外交官




外交官(がいこうかん、英語: diplomat、仏語:diplomate、露語:Дипломат、中国語:外交官・wàijiāoguān、韓国語:외교관)は、外交使節団の長および使節団の職員で外交官の身分を有する外交職員の総称[1]




目次






  • 1 変遷


  • 2 職務


  • 3 外交官特権


  • 4 日本の外交官制度


    • 4.1 種類


    • 4.2 任免


    • 4.3 採用


    • 4.4 待遇




  • 5 日本の著名な外交官一覧


    • 5.1 1600年以前に生誕した者


    • 5.2 1601年から1800年に生誕した者


    • 5.3 1801年から1820年に生誕した者


    • 5.4 1821年から1830年に生誕した者


    • 5.5 1831年から1840年に生誕した者


    • 5.6 1841年から1850年に生誕した者


    • 5.7 1851年から1860年に生誕した者


    • 5.8 1861年から1870年に生誕した者


    • 5.9 1871年から1880年に生誕した者


    • 5.10 1881年から1890年に生誕した者


    • 5.11 1891年から1920年に生誕した者


    • 5.12 1921年から1940年に生誕した者


    • 5.13 1941年から1950年に生誕した者


    • 5.14 1951年から1955年に生誕した者


    • 5.15 1956年から1960年に生誕した者


    • 5.16 1961年以降に生誕した者




  • 6 世界(日本以外)の著名な外交官一覧


    • 6.1 紀元前1001年以前に生誕した者


    • 6.2 紀元前1000年から紀元前1年に生誕した者


    • 6.3 紀元後1年から1400年に生誕した者


    • 6.4 1401年から1700年に生誕した者


    • 6.5 1701年から1800年に生誕した者


    • 6.6 1801年から1830年に生誕した者


    • 6.7 1831年から1860年に生誕した者


    • 6.8 1861年から1870年に生誕した者


    • 6.9 1871年から1880年に生誕した者


    • 6.10 1881年から1890年に生誕した者


    • 6.11 1891年から1900年に生誕した者


    • 6.12 1901年から1920年に生誕した者


    • 6.13 1921年から1940年に生誕した者


    • 6.14 1941年から1945年に生誕した者


    • 6.15 1946年から1950年に生誕した者


    • 6.16 1951年から1953年に生誕した者


    • 6.17 1954年から1956年に生誕した者


    • 6.18 1957年から1959年に生誕した者


    • 6.19 1960年から1962年に生誕した者


    • 6.20 1963年から1965年に生誕した者


    • 6.21 1966年以降に生誕した者




  • 7 外交官が登場する作品


  • 8 関連項目


  • 9 脚注


  • 10 参考文献


  • 11 外部リンク





変遷


臨時の外交使節を派遣・接受することは紀元前の中国やギリシャなど非常に古くから行われ、日本の遣隋使や遣唐使もその例であるが、常駐の外交使節団が初めて置かれたのは13世紀のイタリアであったといわれている[2]。ミラノ公国がジェノヴァ共和国に初めて公使館を設置して以後、イタリアの諸国家間で国家間の交渉に専門的に従事する外交官が相互に派遣されるようになり、またカトリック教会の長であるとともにイタリアの一君主としても位置づけられたローマ教皇も各国に教皇派遣使節を送った。14世紀にはイングランドのジェフリー・チョーサーが外交活動をしており、また1455年にはミラノがフランス宮廷に常駐使節を送り、そのシステムは主権国家が形成されるようになった16世紀以後ヨーロッパ各地に広まるとともに、外交慣行の基礎が形成された。


絶対王政期には、宮廷内部において国家の重要な政策決定が行われることが増加し、そのために君主あるいはその側近との個人的関係が外交交渉の成否に深く関わるようになった。一流の外交官は公式の場ではなく、夜中に接受国の君主の寝室に通されて直接重要交渉を行うものとされていた(閨房外交(Boudoir Diplomacy))。また、接受国における主君の代理として自国の名誉を守る責務も課されており、接受国での宮廷内における外交官同士の序列が時には互いの国家の尊厳に関わるものとして時には激しい議論や決闘にいたる例もあった。そのため、外交官には貴族や軍人などが任命されることが多かった。その後、国民国家の成立とともに宮廷外交・閨房外交の時代は終わり、交渉能力とともに相手国の各種情報を総合的に蒐集・報告する能力が求められるようになった。こうした中で職業外交官も外交専門職任用試験を経た人材が登用されるようになっていった。


常駐使節の制度は1648年のヴェストファーレン条約締結以降一般的な慣行と化したが[3]、一般条約である外交関係に関するウィーン条約が採択されたのは1961年である。



職務


常駐外交使節団を構成する外交官の任務は、接受国で派遣国を代表し、その意思の表明、交渉、条約の締結を行うこと(代表機能)、接受国の事情について適法な手段により一切の情報を収集し派遣国に報告すること(報告機能)、両国間の関係の促進をはかること(推進機能)に大別される
[4]。特定の問題の交渉や任務にあたる特別使節団も、実質的に常駐外交使節団と同等の扱いを受ける[5]


外交官の地位や外交特権などに関する規則は1815年のウィーン規則及び1818年のエクス・ラ・シャペル規則で基礎が定められ、1961年の外交関係に関するウィーン条約及び1963年の領事関係に関するウィーン条約によって修正が加えられて今日に至っている。



外交官特権



外交官には、任務の能率的な遂行を確保するため、国際法によって身体の不可侵(拘束されないこと)や裁判権からの免除などの特権を与えられている。特権の内容は、大使館員であるか、領事館員であるかによって異なる。これを外交官特権という。詳しくは該当項を参照。


外交官は、外交使節団に属する。外交官として認められるためには、派遣する国がその者を外交官として派遣することを接受国(受け入れる国)に打診し、合意(アグレマン)が成立する必要がある。アグレマンが成立した場合に該当者は接受国内において外交官と認められ、派遣した国を代表する交渉相手として扱われるほか、外交特権を享受する。接受国側が、国内法に照らして許されざる非行や国益を害する行為がありその者を外交官として扱うべきではないと判断した場合、ペルソナ・ノン・グラータの通告を行うことで、外交官としての立場を失う。ペルソナ・ノン・グラータの通告は事前(着任前)でも事後(着任中)でも良い。



日本の外交官制度



種類


外交官の種類は慣習国際法上一定の原則があり、日本もこれに則って外交官の名称を「外務省設置法」、「外務公務員法」(昭和27年法律第41号)及び「外務職員の公の名称に関する省令」(昭和27年外務省令第7号)により次の通り定めている。ただし参事官~在外公館警備対策官については、外務大臣が「公の便宜のために必要があると認める場合には、国際慣行に従い、第二条及び第三条に掲げる公の名称の一又は二以上を用いることを命ずることができる」ものであり、戦前は官名であったが現在は正式の官名あるいは職名ではない(正式の官名は外務事務官)。その為、外国に赴任して大使、公使、総領事、参事官などになった者も、国内に戻ると大使、公使、総領事、参事官ではなくなるが、儀礼的にこれらの職名で呼ばれる場合がある。また、外交儀礼上、本来の職位よりも一段上の「公の名称」を名乗ることが許される場合がある(名称大使、ローカルランク)。




  • 特命全権大使(Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary)


  • 特命全権公使(Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary)


在外公館たる公使館の公館長。ただし1967年に日本の公使館はすべて大使館に昇格しているので、このような意味での特命全権公使は存在しない。現在は、各国の大使館で特命全権大使に次ぐ次席館員を単に「公使」(Minister) と呼び、そのうち外務省入省年次が一番上の数名に「特命全権公使」の名称を付与しているにすぎない。したがって、特命全権公使が置かれる国は、実は外務省内の人事によって左右され、しかも年々変わる。


  • 参事官(Councilor / Councillor)

実際には空席の館も多い


  • 領事官(Consul)

    • 総領事 (Consul-General)

    • 領事 (Consul)

    • 副領事 (Vice-Consul)

    • 領事官補 (Attaché)



主に領事事務に従事する職員。このうち「総領事」の名称を用いるのは在外公館たる総領事館の在外公館長だけである。また「領事官補」の名称を用いるのは、領事館などに配属された語学研修を行う若手外交官だけである。


  • 書記官(Secretary)

    • 一等/二等/三等書記官 (First/Second/Third Secretary)

    • 外交官補 (Attaché)



主に外交事務に従事する職員。このうち「外交官補」は、大使館などに配属された語学研修を行う若手外交官のみが用いる。


  • 理事官

    • 一等/二等/三等理事官 (First/Second/Third Attaché)

    • 副理事官 (Assistant Attaché)



主に外交領事事務に直接関連する業務に従事する職員。ただし現在は、三等理事官以外はほとんど存在しない。

  • 外務書記

現在は存在しない。


  • 電信官

    • 一等/二等/三等電信官

    • 電信官補



現在はインターネット通信等の電気通信事務に従事する職員。現在は電信符号を用いることはない。また「電信官」という公称を用いる外務省職員はなく、電信担当官は他の役職の名称を用いている。


  • 通訳官

    • 一等/二等/三等通訳官

    • 通訳官補



現在はこの肩書きの外務省職員は存在しない。通訳業務は語学に秀でた職員が適宜担当している。


  • 翻訳官

    • 一等/二等/三等翻訳官

    • 翻訳官補



現在はこの肩書きの外務省職員は存在しない。翻訳業務は語学に秀でた職員が適宜担当している。


  • 防衛駐在官 (Defense Attaché)

諸外国の駐在武官に相当。在外公館に勤務し、主に防衛(=軍事)に関する事務に従事する職員。全員が陸・海・空自衛隊から出向している幹部自衛官(主に佐官クラス)であり、自衛官としての身分及び外務事務官としての身分を併有して任命される。自衛官としての階級を公称し、自衛官の制服を着用し、儀礼刀を佩き、飾緒を着用する。この防衛駐在官は全員が自衛官で、外務省出身者や他の省庁からの出向者は一切いないが、法文上は自衛官に限られるものではない。通常はこれに加えて「書記官」などの名称を用いる。


  • 医務官 (Medical Attaché)

在外公館に勤務し、主に医務に関する事務に従事する職員。

  • 在外公館警備対策官

主に在外公館の警備に関する事務に従事する職員。自衛官・警察官・海上保安官・入国警備官または公安調査官が出向して任命されることが多い。また、日本の民間警備会社から外務省へ出向して任じられる例もある。通常はこれに加えて「書記官」などの名称を用いる。



任免


外交官の任免は、



  • 大使・公使 → 外務大臣の申し出により内閣が行い、天皇がこれを認証する(認証官)。

  • 総領事・領事・参事官・書記官・理事官・外務書記などの外交職員 → 外務大臣が行う。

  • 外交職員(特別の技術を必要とする外交領事事務などに従事する職員)→ 外務省令で定めるところにより、外務大臣が行う。



採用



大半の外交官は国家公務員I種試験(平成12年までは外務公務員I種試験、公務員試験の項参照)および外務省専門職員試験、国家III種試験等に合格して外務省に入省した職員から選ばれる。前者出身の外交官を俗に「キャリア外交官」と呼称し、外務省本省の多くの幹部職や、主としていわゆる大国に駐在する大使等はほとんどこちらから任命される。それに対して、後者出身及び同等の経歴の者から任命される外交官を同様に「ノンキャリア外交官」と呼称することがあり、その多くは栄進したとしても本省のごく一部の幹部職や中小国駐在の大使等で外交官としての経歴を終わることになる。1894年(明治27年)以来の試験であるところの、外交官及領事館試験、外務書記生試験、雇員採用は、順にI種、専門職、III種に該当する。


なお、例外的に一部の大使や公使には学識経験者等の民間人や他省庁出身者が任命されることもある。また書記官には各省庁からの出向者が、在外公館警備対策官等には警察庁・防衛省・法務省入国管理局・公安調査庁・海上保安庁からの出向者が、それぞれ任命されることもある。



待遇


日本国の外交官に対しては、在外公館における勤務に必要な経費に充てるために(通常の給与に加えて)在勤手当(非課税)が支払われ、平成17年度において総額256億7188万7000円の予算が計上された。支払対象は約3,000人とされる(一人当たりの単純平均額は約856万円)。



日本の著名な外交官一覧



1600年以前に生誕した者



  • 大夫 (たいふ)



後漢書東夷伝において、建武中元2年(57年)後漢(en:Eastern Han、 zh:东汉)に朝貢し、光武帝より印綬を賜ったとされる者の「身分」である(「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」)。この印綬が、江戸時代に志賀島で掘り出された「漢委奴國王」の刻印のある金印であると考えられている。


漢書(前漢書)地理志に、日本(en:Japan、 fr:Japon、 de:Japan、 es:Japón、 pt:Japão、 it:Giappone 、ru:Япония、 zh:日本・rìběn、 ko:일본、 ar:اليابان、 fa:ژاپن、 tr:Japonya、 vi:Nhật Bản、 id:Jepang、hi:जापान)に関するさらに古い記述がある。「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。)


正史ではないが王充の『論衡』にも倭人に関する記述がある。「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八。成王(在位紀元前1021年頃-紀元前1002年頃)の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)。



  • 帥升 (すいしょう)


後漢書東夷伝において、安帝の永初元年(107年)後漢に朝貢し生口(奴隷)160人を献上したとされる(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)。


  • 難升米 (なしめ)


魏志倭人伝において、景初2年(238年)邪馬台国の卑弥呼により帯方郡を経て魏(en:Cao Wei、 zh:曹魏)に使者として派遣されたとされる(「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都」)。魏の皇帝より親魏倭王の称号、金印紫綬、銅鏡100枚を下賜される。


  • 小野妹子(おの の いもこ)


推古天皇15年(607年)遣隋使として隋(en:Sui dynasty、 zh:隋朝)に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書をもって聖徳太子により遣わされる。


  • 犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)


推古天皇22年(614年)最後の遣隋使として聖徳太子により隋に遣わされる。また、舒明天皇2年(630年)最初の遣唐使として唐(en:Tang dynasty、 zh:唐朝)に遣わされる。


  • 大伴国麻呂(おおとも の くにまろ)

650年頃生。天武天皇4年(675年)遣新羅使として新羅(紀元前57年-935年、 ko:신라、 en:Silla)に派遣され、翌年帰国する。


  • 犬養連手纏(いぬかいのむらじ たまき)

660年頃生。天武天皇13年(684年)遣耽羅使として耽羅(古代-1402年、ko:탐라、 en:Tamna、済州島に存在した王国)に派遣される。


  • 阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ)


文武天皇2年(698年)生。養老元年(717年)第9次遣唐使に同行し、唐の都長安に留学。太学(官立高等教育機関)で学び科挙に合格、玄宗に仕える。2度帰国を試みるも遭難。安南(現ベトナム北中部)節度使、潞州(現山西省付近)大都督等を歴任後、客死。和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首に選ばれている。


  • 引田虫麻呂(ひけた の むしまろ)

700年頃生。神亀5年(728年)第一次遣渤海使の正史として渤海(ko:발해、 en:Balhae)に派遣され、天平2年(730年)に帰国し、聖武天皇に渤海からの進物を献上する。


  • 祖阿 (そあ)


足利義満が博多の商人肥冨(こいとみ)に日明貿易の利について説得され、応永8年(1401年)第1回遣明使正使として室町幕府から明(en:Ming dynasty、 zh:明朝)に遣わされる。


  • 武田信玄 (たけだ しんげん)


大永元年(1521年)生。甲斐国を拠点とする戦国大名。天文23年(1554年)、相模国の北条氏康、駿河国の今川義元と甲相駿三国同盟を締結する。


  • 上杉謙信 (うえすぎ けんしん)


享禄3年(1530年)生。越後国を拠点とする戦国大名。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによる駿河の今川義元の死後、永禄11年(1568年)に甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻したため(駿河侵攻)、相模の北条氏康は武田と断交し、武田に対抗するため、長年敵対してきた越後の上杉との和睦を望み、永禄12年(1569年)、上杉と北条の間で越相同盟が締結される。


  • 織田信長 (おだ のぶなが)


天文3年(1534年)生。尾張国を拠点とする戦国大名。永禄5年(1562年)、三河国の徳川家康と清洲同盟を締結する。


  • 景轍玄蘇 (けいてつげんそ)


天文6年(1537年)生。対馬宗氏の外交僧。文禄の役の前、豊臣秀吉の命により朝鮮に渡り「仮途入明」等について交渉も開戦の阻止に失敗。戦役中は小西行長に同行し、朝鮮と和議の交渉に当たる。江戸開幕後、朝鮮修文職として尽力し、慶長12年(1607年)に再開された最初の朝鮮通信使を迎え、慶長14年(1609年)己酉約条を成立させる。


  • 支倉常長(はせくら つねなが)



元亀2年(1571年)生。慶長18年(1613年)仙台藩主伊達政宗により慶長遣欧使節の正史として、メキシコ(当時スペインの植民地ヌエバ・エスパーニャ副王領(1519年-1821年、es:Virreinato de Nueva España))を経由してスペイン及びローマに派遣される。元和6年(1620年)に帰国する。


スペイン帝国(1492年-1975年、es:Imperio español、zh:西班牙帝國)は、当時、中南米とフィリピンの植民地を領有し、また、スペイン王がポルトガル王を兼ね(1580年-1640年)、「太陽の沈まない国」(zh:日不落帝国)と形容される覇権国である。



1601年から1800年に生誕した者



  • 大岡清相(おおおか きよすけ)



延宝7年(1679年)生。正徳元年(1711年)長崎奉行。1639年にポルトガル王国(pt:Reino de Portugal)からの入船を禁止し完成した鎖国下においても清・オランダとの交易が認められていたが、新井白石等による長崎貿易の制限論に対し、長崎貿易の実情を把握し、輸出銅・来航船数の制限、値組制度、信牌(許可証)制度導入などを進言し、正徳5年(1715年)海舶互市新例の骨子として採用される。


清(en:Qing dynasty、zh:清朝)は、1616年後金として成立し(建国者は、満洲人のヌルハチ(zh:努尔哈赤))、1636年国号を清と改め、1644年明を滅ぼし、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の時代(1661年-1796年)に最盛期を迎え、アジアにおける広範囲の冊封体制を確立する。

また、鎖国開始当時のオランダは、東インド会社(nl:Vereenigde Oostindische Compagnie、en:Dutch East India Company)・西インド会社を通じて海外で積極的に活動し、1623年のアンボイナ事件(en:Amboyna massacre、 nl:Ambonse Moord)によりイングランド王国(927年‐1707年、en:Kingdom of England、 fr:Royaume d'Angleterre、 zh:英格兰王国)を東南アジア貿易から締め出し、台湾・インドネシア・セイロン・南アフリカ・北米・南米等の植民地を支配する世界の覇権国家(en:Hegemon)である(『オランダ海上帝国』)。三十年戦争(1618年-1648年)の講和条約であるヴェストファーレン条約(en:Peace of Westphalia、 zh:威斯特伐利亚和约)によりネーデルラント連邦共和国(nl:Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden、 zh:尼德蘭七省共和國)としてスペイン帝国(es:Imperio español)からの独立が認められる。



  • 久世広民(くぜ ひろたみ)



元文2年(1737年)生。安永4年(1775年)長崎奉行。蘭学を手厚く保護した田沼意次に、長崎で入手した海外情報をもたらす。オランダ人の待遇改善も進める。

なお、鎖国開始(1639年)の直後から、オランダ商館長(カピタン)のオランダ風説書により世界各地の情報が日本にもたらされていた。



  • 中川忠英(なかがわ ただてる)



宝暦3年(1753年)生。寛政7年(1795年)長崎奉行。唐通事(中国語通訳官)を動員して、清の江南・福建の風俗を図説した『清俗紀聞』を編纂・監修。

その後、ほぼ同時期に近藤重蔵らにより『安南紀略』(ベトナムの歴史風俗文物を記した書)と『亞媽港紀略』(マカオの歴史風俗文物を記した書)が編纂される。



  • 石川忠房(いしかわ ただふさ)



宝暦5年(1756年)生。寛政4年(1792年)根室に来航したロシア使節ラクスマン(ru:Лаксман)と、村上義礼とともに宣諭使として交渉し、長崎以外での交易を拒絶するとともに、長崎入港の信牌(許可証)を交付し、大黒屋光太夫の身柄を引き受ける。

