松宮


  • 澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年(大正4年)- 2016年(平成28年)) - 三笠宮



系譜































大正天皇

父:
明治天皇

祖父:
孝明天皇

曾祖父:
仁孝天皇

曾祖母:
正親町雅子

祖母:
中山慶子

曾祖父:
中山忠能

曾祖母:
園愛子

母:
柳原愛子

祖父:
柳原光愛

曾祖父:
柳原隆光

曾祖母:
正親町三条則子

祖母:
長谷川歌野

曾祖父:
長谷川雪顕

曾祖母:
不詳



















































































































































































































































































































 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

122明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

123大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

124昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

125今上天皇
 
常陸宮正仁親王
 
寛仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子徳仁親王
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 































































































































































































































































































































































葉室光子 (1853-1873)
 
 
 
 
 

稚瑞照彦尊 (1873・第一皇子・死産 )
 
 
 
 
 
 

橋本夏子 (1856-1873)
 
 
 
 
 
 

稚高依姫尊 (1873・第一皇女・死産 )
 
 
 
 
 
 
 

柳原愛子 (1855-1943)
 
 
 
 
 
 
 
 

梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇子・大正天皇)
 
明治天皇
 
 
 
 
 
 

滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

増宮章子内親王 (1883・第四皇女・夭折 )
 
 
 
 

千種任子 (1856-1944)
 
 
 
 
 
 

久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 

常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

竹田宮恒久王[18]
 
 
 
 
 
 
 
 
 

周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

北白川宮成久王[19]
 
 
 
 
 
 
 

富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

朝香宮鳩彦王[20]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

東久邇宮稔彦王[21]
 
 
 
 
 
 
 

貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女・夭折)
 
 
 

園祥子 (1867-1947)




陵・霊廟




多摩陵


陵(みささぎ)は、宮内庁により東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある多摩陵(たまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方[22]。大正天皇から陵は東京に移されている。


また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。



人物像




  • 三島中洲の指導を受け、創作した漢詩の数は実に1367首もあり、質量とも歴代天皇の中でも抜きんでている[注釈 7]。天皇は「歌よりも詩のほうがいい。お前たちも作れ」と侍従たちに盛んに詩作を勧めていた。また、和歌の数は岡野弘彦の調べによると456首が確認されている。岡野は、大正天皇の御製集の解説の中で歌の出来は相当なもので、特に「清涼さ」「透徹した描写」においては、明治天皇や昭和天皇よりも優れていたと分析している。

    • 富山県訪問時に詠んだ「登呉羽山」の詩は現在、呉羽山山頂に碑文となっており、大正天皇唯一の詩碑とされている[4]


  • 皇太子時代に全国を巡啓し、京都帝国大学(現:京都大学)付属病院を訪れた時には、患者に声をかけ、患者が涙にむせんだという逸話も残っており、福岡県知事との会話の間に持っていたタバコを気軽に差し出したという記録も残っている。このような思ったことをすぐに言動に出す性格は幼少期からのものであるが、嘉仁親王の性格を好ましく思わなかった明治天皇や山縣有朋らに幾度となくたしなめられていたようである。

  • 巡啓中には、有栖川宮の黙認もあって、非常に気さくに、身分に構わず気軽に声をかけた。移動も特別編成のお召し列車ではなく、一般乗客と同じ普通列車に乗り込み、兵庫県の陸軍大演習ではいきなり旧友宅を訪問、新潟県では早朝に宿舎を抜け出して散策をし、ある時は蕎麦屋(当時はあまり品の良くない場所とされていた)に入るなど自由奔放に振る舞った。1911年(明治44年)4月に仙台市を行啓した際に台覧した競馬会では、競走中は終始立ち上がって観戦し、競走の度に御付の武官と馬を指さして話をしたり、競走の合間を待ちかねて幕の隙間より裏手の馬の係留所をのぞこうとするなどした。これらは当時、明治天皇が一般人の目の見えないところに「神」として君臨していたのとは好対照である。守正王妃伊都子は、自伝『三代の天皇と私』(1975年)の中で、「明治天皇と違って大正天皇は大変親しみやすいお気軽なお方でした」と述べている[23]