その後、近藤重蔵(最上徳内も随行)、伊能忠敬の蝦夷地探査・測量が行われる。


ロシア帝国(en:Russian Empire、 ru:Российская империя、 zh:俄罗斯帝国)は、1799年ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、露米会社に勅許を与える。



  • 遠山景晋 (とおやま かげくに)



宝暦14年(1764年)生。長崎奉行。ラクスマン(ru:Лаксман)に交付された長崎入港の信牌(許可証)を持って、文化元年(1804年)に長崎に来航したロシア使節ニコライ・レザノフ(ru:Резанов)に対し、幕府の代表として通商を拒絶する。

レザノフはロシアの勅許会社である露米会社の建て直しのため、日本との通商を望んでいた。その後、文化露寇(フヴォストフ事件)が起こり、間宮林蔵による樺太・アムール川(黒竜江)下流域の探査が行われる。



  • 松平康英(まつだいらやすひで)



明和5年(1768年)生。文化5年(1808年)のフェートン号事件(en:Nagasaki Harbour Incident)当時の長崎奉行。薪水と食料を要求するイギリスの侵入船の脅迫に屈してしまった国辱の責任をとり、切腹して自害する。文久遣欧使節副使の松平康英 とは別人。


フェートン号事件は、ヨーロッパのナポレオン戦争(1803年-1815年)の余波でイギリス海軍がオランダ船の拿捕を企図したものである。17世紀に世界の覇権国家であったオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、数次にわたる英蘭戦争(en:Anglo-Dutch Wars)で疲弊し、1795年にフランス(fr:France、 zh:法国・法兰西)の侵攻により傀儡国家バタヴィア共和国、1806年にフランスの衛星国ホラント王国となった後、1810年にフランスに併合された。1815年のウィーン会議(en:Congress of Vienna、 zh:维也纳会议)・ウィーン議定書により南ネーデルラント(現ベルギー王国)・ルクセンブルクも支配するネーデルラント連合王国(zh:荷蘭聯合王國)として復活する。しかし、産業革命(en:Industrial Revolution)で先行していたイギリスが、オランダからケープ植民地・セイロン島を引継ぎ、世界の覇権国家(en:Hegemon)となる。


フェートン号事件を受けて幕府は本木正栄(庄左衛門)ら6名の長崎通詞に英学修業を、オランダ語通詞に英語とロシア語の研修を命じ、文化11年(1814年)日本初の本格的な英和辞典「諳厄利亜語林大成」が本木らを中心に編纂される。文化8年(1811年)高橋景保の提唱により蛮書和解御用掛(東京大学の起源の1つ)が開設される。


フェートン号事件後、イギリスは熱心に開国を試み、日本近海に何度も来航している。しかし、文政7年(1824年)の大津浜事件と宝島事件を受け、翌年異国船打払令が出された。



  • 水野忠邦(みずの ただくに)



寛政6年(1794年)生。天保10年(1839年)老中首座に就任。アヘン戦争(1840年-1842年、en:First Opium War、 zh:第一次鸦片战争)で清がイギリスに敗れたことを受け、天保の改革の一環として、従来の異国船打払令を改め薪水給与令を発令し、他方で、江川英龍、高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせる。


イギリス(連合王国、en:United Kingdom、 fr:Royaume-Uni、 de:Vereinigtes Königreich、 es:Reino Unido、zh:英国(Yīngguó)・大不列颠及爱尔兰联合王国)は、1819年にシンガポール島、1842年に香港、1858年にインド帝国、1874年にマレー半島、1886年までにミャンマーを領有し、ヴィクトリア女王の時代に覇権国家(en:Hegemon)としての頂点を極める(第一次世界大戦開始時の英国王ジョージ5世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はヴィクトリアの孫であり、ロシア皇帝ニコライ2世の妻アレクサンドラ皇后もヴィクトリアの孫である。)。



1801年から1820年に生誕した者



  • 林復斎(はやし ふくさい)


寛政12年(1801年)生。嘉永6年(1853年)アメリカ合衆国(en:United States of America、 fr:États-Unis d'Amérique、 de:Vereinigte Staaten von Amerika、 es:Estados Unidos de América、 ru:Соединённые Штаты Америки、 zh:美国(Měiguó)・美利堅合眾國、 ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّة、 fa:ایالات متحده آمریکا、 tr:Amerika Birleşik Devletleri)のペリーの浦賀来航の頃、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。安政元年(1854年)老中阿部正弘により応接掛に任命され、再来日したペリー艦隊と漢文の応酬により交渉し日米和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan、en:Treaty of Kanagawa)を締結する。


  • 川路聖謨(かわじ としあきら)



享和元年(1801年)生。嘉永6年(1853年)老中阿部正弘により任命され、長崎に来航したロシアのプチャーチン(ru:Путятин)と交渉し、安政元年(1854年)日露和親条約に調印。海岸防禦御用掛・外国奉行。

当時ロシアは、オスマン帝国(en:Ottoman Empire、 tr:Osmanlı İmparatorluğu、 ar:الدولة العثمانية、 zh:奥斯曼帝国)・イギリス・フランス・サルデーニャ王国(en:Kingdom of Sardinia、 it:Regno di Sardegna、 zh:薩丁尼亞王國)とクリミア戦争(1853年-1856年、en:Crimean War、 zh:克里米亚战争)で交戦中であった。



  • 竹内保徳(たけうち やすのり)


文化4年(1807年)生。嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海岸防禦御用掛(海防掛)。嘉永6年(1853年)の黒船来航後、米使応接係を兼任。文久元年(1861年)文久遣欧使節の正史として渡欧し、各国と開港延期を目的とする協定の締結に成功する。箱館奉行・外国奉行。


  • 井上清直(いのうえ きよなお)


文化6年(1809年)生。清と英仏間でアロー戦争(1856年-1860年、en:Second Opium War、 zh:第二次鸦片战争)が行われる中、老中阿部正弘により任命され、安政5年(1858年)アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉し、大老井伊直弼の了解の下、日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)に岩瀬忠震と共に署名(違勅調印問題)。その後、蘭露英仏との条約を含む安政の五カ国条約の全てに調印。海岸防禦御用掛・外国奉行・軍艦奉行。


  • 岩瀬忠震(いわせ ただなり)



文政元年(1818年)生。嘉永7年(1854年)、老中阿部正弘に目付に任じられ講武所・蕃書調所(東京大学の起源の1つ)・長崎海軍伝習所の開設に尽力する。

清と英仏間でアロー戦争(1856年-1860年)が行われる中、安政5年(1858年)アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して、大老井伊直弼の了解の下、日米修好通商条約に井上清直と共に署名(違勅調印問題)。その後、蘭露英仏との条約を含む安政の五カ国条約の全てに調印。海岸防禦御用掛・外国奉行。



1821年から1830年に生誕した者



  • 岩倉具視(いわくら ともみ)



文政8年(1825年)生。慶応3年10月(1867年11月)坂本龍馬の発案による大政奉還を断行した徳川慶喜に対し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令案を奏上、小御所会議において辞官納地させることを主張、戊辰戦争(慶応4年1月2日(1868年1月26日)-明治2年5月18日(1869年6月27日))を誘発する。

明治4年(1871年)岩倉使節団正史。全権委任状を得ないまま渡航するというミス等のため、条約改正の予備交渉は失敗に終わる。

帰国後、内治優先を唱え征韓論を抑えるが、明治六年政変(西郷隆盛、板垣退助等の下野)、不平士族の反乱を誘発してしまう。外務卿。



  • 小栗忠順(おぐり ただまさ)



文政10年(1827年)生。安政7年(1860年)日米修好通商条約批准を目的とする遣米使節の目付(監察)として、正使の新見正興とともに渡米する(随行艦は咸臨丸)。


文久元年(1861年)外国奉行としてロシア軍艦対馬占領事件(en:Tsushima incident)を処理。

勘定奉行として横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)、日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所の設立を推進。



  • 副島種臣(そえじま たねおみ)


文政11年(1828年)生。佐賀藩校英学塾「致遠館」にて英語を学ぶ。慶応4年(1868年)、新政府の制度取調局判事。明治6年(1873年)日清修好条規の批准書交換。外務卿・内務大臣。


  • 松平康英(まつだいら やすひで)


文政13年(1830年)生。文久元年(1861年)文久遣欧使節の副使として渡欧し、各国と開港延期を目的とする協定の締結に成功する。講武所頭取・神奈川奉行・外国奉行・老中。フェートン号事件で自害した松平康英とは別人。


  • 大久保利通(おおくぼ としみち、en:Ōkubo Toshimichi)


文政13年(1830年)生。明治4年(1871年)岩倉使節団副使として米欧を訪問する。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、普墺戦争、普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立(プロイセン王国主導によりドイツを統一)させたばかりのビスマルク(de:Otto von Bismarck、zh:奥托·冯·俾斯麦)から強い影響を受けた。

明治4年(1871年)の宮古島島民遭難事件(en:Mudan incident、 zh:八瑤灣事件)を契機をする明治7年(1874年)の台湾出兵(en:Japanese invasion of Taiwan、 zh:牡丹社事件)後の日清両国間互換条款・互換憑単に全権として調印(お雇い外国人のボアソナードが顧問として随行。)。

明治6年(1873年)初代内務卿(当時の実質的な首相)として富国強兵、殖産興業を推進。


普墺戦争(en:Austro-Prussian War、 de:Deutscher Krieg)の結果、ドイツ統一はオーストリア帝国を除外し、プロイセンを中心に進められることになり、1867年オーストリアでは、ハンガリー(de:Ungarn、 hu:Magyarország、 zh:匈牙利)の独立性の高いオーストリア=ハンガリー二重帝国(en:Austria-Hungary、 de:Österreich-Ungarn、 zh:奥匈帝国)が成立した。


普仏戦争(en:Franco-Prussian War、 zh:普法戰爭)に勝利したビスマルクは、ドイツ帝国(en:German Empire、 de:Deutsches Kaiserreich、 zh:德意志帝國)を成立させ、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を行った。



1831年から1840年に生誕した者



  • 寺島宗則(てらしま むねのり)/松木弘安(まつき こうあん)



天保3年(1832年)生。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、英語を独学。文久2年(1862年)の幕府遣欧使節(文久遣欧使節)、慶応元年(1865年)の薩摩藩遣英使節団に参加。明治4年(1871年)のハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権。在英公使(初代)・外務卿。


ハワイ王国(1795年-1893年、en:Kingdom of Hawaii)は、1893年にサンフォード・ドールなどアメリカ移民によるハワイ事変で米国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり、1898年にはハワイ準州(en:Territory of Hawaii)として併合されて消滅する。



  • 木戸孝允(きど たかよし、en:Kido Takayoshi)/桂小五郎(かつら こごろう)


天保4年(1833年)生。明治4年(1871年)西郷隆盛、大久保利通らと廃藩置県を断行。同年岩倉使節団副使。

明治7年(1874年)台湾出兵に反対し下野後、翌年大久保利通、板垣退助との大阪会議を経て、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会の確立を条件に板垣とともに参議に復帰し、明治天皇の名で立憲政体の詔書が発布される。



  • 坂本龍馬(さかもと りょうま)

天保6年(1836年)生。商社と政治結社の性質を併有する亀山社中(海援隊)のリーダー。文久3年(1863年)神戸海軍塾塾頭に任ぜられる。慶応元年(1865年)亀山社中を設立し、グラバー商会から大量の銃の薩摩藩名義での長州藩による買付斡旋、薩摩藩名義での蒸気軍艦ユニオン号の購入、薩長同盟の斡旋に成功する。慶応3年(1867年)亀山社中は海援隊と改称し、土佐藩の外郭団体的な組織となる。同年、いろは丸沈没事件では万国公法に基づく主張を展開し、紀州藩から損害賠償金を得、船中八策に基づいた王政復古を目的とする薩土盟約(その後芸州藩が加わり薩土芸盟約)を成立させ、イカロス号事件の処理で英国公使ハリー・パークスとの談判を行い、さらに山内容堂を通じて、大政奉還の建白を行うが、最期は京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される。


  • 井上馨(いのうえ かおる)

天保6年(1836年)生。文久3年(1863年)伊藤博文らとともに、イギリスに密航(長州五傑、en:Chōshū Five)。元治元年(1864年)下関戦争後の和平交渉に尽力。明治9年(1876年)の日朝修好条規の締結を担当。条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力。外務卿・初代外務大臣(第1次伊藤内閣)。


  • 榎本武揚(えのもと たけあき、en:Enomoto Takeaki)


天保7年(1836年)生。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、安政5年(1857年)頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。文久元年(1861年)アメリカに留学する予定であったが南北戦争(1861年-1865年、en:American Civil War)のため中止となり、文久2年(1862年)幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学し、国際法、化学、蒸気機関学、砲術、船舶運用術を学ぶ。

明治8年(1875年)駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約(en:Treaty of Saint Petersburg、 ru:Петербургский договор)を締結。ペルーとの間のマリア・ルス号事件でロシアのサンクトペテルブルクで開かれた国際仲裁裁判に日本側代表として出席。

外務大輔・駐清特命全権公使・海軍卿・外務大臣(第1次松方内閣)・逓信大臣(初代)・文部大臣・農商務大臣。



  • 池田長発(いけだ ながおき)

天保8年(1837年)生。文久3年(1863年)横浜鎖港談判使節団(第二回遣欧使節団)の正史として、カイロを経由し(三大ピラミッド、スフィンクスを見学)、フランスで皇帝ナポレオン3世(fr:Napoléon III)に謁見。鎖港交渉には失敗し、パリ約定を締結する。外国奉行・軍艦奉行。


  • 大隈重信(おおくま しげのぶ、en:Ōkuma Shigenobu)

天保9年(1838年)生。長崎英語伝習所(済美館)、佐賀藩校英学塾「致遠館」にてグイド・フルベッキに英語を学ぶ。明治元年(1868年)外国事務局判事に任官。明治15年(1883年)立憲改進党・東京専門学校(現早稲田大学)を創設。明治21年(1888年)から外務大臣として不平等条約の改正に尽力。第2次大隈内閣において第一次世界大戦(en:World War I、 fr:Première Guerre mondiale、 de:Erste Weltkrieg、 zh:第一次世界大战)に参戦。


  • 高杉晋作(たかすぎ しんさく)

天保10年(1839年)生。文久2年(1862年)5月、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国する。文久3年(1863年)8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、高杉は和議交渉を担当する(通訳は伊藤博文)。


  • 何礼之(が のりゆき)


天保11年(1840年)生。英語を独学及び長崎英語伝習所で学ぶ。文久元年(1861年)ロシア軍艦対馬占領事件の退去交渉の通訳。英語通訳の功績により、文久3年(1863年)長崎奉行所支配定役格。英語の私塾を開き、前島密、陸奥宗光、星亨などに英語を教える。

明治元年(1868年)新政府の開成所(東京大学の起源の1つ)御用掛、訳官。明治4年(1871年)岩倉使節団に外務省六等出仕として随行。


モンテスキューの『法の精神』(fr:De l'esprit des lois)を翻訳し、『万法精理』として刊行され、自由民権運動に大きな影響を与える。



1841年から1850年に生誕した者



  • 伊藤博文(いとう ひろぶみ、en:Itō Hirobumi)


天保12年(1841年)生。文久3年(1863年)井上馨らとともに、イギリスに密航(長州五傑、en:Chōshū Five)。元治元年(1864年)下関戦争後の和平交渉に高杉晋作の通訳として尽力。維新前は長州藩の外国商人からの武器購入交渉を担当。

維新後、外国事務局判事。明治4年(1871年)岩倉使節団副使として米欧を訪問する。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、普墺戦争、普仏戦争を経て1871年にドイツ帝国を成立(プロイセン王国主導によりドイツを統一)させたばかりのビスマルクから強い影響を受ける。

明治15年(1882年)憲法調査のため渡欧。大日本帝国憲法を起草、逐条解説書『憲法義解』を著す。『憲法義解』は伊東巳代治により英訳され、欧米の学者たちに寄贈される。

明治18年(1885年)甲申政変後の天津条約に全権として調印。


第2次伊藤内閣において、明治27年(1894年)日清戦争(en:First Sino-Japanese War、 zh:甲午战争)を開始、翌年下関条約に全権として調印、三国干渉に対処。その後、日露戦争前は満韓交換論・対露不戦を主唱。

明治33年(1900年)立憲政友会を創立、初代総裁に就任。初代工部卿・内務卿・初代内閣総理大臣・外務大臣(兼任)・初代枢密院議長・初代貴族院議長・初代韓国統監。



  • 青木周蔵(あおき しゅうぞう)

天保15年(1844年)生。明治元年(1868年)長州藩留学生としてドイツ留学。明治6年(1873年)外務省入省。外務次官・外相として治外法権の撤廃に尽力し、明治27年(1894年)駐英公使の時、日英通商航海条約(陸奥条約)に調印。ドイツ駐在通算21年。二度目の妻はドイツ貴族の娘。初代駐米大使。外相も数度歴任。


  • 陸奥宗光(むつ むねみつ、en:Mutsu Munemitsu)


天保15年(1844年)生。慶応元年(1865年)長崎の何礼之の英語塾で学ぶ。慶応3年(1867年)坂本龍馬の海援隊に加わる。明治17年(1884年)ヨーロッパ留学。

明治19年(1886年)外務省に出仕。明治21年(1888年)、駐米公使兼駐メキシコ公使として、日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結。

明治期に不平等条約の改正に尽力し、日英通商航海条約(陸奥条約)により治外法権の撤廃を実現。

明治28年(1995年)下関条約に全権として調印、三国干渉に対処。外務大臣(第2次伊藤内閣)。主著『蹇々録』。



  • 山田顕義(やまだ あきよし)

天保15年(1844年)生。明治4年(1871年)岩倉使節団に兵部省理事官として随行。明治6年(1873年)初代清国特命全権公使に任命(佐賀の乱鎮圧のため赴任せず)。司法卿(1883年‐1885年)、初代司法大臣(1885年-1891年)として明治期の法典編纂を進める。明治22年(1889年)日本法律学校(日本大学の前身)を設立。


  • 桂太郎(かつら たろう、en:Katsura Tarō)



弘化4年(1848年)生。明治3年(1870年)ドイツ留学。ドイツ駐在武官。英露間の対立(グレート・ゲーム、zh:大博弈)、ドイツの世界政策(de:Weltpolitik)、アメリカの棍棒外交(en:Big Stick ideology)・門戸開放政策(en:Open Door Policy)が交錯し、イギリスの覇権国家としての地位(光栄ある孤立、en:Splendid isolation)が不安定になる中、義和団の乱(en:Boxer Rebellion、Yihetuan Movement、zh:义和团运动)後、満州占領を継続するロシアに対抗するため、第1次桂内閣において小村寿太郎を外相に起用し、明治35年(1902年)日英同盟(en:Anglo-Japanese Alliance、zh:英日同盟)を締結し、日露戦争(1904年-1905年、en:Russo-Japanese War、 ru:Русско-японская война、 zh:日俄战争)に勝利する。台湾総督・陸軍大将・内閣総理大臣。


日露戦争での日本の勝利については、インドのネルーが「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」(『父が子に語る世界史』)と記すなど、当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々に重大な影響を与える。


日露戦争の影響を受けて、ロシア帝国の植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、ガージャール朝(fa:قاجاریان、en:Qajar dynasty)におけるイラン立憲革命(fa:جنبش مشروطه ایران、en:Persian Constitutional Revolution)や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウ(vi:Phan Bội Châu)の東遊運動(vi:Phong trào Đông Du、en:Đông Du)、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等が実現する。



  • 西園寺公望(さいおんじ きんもち、en:Saionji Kinmochi)


嘉永2年(1849年)生。明治3年(1871年)から明治13年(1881年まで)フランスに留学。ソルボンヌ大学初の日本人学士。伊藤博文による憲法調査の随員として渡欧。駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使、駐ベルリン・ドイツ帝国公使。パリ講和会議(en:Paris Peace Conference、 fr:Conférence de paix de Paris、 de:Pariser Friedenskonferenz、 zh:巴黎和会)の首席全権。外務大臣・内閣総理大臣。


  • 林董(はやし ただす)

嘉永3年(1850年)生。ヘボン塾で英語を学んだ後、慶応2年(1866年)幕命によりイギリス留学。明治4年(1871年)外務省出仕、岩倉使節団随行二等書記官。工部大学校(東京大学工学部の前身の一つ)設立に従事。明治28年(1995年)駐北京公使として三国干渉による遼東還付条約に調印。明治35年(1902年)駐英公使として日英同盟に調印。ポーツマス講和会議後の明治38年(1905年)、在英公使館の大使館昇格に伴い初代駐英大使となる[6]。外務大臣・逓信大臣。


1851年から1860年に生誕した者



  • 栗野慎一郎(くりの しんいちろう)

嘉永4年(1851年)生。慶応元年(1865年)藩費留学生として長崎の何礼之の英語塾で学ぶ。明治8年(1875年)再び藩費留学生としてハーバード大学で法律を学ぶ。明治14年(1881年)外務省入省。駐ロシア公使の時、日露戦争開戦直前まで外交交渉に尽力するが、ロシア政府に宣戦布告文を提出する。初代駐フランス大使。


  • 寺内正毅(てらうち まさたけ)

嘉永5年(1852年)生。フランス駐在武官。韓国統監として韓国併合(en:Japan–Korea Annexation Treaty、 ko:한일 병합 조약)を推し進める。元帥陸軍大将・陸軍大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣。


  • 金子堅太郎(かねこ けんたろう)


嘉永6年(1853年)生。岩倉使節団に随行し、米国の小・中学校を経てハーバード大学法学部を卒業。大日本帝国憲法の起草に参画。農商務次官・農商務大臣・司法大臣。


日露戦争に際して米国での広報外交を担当、ポーツマスでの講和会議が暗礁に乗り上げるとセオドア・ルーズベルト(en:Theodore Roosevelt、 zh:西奥多·罗斯福)米国大統領に援助を求め、ポーツマス条約の成立に貢献。



  • 高橋是清(たかはし これきよ、en:Takahashi Korekiyo)

嘉永7年(1854年)生。ヘボン塾で英語を学んだ後、慶応3年(1867年)米国留学。明治6年(1873年)文部省入省。日露戦争に際して日銀副総裁として戦費調達のために戦時外債の公募を担当。特許局初代局長・横浜正金銀行頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣・内閣総理大臣。二・二六事件で遭難。


  • 小村寿太郎(こむら じゅたろう、en:Komura Jutarō)


安政2年(1855年)生。明治8年(1875年)鳩山和夫らとともに第1回文部省海外留学生に選ばれ、ハーバード大学へ留学。司法省を経て、明治17年(1884年)外務省へ転出。外相として日英同盟締結を推進。ポーツマス条約全権。日露戦争後の外交に強い影響。明治44年(1911年)日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たす。駐米公使・駐露公使・外務大臣(第1次桂内閣、第2次桂内閣)。


  • 鳩山和夫(はとはま かずお)

安政3年(1856年)生。明治8年(1875年)小村寿太郎らとともに第1回文部省海外留学生に選ばれて米国留学、コロンビア大学で法学士、イェール大学で法学博士。明治18年(1885年)外務省入省。衆議院議長・早稲田大学学長。子に鳩山一郎、孫に鳩山威一郎、曾孫に鳩山由紀夫・鳩山邦夫。


  • 原敬(はら たかし、en:Hara Takashi)

安政3年(1856年)生。中江兆民の仏学塾でフランス語を学ぶ。明治15年(1882年)外務省入省。天津領事館・パリ公使館勤務。外務次官・朝鮮駐在公使・内閣総理大臣。


  • 珍田捨巳(ちんだ すてみ)

安政3年(1857年)生。明治10年(1877年)から4年間アメリカ留学。帰国後、外務省入省。初代の外務次官。駐独大使・駐米大使。


  • 後藤新平(ごとう しんぺい、en:Gotō Shinpei)


安政4年(1857年)生。明治23年(1890年)ドイツ留学。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として、東京の帝都復興計画を立案した。

大正12年(1923年)東京市長として後藤・ヨッフェ会談を行い、ソビエト連邦との国交正常化の契機を作る。昭和3年(1928年)ソ連を訪問、スターリンと会見し、国賓待遇を受ける。初代満鉄総裁・初代内閣鉄道院総裁・逓信大臣・内務大臣・外務大臣。



  • 斎藤実(さいとう まこと、en:Saitō Makoto)

安政5年(1858年)生。明治17年(1884年)から明治21年(1888年)までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官。海軍大臣・海軍大将・朝鮮総督・ジュネーブ海軍軍縮会議全権・内閣総理大臣兼外務大臣。昭和11年(1936年)内大臣在任時に二・二六事件で遭難。


  • 加藤高明(かとう たかあき)

安政7年(1860年)生。明治20年(1887年)外務省入省。駐英公使、外務大臣・内閣総理大臣。第4次伊藤内閣(1900年‐1901年)の外相として日英同盟の推進に尽力。第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦(1914年‐1918年)への参戦、対華21ヶ条要求(1915年)などに辣腕を振るう。


  • 林権助(はやし ごんすけ)

安政7年(1860年)生。明治20年(1887年)外務省入省。日露戦争中、駐韓公使として日韓議定書に締結し、対韓・対露強硬外交を推進。後の日韓併合への足がかりを作る。国際連盟(en:League of Nations、 fr:Société des Nations、 de:Völkerbund、 es:Sociedad de las Naciones、 zh:國際聯盟、 ru:Лига Наций、 ar:عصبة الأمم、 fa:جامعه ملل、 tr:Milletler Cemiyeti)日本代表。


1861年から1870年に生誕した者



  • 加藤友三郎(かとう ともさぶろう、en:Katō Tomosaburō)


文久元年(1861年)生。ワシントン会議首席全権。米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小に積極的に賛成する。元帥海軍大将・内閣総理大臣。


  • 牧野伸顕(まきの のぶあき、en:Makino Nobuaki)



文久元年(1861年)生。明治4年(1871年)実父である大久保利通とともに岩倉使節団に加わり渡米、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年(1874年)帰国。明治13年(1880年)外務省入省。外務大臣(第1次山本内閣)・宮内大臣。


パリ講和会議の国際連盟委員会最終会合において次席全権大使として人種的差別撤廃提案(en:Racial Equality Proposal、fr:Principe de l'égalité des races、es:Propuesta de igualdad racial)を行う。

ロシアのウラジーミル・レーニン(en:Vladimir Lenin、zh:弗拉基米尔·列宁)の「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を唱えたウッドロウ・ウィルソン(en:Woodrow Wilson、zh:伍德罗·威尔逊)米国大統領が議長であり、ウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、日本代表・フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、3分の2を超える計11名の委員が賛成する(イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対又は保留)。しかしウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、人種的差別撤廃提案の実現を阻まれる。



  • 新渡戸稲造(にとべ いなぞう、en:Nitobe Inazō)

文久2年(1862年)生。国際連盟(en:League of Nations、fr:Société des Nations、zh:國際聯盟)事務次長(1920年-1926年)。”Bushido: The Soul of Japan”(『武士道』)の著者。東京女子大学初代学長。


  • 明石元二郎(あかし もとじろう)


元治元年(1864年)生。ドイツ留学、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、明治34年(1901年)フランス公使館付陸軍武官、明治35年(1902年)ロシア帝国公使館付陸軍武官。日露戦争開戦後、ヨーロッパを舞台にロシア第一革命(en:Russian Revolution of 1905)支援工作を画策し、日本の勝利に貢献する。台湾総督・陸軍大将。


  • 堀口九萬一(ほりぐち くまいち)

元治2年(1865年)生。明治27年(1894年)外務省入省(日本初の外交官及領事官試験に合格)。メキシコ臨時代理公使。メキシコ革命(1910年-1920年)に際してフランシスコ・マデロ大統領の遺族を保護。


  • 内田康哉(うちだ やすや)


慶応元年(1865年)生。明治20年(1887年)外務省入省。駐米大使・駐露大使・外務大臣。外務大臣として、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制という第一次世界大戦後の国際協調体制の構築に関与する一方、満州国設立・国際連盟脱退時の外相でもある。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である(第2次西園寺内閣、原内閣・高橋内閣・加藤友三郎内閣、齋藤内閣)。


  • 若槻禮次郎(わかつき れいじろう)

慶応2年(1866年)生。明治25年(1892年)大蔵省入省。1930年ロンドン海軍軍縮会議首席全権。大蔵大臣・内務大臣・首相。


  • 石井菊次郎(いしい きくじろう)

慶応2年(1866年)生。明治23年(1890年)外務省入省。大正6年(1917年)特命全権大使として石井・ランシング協定を結ぶ。駐仏大使・外務大臣(第2次大隈内閣)。


  • 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)

慶応3年(1868年)生。明治34年(1901年)ドイツ駐在武官。太平洋戦争終結時の首相(1945年4月7日-8月17日)。二・二六事件で 頭部・胸部等に被弾し瀕死の重傷を負うも奇跡的に回復する。海軍大将。


  • 秋山真之(あきやま さねゆき)

慶応4年(1868年)生。明治31年(1898年)アメリカ留学。米西戦争観戦武官・米国駐在武官。日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下、作戦担当参謀として日本海海戦の勝利に貢献。海軍中将。


  • 宇垣一成(うがき かずしげ、en:Kazushige Ugaki)


慶応4年(1868年)生。明治35年(1902年)、明治40年(1910年)の2度ドイツ留学。軍部ファシズムの流れに批判的であり、中国、英米に対して穏健な姿勢であったため、昭和12年(1937年)に組閣の大命降下がなされるも陸軍大臣が得られず失敗する(「宇垣流産内閣」)。


日中戦争開始後の第1次近衛内閣(改造)で、「国民政府を対手とせず」との近衛声明の撤回を条件に外務大臣に就任し、英国を介して、孔祥熙国民政府行政院長らと極秘に接触、現実的な和平条件引き出しに成功したが、近衛文麿に梯を外され外相を辞任(事実上の更迭)。陸軍大将・朝鮮総督・外務大臣。



1871年から1880年に生誕した者



  • 諸井六郎(もろい ろくろう)


明治5年(1872年)生。明治30年(1897年)外務省入省。小村寿太郎と共に陸奥条約改正に尽力し、ジュネーブでのILO総会では使用者代表顧問を務める。


  • 幣原喜重郎(しではら きじゅうろう、en:Kijūrō Shidehara)


明治5年(1872年)生。明治29年(1896年)外務省入省。ワシントン会議全権。戦前、外相として国際協調路線の「幣原外交」を推進(加藤高明内閣・第1次若槻内閣、濱口内閣・第2次若槻内閣)。

戦後、内閣総理大臣に就任し日本国憲法の制定に関わる。中でも第9条は幣原が発案したとする説がある。



  • 芳澤謙吉(よしざわ けんきち)

明治7年(1874年)生。明治32年(1899年)外務省入省。大正14年(1925年)ソ連のレフ・カラハンと日ソ基本条約を締結、日ソ間の国交を樹立する。昭和15年(1940年)蘭印経済交渉特命全権・昭和16年(1941年)駐仏印特命全権大使。外務大臣。


  • 渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう)

明治7年(1874年)生。明治42年(1909年)ドイツ大使館付武官補佐官、大正6年(1917年)オランダ公使館付武官。陸軍大将。陸軍教育総監在任時に二・二六事件で遭難。


  • 松平恆雄(まつだいら つねお)

明治10年(1877年)生。明治35年(1902年)外務省入省。ロンドン海軍軍縮会議首席全権・外務次官・駐米大使・駐英大使・宮内大臣。会津藩主・京都守護職松平容保の六男。


  • 野村吉三郎(のむら きちさぶろう)

明治10年(1877年)生。オーストリア・ドイツ駐在を経て、大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで駐米大使館付武官。パリ講和会議及びワシントン軍縮会議全権団随員。太平洋戦争日米開戦時の駐米大使。海軍大将・外務大臣。国際法の権威として知られる。海軍大将。


  • 廣田弘毅(ひろた こうき)

明治11年(1878年)生。明治39年(1906年)外務省入省。オランダ公使、ソ連大使。外務大臣(第1次近衛内閣)・内閣総理大臣。日中戦争(en:Second Sino-Japanese War、zh:中国抗日战争)の開始、軍部大臣現役武官制の復活の責任などにより文官唯一のA級戦犯として処刑。


  • 吉田茂(よしだ しげる、en:Shigeru Yoshida)


明治11年(1878年)生。明治39年(1906年)外務省入省。駐英大使、首相。中国権益に対しては積極論者であり、満蒙分離論を支持する一方、覇権国英米との関係を重視し、日独防共協定・日独伊三国同盟には強硬に反対する。

昭和26年(1951年)首相としてサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結する。



  • 畑俊六(はた しゅんろく)

明治12年(1879年)生。明治45年(1912年)駐ドイツ大使館付武官補佐官、大正7年(1918年)パリ講和会議全権随員。温厚で誠実な人柄から陸軍の暴走に歯止めを掛けることが期待されるが、軍部大臣現役武官制下で米内内閣の陸軍大臣を単独辞職し、内閣を瓦解させてしまう。陸軍大臣・元帥陸軍大将。


  • 米内光政(よない みつまさ、en:Mitsumasa Yonai)


明治13年(1880年)生。大正4年(1915年)ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官。

昭和11年(1936年)12月12日の西安事件により、中国国民党は中国共産党との共同抗日へと方針変更する。昭和12年(1937年)7月7日の発生した盧溝橋事件は日中いずれから仕掛けられたのか不明であるが、日本は不拡大方針を採り、同月11日は停戦協定(松井・秦徳純協定)が成立する。しかし、その後の、中国共産党から国共合作による徹底抗戦の呼びかけがなされ、また、胡適の日本切腹中国介錯論(1935年、一種の焦土作戦)に基づくと思われる蒋介石の「最後の関頭」演説(『あらゆる犠牲を払ってでも徹底抗戦すべきである』)で抗戦の覚悟が公式に明らかにされると、中国側からの日本軍・日本人居留民に対する襲撃が繰り返し実行される。同年8月13日、中国軍による日本租界への襲撃である第二次上海事変が発生すると、米内は閣議で断固膺懲、陸軍派兵を主張し、トラウトマン工作については交渉打切りを強く主張、「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の第一次近衛声明につながる。


日独防共協定(en:Anti-Comintern Pact、de:Antikominternpakt、zh:反共產國際協定)締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した親ソ派である。日独伊三国軍事同盟にも「日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と反対する。

太平洋戦争の終盤から海軍省廃止時まで海軍大臣を務める。連合艦隊司令長官・海軍大臣・海軍大将・内閣総理大臣。



  • 松岡洋右(まつおか ようすけ、en:Yōsuke Matsuoka)


明治13年(1880年)生。明治26年(1893年)から9年間アメリカ留学。明治37年(1904年)外務省入省。国際連盟脱退時のジュネーブ総会首席全権。脱退直前の連盟総会において、日本による満州国承認に対して批判的な各国の厳しい雰囲気の中、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を英語で行う。満鉄総裁・外務大臣。


第2次近衛内閣の外相としてヒトラー(de:Adolf Hitler、zh:阿道夫·希特勒)が率いるナチスドイツ(en:Nazi Germany、zh:納粹德國)、ムッソリーニ(it:Benito Mussolini、zh:贝尼托·墨索里尼)が率いるイタリアと日独伊三国軍事同盟(en:Tripartite Pact、de:Dreimächtepakt、zh:三国同盟条约)に調印する。さらにヨシフ・スターリン(en:Joseph Stalin、zh:约瑟夫·斯大林)が指導するソビエト連邦(en:Soviet Union、zh:苏联)と日ソ中立条約に調印し、4国の連携で米英に対抗することを目指したが、独ソ戦の開始により目論見が破綻する。



1881年から1890年に生誕した者



  • 梅津美治郎(うめづ よしじろう)

明治15年(1882年)生。駐スイス公使館付駐在武官、駐満州国大使。昭和10年(1935年)、華北で相次いだ抗日・民族主義運動を撲滅するため梅津・何応欽協定を締結する。昭和11年(1936年)の二・二六事件後、陸軍次官に就任し、粛軍人事を行う。昭和20年(1945年)9月2日、重光葵とともに、大本営全権として太平洋戦争の降伏文書に調印する。陸軍大将。


  • 佐藤尚武(さとう なおたけ)

明治15年(1882年)生。明治38年(1905年)外務省入省。国際連盟帝国事務局長・ロンドン海軍軍縮会議事務総長・駐仏大使・外務大臣。ソ連対日参戦時の駐ソ大使。第二次世界大戦でドイツ降伏後、ソ連を通じた連合国との交渉を試みるが、ソ連からは無視された。ソ連の対日参戦の情報をつかみ損ね、奇襲を受けることになる。


  • 武者小路公共(むしゃこうじ きんとも)

明治15年(1882年)生。明治39年(1906年)外務省入省。駐独大使の時、日独防共協定締結の交渉に当たり、同協定に調印した(1936年11月25日)。


  • 東郷茂徳(とうごう しげのり)

明治15年(1882年)生。大正元年(1912年)外務省入省。太平洋戦争開戦時の外務大臣(東條内閣)として野村吉三郎、来栖三郎とともに開戦回避交渉を担当し、終戦時の外務大臣(鈴木貫太郎内閣)としてソ連の仲介による和平交渉を模索する。


  • 山本五十六(やまもと いそろく、en:Isoroku Yamamoto)

明治17年(1884年)生。大正8年(1919年)ハーバード大学留学。大正14年(1925年)駐米大使館付武官。ロンドン軍縮会議次席随員。第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表。日独伊三国軍事同盟の締結・対米開戦に反対する。元帥海軍大将・連合艦隊司令長官。


  • 東條英機(とうじょう ひでき、en:Hideki Tojo)

明治17年(1884年)生。大正8年(1919年)駐スイス武官。太平洋戦争(en:Pacific War、zh:太平洋战争)開戦時の内閣総理大臣。昭和18年(1943年)11月大東亜会議(en:Greater East Asia Conference、zh:大東亞會議)を主催し、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言を採択する。参加者:汪兆銘中華民国行政院長、張景恵満州国務総理、ホセ・ラウレルフィリピン大統領、バー・モウビルマ内閣総理大臣、ワンワイタヤーコーンタイ親王(首相代理)、チャンドラ・ボース自由インド仮政府首班。陸軍大将・陸軍大臣。


  • 杉村陽太郎(すぎむら ようたろう)

明治17年(1884年)生。明治41年(1908年)外務省入省。明治43年(1910年)、フランスのリヨン大学において梅謙次郎、富井政章に次いで、日本人として2人目の博士号を次席で取得する。国際連盟事務局次長(1927年-1933年)。国際オリンピック委員会(IOC)委員(1933年-1936年)。駐イタリア大使、駐フランス大使。身長185センチ、体重100キロを越す巨漢である。


  • 有田八郎(ありた はちろう)

明治17年(1884年)生。明治42年(1909年)外務省入省。外務次官・中国大使・外務大臣。米内内閣の外務大臣として、日独伊三国軍事同盟の締結に反対する。


  • 大島浩(おおしま ひろし)

明治19年(1886年)生。駐独大使館付武官から、大使に就任。日独伊三国同盟による枢軸外交実現のために奔走する。第二次世界大戦(en:World War II、fr:Seconde Guerre mondiale、de:Zweiter Weltkrieg、zh:第二次世界大战)末期になっても、ドイツ有利との誤った戦況報告を日本政府に流し続ける。


  • 来栖三郎(くるす さぶろう)

明治19年(1886年)生。明治43年(1910年)外務省入省。駐ドイツ大使として日独伊三国軍事同盟を締結・調印(1940年9月27日)。日米開戦時の交渉担当大使。


  • 石射猪太郎 (いしい いたろう)

明治20年(1887年)生。大正4年(1915年)外務省入省。東亜局長として支那事変では不拡大方針を強く主張する。太平洋戦争終戦時の駐ビルマ大使。バー・モウを伴ってタイに脱出。


  • 重光葵(しげみつ まもる)


明治20年(1887年)生。明治44年(1911年)外務省入省。満州事変の勃発に際し「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線での収拾に奔走。


太平洋戦争後の連合国への降伏文書調印において、日本政府全権として署名(1945年9月2日)。東條内閣・小磯内閣・東久邇宮内閣で外務大臣。



  • 天羽英二(あもう えいじ)

明治20年(1887年)生。明治45年(1912年)外務省入省。駐イタリア大使・外務次官。昭和9年(1934年)4月に、日本がアジア・モンロー主義を宣言したと解釈された「天羽声明」で有名。