  • 即位前は3人の息子たちと気軽に合唱や鬼ごっこ、映画鑑賞、将棋を楽しむなど良き父親であったという[24]。また、西洋的な行事を好んでおり、「昭和天皇実録」には1907年(明治40年)に当時6歳の裕仁親王(後の昭和天皇)へ靴下に入れた玩具をクリスマスプレゼントとして贈ったという記述がある[25]

  • 愛煙家として知られた父の明治天皇以上に大のたばこ好きであった。皇太子時代、喫煙量の多さを心配した東宮大夫に対し、「それでは、一本のたばこになるべくたくさんの葉を詰めた紙巻たばこを作ってほしい」と注文し、実際に特製のたばこを作らせている。践祚後は、ハバナ葉巻たばこ、トルコ(葉)混成口付紙巻たばこ、ハバナ(葉)口付紙巻たばこなど、数種類のたばこを愛用していた。参内した者に対しても自ら愛用する葉巻を気軽に手渡すことが度々あったという[23]



病状に関するもの




  • 宮内庁は2008年(平成20年)6月4日、『大正天皇実録』の一部(複製本)を公開した[注釈 8]。それによると、1921年(大正10年)の実子で長男の皇太子裕仁親王の摂政就任時には「大正三年頃ヨリ軽度ノ御発語御障害アリ、其ノ後ニ至リ御姿勢前方ヘ屈セラルル御傾向アリ」「殊ニ御記憶力ハ御衰退アリ」などと、病状について新聞発表がされている。

  • NHKは宮内庁に黒塗りの行われなかった『昭和天皇実録』と同じ基準での公開を申請し、2015年(平成27年)に約8割の1000カ所以上が公開された。



小学校2年で83日欠席し進級試験も受けられず留年した。

小学校6年生では74日間欠席した。

大正7年(1918年)には38歳で、2年前頃から発語障害、歩行困難等の異状があった。

大正14年(1925年)12月には一時人事不省に陥り、3ヶ月寝たきりだった[26]



  • 原武史は著書『大正天皇』(朝日新聞社、2000年)で、大正天皇は最終的に政治的な立場から排除(「押し込め」)された天皇であり、「生まれながらの病弱な天皇イメージ」が政治的な思惑を含んで流布された根拠に欠けるものだと指摘した。皇太子時代から近かった原敬首相存命時に極力伏せられてきた天皇の病状が原の暗殺直後に一般に流布されるようになった、巡啓時の新聞記事には皇太子の健康回復が詳細に述べられているとしている。伊藤之雄はこうした指摘が事実誤認に基づくもので、「よいという建前で報じざるをえない」新聞記事を主要史料とすることは本当の論証にならないと反論している[27]

まことしやかに語られたエピソードによると、ある真夜中、吉原で夜遊びのあと、天皇が宮城に戻ろうとすると、開けておいた潜り戸が閉まっていた。そこで、門扉を叩き「朕である。門を開けよ!」 と騒ぐと出てきた門番に「何が朕だ、陛下ならこの時間は、とっくに寝室でお休みの時間だ!」と一喝され、殴られた挙げ句一晩閉め出されたと言う。

だが、実際にはこの話は、江戸時代の春日局のエピソードとして、同様の話が伝わっており、話の混同が起きていると思われる。
明治生まれの年寄りたちは、「大正天皇は遊びが過ぎて梅毒にかかり、それが脳に回って崩御したのだ」と、作り話をまことしやかに話していた。 



その他



  • 大正天皇の成婚の時、日本各地で記念として桜が大量に植樹された。

  • 現在、日本で広く行われている神道式の神前結婚式は、大正天皇と貞明皇后の婚儀を、東京大神宮が一般向けにアレンジしたものである。

  • 現在、日本の多くの小学生が通学時に筆記用具、教科書、ノートなどを入れて背中に背負っているランドセルは、1887年(明治20年)、当時皇太子であった大正天皇の学習院初等科入学の際、伊藤博文が祝い品として帝国陸軍の将校背嚢に倣った鞄を献上、それがきっかけで世間に徐々に浸透して今のような形になったとされる。