  • 白鳥敏夫(しらとり としお)

明治20年(1887年)生。大正3年(1914年)外務省入省。スウェーデン公使・駐イタリア大使。大島浩駐独大使と連携して防共協定強化、日独伊三国同盟の推進を図る。


  • 芦田均(あしだ ひとし、en:Hitoshi Ashida)


明治20年(1887年)生。明治45年(1912年)外務省入省。最初の勤務地ロシアで1917年ロシア革命(en:Russian Revolution、ru:Русская революция)に遭遇する。外務大臣・内閣総理大臣。


斎藤隆夫の反軍演説の際には除名に反対票を投じる。昭和16年(1941年)の翼賛選挙には非推薦で出馬し当選。

衆議院帝国憲法改正小委員会委員長として、戦力不保持を定める憲法案第9条第2項に「前項の目的を達するため」との文言を追加する芦田修正を行い、これにより自衛力保持の余地が残された。

主著として、『最近世界外交史』(全3巻、明治図書(1934年)、改訂復刻:時事通信社(1965年))、『第二次世界大戦前史』(1959年 時事通信社)、『第二次世界大戦外交史』(時事通信社1960年、復刊1975年、岩波文庫(上下)2015年)。



  • 松井太久郎(まつい たくろう)


明治20年(1887年)生。昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件発生当時の北京特務機関長。同事件発生から4日後の7月11日に、北京市長兼第二九軍副司令官の秦徳純と停戦協定を締結する(松井=秦徳純協定)。陸軍中将。

松井=秦徳純協定により事態が収拾したにもかかわらず、その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃が連続し、戦闘が本格化する。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。



  • 石原莞爾(いしわら かんじ、en:Kanji Ishiwara)


明治22年(1889年)生。駐独大使館付武官・駐満大使館付武官。入念・緻密な計画に基づいて、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起こし、満州事変(en:Mukden Incident、zh:九一八事變)を成功させた首謀者である。


ニ・ニ六事件では反乱軍鎮圧の先頭に立ち、日中戦争(en:Second Sino-Japanese War、zh:中国抗日战争)に際しては不拡大方針を唱え、トラウトマン工作に関与。関東軍作戦参謀・陸軍中将・立命館大学国防学研究所長。



  • 井上成美(いのうえ しげよし)

明治22年(1889年)生。大正7年(1918年)スイス国駐在ドイツ語習得従事。大正9年(1920年)フランス国駐在フランス語習得従事。昭和2年(1927年)在イタリア日本大使館付海軍駐在武官。日独伊三国軍事同盟の締結・対米開戦に反対する。海軍次官・海軍大将(海軍大将となった最後の軍人である)。


1891年から1920年に生誕した者



  • 岸信介(きし のぶすけ、en:Nobusuke Kishi)


明治29年(1896年)生。大正9年(1920年)農商務省入省。昭和6年(1931年)重要産業統制法を起案実施。満州国にて満州産業開発五カ年計画を実施。

外相・首相として、日米安保条約の改定を断行(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約、en:Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan)。



  • 松本俊一(まつもと しゅんいち)

明治30年(1897年)生。大正10年(1921年)外務省入省。外務次官・駐英大使。鳩山一郎首相から日ソ交渉全権代表に起用され、昭和30年(1955年)6月からロンドンにおけるソ連側全権代表ヤコフ・マリク駐イギリス大使との会談で日ソ国交回復及び日本の国際連合(en:United Nations、fr:Organisation des Nations unies、de:Vereinte Nationen、es:Organización de las Naciones Unidas、zh:联合国、ru:Организация Объединённых Наций、ar:الأمم المتحدة)加盟への道を開く。


  • 加瀬俊一(かせ しゅんいち、通称「大加瀬」)

明治30年生(1897年)生。大正9年(1920年)外務省入省。昭和19年(1944年)から中立国スイス駐在公使に就任し、ドイツ敗戦後、和平工作を試み、ポツダム宣言(en:Potsdam Declaration、zh:波茨坦公告)受諾の正式な通知を連合国代表に対して行う。駐メキシコ大使・駐西独大使。


  • 杉原千畝(すぎはら ちうね、en:Chiune Sugihara)


明治33年(1900年)生。大正8年(1919年)外務省官費留学生としてハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。大正13年(1924年)外務省に書記生として採用。


第二次世界大戦期の在カウナス(リトアニア)日本領事館領事代理として、訓令に反し約6000人のユダヤ人避難民に通過査証を発行し救う。



  • 佐藤栄作(さとう えいさく、en:Eisaku Satō)

明治34年(1901年)生。内閣総理大臣(1964年-1972年)として日韓基本条約批准、非核三原則提唱、沖縄返還をなし遂げる。1974年にノーベル平和賞を受賞したが、死後に核持ち込みの密約が発覚する。内閣官房長官、郵政大臣、建設大臣、大蔵大臣、通産大臣などを歴任。


  • 白洲次郎(しらす じろう)

明治35年(1902年)生。大正8年(1919年)イギリス留学。戦後、吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。貿易庁長官・サンフランシスコ講和会議全権団顧問・外務省顧問。


  • 加瀬俊一(かせ としかず、通称「小加瀬」)

明治36年(1903年)生。大正14年(1925年)外務省入省。松岡洋右の国際連盟脱退時及び日ソ中立条約締結時に随行。アジア・アフリカ会議に外相代理として出席。昭和30年(1955年)初代国際連合(en:United Nations)大使。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞に向け積極的なロビー活動を行う。


  • 福田赳夫(ふくだ たけお、en:Takeo Fukuda)


明治38年(1905年)生。昭和5年(1930年)大蔵省入省。在英日本大使館勤務。汪兆銘政権の財政顧問。

首相として中国へのODA開始、積極的な東南アジアへの開発援助、福田ドクトリン(東南アジア外交三原則)の発表(昭和52年(1977年))を行う。外務大臣・内閣総理大臣。



  • 渡辺武(わたなべ たけし)

明治39年(1906年)生。昭和5年(1930年)大蔵省入省。終戦連絡部長(後の渉外部長)。昭和24年(1949年)初代の財務官。昭和27年(1952年)駐米公使。昭和31年(1956年)国際通貨基金兼世界銀行理事として外資の借入れ交渉や対日融資の増加に尽力。昭和41年(1966年)から昭和47年(1972年)まで初代のアジア開発銀行総裁。


  • 下田武三(しもだ たけぞう)

明治40年(1907年)生。昭和6年(1931年)外務省入省。ポツダム宣言の翻訳、沖縄返還、日米繊維交渉など、日米交渉に深く関与する。外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。


  • 牛場信彦(うしば のぶひこ)


明治42年(1909年)生。昭和7年(1932年)外務省入省。戦時中は革新派の外交官として知られ、英国の仲介で日中戦争の収拾に当たった宇垣一成外相の方針に反発する。

戦後は、外務事務次官に就任。退官後、駐米大使として沖縄返還交渉、日米繊維摩擦交渉に当たる。福田赳夫改造内閣の対外経済担当大臣として欧米との経済摩擦の緩和に奔走する。



  • 今井善衛(いまい ぜんえい)


大正2年(1913年)生。昭和12年(1937年)商工省入省。駐米大使館書記官・通商産業省通商局長・通産事務次官。GATT11条国への移行(国際収支上の理由で貿易制限ができなくなる。)、国際通貨基金(IMF)8条国への移行(国際収支上の理由で為替制限ができなくなる。)、OECD加盟(資本自由化)、国内市場開放が問題となっていた高度経済成長期に「国際派」「自主調整派」として早期の市場の自由化を唱える。


  • 高橋展子(たかはし のぶこ)



大正5年(1916年)生(女性)。1947年労働省入省。国際労働機関(ILO)事務局長補(1976年-1978年)、1980年、日本初の女性大使として駐デンマーク大使、同年7月17日「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に日本を代表して署名する。

en:Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination Against Women

fr:Convention sur l'élimination de toutes les formes de discrimination à l'égard des femmes

es:Convención sobre la Eliminación de Todas las Formas de Discriminación contra la Mujer

ru:Конвенция о ликвидации всех форм дискриминации в отношении женщин

ar:اتفاقية القضاء على جميع أشكال التمييز ضد المرأة

zh:消除對婦女一切形式歧視公約



  • 澄田智(すみた さとし)


大正5年(1916年)生。昭和15年(1940年)大蔵省入省。駐フランス大使館勤務。大蔵事務次官・日本輸出入銀行総裁・日本銀行総裁。日銀総裁としてプラザ合意(en:Plaza Accord、zh:广场协议)後の急激な円高に対応する。


  • 中曽根康弘(なかそね やすひろ、en:Yasuhiro Nakasone)

大正7年(1918年)生。昭和16年(1941年)内務省入省、海軍主計中尉任官。科学技術庁長官・運輸大臣・防衛庁長官・通商産業大臣・内閣総理大臣等を歴任。昭和58年(1983年)の第9回先進国首脳会議(ウィリアムズバーグ・サミット)で、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否かが議論になり、米(ロナルド・レーガン、en:Ronald Reagan、zh:罗纳德·里根)・英(マーガレット・サッチャー、en:Margaret Thatcher、zh:玛格丽特·撒切尔)と、その他の参加国で見解が分かれた際、中曽根が「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン(fr:François Mitterrand、zh:弗朗索瓦·密特朗)大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」と発言し、共同声明を主導した。


  • 大河原良雄(おおかわら よしお)

大正8年(1919年)生。昭和17年(1942年)外務省入省。駐豪大使、駐米大使(1980年-1985年)。蜜月だった中曽根康弘首相とロナルド・レーガン米国大統領の「ロン・ヤス関係」を裏方で支える[7]。世界平和研究所(現、中曽根康弘世界平和研究所)理事長。


  • 両角良彦(もろずみ よしひこ)

大正8年(1919年)生。昭和16年(1941年)商工省入省。駐フランス大使館書記官・通産事務次官。佐橋滋とともに、貿易自由化・資本自由化に対応するため国内産業の合理化を目的とする特定産業振興臨時措置法案(未成立)を推進する。


  • 宮澤喜一(みやざわ きいち)

大正8年(1919年)生。昭和17年(1942年)大蔵省入省。サンフランシスコ講和会議全権随員。経済企画庁長官・通商産業大臣・外務大臣・内閣官房長官・大蔵大臣・初代財務大臣・内閣総理大臣等を歴任。宮澤内閣においてPKO協力法を成立させ、自衛隊カンボジア派遣を実施する。


1921年から1940年に生誕した者



  • 山下英明(やました えいめい)


大正12年(1923年)生。昭和18年(1943年)商工省入省。戦後、駐カナダ大使館書記官。通産省通商局長として日米繊維交渉を決着させる。通産事務次官として第一次オイルショックに対応。


三井物産副社長としてイラン革命(1979年、en:Iranian Revolution、fa:انقلاب ۱۳۵۷ ایران、ar:الثورة الإسلامية الإيرانية、zh:伊朗伊斯蘭革命)、イラン・イラク戦争(1980年-1988年、en:Iran–Iraq War、fa:جنگ ایران و عراق、ar:حرب الخليج الأولى、zh:两伊战争)によるイラン・ジャパン石油化学事業(IJPC)からの撤退を決断する。



  • 緒方貞子(おがた さだこ)


昭和2年(1927年)生(女性)。国連日本政府代表部特命全権公使・国連人権委員会日本政府代表。平成3年(1991年)から平成12年(2000年)まで国連難民高等弁務官。犬養毅の曾孫、芳澤謙吉の孫。


  • 赤松良子(あかまつ りょうこ)

昭和4年(1929年)生(女性)。1953年労働省入省。1979年国連日本政府代表部公使、1983年初代婦人局長、1985年男女雇用機会均等法の制定に尽力。1986年駐ウルグアイ大使、文部大臣(1993年-1994年、細川内閣、羽田内閣)。


  • 明石康(あかし やすし)

昭和6年(1931年)生。昭和32年(1957年)国連採用。昭和49年(1974年)外務省入省。国連事務次長。平成4年(1992年)国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表。平成6年(1994年)旧ユーゴ問題担当事務総長特別代表として国際連合保護軍(UNPROFOR)の最高指揮権を付与される。


  • 小和田恒(おわだ ひさし)

昭和7年(1932年)生。昭和30年(1955年)外務省入省。国連大使・外務事務次官。コロンビア大学・ニューヨーク大学などで国際法の客員教授。国際司法裁判所(en:International Court of Justice、fr:Cour internationale de justice、es:Corte Internacional de Justicia、zh:国际法院)判事・所長。皇太子妃雅子の父。


  • 片倉邦雄(かたくら くにお)

昭和8年(1933年)生。昭和35年(1960年)外務省入省。中近東アフリカ局第二課長、駐アラブ首長国連邦大使(1986年-1989年)、駐イラク大使(1990年-1991年)、駐エジプト大使(1994年-1997年)。駐イラク大使在任時、イラクのクウェート侵攻が勃発し、湾岸戦争(「人間の盾」作戦)に際して人質にされた在留邦人の解放に尽力する。『JAPAN and the MIDDLE EAST』(英文、共著、1994年、中東調査会)、『アラビスト外交官の中東回想録』(2005年、明石書店)著。


  • 堀田力(ほった つとむ)

昭和9年(1934年)生。昭和36年(1961年)検事任官。昭和47年(1972年)在米大使館一等書記官。東京地検特捜部検事としてロッキード事件を捜査、米国での嘱託尋問を担当し、起訴後公判検事として田中角栄元首相に論告求刑をする。


  • 佐藤ギン子(さとう ぎんこ)

昭和9年(1934年)生(女性)。1958年、労働省入省。1986年婦人局長、ケニア大使(1991年-1995年)、1998年証券取引等監視委員会委員長、2003年日立製作所取締役。


  • 棚橋祐治(たなはし ゆうじ)

昭和9年(1934年)生。昭和33年(1958年)通商産業省入省。産業政策局長として日米構造協議(1989-90年)を担当。通産事務次官。


  • 福田博(ふくだ ひろし)

昭和10年(1935年)生。昭和35年(1960年)外務省入省。条約局長・外務審議官(政務担当)・最高裁判所判事。


  • 松浦晃一郎(まつうら こういちろう)

昭和12年(1937年)生。昭和34年(1959年)外務省入省。駐仏大使・国際連合教育科学文化機関(en:UNESCO、zh:联合国教育、科学及文化组织)事務局長。


  • 柳井俊二(やない しゅんじ)

昭和12年(1937年)生。昭和36年(1961年)外務省入省。条約局長・初代の総合外交政策局長・事務次官・駐米大使。国際海洋法裁判所(en:International Tribunal for the Law of the Sea、fr:Tribunal international du droit de la mer、de:Internationaler Seegerichtshof、es:Tribunal Internacional del Derecho del Mar、zh:国际海洋法法庭)判事・裁判所長。


  • 丹羽宇一郎(にわ ういちろう)


昭和14年(1939年)生。伊藤忠商事株式会社社長(1998年-2004年)・会長(2004年-2010年)を務めた後、民主党政権下の中華人民共和国大使(2010年-2012年)。

「ワシントン・コンセンサス」に対し、「1989年のベルリンの壁崩壊後、社会主義の敗北が明らかになって以降、IMF、世界銀行および米国財務省の間で広く合意された米国流の新古典派対外経済戦略で、「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」を世界中に広く輸出し、米国主導の資本主義を押し広げようとする動きである」と説明し、これに批判を加える[8]



  • 加藤紘一(かとう こういち)

昭和14年(1939年)生。昭和39年(1964年)外務省入省。中国課次席事務官・防衛庁長官・内閣官房長官・自由民主党幹事長。


  • 原田明夫(はらだ あきお)

昭和14年(1939年)生。昭和40年(1965年)東京地方検察庁検事任官。在米大使館一等書記官としてロッキード事件の捜査のため堀田力検事をサポートし、米側からの資料提供やロッキード社のコーチャン副会長の嘱託尋問を実現させる[9]。法務省刑事局総務課国際犯罪対策室長・検事総長。


1941年から1950年に生誕した者



  • 高村正彦(こうむら まさひこ)

昭和17年(1942年)生。第2次橋本内閣の外務政務次官、第1次安倍改造内閣の防衛大臣、小渕内閣、福田康夫内閣の外務大臣(1998年-1999年、2007年-2008年)。外務政務次官として在ペルー日本大使公邸占拠事件(1996年-1997年)に対処。その他経済企画庁長官・法務大臣等を歴任。自由民主党副総裁(2012年~)。


  • 武藤敏郎(むとう としろう)

昭和18年(1943年)生。昭和41年(1966年)大蔵省入省。在米大使館一等書記官。主計局長。最後の大蔵事務次官かつ初代の財務事務次官。日本銀行副総裁・株式会社大和総研理事長・学校法人開成学園理事長兼学園長・東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会事務総長。


  • 竹内行夫(たけうち ゆきお)

昭和18年(1943年)生。昭和42年(1967年)外務省入省。外務事務次官・最高裁判所判事。


  • 大島正太郎(おおしま しょうたろう)

昭和18年(1943年)生。昭和43年(1968年)外務省入省。経済局長、世界貿易機関(WTO)紛争解決機関議長・上級委員。


  • 谷内正太郎(やち しょうたろう)


昭和19年(1944年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。条約局長・総合外交政策局長・外務事務次官。外務事務次官として価値観外交を具体化した政策「自由と繁栄の弧」を立案・推進。平成26年(2014年)初代の国家安全保障局長。


北朝鮮核・ミサイル問題に関する日米首脳会談(2018年4月17日)、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談(同月27日)に先立ち、同月12日、米国のジョン・ボルトン国家安全保障担当大統領補佐官と協議を行う。さらに、南北首脳会談後、米朝首脳会談に先立ち、ボルトンと会談し、北朝鮮が持つ生物・化学兵器を含む全ての大量破壊兵器とあらゆる弾道ミサイルの完全な放棄に向けて韓国を含む3カ国による連携を続けることで一致する[10]

2018年6月10日、金杉憲治外務省アジア大洋州局長とともに、同月12日の米朝首脳会談の情報収集のためにシンガポールに派遣される[11]



  • 黒田東彦(くろだ はるひこ、en:Haruhiko Kuroda)

昭和19年(1944年)生。昭和42年(1967年)大蔵省入省。昭和44年(1969年)オックスフォード大学留学。国際通貨基金派遣職員・国際金融局長・国際局長(初代)・財務官。平成17年(2005年)アジア開発銀行総裁。平成25年(2013年)日本銀行総裁。日銀総裁として大胆な金融緩和とマイナス金利の導入を実施。


  • 岡本行夫(おかもと ゆきお)

昭和20年(1945年)生。昭和43年(1968年)外務省入省。北米局安全保障課長。退官後、株式会社岡本アソシエイツ設立、内閣総理大臣補佐官、内閣官房参与、内閣総理大臣外交顧問。


  • 明石美代子(あかし みよこ)

昭和21年(1946年)生(女性)。昭和46年(1971年)専門職として外務省入省。2008年、女性専門職からの初の大使として、駐リトアニア大使(初代)に就任(~2012年)。


  • 田中均(たなか ひとし)

昭和22年(1947年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。アジア大洋州局長・外務審議官。2002年の日朝首脳会談(第1次小泉内閣)を実現に導く。日本総合研究所・国際戦略研究所理事長。


  • 天野之弥(あまの ゆきや)


昭和22年(1947年)生。昭和47年(1972年)外務省入省。在ウィーン国際機関日本政府代表部大使、国際原子力機関(IAEA、en:International Atomic Energy Agency)事務局長(2009年~)。


北朝鮮核・ミサイル問題に関する日米首脳会談、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月9日、IAEA事務局長として、河野太郎外相と会談を行い、北朝鮮の核兵器の「完全、検証可能かつ不可逆的な廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)に向けた、IAEAによる検証体制の重要性とその構築方法について協議する。

2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領がイラン核合意(JCPOA)離脱を表明したことを受け、同月9日、IAEA事務局長として、同大統領がIAEAによる査察が不十分であると指摘してきたことに反論し、イランが世界で最も厳しい査察を受けていると強調し、同日時点までイランは同合意を履行しているとの声明を出す[12]。同月14日、プーチンロシア大統領とイラン核合意の継続に向けて協議する[13]



  • 藤崎一郎(ふじさき いちろう)