  • 1912年(明治45年)7月30日に明治天皇崩御・大正天皇践祚となったが、休日法の改正は9月4日となった。大正天皇の誕生日は8月31日であるが、1912年(大正元年)8月31日時点における天長節は、まだ明治天皇の誕生日である11月3日(現在の文化の日、日本国憲法公布日)のままだった。


  • 1913年(大正2年)8月31日に天長節が行われたが、盛暑期に天長節の式典を斎行するのが困難との理由で、1914年(大正3年)からは2か月遅れの10月31日に天長節の式典を斎行するようになった。なお、月遅れでは9月に31日が存在しないため2か月遅れとなっている。休日としては、8月31日が天長節、10月31日が天長節祝日という名称となり、天皇誕生日に関する休日が大正期は年2回となっていた。

  • 長男の昭和天皇と同じく、父子揃って蕎麦が好物であったといわれている。

  • 近代の歴代天皇のうち、父・明治天皇と長男・昭和天皇の誕生日は崩御以降にも別の祝日となっているが(明治天皇…11月3日“文化の日”。昭和天皇…4月29日“昭和の日”)、大正天皇の誕生日は別の祝日となっていない。しかしながら、先帝崩御日が毎年休日となる休日法が施行されていた1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御し、1927年(昭和2年)から1947年(昭和22年)まで大正天皇祭として12月25日が休日となっていたことは、日本にクリスマスが定着するきっかけの一つになったとされている。



遠眼鏡事件




1917年(大正6年)、帝国議会の開院式に向かう大正天皇


「遠眼鏡事件」とは、「大正天皇が進行した脳病により帝国議会の開院式で詔勅を読んだ後、大正天皇はその勅書をくるくると丸め、遠めがねにして議員席を見渡した」とされる「事件」であり、それにまつわるさまざまな風説[注釈 9]が流布されており、「大正天皇は暗愚であった」と誤って評価される要因の一つであると言われる。


この種の風説に関して書かれた記事は数種存在するが、記事相互の内容(天皇の行動、「事件」が起こったとされる時期など)はかなり異なっており、信憑性は定かではない。また、語り出された時期は第二次世界大戦後の1950年代後半にほぼ集中している。ただし政治学者の丸山眞男は、大正天皇の在位中からこの手の風説はあったとしている。丸山眞男は、『昭和天皇を廻るきれぎれの回想』(1989年、のち「丸山眞男集 15」岩波書店)において、以下のように記している。


私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳を患っていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それも甚だ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである。

この事件について、近年、大正天皇付きの女官による証言が報じられている[注釈 10]
また、大正天皇は脳膜炎を患って以来、手先が不自由であり、上手く巻けたかどうかを調べていたのが、議員からは遠眼鏡のように使っていたように見えたという説[注釈 11]もある。そもそも、勅書は丸めるものであるので丸めること自体におかしな点はない[28]



脳病の原因


明治天皇は1887年(明治20年)までに9人の皇子女をもうけたが、男子は大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死去した2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった[29]。大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ[29]。遠眼鏡事件に始まる暗愚との風説もこの病気に起因するとする説がある。また、1888年・1889年の『華族統計書』(明治21・22年)によると、公家華族や武家華族の3歳未満児の死因で最も多いのは脳膜炎で、31件中12件を占めていた[29]


この点について、1923年(大正12年)、京都帝国大学医学部小児科教授の平井毓太郎が脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症であるとの研究成果を発表した[29]。禁裡院中の女子は、鉛あるいは水銀を原料とする白粉を用いたから、皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果であると推定された[29]。平井の発表に先立つ1907年(明治40年)の段階ですでに含鉛白粉の害は上流階級や有識階級の間で周知の情報となっていたとされている[29]