昭和22年(1947年)生。昭和44年(1969年)外務省入省。駐米大使(2008年-2012年)。2018年5月、ドナルド・トランプ米国政権の保護主義的主張に対し、日本が中国と組む選択肢はあるかとの質問に対し、「ない。中国は多くの政府系企業を抱え、政府調達は透明性を欠く。WTO(世界貿易機関)体制の最大の受益者でありながら、知的財産権の規律も不十分だ。日米の方が自由経済という意味ではるかに近い。」と発言する[14]。高祖父は伊藤博文。父は駐オランダ大使、駐タイ大使、最高裁判事等を歴任した外交官藤崎萬里。


  • 薮中三十二(やぶなか みとじ)

昭和23年(1948年)生。大阪府立住吉高等学校卒業。大阪大学法学部を中退し、昭和44年(1969年)に専門職員として外務省入省後、上級職試験を受け直し、翌年上級職となる。昭和62年(1987年)から3年間北米局北米第二課長として日米の経済関係、日米構造協議を担当する。外務事務次官。


  • 北岡伸一(きたおか しんいち)

昭和23年(1948年)生。平成16年(2004年)外務省へ出向、国際連合日本政府代表部次席代表・特命全権大使。G4案による国連安保理改革を推進。東京大学大学院法学政治学研究科教授(日本政治外交史)。


  • 鈴木庸一(すずき よういち)

昭和25年(1950年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。駐フランス大使(2013年-2016年)。日本・EU経済連携協定(EPA)首席交渉官(2017年~)として、投資家対国家の紛争解決(ISDS、en:Investor-state dispute settlement)等の取扱いを交渉する。


1951年から1955年に生誕した者



  • 小松一郎(こまつ いちろう)

昭和26年(1951年)生。昭和47年(1972年)外務省入省。国際法局長・駐フランス大使。平成25年(2013年)内閣法制局長官(第2次安倍内閣)として、日本国憲法第9条に関し集団的自衛権の行使の可否の解釈の見直しに積極的に着手。


  • 梅本和義(うめもと かずよし)

昭和26年(1951年)生。昭和52年(1977年)東京大学大学院理学系研究科修士課程数学専門課程を修了し、外務省入省。北米局長(2009年-2011年)、駐スイス大使(兼駐リヒテンシュタイン大使(2011年-2012年))、国連大使(2013年-2014年)、駐イタリア大使(兼駐アルバニア、駐サンマリノ、駐マルタ大使(2014年-2017年)、米国離脱後の環太平洋経済連携協定(TPP11、『包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定』、en:Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership、CPTPP)の首席交渉官(2017年~)。


  • 佐々江賢一郎(ささえ けんいちろう)

昭和26年(1951年)生。昭和49年(1974年)外務省入省。アジア大洋州局長・外務事務次官・駐米大使(2012年~2018年)。


  • 鶴岡公二(つるおか こうじ)

昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。平成20年(2008年)国際法局長、平成22年(2010年)総合外交政策局長、平成25年(2013年)TPP(en:Trans-Pacific Partnership、fr:Accord de partenariat transpacifique、es:Acuerdo Transpacífico de Cooperación Económica、vi:Hiệp định Đối tác xuyên Thái Bình Dương、ms:Perjanjian Perkongsian Trans-Pasifik)政府対策本部主席交渉官。駐英大使(2016年~)。


  • 齋木昭隆(さいき あきたか)

昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。アジア大洋州局長(2008年-2011年)、駐インド大使(2011年-2012年)、外務事務次官(2013年-2016年)。三菱商事株式会社顧問・取締役(2017年~)。


  • 木寺昌人(きてら まさと)

昭和27年(1952年)生。昭和51年(1976年)外務省入省。フランス語研修を受ける。国際協力局長、駐中国大使(2012年-2016年)、駐フランス大使(2016年~)。


  • 別所浩郎(べっしょ こうろう)

昭和28年(1953年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。2007年初代国際協力局長、2008年総合外交政策局長、駐韓国大使(2012年-2016年)、国際連合日本政府常駐代表(国連大使、2016年~)。


  • 杉山晋輔(すぎやま しんすけ)

昭和28年(1953年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。外務事務次官(2016年-2018年)、駐米大使(2018年~)。


  • 奥田紀宏(おくだ のりひろ)

昭和28年(1953年)生。昭和50年(1975年)外務省入省。アラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第二課長、駐アフガニスタン大使(2004年-2006年)、中東アフリカ局長(2006年-2008年)、駐エジプト大使(2010年-2013年)、駐サウジアラビア大使(2015年~2017年)。


  • 石井正文(いしい まさふみ)

昭和29年(1954年)頃生。昭和54年(1979年)外務省入省。国際法局長(2013年‐2014年)、駐ベルギー大使(2014年‐2017年)、駐インドネシア大使(2017年~)。


  • 片上慶一(かたかみ けいいち)

昭和29年(1954年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。駐ガーナ大使。平成23年(2011年)大臣官房審議官兼経済局・経済外交担当大使として環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)締結に向けた交渉にあたる。平成26年(2014年)欧州連合日本政府代表部特命全権大使。平成29年(2017年)TPP政府対策本部主席交渉官。駐イタリア大使(2017年~)。


  • 鈴木敏郎(すずき としろう)

昭和29年(1954年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。アラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第一課長(1995年-1998年)。2004年、湾岸戦争以来13年ぶりとなる駐イラク大使に就任。中東アフリカ局長(2008年-2010年)。2010年、駐シリア大使に就任するが、シリア騒乱に関連して、2012年6月29日、シリア政府よりペルソナ・ノン・グラータの指定を受け解任される。駐エジプト大使(2013年-2014年)、駐デンマーク大使(2016年~)。


  • 山田文比古(やまだ ふみひこ)

昭和29年(1954年)生。昭和55年(1980年)外務省入省。平成24年(2012年)東京外国語大学世界言語社会教育センター教授。主著、『フランスの外交力-自主独立の伝統と戦略』(集英社新書、2005年)、『外交とは何か-パワーか?/知恵か?』(法律文化社、2015年)。


  • 安倍晋三(あべ しんぞう)


昭和29年(1954年)生。内閣総理大臣(2006年-2007年、2012年~)。2007年日米豪印戦略対話(en:Quadrilateral Security Dialogue)を提唱。2016年8月にアフリカ開発会議(TICAD、en:Tokyo International Conference on African Development、 fr:Conférence internationale de Tokyo sur le développement de l'Afrique)において成長著しいアジアと潜在力の高いアフリカを重要地域と位置付け、両者の連結性を高める「自由で開かれたインド太平洋戦略」(en:Free and Open Indo-Pacific Strategy)を提唱(2018年11月、中国の警戒を緩和し、ASEAN諸国の賛同を得やすくするため「インド太平洋構想(Vision)」と名称を修正する[15]。)。

北朝鮮の核・ミサイル問題に関する米朝首脳会談に先立ち、2018年4月17日ドナルド・トランプ米国大統領と会談を行い、北朝鮮の核・ミサイルの「完全、検証可能かつ不可逆的な方法での廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement/Denuclearization)を目指す方針を確認し、非核化実現へ最大限の圧力を維持することで一致する[16]。同年5月11日、国際原子力機関(IAEA)による査察が行われる場合、日本が応分の費用を負担する考えを示す[17]。なお、当該費用負担が、短・中距離弾道ミサイルの廃棄、拉致問題の解決などを条件とするものであるか、報道内容からは不明である。

2018年5月28日、米朝首脳会談(6月12日開催)を前に、トランプ米国大統領との電話協議で、北朝鮮の核兵器に加え、生物・化学兵器と弾道ミサイル計画の完全かつ恒久的な廃棄を目指すことを確認する[14]

2018年7月1日、ベルギーのブリュッセルに、北大西洋条約機構(NATO、en:North Atlantic Treaty Organization、fr:Organisation du traité de l'Atlantique nord)日本政府代表部を開設する。

2018年10月、アジア欧州会合(ASEM、en:Asia–Europe Meeting、fr:Dialogue Asie-Europe、zh:亚欧会议)首脳会議に出席する。議長声明は、トランプ米政権の単独行動主義を念頭に、世界貿易機関(WTO)を中心とするルールに基づく多国間の貿易システムを守ることを強調するとともに、北朝鮮に対し全ての核兵器・関連施設の「完全かつ検証可能で不可逆な解体」を求める[18]

2018年10月26日、中国を訪問、習近平国家主席と会談し、「競争から協調へ」、「お互いパートナーとして脅威にならない」、「自由で公正な貿易体制の発展」の3原則を確認する[19]

2018年11月14日、東アジアサミット(en:East Asia Summit、zh:东亚峰会)・ASEAN関連首脳会議出席のため訪問したシンガポールにおいて、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と会談し、歯舞、色丹2島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言を基礎として、平和条約締結交渉を加速させることで合意する[20]



  • 八木毅(やぎ たけし)

昭和29年(1954年)生。昭和52年(1977年)外務省入省。ドイツ語研修を受ける。駐インド大使(2012年-2015年)、駐ドイツ大使(2015年~)。


  • 横井裕(よこい ゆたか)

昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。駐中国公使・駐トルコ大使(2013年-2016年)・駐中国大使(2016年~)


  • 小林弘裕(こばやし ひろやす)

昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。カイロでアラビア語研修を受ける。中東アフリカ局第一課長。2004年から自衛隊イラク派遣で派遣されていた陸上自衛隊サマーワ宿営地内にあるサマーワ外務省連絡事務所長を務める。駐ボツワナ大使(2011年-2014年)、駐イラン大使(2015年~)。


  • 大江博(おおえ ひろし)

昭和30年(1955年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。防衛省防衛政策局次長・駐パキスタン大使。平成25年(2013年)TPP政府対策本部主席交渉官代理、平成28年(2016年)TPP政府対策本部主席交渉官。平成29年(2017年)経済協力開発機構代表部大使。


  • 小原雅博(こはら まさひろ)

昭和30年(1955年)生。昭和55年(1980年)外務省入省。平成27年(2015年)東京大学大学院法学政治学研究科教授(現代日本外交)。主著『東アジア共同体』(日本経済新聞社、2005年)、『国益と外交』(日本経済新聞社、2007年)、『日本走向何方』(中信出版社、2009年)、『境界国家論』(時事通信社、2012年)、『チャイナ・ジレンマ』(ディスカバー21、2012年)、『日本の国益』(講談社現代新書、2018年)。


  • 茂木敏充(もてぎ としみつ)


昭和30年(1955年)生。ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。外務副大臣(2002年-2003年)、経済産業大臣(2012年-2014年)。経済財政政策担当大臣(2017年~)として2017年TPP11(『包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定』、CPTPP、en:Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership、zh:跨太平洋夥伴全面進展協定)の閣僚交渉を担当、2018年3月署名(同年12月30日、まず日本、メキシコ、カナダ、オーストラリア、シンガポール、ニュージーランドの6カ国で発効する[21]。他の締約国は、ベトナム、ペルー、マレーシア、チリ、ブルネイ。さらに、タイ、イギリス、コロンビア、台湾が参加を検討している。)。

2018年8月以降、TTPを離脱したドナルド・トランプ米国政府との新たな閣僚級貿易協議(FFR、Free, Fair and Reciprocal)、物品貿易協定(TAG、 en:Trade Agreement for Goods)交渉を担当する。カウンターパートは、ロバート・ライトハイザーUSTR代表。



1956年から1960年に生誕した者



  • 上月豊久(こうづき とよひさ)

昭和31年(1956年)生。昭和55年(1980年)外務省入省。駐英大使館一等書記官(1994年-1997年)、駐露大使館一等書記官・参事官(1997年-2000年)、欧州局ロシア課長(2002年-2004年)、駐露公使(2008年-2010年)、欧州局長(2012年-2014年)、駐ロシア大使(2015年~)。


  • 平松賢司(ひらまつ けんじ)

昭和31年(1956年)生。昭和54年(1979年)外務省入省。総合外交政策局長(2012年-2015年)、駐インド大使(2015年~)。


  • 上村司(うえむら つかさ)

昭和32年(1957年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。在シリア日本国大使館外交官補としてアラビア語研修を受ける。2003年駐イラク大使館参事官。中東アフリカ局長(2014年-2017年)、駐サウジアラビア大使(2017年~)。


  • 香川剛廣(かがわ たけひろ)

昭和32年(1957年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。エジプトでアラビア語研修を受ける。中近東アフリカ局中近東第一課長、駐エジプト大使(2014年~)。


  • 岸田文雄(きしだ ふみお)


昭和32年(1957年)生。広島平和記念公園、広島平和記念資料館などが所在する広島県第1区選出の衆議院議員。外相として、平成28年(2016年)4月、広島で開催されたG7外相サミットの議長を務め、他のG7外相と共に広島平和記念公園、広島平和記念資料館の訪問、原爆死没者慰霊碑に献花を実現。同年5月、バラク・オバマ(en:Barack Obama、zh:贝拉克·奥巴马)米国大統領広島訪問を実現。


ドナルド・トランプ(en:Donald Trump、zh:唐納·川普)米国大統領がTPPの批准を拒絶し、欧州連合からのイギリス脱退(en:Brexit、zh:英國脫離歐盟)の交渉が行われ、保護貿易主義への潮流が世界的に強まる中、平成29年(2017年)相互の関税の意欲的な引下げ等による自由貿易主義の牽引を目指し、欧州連合(EU、en:European Union、fr:Union européenne、de:Europäische Union、es:Unión Europea、ru:Европейский союз、zh:欧洲联盟、tr:Avrupa Birliği、ar:الاتحاد الأوروبي、fa:اتحادیه اروپا)との日本・EU経済連携協定(EPA)につき、セシリア・マルムストローム(en:Cecilia Malmström)欧州委員(貿易担当)等との閣僚交渉を担当。

2017年7月、持続可能な開発目標(SDGs、en:Sustainable Development Goals、fr:Objectifs de développement durable、es:Objetivos de Desarrollo Sostenible、zh:可持续发展目标)の達成に向けた総額10億ドル規模の支援を国連本部において表明する。

平成24年(2012年)12月から連続4年7か月に亘る外務大臣在任期間は内田康哉(通算7年5ヶ月、連続4年11ヶ月)・吉田茂(通算5年2ヶ月、連続3年6ヶ月)に次ぐ。外相として訪問した国・地域は51であり、河野太郎に次ぐ[22][23]



  • 奥克彦(おく かつひこ、en:Katsuhiko Oku)


昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。オックスフォード大学ハートフォード・カレッジにて在外研修。日本ラグビーフットボール協会総務委員会委員。在米国大使館一等書記官・経済局国際経済第一課長・総合外交政策局国連政策課長・在英大使館参事官等を歴任。


井ノ上正盛とともに、イラク復興支援に尽力中の平成15年(2003年)11月にイラク日本人外交官射殺事件で殉職(享年45)。死後、従四位に叙され、旭日中綬章授与、大使に特進。


奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団、奥・井ノ上イラク子ども基金に名を冠され、両名の功績が称えられている。



  • 石兼公博(いしかね きみひろ)

昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。ASEAN政府代表部大使(2012年-2014年)、駐カナダ大使兼国際民間航空機関代表部大使(2017年~)。


  • 山田彰(やまだ あきら)

昭和33年(1958年)生。昭和56年(1981年)外務省入省。スペイン語研修を受ける。中南米局長(2012年-2014年)、駐メキシコ大使(2014年-2017年)、駐ブラジル大使(2017年~)。


  • 星野俊也(ほしの としや)

昭和34年(1959年)生。平成18年(2006年)国連日本政府代表部公使参事官、平成29年(2017年)国連日本政府代表部大使。国際政治学者(専門は安全保障論・国連研究)。日本で模擬国連の活動を開始したことでも知られる。


  • 平田竹男(ひらた たけお)

昭和35年(1960年)生。昭和57年(1982年)通商産業省入省。1987年、ハーバード大学J.F.ケネディスクールで行政学修士を取得。在ブラジル一等書記官。日本サッカー協会国際委員として2002年日韓W杯招致に携わる。日本サッカー協会専務理事、内閣官房東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部事務局長。


  • 佐藤優(さとう まさる)

昭和35年(1960年)生。昭和60年(1985年)ノンキャリアの専門職員として外務省入省後、在ロシア日本国大使館を経て国際情報局分析第一課主任分析官。鈴木宗男事件に絡む背任容疑で逮捕されるが、2009年に失職するまで「起訴休職外務事務官」を自称。失職後は多数の書籍を出版し、2015年だけでも40冊を超える書籍(共著を含む)を出版している。


  • 小野寺五典(おのでら いつのり)


昭和35年(1960年)生。昭和58年(1983年)東京水産大学を卒業し、宮城県庁入庁。平成2年(1990年)‐平成7年(1995年)、松下政経塾研究生(第11期)。平成5年(1993年)東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。外務大臣政務官、外務副大臣、防衛大臣(2012年-2014年、2017年~)等を歴任。

2017年8月、北朝鮮核・ミサイル問題の緊張が高まる状況下、日米安全保障協議委員会(2プラス2)に出席し、米国が核兵器を含むあらゆる戦力で日本を防衛すること、等を共同発表する[24]

北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談、米朝首脳会談に先立つ、2018年4月20日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が(米国本土を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言したのに対し、マティス米国国防長官と会談し、(日本・グアム島を射程とする)短距離弾道ミサイル(SRBM)、中距離弾道ミサイル(IRBM)を含む、あらゆる弾道ミサイル計画の放棄を要求することを確認する[25]


ドナルド・トランプ米国大統領が、2018年6月12日の米朝首脳会談後、米韓軍事演習の中止や在韓米軍の将来的な撤退に言及したことに対し、同月14日、マティス米国国防長官に「在韓米軍は東アジアの安全保障に重要な役割を担っている。」と懸念を伝える(マティスは「(在韓米軍の)縮小は検討してない」と回答する。)[26]



  • 水鳥真美(みずとり まみ)

昭和35年(1960年)生(女性)。昭和58年(1983年)外務省入省。1986年スペイン外交官学校国際関係ディプロマ課程修了。総合外交政策局国連政策課長、同局安全保障政策課長、在英国日本国大使館公使、等を歴任。国際連合事務総長特別代表(防災担当、2018年~)。


1961年以降に生誕した者



  • 河野太郎(こうの たろう)


昭和38年(1963年)生。第150代外務大臣(平成29年(2017年)~)。ジョージタウン大学国際学部比較政治学専攻卒業。河野一郎の孫、河野洋平の子である。

外相として、2017年8月東南アジア諸国連合(ASEAN、en:Association of Southeast Asian Nations、zh:东南亚国家联盟、ko:동남아시아 국가 연합、fr:Association des nations de l'Asie du Sud-Est、ru:Ассоциация государств Юго-Восточной Азии、ar:أسيان、fa:انجمن ملل آسیای جنوب شرقی)関連外相会合・東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF、 en:ASEAN Regional Forum)に出席する。

2017年8月、北朝鮮核・ミサイル問題の緊張が高まる状況下、日米安全保障協議委員会(2プラス2、参加者河野外相、小野寺五典防衛相、ティラーソン国務長官、マティス国防長官)に出席し、米国が核兵器を含むあらゆる戦力で日本を防衛すること、尖閣諸島が米国の防衛義務の範囲であること、米国が最新鋭の能力を持つ次世代戦闘機等を日本に展開すること、日本が地上配備型迎撃システムの配備などで防衛能力を強化すること、を共同発表する[24]

2017年9月、共同議長として、第9回軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI、en:Non-Proliferation and Disarmament Initiative)外相会合を開催する。参加国(日本、オーストラリア、ドイツ、オランダ、ポーランド、カナダ、メキシコ、チリ、トルコ、UAE、ナイジェリア、フィリピン)。

2017年12月15日、北朝鮮核・ミサイル問題等を議論する国連安全保障理事会閣僚級会合の議長を務める。

2018年(平成30年)2月、ミュンヘン安全保障会議(MSC、en:Munich Security Conference、 de:Münchner Sicherheitskonferenz、 fr:Wehrkunde、 ru:Мюнхенская конференция по безопасности、 zh:慕尼黑安全会议)に出席する。


尖閣諸島国有化問題(zh:日本政府购买钓鱼岛事件)を契機に途絶えていた、8年ぶりとなる日中ハイレベル経済対話(zh:中日经济高层对话)を、2018年(平成30年)4月16日、河野が王毅中国外相と共同議長として開催し、自由貿易体制の重要性、並びに日中韓の自由貿易協定(FTA)及び東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnership、zh:区域全面经济伙伴关系协定)の締結に向けた協力を確認する[27]

北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談(2018年4月27日開催)、米朝首脳会談(2018年6月12日開催)に先立つ、2018年4月20日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が(米国本土を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言したのに対し、同月22日、主要7カ国(G7)外相会合において、北朝鮮に対し非核化が実現するまで最大限の圧力を維持する方針と、(日本・グアム島を射程とする)短距離弾道ミサイル(SRBM)、中距離弾道ミサイル(IRBM)を含む、全ての射程のミサイル、並びに核兵器、生物・化学兵器を含む大量破壊兵器の「完全、検証可能かつ不可逆的な方法による廃棄」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)を要求することを確認する[28]。さらに、2018年4月27日、南北首脳会談における板門店宣言を受け、全ての大量破壊兵器及びあらゆる射程の弾道ミサイルのCVIDに向けた具体的な行動を期待すると表明する[29]

抽象的な朝鮮半島の非核化の合意にとどまった米朝首脳会談後の、2018年6月14日の日米韓外相会談に際して、「完全かつ検証可能で不可逆的な方法で、全ての大量破壊兵器と弾道ミサイルを廃棄することが重要だ」と述べるとともに、拉致・核・ミサイルの問題が包括的に解決できれば、北朝鮮との国交を正常化する意向を示す[30]

外相として訪問した国・地域は55に達し、歴代最多である[31]



  • 中満泉(なかみつ いずみ)

昭和38年(1963年)生(女性)。1989年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入所。旧ユーゴスラビア国連事務総長特別代表上級補佐官、UNHCR副高等弁務官特別補佐官、国連本部事務総長室国連改革チームファースト・オフィサー等を歴任。2017年から国連事務次長(軍縮担当上級代表、en:High Representative for Disarmament)。


  • 皇太子妃雅子(こうたいしひ まさこ)

昭和38年(1963年)生(女性)。昭和62年(1987年)外務省入省。旧姓小和田。ハーバード大学経済学部卒業。東京大学法学部に学士入学。旧外務公務員I種試験(外交官試験)に合格し、東京大学を中退し、外務省に入省。


  • 柴山昌彦(しばやま まさひこ)

昭和40年(1965年)生。外務大臣政務官(福田康夫改造内閣・麻生内閣)、国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官(第3次安倍内閣(改造))。自衛隊南スーダン派遣に際し、2016年と2017年に首相補佐官として内戦状態にあった南スーダンを視察訪問。


  • 岡井朝子(おかい あさこ)

昭和41年(1966年)生(女性)。平成元年(1989年)外務省入省。国際連合事務次長補兼国際連合開発計画危機対応局長(2018年~)。


  • 井ノ上正盛(いのうえ まさもり)


昭和48年(1973年)生。平成8年(1996年)専門職員として外務省入省。中近東アフリカ局中近東第一課配属。在シリア大使館・在チュニジア大使館・在ヨルダン大使館兼任イラク大使館員等歴任。在イラク三等書記官。


奥克彦とともにイラク復興支援中にイラク日本人外交官射殺事件で平成15年(2003年)11月殉職(享年30)。死後、従七位に叙され、旭日双光章受賞、一等書記官に特進。


奥・井ノ上記念日本青少年国連訪問団、奥・井ノ上イラク子ども基金に名を冠され、両名の功績が称えられている。



世界(日本以外)の著名な外交官一覧



紀元前1001年以前に生誕した者



  • ブルナ・ブリアッシュ2世 (en:Burna-Buriash II、 ar:بورنا بورياش الثاني)

紀元前1370年頃生。バビロニア(en:Babylonia、zh:巴比倫尼亞)の王(紀元前1359年-紀元前1333年)。アマルナ文書(en:Amarna letters)に含まれる外交書簡を、古代エジプトのアメンホテプ4世(イクナートン、 en:Akhenaten)に送る。この書簡の内容は、アッシリアのアッシュール・ウバリト1世 がアメンホテプ4世に書簡を送ったことについて、アッシリアは自らの臣下に過ぎないとして、相手にしないよう忠告するものである。


  • アッシュール・ウバリト1世 (en:Ashur-uballit I、 ar:آشور أوباليط الأول、 fa:آشوراوبالیت یکم)


紀元前1370年頃生。アッシリア(en:Assyria、zh:亚述)の王(紀元前1365年-紀元前1330年)。アマルナ文書(en:Amarna letters)に含まれる外交書簡を、エジプトのアメンホテプ4世(イクナートン、 en:Akhenaten)に送る。


アッシリア(紀元前2500年頃-紀元前609年)は、アッシュール・ウバリト1世の頃から勢力を伸長し、紀元前10世紀の後半に、メソポタミアからエジプトを含むオリエント世界を統一し、史上初の世界帝国(新アッシリア帝国(紀元前911年-紀元前609年、 en:Neo-Assyrian Empire、 ar:الإمبراطورية الآشورية الحديثة、 fa:امپراتوری آشوری نو、 zh:新亚述帝国)となる。



  • アメンホテプ4世(イクナートン、 en:Akhenaten、 ar:أخناتون、zh:阿肯那顿)

紀元前1362年頃生。古代エジプトの王(紀元前1353年頃-紀元前1336年頃)。アマルナ文書(en:Amarna letters)に含まれる外交書簡を、アッシリアのアッシュール・ウバリト1世 とバビロニアのブルナ・ブリアッシュ2世 から受け取り、ブルナ・ブリアッシュ2世に外交書簡を送る。


  • ラムセス2世(en:Ramesses II、 ar:رمسيس الثاني、zh:拉美西斯二世)

紀元前1314年頃生。古代エジプトの王(紀元前1290年頃-紀元前1224年頃、又は紀元前1279年頃-紀元前1212年頃)。紀元前1286年頃、ヒッタイト帝国(紀元前16世紀-紀元前1180年、en:Hittites、zh:赫梯)とカデシュの戦いを行い、紀元前1269年、カデシュ平和条約(en:Egyptian–Hittite peace treaty、tr:Kadeş Antlaşması、zh:埃及赫梯和約)を締結する。これは世界初の平和条約であるとされる。


  • ソロモン(en:Solomon、he:שלמה、 ar:سليمان、tr:Süleyman、zh:所羅門)

紀元前1011年頃生。旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王(在位:紀元前971年-紀元前931年頃)。父はダビデ(en:David、he:דוד、 ar:داود、tr:Davud、zh:大衛王)。エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築く。


紀元前1000年から紀元前1年に生誕した者



  • 桓公 (斉) (かんこう、zh:齐桓公、en:Duke Huan of Qi)


紀元前710年頃生。中国春秋時代の斉国の君主。管仲を宰相として国力・軍事力・文化の向上に成功する。紀元前651年諸侯と会盟を執り行い、覇者となる。春秋五覇の筆頭に挙げられる。

中国(zh:中國・Zhōngguó)では夏(紀元前1900年頃-紀元前1600年頃、zh:夏朝、en:Xia dynasty)、殷(紀元前17世紀頃-紀元前1046年、zh:商朝、en:Shang dynasty)に続き周(紀元前1046年頃-紀元前256年、zh:周朝、en:Zhou dynasty)が華北の統一王朝とされるが、勢力を減じて周が東遷した紀元前770年から、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までを春秋時代と呼ぶ。



  • クレオメネス1世 (el:Κλεομένης Α΄ της Σπάρτης、en:Cleomenes I)


紀元前550年頃生。古代ギリシャスパルタ(el:Αρχαία Σπάρτη、en:Sparta)の王。紀元前6世紀末にペロポネソス同盟(el:Σπαρτιατική Συμμαχία、en:Peloponnesian League)を結成する。

他方、アケメネス朝ペルシアの脅威に備えて、紀元前478年に古代アテナイ(el:Αρχαία Αθήνα、 en:Classical Athens)を中心としてデロス同盟(el:Συμμαχία της Δήλου、 en:Delian League)が結成される。紀元前431年には両同盟によるペロポネソス戦争(el:Πελοποννησιακός Πόλεμος、 en:Peloponnesian War)が勃発し、紀元前404年、アテナイの敗北が決まるとデロス同盟は解散する。



  • アルタクセルクセス2世/アルダシール2世 (fa:اردشیر دوم、 el:Αρταξέρξης Β΄、 en:Artaxerxes II)


紀元前430年頃生。アケメネス朝ペルシャの王。紀元前387年、スパルタの外交官アンタルキダスとの間でアンタルキダスの和約(大王の和約)を締結する。


キュロス2世(en:Cyrus the Great、fa:کوروش بزرگ、zh:居鲁士二世)が創建したアケメネス朝(古代ペルシャ語ではハカーマニシュ朝、紀元前550年-紀元前330年、fa:شاهنشاهی هخامنشی、en:Achaemenid Empire、 el:Οίκος των Αχαιμενιδών、zh:阿契美尼德王朝)は、紀元前550年にメディア王国を滅ぼして独立し、さらにリュディア、新バビロニア等を滅ぼし、紀元前525年エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世(en:Darius I、fa:داریوش یکم、zh:大流士一世)の治世に始まったペルシャ戦争(紀元前499-紀元前449年、en:Greco-Persian Wars、zh:波希战争)ではギリシャの都市国家連合軍に敗れるが、その後も広大な版図(東はインダス川流域・ソグディアナから西はエジプト・バルカン半島・アナトリア半島に及ぶ。)の支配を続ける。しかし、アレクサンドロス大王(el:Αλέξανδρος ο Μέγας、 fa:اسکندر、 en:Alexander the Great、zh:亚历山大大帝)の大遠征により紀元前330年に滅亡する。アケメネス朝では、楔形文字で表記される古代ペルシア語のほか、アラム文字で表記されるアラム語が公用語として使用される。

なお、ヨーロッパ中心的な世界史観[32]では、アレクサンドロス帝国の下で、先進的なギリシャ文明が、オリエント・ペルシア文明に影響を与え、ヘレニズム文化が発展したかのように説明される[33]。しかし、この時点までの歴史の厚み[34] を考慮すれば、ギリシャ文明よりもオリエント・ペルシア文明の方が遥かに先進的であり、ギリシャ人がオリエント・ペルシア文明から多くを学んだと考える方が自然である[35]。ヘレニズム概念が西洋列強による世界進出が進んだ19世紀に考案されたことも勘案すれば[36]、今後、古代ギリシャ文明・ヘレニズム文化の生成過程については再検証が必要と思われる(そもそも紀元前700年頃から、紀元前499年に始まるイオニアの反乱まで、イオニア、ミレトスはリュディア・ペルシアの支配下にあった。また、例えば、哲学者・数学者のタレス(紀元前624年頃-紀元前546頃)はエジプトで学び、原子論のデモクリトス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)はペルシア・エジプトで学んでいる。医学の父とされる古代ギリシャのヒポクラテス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)はその生涯に不明な点が多く、オリエント・ペルシアで医学を学んだ等の仮説も考え得る。)。



  • アンタルキダス (el:Ἀνταλκίδας、en:Antalcidas)

紀元前400年頃生。古代ギリシャスパルタの外交官。紀元前387年、アケメネス朝ペルシア(fa:شاهنشاهی هخامنشی、en:Achaemenid Empire)のアルタクセルクセス2世との間でアンタルキダスの和約(大王の和約)を締結する。


  • 蘇秦 (そ しん、zh:苏秦、en:Su Qin)

紀元前350年頃生。中国戦国時代(紀元前403年-紀元前221年)の遊説家。張儀と並んで縦横家の代表人物。司馬遷の史記によれば、燕の文公に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟(合従)を成立させ、六国の宰相を兼任する。


  • 張儀 (ちょう ぎ、zh:张仪、en:Zhang Yi)

紀元前370年頃生。中国戦国時代の遊説家。魏の人。司馬遷の史記によれば、蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦(紀元前778年-紀元前206年、zh:秦国、en:Qin)の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、その後の秦の始皇帝(zh:秦始皇、en:Qin Shi Huang)による中国統一(紀元前221年)に貢献する。


  • 孟嘗君 (もうしょうくん、zh:孟尝君、en:Lord Mengchang)

紀元前330年頃生、中国戦国時代の斉国の公族・宰相。司馬遷の史記によれば、紀元前299年秦に招かれ、同国を表敬訪問する。しかし、孟嘗君がこのまま斉に帰国すると秦の脅威になるとして命を狙われるが、食客である盗みの名人、物真似の名人の協力で難を逃れる(『鶏鳴狗盗』)。


  • 楽毅 (がく き、zh:乐毅、en:Yue Yi)

紀元前320年頃生。中国戦国時代の燕国の武将。司馬遷の史記によれば、孟嘗君を宰相とし斉が最盛期を迎えていたが、孟嘗君が失脚した後の紀元前286年、楽毅は趙、魏、韓、秦と連合を形成し、斉軍を済西の戦いで破る。後に亡命し、「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」を記す。


  • 藺相如 (りん しょうじょ、zh:藺相如、en:Lin Xiangru)

紀元前315年頃生。中国戦国時代の趙の家臣。司馬遷の史記によれば、趙の宝物「和氏の璧」を巡り、強国秦が璧と自国の十五城との交換を申し出てきたため、使者として秦を訪れる。しかし、秦側に城を渡す気がないと判断したため、璧を完うして帰国する(『完璧』の語源)。勇将廉頗との信頼関係は『刎頸の交わり』、『刎頸の友』の語源となる。


  • 毛遂 (もう すい、zh:毛遂、en:Mao Sui)

紀元前300年頃生。中国戦国時代の趙(紀元前403年‐紀元前228年)の平原君の食客。司馬遷の史記によれば、紀元前259年、秦に趙の首都邯鄲が包囲されたため、楚の救援を求める必要が生じたときに、「嚢中の錐」の例を示して自薦し(毛遂自薦)、平原君らとともに楚に赴き、楚の考烈王との合従(同盟)に成功する。


  • 酈食其 (れき いき、zh:酈食其、en:Li Yiji)

紀元前268年生。中国秦から楚漢戦争期の儒者、説客。司馬遷の史記によれば、漢(zh:汉朝、en:Han dynasty)の劉邦に従う。紀元前203年大将軍韓信が斉攻略を進めているとき、酈食其は劉邦に進言して斉との和平交渉に臨み、斉の七十余城の帰順に成功する。しかし酈食其に功績を独占されることを恐れた韓信とその腹心の蒯通は、進軍停止命令がないことを理由に斉への攻略を継続した。そのため、和議の反故に怒った斉王田広に酈食其は煮殺されてしまう。


  • 蒯通 (かい とう、zh:蒯徹、en:Kuai Tong)

紀元前268年生。中国秦末から前漢初期にかけての説客。司馬遷の史記によれば、漢の大将軍韓信に従う。韓信が斉を平定した際、韓信を説いて劉邦に斉王即位を認めさせる。さらに、斉を地盤として独立し、劉邦(漢)、項羽(楚)に対抗する『天下三分の計』を韓信に進言する。しかし、韓信が悩んだ末、これを採用しなかったため、蒯通は後難を恐れて出奔する。


  • 冒頓単于 (ぼくとつ ぜんう、zh:冒顿、en:Modu Chanyu)

紀元前230年頃生。匈奴(紀元前4世紀-紀元後93年、zh:匈奴、en:Xiongnu)の単于(君主、在位:紀元前209年-紀元前174年)。紀元前200年、白登山の戦いで前漢の劉邦の親征軍を敗り、有利な講和を結び、モンゴル高原を中心とする中央ユーラシア東部に一大遊牧国家を築く。


  • 中行説 (ちゅうこう えつ、zh:中行说、en:Zhonghang Yue)

紀元前200年頃生。前漢前期の宦官。司馬遷の史記によれば、匈奴(紀元前4世紀‐紀元後93年、zh:匈奴、en:Xiongnu)に嫁ぐ女の守り役として使節への参加を強制され、「必ずや、私は漢にとって災いを為す者になるであろう」と言い残す。匈奴の老上単于の側近となり、漢への侵攻を唆す。


紀元後1年から1400年に生誕した者



  • 甘英 (かん えい、zh:甘英、en:Gan Ying)

70年頃生。後漢(25年-220年、zh:东汉、en:Eastern Han)の人。ローマに向けて派遣された中国の軍事大使。紀元97年、西域都護であった班超の命によって、当時大秦と呼ばれていたローマ帝国との国交を開く任務を託される。現在のシリアにあったとされる条支国、パルティア王国の西の国境まで到達したとされる。


  • マルクス・アウレリウス・アントニヌス (it:Marco Aurelio、en:Marcus Aurelius)

121年生。ローマ帝国(紀元前27年-紀元後1453年、la:Imperium Romanum、en:Roman Empire、zh:羅馬帝國)の皇帝(161年-180年)。パルティア(紀元前247年-紀元後224年、en:Parthian Empire、fa:شاهنشاهی اشکانی)との戦争(パルティア戦争)に勝利した際、中国の漢に使者を送り、後漢書に大秦国王安敦(アントン)と記される。


  • 諸葛亮 (しょかつ りょう、諸葛孔明(しょかつ こうめい)、zh:诸葛亮、en:Zhuge Liang)


181年生。蜀漢(221年-263年)を建国した劉備の軍師、蜀漢の丞相。208年、劉備軍と孫権軍を同盟させ、赤壁の戦いで曹操軍に勝利する。曹操の子曹丕が、後漢の献帝から禅譲を受けて魏(220年-265年)を建国すると、諸葛亮は劉備と蜀漢を建国し、孫権の呉(222年-280年)とともに「天下三分の計」を実現する。

227年の北伐にあたり上奏した「出師表」(すいしのひょう)は名文として有名である。



  • ユスティニアヌス1世 (la:Iustinianus I、en:Justinian I、zh:查士丁尼一世)


483年生。東ローマ帝国(395年-1453年)の皇帝(在位:527年-565年)。先に滅亡した西ローマ帝国(395年-476年)の、ローマを含む旧領土の多くを回復する。『ローマ法大全』(『勅法彙纂』、『学説彙纂』、『法学提要』及び『新勅法』から成る)を編纂する。


サーサーン朝ペルシアとの戦争では、532年と562年にホスロー1世との間で、東ローマ帝国に不利な講和条約を締結する。



  • 聖王 (百済) (せいおう、ko:성왕 (백제)、en:Seong of Baekje)

500年頃生。百済(4世紀前半-660年、ko:백제、en:Baekje)の王(523年-554年)。538年、倭国に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、経典などとともに仏教を伝える(仏教公伝)。


  • ホスロー1世 (fa:انوشیروان、en:Khosrow I、zh:霍斯劳一世)


510年頃生。サーサーン朝ペルシア(226年-651年、fa:شاهنشاهی ساسانی、en:Sasanian Empire、zh:萨珊王朝)の第21代君主(在位:531年-579年)。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世と戦い、562年にアンティオキアで東ローマ帝国軍を破って優位に立ち、和平条約を締結。突厥(tr:Göktürkler、en:Göktürks)西面の室点蜜と同盟し、567年までにエフタル(en:Hephthalite Empire、zh:嚈噠)を滅ぼす(en:Hephthalite–Persian Wars)。


ペルシア語(ファールシー語、Fārsī)は、サーサーン朝の滅亡後いったん衰退したが、サーマーン朝(873年-999年、fa:سامانیان、en:Samanid Empire)において行政言語、文学・歴史・哲学などの学術用語として使用され、以降もガズナ朝(955年-1187年、fa:غزنویان、en:Ghaznavids)、セルジューク朝(1038年-1306年、fa:سلجوقیان、tr:Selçuklular、en:Seljuq dynasty)、イルハン朝(1258年-1353年、fa:ایلخانان、en:Ilkhanate)、ティムール朝(1370年-1507年、fa:تیموریان、en:Timurid Empire)、サファヴィー朝(1507年-1736年、fa:صفویان、en:Safavid dynasty)、ムガル帝国(1526年-1858年、fa:گورکانیان、en:Mughal Empire)などの多くの国で公用語として使用され、19世紀前半まで中央アジア、インド亜大陸からメソポタミア、小アジアにかけて広大なペルシア語圏が成立し、ペルシア語は重要な国際共通語(リングワ・フランカ)であった。



  • 室点蜜 (しちてんみつ、tr:İstemi Yabgu、en:Istämi、zh:室点密)