軍における階級



日本軍の階級



  • 1912年(大正元年)7月30日 陸海軍大元帥


外国軍の階級



  • イギリスの旗 イギリス : 陸軍元帥(Field marshal)、1918年1月1日任官[30]


栄典




  • 1889年(明治22年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章[31]


  • 1900年(明治33年)5月10日 - 菊花章頸飾[32]


  • 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[33]



文献



  • 小川金男 『宮廷』 日本出版協同株式会社、1951年


  • 古川隆久 『大正天皇』吉川弘文館〈人物叢書〉、2007年 


  • 原武史 『大正天皇』朝日新聞社〈朝日選書〉、2000年。朝日文庫、2015年

  • フレドリック・ディキンソン 『大正天皇 一躍五大洲を雄飛す』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年
    • 米国人の研究者(1961年生)で、京都大学に留学し高坂正堯に師事。自身による日本語出版。



  • 岡野弘彦解題 『大正天皇御集 おほみやびうた』明徳出版社、2002年

  • 木下彪注解 『大正天皇 御製詩集』明徳出版社、新版2000年(初版は1960年)


  • 古田島洋介 『大正天皇御製詩の基礎的研究』明徳出版社、2005年

  • 西川泰彦 『天地十分春風吹き満つ 大正天皇御製詩拝読』錦正社、2006年


  • 石川忠久 『漢詩人大正天皇 その風雅の心』大修館書店、2009年

  • 石川忠久 『大正天皇漢詩集』大修館書店、2014年。漢詩約270首を訳註・解説した編著。


  • 児島襄 『天皇(I) 若き親王』 文春文庫 1981年。新版・カゼット出版、2007年

  • 『大正天皇実録』ゆまに書房(補訂版全6巻・別巻1)、2016年より刊行、2021年完結予定。



出典


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  1. ^ 古川隆久『大正天皇』 吉川弘文館〈人物叢書〉


  2. ^ 古川 (2007)、p.101


  3. ^ 伊藤之雄『昭和天皇伝』、p.99

  4. ^ ab原武史『大正天皇』 朝日選書


  5. ^ 『ベルツの日記』 菅沼竜太郎訳、岩波文庫(上下)


  6. ^ 宮代栄一「閲覧が始まった『大正天皇実録』 日々の記録に素顔見えた」 朝日新聞朝刊24面. 2012年3月31日付


  7. ^ 林栄子 『近代医学の先駆者 三浦謹之助』 pp.211。(叢文社、2011年)より


  8. ^ 児島 pp.105-109


  9. ^ 児島 pp.200-203, p.205


  10. ^ 児島 pp.216-217


  11. ^ 児島 pp.226-227


  12. ^ 神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示-- 新聞記事文庫 政治(20-084) 大阪朝日新聞 1921年11月26日


  13. ^ 児島 pp.227-228


  14. ^ 児島 pp.237-241


  15. ^ 児島 p.243


  16. ^ 『宮廷』154頁。


  17. ^ 昭和天皇実録巻四


  18. ^ 北白川宮能久親王の第一王子


  19. ^ 北白川宮能久親王の第三王子


  20. ^ 久邇宮朝彦親王の第八王子


  21. ^ 久邇宮朝彦親王の第九王子


  22. ^ “-天皇陵-大正天皇 多摩陵(たいしょうてんのう たまのみささぎ)”. www.kunaicho.go.jp. 2018年5月3日閲覧。

  23. ^ ab歴史を変えた愛煙家たち(3) 愛煙家通信 Web版


  24. ^ [大正天皇と鬼ごっこ、家族の愛情に包まれ固い絆 終戦前に皇族一丸 http://www.sankei.com/life/news/140909/lif1409090070-n1.html]産経ニュース


  25. ^ 「『昭和天皇実録』を読み解く:6)大正天皇との絆と影響 歴史学者・伊藤之雄が語る」週刊朝日2014年10月31日発行、36頁。


  26. ^ 『大正天皇の実像詳細に』NHK NEWS WEB 2015年7月1日[リンク切れ]


  27. ^ 『日本歴史』641(2001年10月)、伊藤之雄『政党政治と天皇』講談社、2002年。


  28. ^ 参議院インターネット審議中継 2017年11月8日 開会式 10:45より、勅語に相当する「おことば」の書面を天皇が丸めている。

  29. ^ abcdef森岡清美『華族社会の「家」戦略』索引p.399-400


  30. ^
    “The Edinburgh Gazette_War Office, 22nd January 1918.”. The Gazette (1918年1月25日). 2018年3月2日閲覧。



  31. ^ 『官報』号外「詔勅 立皇太子公布之件」1889年11月3日。


  32. ^ 『官報』号外 1900年5月10日。


  33. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。




注釈


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  1. ^
    現在の東京都港区



  2. ^ オットマール・フォン・モール『ドイツ貴族の明治宮廷記』に詳しい。著書はドイツの外交官、1887年 - 1889年に日本政府によりお雇い外国人として、宮内省顧問の形で招聘、宮中儀礼や諸制度の改革案に携わった。(金森誠也訳、講談社学術文庫、2012年/初版・新人物往来社、1988年)。


  3. ^ 『原敬日記』によると、勅語などを読み上げる間に集中力が途切れて、途中で黙り込むことがあったという。8月31日の天長節式典(現在の天皇誕生日)でも簡単な勅語をきちんと読み上げることができなかった。さらに、12月26日の第42帝国議会開院式、翌1920年(大正9年)の新年祝賀、2月11日の紀元節式典(現在の建国記念の日)を欠席している。(児島 pp.105-107)


  4. ^ 新聞は「摂政」の語は使わず「皇室典範第十九条第二項」と報じた。同条項の条文は "天皇久シキニ亙ルノ故障ニヨリ大政ヲ親ラスル事能ハサル場合ハ皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ摂政ヲ置ク" である。


  5. ^ "朕久シキニ亙ルノ疾患ニ由リ大政ヲ親ラスル事能ハサルヲ以テ皇族会議及ヒ枢密顧問ノ会議ヲ経テ皇太子裕仁親王摂政ニ任ス茲ニ之ヲ宣布ス 大正十年十一月二十五日 御名御璽 摂政名 宮内大臣子爵牧野伸顕 内閣総理大臣子爵高橋是清"


  6. ^ 動静は、四竈孝輔『侍従武官日記』(芙蓉書房、1980年ほか)に詳しい。著者は海軍の侍従武官。


  7. ^ 第2位が嵯峨天皇の97首。


  8. ^ 2002年(平成14年)には1912年(明治45年/大正元年)から1914年(大正3年)までの2年分、全体の約1割ほどが公開されていた。このときの黒塗り部分は141箇所あった。2003年(平成15年)には1915年(大正4年)から1921年(大正10年)までの7年分が公開されていた。このときの黒塗り部分は360箇所以上という。

    高橋紘『平成の天皇と皇室』文藝春秋、2003年、p.177.



  9. ^ 「遠めがねにして覗いたあと、丸めた勅書を持って近くにいた人の頭をポコッと叩いた」という話が付くこともあるが、これは第二次世界大戦敗戦後の極東国際軍事裁判における大川周明の行動との錯綜であるとの見方がある。


  10. ^ 朝日新聞2001年3月14日付の記事によると、大正天皇から直接聞いた話として以下の証言をしている。
    ある時、議会で勅語が天地逆さまに巻きつけてあったので、ひっくり返して読み上げ、随分恥ずかしい思いをした。このようなことがないよう、詔書を筒のように持って中を覗いて間違っていないことを確かめて読み上げようとしたものだ。



  11. ^ 当時の侍従・黒田長敬の証言による。『文藝春秋』1959年2月号 「悲劇の帝王 大正天皇」より



外部リンク




  • ウィキメディア・コモンズには、大正天皇(カテゴリ)に関するメディアがあります。


  • ウィキソースには、大正天皇崩御の告示があります。











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