510年頃生。突厥(552年-582年、tr:Göktürkler、en:Göktürks)の西面可汗もしくは葉護(ヤブグ:官名)。サーサーン朝のホスロー1世と同盟し、エフタルを挟撃し、これによりエフタル領であったシャシュ(石国)、フェルガナ(破洛那国)、サマルカンド等を占領する。

567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ(安国)等を占領する。この頃、室点蜜はサーサーン朝にソグド人使節団を派遣し、絹を売る許可を要求したが、ホスロー1世はこれを拒否し、使者を毒殺したため、突厥とサーサーン朝の関係は悪化する。

568年、室点蜜は東ローマ帝国にソグド人使節団を派遣し、エフタル攻滅の報告と、絹貿易の盟約をかわす。その使節団の帰路に東ローマ帝国の使節団が同行し、突厥の領土を見聞する。

582年、突厥は内紛により、東突厥(582年-745年)と西突厥(582年-741年)に分裂する。



  • 裴世清 (はい せいせい、zh:裴世清、en:Pei Shiqing)

570年頃生。推古天皇15年(607年)に小野妹子らの遣隋使の派遣に対し、翌推古天皇16年(608年)隋(581年‐618年、zh:隋朝、en:Sui dynasty)の煬帝の命令で答礼使として日本(倭国)に派遣される。


  • 高仙芝 (こう せんし、zh:高仙芝、en:Gao Xianzhi)

710年頃生。高句麗系の唐(618年-907年、zh:唐朝、en:Tang dynasty)の軍人。西域で活躍し、751年、タラス河畔の戦い(en:Battle of Talas、ar:معركة نهر طلاس、zh:怛罗斯战役)でアッバース朝(750年-1517年、ar:الدولة العباسية、en:Abbasid Caliphate)のイスラム軍と交戦し、敗れる。この戦いで捕虜となった者が製紙技術を中国から西方に伝える。


  • ウラジーミル1世(uk:Володимир Святославич、 ru:Владимир Святославич、 en:Vladimir the Great)


955年頃生。キエフ大公国の大公(在位:978年-1015年)。988年、貴族の反乱に悩む東ローマ皇帝バシレイオス2世に援軍を送る見返りに、帝妹アンナと結婚し、キエフ大公国の権威を上昇させるとともに、キリスト教を国教として導入し、当時最先端であったビザンツ文化を取り入れる。


キエフ大公国は、11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、1240年モンゴル来襲により事実上崩壊する(タタールのくびき)。



  • 秦檜 (しん かい、zh:秦桧、en:Qin Hui)

1091年生。南宋(1227年-1279年、en:Southern Song、zh:南宋)の宰相。金(1115年-1234年、en:Jin dynasty、zh:金朝)との講和を進め、1141年南宋にとって屈辱的な紹興の和議を結び、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺・平民へ落とし、その後も恐怖政治を敷く。後世、売国奴の代名詞となり蔑まれる。


  • サラーフッディーン(サラディン、 ckb:سەلاحەدینی ئەییووبی、 en:Saladin、 ar:صلاح الدين الأيوبي、zh:萨拉丁)

1137年頃生。エジプトのアイユーブ朝(1169年-1250年、 ar:الدولة الأيوبية、 en:Ayyubid dynasty)の始祖。クルド民族の英雄。1189年からイングランド王リチャード1世等による第3回十字軍と戦い、1192年休戦協定を締結する。


  • プラノ・カルピニ (it:Giovanni da Pian del Carpine)

1182年生。イタリア・ヴェネツィア共和国(it:Repubblica di Venezia、en:Republic of Venice、zh:威尼斯共和国)の修道士。1241年モンゴル帝国(1206年-1634年、 en:Mongol Empire、 mn:Их Монгол улс、 de:Mongolisches Reich、 ru:Монгольская империя、 zh:蒙古帝国、 ar:إمبراطورية المغول、 fa:امپراتوری مغول、 ko:몽골 제국)の遠征軍にポーランド・ドイツ連合軍が完敗したワールシュタットの戦い(de:Schlacht bei Liegnitz、pl:Bitwa pod Legnicą、en:Battle of Legnica、mn:Легницийн тулалдаан)を契機として東欧・西欧にモンゴル帝国(1206年-1634年)の脅威が及んだのに対し、ローマ教皇インノケンティウス4世の命令により、モンゴル帝国のバトゥの元に交渉役として派遣される。


  • ウィリアム・ルブルック (fr:Guillaume de Rubrouck)

1220年頃生。フランス(fr:France、zh:法国・法兰西)の修道士。1253年フランス国王ルイ9世の命令によりモンゴル帝国に派遣される。翌年モンゴル帝国の都カラコルムを訪れ、モンケ・ハン(憲宗)に謁見する。その時の見聞にもとづき、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える貴重な旅行記「東方諸国旅行記」を書き残す。


  • ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ (it:Giovanni da Montecorvino)

1247年生。フランチェスコ派修道士。1289年ローマ教皇ニコラウス4世の命令により教皇庁の公式使節としてローマを出発し、1294年元(1271年-1368年、zh:元朝、en:Yuan dynasty)の大都(現在の北京)に到着し、皇帝テルムに拝謁、カトリックの布教活動を行う。


  • ジェフリー・チョーサー (en:Geoffrey Chaucer)

1343年頃生。イングランド王国(927年-1707年、en:Kingdom of England、fr:Royaume d'Angleterre、zh:英格兰王国)の外交官・詩人。外交使節としてイタリアを訪問し、人文主義者で詩人のペトラルカと親交を結ぶ。1378年にはリチャード2世の密命を帯びてミラノに渡航し、ヴィスコンティ家と傭兵隊長ジョン・ホークウッドと接触、傭兵を雇い入れるために交渉する。『カンタベリー物語』の著者。


  • 鄭和 (てい わ、en:Zheng He、zh:鄭和)

1371年生。明(1368年-1644年、en:Ming dynasty、zh:明朝)の宦官・武将。1405年から1433年にわたる、南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。


1401年から1700年に生誕した者



  • ニコデモ・トリンカディニ・ダ・ポントレモーリ (it:Nicodemo Trincadini)

1411年生。ミラノ公国(it:Ducato di Milano、en:Duchy of Milan)の外交官。1446年、世界初の常駐大使(resident ambassador)としてフィレンツェ共和国のコジモ・デ・メディチ(it:Cosimo de' Medici)の下に派遣されたとされる[37]


  • フィリップ・ド・コミーヌ (fr:Philippe de Commynes、en:Philippe de Commines)

1447年生。ブルゴーニュ公国(fr:Duché de Bourgogne、en:Duchy of Burgundy)とフランスの外交官。ルイ11世とシャルル8世に仕える。専門的な外交官による外交交渉の重要性を主唱。コミーヌの著した『回想録』("Mémoires" ed. J. Blanchard, Geneve, Droz, 2007, 2 vol.)は当時の最良の外交理論として広く読まれる[38]


  • ニッコロ・マキャヴェッリ (it:Niccolò Machiavelli、zh:尼科洛·马基雅弗利)

1469年生。フィレンツェ共和国(1115年-1532年、it:Repubblica di Firenze、en:Republic of Florence、zh:佛罗伦萨共和国)の外交官。『君主論』(”Il Principe”)の著者。


  • トマス・モア (en:Thomas More)

1478年生。イングランド王国(927年-1707年、en:Kingdom of England、fr:Royaume d'Angleterre、zh:英格兰王国)の外交官・法律家・思想家。ヘンリー8世に仕え、ラテン語を駆使してヨーロッパ大陸での外交で活躍。ネーデルラント使節、1525年対仏講和委員。第1次囲い込み(en:Enclosure、zh:圈地运动)を批判した『ユートピア』の著者


  • フランチェスコ・グイチャルディーニ (en:Francesco Guicciardini)

1483年生。フィレンツェ共和国の歴史家・政治家・外交官。スペイン常駐大使(1512年-1514年)。外交における時機の重要性を力説。国家と国家が戦争によって強さを競い合うのみならず、外交交渉や同盟関係を駆使して勢力均衡状態を作り出すことができると考え、そのための外交の意義を強く認識する。「国家理性」(ragione di stato)という用語を最初に使用する[39]


  • スレイマン1世 (en:Suleiman the Magnificent、tr:I. Süleyman)

1494年生。オスマン帝国の第10代皇帝(在位:1520年-1566年)。1529年、第一次ウィーン包囲を敢行し、1533年、オーストリア大公国とコンスタンティノープル条約を締結する。1535年、ハプスブルク家に対抗するため、フランス国王フランソワ1世と同盟を結ぶ。


  • カール5世 (de:Karl V.、es:Carlos I、en:Charles V、zh:查理五世)

1500年生。神聖ローマ帝国皇帝(在位:1519年-1556年)、スペイン国王(カルロス1世、在位:1516年-1556年)。ハプスブルク家の絶頂期に君臨する。「太陽の沈まない国」と称される、ヨーロッパ、新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を統治する。1555年、アウクスブルクの和議を成立させる。


  • フーゴー・グローティウス(nl:Hugo de Groot、en:Hugo Grotius)

1583年生。オランダの法学者。「国際法の父」と称される。主著『自由海論』、『戦争と平和の法』。1634年、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフより、駐仏スウェーデン大使に任命される。


  • リシュリュー(fr:Armand Jean du Plessis de Richelieu、zh:黎塞留)

1585年生。フランス(ルイ13世)の宰相。三十年戦争(1618年-1648年)に介入し、オーストリア・ハプスブルク家、スペイン・ハプスブルク家に対抗する姿勢をとる。1624年ヨーロッパで最初となる外務省(le secrétariate d'État aux Affaires étrangères)を設立する。1635年「フランス語の純化」を目標にアカデミー・フランセーズを創設する。中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて、ルイ14世(fr:Louis XIV、zh:路易十四)時代の絶対王政の基礎を築く。これらの結果、17世紀にヨーロッパの外交公用語がラテン語からフランス語に推移し、フランス語の世界の外交公用語としての地位は第1次世界大戦まで続くことになる。


  • フェルディナント3世 (de:Ferdinand III.)

1608年生。神聖ローマ帝国皇帝(在位:1637年-1657年)。1648年、ヴェストファーレン条約を締結し、三十年戦争を終結させる。同条約は、領邦の自立権(主権)、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)とスイスの独立を正式に認めたため、事実上神聖ローマ帝国は滅亡したに等しくなる。


  • ヤン3世(pl:Jan III Sobieski、lt:Jonas Sobieskis、en:John III Sobieski)


1629年生。ポーランド・リトアニア共和国(1569年-1795年)の君主(在位:1674年-1696年)。1683年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟し、オスマン帝国(tr:Osmanlı İmparatorluğu、en:Ottoman Empire)との戦いで活躍し、同年の第二次ウィーン包囲で勝利して英雄として名を馳せる。


ポーランド・リトアニア共和国(pl:Rzeczpospolita Obojga Narodów、lt:Abiejų Tautų Respublika、en:Polish–Lithuanian Commonwealth)は、ポーランド王国の王位とリトアニア大公国の大公位を兼ねるヤギェウォ朝(1386年-1572年、pl:Jagiellonowie、lt:Jogailaičių dinastija、en:Jagiellonian dynasty)が断絶する直前の1569年、ルブリン合同により両国が合同した複合国家である。16世紀・17世紀には、21世紀におけるポーランド、リトアニアに加えベラルーシ、ウクライナの領土のほとんどを支配する強大な国家であった。しかし、ロシアの台頭とともに衰退し、1795年、第3回ポーランド分割(pl:Rozbiory Polski、en:Partitions of Poland)により消滅してしまう。



  • フランソワ・ド・カリエール(fr:François de Callières)

1645年生。フランスの外交官。外交論の名著『外交談判法』(”De la manière de négocier avec les souverains”)の著者。


  • ピョートル1世(ru:Пётр I、en:Peter the Great)


1672年生。ロシア・ツァーリ国のツァーリ(在位:1682年-1725年、ru:Царь、en:Tsar)、初代ロシア皇帝(在位:1721年-1725年)。

摂政が実権を握っていた1689年、康煕帝時代の清朝との間で、ロシアに不利なネルチンスク条約が締結される。

親政開始後の1697年3月から1698年8月まで、約250名の使節団をヨーロッパに派遣し、自らも偽名を使い一員となり、アムステルダムでは造船技術の習得に専心する。

1683年から続くオスマン帝国との大トルコ戦争に関し、ヨーロッパ諸国は1699年カルロヴィッツ条約を締結し、ロシアは1700年コンスタンティノープル条約を締結し、アゾフ領有が認められる。

1699年反スウェーデン同盟(北方同盟)を締結し、1700年から1721年まで大北方戦争を戦い、スウェーデンに勝利し、ニスタット条約を締結、バルト海の覇権を握る。1721年、大北方戦争の勝利を記念し、元老院から皇帝(インペラートル)の称号を与えられ、国名をロシア帝国とする。

1703年サンクトペテルブルクの建設に着手し、1712年モスクワから遷都する。



1701年から1800年に生誕した者



  • ベンジャミン・フランクリン(en:Benjamin Franklin、zh:本傑明·富蘭克林)

1706年生。アメリカ合衆国(en:United States of America、fr:États-Unis d'Amérique、de:Vereinigte Staaten von Amerika、es:Estados Unidos de América、ru:Соединённые Штаты Америки、zh:美国・美利堅合眾國、ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّة、fa:ایالات متحده آمریکا、tr:Amerika Birleşik Devletleri)の駐フランス公使・物理学者。1776年アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に署名した。独立戦争中は欧州諸国との外交交渉に奔走し、独立戦争へのフランスの協力・参戦と、他の諸国の中立に成功する。


  • カウニッツ伯(de:Wenzel Anton von Kaunitz-Rietberg)


1711年生。オーストリア大公国(de:Erzherzogtum Österreich、ハプスブルク帝国)の駐フランス大使・宰相。マリア・テレジア、ヨーゼフ2世に仕える。オーストリア継承戦争(1740年-1748年)の結果、プロイセンにシュレージエンを奪われたため、同国の孤立化を図り、1756年ヴェルサイユ条約を結んでフランスと同盟し、いわゆる外交革命(en:Diplomatic Revolution)を実現する。七年戦争(1756年-1763年)でも、プロイセンからシュレージエンを奪回することはできなかったが、この結果ハプスブルク家(zh:哈布斯堡王朝)とフランスのブルボン家(zh:波旁王朝)との長年の対立が緩和され、1770年マリー・アントワネット(Marie-Antoinette、zh:玛丽·安托瓦内特)のフランス王家への輿入れにつながる。

1772年第1回ポーランド分割(en:Partitions of Poland、de:Teilungen Polens、fr:Partages de la Pologne、ru:Разделы Речи Посполитой、pl:Rozbiory Polski、zh:瓜分波蘭)に参加。



  • ジョージ・マカートニー(en:George Macartney、zh:喬治·馬戛爾尼)

1737年生。イギリスの外交官。アイルランド王国生まれのスコットランド人。1763年七年戦争の講和会義に参加。駐ペテルブルク公使。1793年清の乾隆帝に謁見し、貿易改善・条約締結を要請するが拒否される。その際、朝貢使節が皇帝に対して行う清式の儀礼である三跪九叩頭の礼を拒否する。


  • トーマス・ジェファーソン(en:Thomas Jefferson、zh:托马斯·杰斐逊)

1743年生。米国の駐フランス公使・初代国務長官・大統領。1776年アメリカ独立宣言の起草委員となり、起草を担当し、ベンジャミン・フランクリンらと共に署名した。1793年、フランスがイギリスと開戦した時、ジョージ・ワシントン(en:George Washington、zh:乔治·华盛顿)大統領は米国が巻き込まれるべきではないと考えたが、国務長官のジェファーソンはフランスを支持した。


  • チャールズ・ジェームズ・フォックス(en:Charles James Fox)

1749年生。1782年イギリスの初代外務大臣に就任。パリに外交代表を置いてヨーロッパ大陸諸国とアメリカ合衆国独立について交渉に当たる。


  • タレーラン(fr:Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord、zh:夏尔·莫里斯·德塔列朗-佩里戈尔)


1754年生。フランスのフランス革命期から、第一帝政、復古王政、七月王政までの政治家・外交官。ナポレオン・ボナパルト(fr:Napoléon Bonaparte、zh:拿破仑一世)のブリュメール18日のクーデターに参加し、統領政府で外務大臣となり、リュネヴィルの和約およびアミアンの和約の成立に貢献する。ウィーン会議(fr:Congrès de Vienne、zh:维也纳会议)ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍。


ウィーン会議で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高く、名外交官としてオーストリアのメッテルニヒと並び称され、現在でも、欧米では交渉の場で卓越したものの代名詞として使われる。



  • ジェームズ・モンロー(en:James Monroe、zh:詹姆斯·门罗)

1758年生。米国の外交官・国務大臣・大統領。1803年フランス駐在の外交官としてルイジアナ買収交渉に貢献。米英戦争(1812年-1815年)では国務長官・陸軍長官として重要な役割を演じる。1823年大統領として米国がアメリカ大陸におけるヨーロッパの干渉を容認しないとする、いわゆるモンロー主義(en:Monroe Doctrine、zh:门罗主义)を発表する。


  • ウィリアム・ピット (小ピット)(en:William Pitt the Younger、zh:小威廉·皮特)

1759年生。1783年24歳で最年少のグレートブリテン王国(1707年‐1800年、en:Kingdom of Great Britain)首相就任。1805年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国(1801年‐1927年、en:United Kingdom of Great Britain and Ireland)の首相として第三次対仏大同盟(fr:Troisième Coalition、zh:第三次反法同盟)を組織するも、同年のアウステルリッツの戦いに敗北する。


  • ムハンマド・アリー(en:Muhammad Ali、ar:محمد علي باشا、zh:穆罕默德·阿里帕夏)


1769年頃生。オスマン帝国の属州エジプト(zh:埃及)の支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年-1849年)。民族的な出自はアルバニア系と言われる。


エジプト・シリア戦役(ナポレオンのエジプト遠征、1798年-1801年)においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進める。


エジプト・トルコ戦争(1831年-1833年、1839年-1840年)ではヨーロッパ列強の介入を招き、勢力伸長を危険視したイギリスによりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。



  • ウェリントン公爵(en:Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington)

1769年生。イギリスの陸軍元帥・外務大臣・首相。ウィーン会議(en:Congress of Vienna)に英国首席全権代理として出席。会議の期間中にエルバ島を脱出したナポレオンを、ワーテルローの戦い(en:Battle of Waterloo、zh:滑铁卢战役)で迎え撃ち、勝利する。


  • カースルレイ(en:Robert Stewart, Viscount Castlereagh)

1769年生。イギリスの外務大臣(1812年-1822年)。ウィーン会議(en:Congress of Vienna)に英国首席全権として出席。陸軍・植民地大臣。


  • ジョージ・カニング(en:George Canning)

1770年生。イギリスの外務大臣(1807年-1809年、1822年-1827年)・首相(1827年)。ウィーン体制を支えた神聖同盟(ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国)とは一線を画した外交政策を行う。ロシアのレヴァント進出を阻止する意図でギリシア独立を支援。またラテンアメリカでのスペインからの独立運動を、自国の市場拡大をもくろんで支持。これらは以降の英国の「自由貿易帝国主義」の基礎となる。外務大臣、首相。


  • ウィリアム・アマースト(en:William Amherst、zh:威廉·阿美士德)

1773年生。イギリスの外交官。1816年清を訪問し、嘉慶帝に対する謁見を求めたが、朝貢使節が皇帝に対して行う清式の儀礼である三跪九叩頭の礼を拒否したため謁見は叶わず、貿易改善交渉も開始できなかった。その後、ベンガル総督(1823年-1828年)となる。この頃、清へのアヘンの流入が急増し、1827年にはアヘン貿易が茶貿易を上回っている。


  • クレメンス・フォン・メッテルニヒ(de:Klemens Wenzel Lothar von Metternich、zh:克萊門斯·梅特涅)

1773年生。オーストリア帝国(1804年-1867年、de:Kaisertum Österreich)の外相としてウィーン会議(de:Wiener Kongress、es:Congreso de Viena)を主催。ウィーン会議では中心的役割を果たし、国際政治における勢力均衡・反革命的な正統主義に基づくヨーロッパ国際秩序の創出を図る。ウィーン会議後も、ドイツでのブルシェンシャフト運動に対してカールスバート決議で抑圧を図るなど、自由主義・ナショナリズムを抑圧することで、ヨーロッパの平和・安定を追求する。墺国宰相。


  • パーマストン(en:Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston)


1784年生。イギリスの外務大臣(1830年-1834年、1835年-1841年、1846年-1851年)・首相(1855年-1858年、1859年-1865年)。ヨーロッパでは会議外交により各国の利害を調整するバランサーの役割を果たしつつ、ヨーロッパ諸国の自由主義化・ナショナリズム運動を支援する自由主義的外交を行う。非ヨーロッパの低開発国に対しては砲艦外交(en:Gunboat diplomacy)で不平等条約(en:Unequal treaty)による自由貿易を強要してイギリスの非公式帝国(en:Informal empire)に組み込む「自由貿易帝国主義」(en:The Imperialism of Free Trade)を遂行する。大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」(en:Pax Britannica、zh:不列颠治世)を象徴する人物。

1848年3月1日の英国庶民院(en:House of Commons)での演説で、「英国には、永久の同盟国もいなければ、永遠の敵もいない。永久永遠のものは英国の利益であり、我々はそれに従う義務がある。」と述べる。



  • ラーマ3世(th:พระบาทสมเด็จพระนั่งเกล้าเจ้าอยู่หัว、en:Rama III、zh:拉玛三世)

1784年生。シャムの国王(在位:1824年-1851年)。1826年、イギリス(東インド会社、en:East India Company)のヘンリー・バーネイ(en:Henry Burney)との間でバーネイ条約(en:Burney Treaty、th:สนธิสัญญาเบอร์นี)を締結する。


1801年から1830年に生誕した者



  • エドマンド・ハマンド(en:Edmund Hammond, 1st Baron Hammond)

1802年生。イギリスの外交官・外務事務次官(1854年-1873年、en:Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs)。外務官僚の地位を確立し、この時期に旧外交(Old Diplomacy)の伝統が確立する[40]


  • エフィム・プチャーチン(ru:Путятин, Евфимий Васильевич、en:Yevfimiy Putyatin)


1803年生。ロシアの海軍軍人。イギリスがアヘン戦争の結果、清と南京条約を結んだためプチャーチンはロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言し、1843年、清及び日本との交渉担当を命じられる。1852年、米国のマシュー・ペリーが日本との条約締結のため出航したとの情報に基づき、ロシアも日本と条約を締結するため遣日全権使節に任じられる。1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に4隻の艦隊を率いて長崎に来航する。川路聖謨らと交渉し、1855年2月7日(安政元年12月21日)日露和親条約の締結に成功する。

1858年、清でのアロー戦争に調停の名目で介入し、清との間で天津条約を締結し、同年、日本と日露修好通商条約を締結する。



  • タウンゼント・ハリス(en:Townsend Harris)

1804年生。米国の初代駐日領事・初代駐日公使。1858年(安政5年)に大老井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しに日米修好通商条約の締結に踏み切り、これによりハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖し、1859年(安政6年)元麻布善福寺に公使館を置く。


  • フェルディナン・ド・レセップス(fr:Ferdinand de Lesseps)

1805年生。仏国の外交官。実業家に転身し、1869年スエズ運河(en:Suez Canal、ar:قناة السويس)を開設。さらにパナマ運河(en:Panama Canal)開設を試みるが失敗に終わる。


  • ラザフォード・オールコック(en:Rutherford Alcock)

1809年生。イギリスの駐清領事・初代駐日総領事・初代駐日公使。現在も港区高輪に所在する東禅寺(国史跡指定)が宿所・公使館として使用される。『大君の都』を著す。


  • レオン・ロッシュ(fr:Léon Roches)

1809年生。フランスの外交官・幕末維新期の駐日公使。フランス公使として横須賀製鉄所建設(1865年工事開始)、横浜仏語伝習所設立(1865年開校)、 軍事顧問団の招聘(1867年1月訓練開始)などの徳川幕府支援を行う。


  • カミッロ・カヴール(it:Camillo Benso, conte di Cavour、zh:卡米洛·奔索,加富爾伯爵)

1810年生。サルデーニャ王国の首相、イタリア王国首相兼外相。ガリバルディ、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」。英仏と同盟を結んで1855年にクリミア戦争(1853年 - 1856年)に参戦し、サルデーニャの国際的地位の向上に努める。1858年ナポレオン3世とプロンビエールの密約(it:Accordi di Plombières)を結び、フランス軍の対オーストリア参戦を約束させ、1959年オーストリアとの第二次イタリア独立戦争(en:Second Italian War of Independence、it:Seconda guerra di indipendenza italiana)に勝利する。1960年ガリバルディから両シチリア王国の献上を受け、1961年イタリア統一を達成する。


  • ヤン・ドンケル・クルティウス(en:Janus Henricus Donker Curtius)

1813年生。オランダの外交官。江戸時代末期の最後のオランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官。米国が砲艦外交で日本に開国を迫ろうとしていることを、オランダ風説書とともに提出した「別段風説書」で江戸幕府に予告する。その際、米国との交渉の前にオランダとの間に通商条約を締結して開国すべきと進言し、交渉を開始するが不調に終わる。安政2年12月23日(1856年1月30日)日蘭和親条約を締結、安政4年8月29日(1857年10月16日)日蘭追加条約を締結、安政5年7月10日(1858年8月17日)日米修好通商条約から19日遅れでほぼ同等の内容の日蘭修好通商条約を締結。日本語の研究を進め、1857年、日本語の文法書『日本文法稿本(Proeve eener Japansche spraakkunst)』を作成する。


  • オットー・フォン・ビスマルク(de:Otto von Bismarck、zh:奥托·冯·俾斯麦)


1815年生。プロイセン王国(en:Kingdom of Prussia、de:Königreich Preußen)の首相兼外相、ドイツ帝国初代首相。1867年の普墺戦争(en:Austro-Prussian War、de:Deutscher Krieg)の勝利で北ドイツ連邦を樹立。次いで1871年の普仏戦争(en:Franco-Prussian War、fr:Guerre franco-allemande de 1870、de:Deutsch-Französischer Krieg、zh:普法戰爭)の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国(en:German Empire、fr:Empire allemand、de:Deutsches Kaiserreich、zh:德意志帝國)を樹立する。


三帝同盟(1873年)の締結、露土戦争後の国際関係を調整するベルリン会議 (1878年)の主催、三国同盟 (1882年)の締結、アフリカ分割(en:Scramble for Africa、fr:Partage de l'Afrique、zh:瓜分非洲)に関するベルリン会議(1884年-1885年)の主催等、卓越した外交力で国際政治を主導し、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築する。



  • ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(fr:Gustave Duchesne de Bellecourt)

1817年生。フランスの外交官・初代駐日領事・初代駐日公使。清におけるアロー戦争に参加した後、1858年(安政5年)日仏修好通商条約の交渉のために来日。


  • 李鴻章(り こうしょう、zh:李鴻章、en:Li Hongzhang)

1823年生。清(zh:清朝、en:Qing dynasty)の直隷総督兼北洋通商大臣。洋務運動を推進し、清朝末期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力。日清戦争(1994年-1995年)の講和条約である下関条約(zh:马关条约、en:Treaty of Shimonoseki)で清側の欽差大臣(全権大使)として調印。1896年、ロシアの財務大臣セルゲイ・ヴィッテ、外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーと露清密約(zh:中俄密约)を締結。


  • ハリー・パークス(en:Harry Smith Parkes)


1828年生。イギリスの駐日公使。フランスの駐日公使・ロッシュは、ときには本国の意向を無視して江戸幕府を支援した。これに対し、パークスは、薩英戦争・四国艦隊下関砲撃事件後、薩摩藩・長州藩が外国との通商を強く望んでいることを知り、表面上は中立の立場をとりながら薩摩藩・長州藩と接近する。


1869年(明治2年)、箱館戦争に際しては、フランス・オランダとともに榎本武揚の軍勢を交戦団体と認めない立場を取り、アメリカ・イタリア・プロイセンと対立する。



  • ソールズベリ(en:Robert Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury)

1830年生。イギリスの外務大臣・首相。19世紀後半に内政では漸進的な改革を行い、外交面では帝国主義政策を遂行して大英帝国の更なる拡張を果たす。日英同盟(en:Anglo-Japanese Alliance)締結。


1831年から1860年に生誕した者



  • ジョン・ヘイ(en:John Hay)


1838年生。米国の外交官・国務長官(1898年-1905年)。日清戦争(1994年-1995年)で敗れた清に対する欧州列強の分割競争に乗り遅れていた米国(その間に、ハワイ併合、米西戦争を行う。)が、貿易活動において中国市場に割り込むため、1899年ジョン・ヘイは中国に関する第1次門戸開放通牒を行う。さらに、翌1900年義和団の乱(zh:义和团运动、en:Boxer Rebellion、Yihetuan Movement)が起こる中、門戸開放・機会均等に加え、領土保全を強調する第2次通牒を発する。

1901年11月、駐米イギリス大使ポンスフォート卿(en:The Lord Pauncefote)とヘイ=ポンスフォート条約(en:Hay–Pauncefote Treaty)を締結し、パナマ運河建設におけるアメリカの優越的地位を約束させる。1812年の第2次米英戦争、英領カナダと米国の国境線画定問題など、19世紀の英米関係は緊張・対立・相互不信を基調としていた。ヘイ=ポンスフォート条約は、1990年代から独仏露三国とイギリスとの対立が深刻化し(光栄ある孤立、en:Splendid isolation)、1901年3月に英独日三国同盟構想が挫折した状況下における、イギリスの譲歩による英米の協調関係の確立の試みである(細谷雄一『歴史のなかのパワー・トランジション -イギリスの経験から-』(国際問題604号、2011年))。



  • アーネスト・サトウ(en:Ernest Mason Satow)


1843年生。イギリスの駐日公使・駐清公使。『一外交官の見た明治維新』・『A Guide to Diplomatic Practice by Sir E. Satow, (Longmans, Green & Co. London & New York, 1917)』の著者。

1867年(慶応3年)12月、大政奉還の詳細の探知と兵庫開港の準備のために大坂に行き、後藤象二郎・西郷隆盛・伊藤博文らと会談する。

1868年(慶応4年)1月、王政復古の大号令が出されたため、京都を離れ大坂城に入った徳川慶喜とハリー・パークスの謁見で通訳を務める。



  • メネリク2世(am:ዳግማዊ ምኒልክ、en:Menelik II)


1844年生。エチオピア帝国の皇帝(在位:1889年-1913年)。第一次エチオピア戦争(1895年-1896年)においてイタリア王国を破り(アドワの戦い)、1896年、アディスアベバ条約を締結し、エチオピアの独立を承認させた。当時のアフリカ大陸の諸王国の中で、唯一独立を保つことができた事例である。

しかし、第二次エチオピア戦争(1935年-1936年)に敗れ、1936年から1941年の間、エチオピアはイタリアの植民地イタリア領東アフリカ帝国となる。



  • アーサー・バルフォア(en:Arthur Balfour)


1848年生。イギリスの首相・海軍大臣・外務大臣。1917年イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵に対して送った書簡で、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束する(バルフォア宣言、en:Balfour Declaration)が、この宣言とフサイン=マクマホン協定、サイクス・ピコ協定の存在が、現在まで続くパレスチナ問題の原因となる。

イギリス本国と自治領の関係を新たに定義する1926年のバルフォア報告書(en:Balfour Declaration of 1926)にも委員会議長として名を残し、その内容が1931年のウェストミンスター憲章として成文化される。

なお、アイルランド独立戦争(1919年‐1921年)を経て、1921年英愛条約(en:Anglo-Irish Treaty)が成立し、翌1922年アイルランド島南部26州がアイルランド自由国(ga:Saorstát Éireann、en:Irish Free State)として分離する。1927年、イギリスは正式名称をグレートブリテン及びアイルランド連合王国(en:United Kingdom of Great Britain and Ireland)からグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(en:United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)に改称する。



  • ベルンハルト・フォン・ビューロー(de:Bernhard von Bülow、en:Bernhard von Bülow)

1849年生。ドイツ帝国の外交官、外務大臣(1897年-1900年)、宰相(1900年-1909年)、駐イタリア大使(1914年-1915年)。1897年、外相として「問題は、われわれが植民地を獲得したいか否かではない。われわれの希望にかかわらず、植民地は獲得しなければならない。」[41]として植民地獲得の強い意欲を示す。


  • セルゲイ・ヴィッテ(ru:Витте, Сергей Юльевич、en:Sergei Witte)

1849年生。ロシア帝国の財務大臣・首相。1896年、李鴻章と露清密約を締結。日露戦争(1904年-1905年)の講和交渉のロシア側代表であり、日本の外務大臣小村寿太郎と交渉を繰り広げ、ポーツマス条約を締結する。


  • テオフィル・デルカッセ(fr:Théophile Delcassé)

1852年生。1898年から1905年までフランスの外相。一貫して反ドイツ的な政策をとる。ファショダ事件では対英宥和策をとって両国関係の改善に努める。ロシアとは露仏同盟(fr:Alliance franco-russe)の強化を図る。また、水面下でイタリアと交渉し、1902年に両国間で密約(仏伊協定)を締結して独墺伊の三国同盟(de:Dreibund)を揺さぶる。1904年の英仏協商(en:Entente Cordiale)は彼の外交的成功の1つで、英国のエジプトにおける優先権、フランスのモロッコにおける優先権を確認。また英露の緊張緩和を図り、1907年の英露協商(en:Anglo-Russian Convention)を導く。これらによりビスマルク体制と呼ばれるドイツ中心のフランス包囲網を解体する。


  • フィリップ・ペタン(fr:Philippe Pétain)

1856年生。フランス共和国(第三共和制)の陸軍元帥・最後の首相、フランス国(ヴィシー政権)の主席・初代首相。第一次世界大戦に際して卓越した指揮官との名声を得、英雄視される。第二次世界大戦中の1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻(5月10日-6月21日、de:Westfeldzug、fr:Bataille de France)でフランス軍が敗北を続ける中、首相に就任し、同年6月22日独仏休戦協定(fr:Armistice du 22 juin 1940)を締結する。


  • フランク・ケロッグ(en:Frank B. Kellogg)

1856年生。米国の駐英大使・国務長官(1925年-1929年)。1928年、フランスの外相アリスティード・ブリアンと共にパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)の締結に尽力する。国際司法裁判所判事(1930年-1935年)。


  • ウッドロウ・ウィルソン(en:Woodrow Wilson、zh:伍德罗·威尔逊)


1856年生。米国の大統領(1913年-1921年)。第一次世界大戦(en:World War I、fr:Première Guerre mondiale、de:Erste Weltkrieg、zh:第一次世界大战)への参戦を決断し、大戦末期に「十四か条の平和原則」を発表する。戦後、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟(en:League of Nations、fr:Société des Nations、de:Völkerbund、es:Sociedad de las Naciones、zh:國際聯盟、ru:Лига Наций、ar:عصبة الأمم、fa:جامعه ملل、tr:Milletler Cemiyeti)の創設に尽力する。


パリ講和会議の国際連盟委員会最終会合において、日本の牧野伸顕による人種的差別撤廃提案に対し、議長であるウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、日本代表・フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、3分の2を超える計11名の委員が賛成したにもかかわらず(イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対又は保留)、ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、人種的差別撤廃提案の実現を阻む。



  • セオドア・ルーズベルト(en:Theodore Roosevelt、zh:西奥多·罗斯福)


1858年生。米国の大統領(1901年-1909年)。棍棒外交と呼ばれる西半球において積極的に介入する拡張政策を採る。パナマ運河建設に先立ち、1903年コロンビアからパナマ共和国を独立させる。日露戦争に際しては講和を斡旋し、ポーツマス条約を締結させ(1905年)、翌年ノーベル平和賞を受賞する(米国人初のノーベル賞受賞)。

大統領就任前(米西戦争(en:Spanish–American War、es:Guerra hispano-estadounidense、zh:美西战争)前)には、「キューバからスペインを追い出す」、「イギリスと戦争をしてカナダを征服する」と主張する[42]



  • 馮国璋(ふう こくしょう、 zh:馮國璋、 en:Feng Guozhang)

1859年生。清末・中華民国初期の軍人・政治家。中華民国の第3代大総統。英米の支援を受ける直隷派軍閥(en:Zhili clique)を率いて、段祺瑞の安徽派(en:Anhui clique)、張作霖の奉天派(en:Fengtian clique)と政争を繰り広げる。


  • モーリス・パレオローグ(fr:Maurice Paléologue)

1859年生。フランスの外交官。第一次世界大戦開始時の駐ペテルブルク大使。露仏同盟を全面的に信奉する。オーストリア最後通牒への対応を検討するロシア外相セルゲイ・サゾーノフ(ru:Сазонов, Сергей Дмитриевич、 en:Sergey Sazonov)に対し、フランスが同盟国としての諸義務を果たす決意にあると、勝手に保証する。[43]


  • ヴィルヘルム2世(de:Wilhelm II.、zh:威廉二世)

1859年生。ドイツ帝国の皇帝。大英帝国女王ヴィクトリアの孫であり、1897年頃まではイギリスと協調的な外交姿勢をとる。オーストリア=ハンガリー、ルーマニア、イギリスとの関係を重視し、1890年の独露再保障条約の更新を拒絶し、1894年の露仏同盟の遠因を作る。1890年代後半からは海外植民地の獲得・拡大を目指す世界政策をとり、イギリス(建艦競争)・フランス(第一次モロッコ事件、第二次モロッコ事件)との対立を深めていく。1914年のサラエヴォ事件(七月危機、 en:July Crisis、 de:Julikrise、 fr:Crise de juillet、 ru:Июльский кризис)に際しては、オーストリア=ハンガリーを全面的に支援することを約束し、第一次世界大戦へと拡大する、オーストリア=ハンガリーの対セルビア宣戦布告を後押しする。


  • ハーバート・G・スクワイアーズ(en:Herbert G. Squiers)

1859年生。米国の外交官。義和団の乱のどさくさに紛れて、列車数両分の美術品や陶器を清国から略奪し、その一部はニューヨークのメトロポリタン美術館に保管されていると言われる[44]


  • 袁世凱(えん せいがい、 zh:袁世凯、 en:Yuan Shikai)

1859年生。清末・中華民国初期の軍人・政治家・北洋軍閥の総帥。清の北洋通商大臣兼直隷総督・第2代内閣総理大臣・中華民国の第2代臨時大総統・初代大総統。諸外国から多額の借款を受け入れ、近代化資金を確保し、インフラ整備を行う。1915年12月12日から1916年3月22日のごく短期間、皇帝を名乗り、国号を「中華帝国」と改めるが、全く支持を得られなかった。


1861年から1870年に生誕した者



  • アリスティード・ブリアン(fr:Aristide Briand)

1862年生。フランスの外相・首相。1925年、ロカルノ条約を締結し、ルール占領の混乱を収拾する。1929年、アメリカの国務長官フランク・ケロッグとパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)の締結に尽力する。


  • エドワード・グレイ(Edward Grey)

1862年生。イギリスの外相(1905年-1916年。イギリス外相の最長在任記録。)。1914年のサラエヴォ事件・オーストリア最後通牒(七月危機、 en:July Crisis、 de:Julikrise、 fr:Crise de juillet、 ru:Июльский кризис)に際して、独墺露仏の四大国による戦争を回避するため、仲裁・外交的解決を試みるが失敗に終わる(さらにドイツのロシアに対する宣戦布告(8月1日)により、四大国の開戦不可避となった後も、イギリスの中立のための条件を駐英ドイツ大使カール・マックス・フォン・リヒノフスキー(de:Karl Max von Lichnowsky)と交渉するが、これもドイツのベルギー侵攻により頓挫する。)[45]。この結果、オーストリアの対セルビア宣戦布告が第一次世界大戦に発展することとなる。


  • ヘンリー・マクマホン(en:Henry McMahon)

1862年生。イギリスの外交官。1915年から翌年にかけてメッカ(ar:مكة、en:Mecca)の太守であるフサイン・イブン・アリー(ar:الحسين بن علي شريف مكة、en:Hussein bin Ali)とイギリスの駐エジプト高等弁務官であったマクマホンの間の書簡の中で、イギリスが対トルコ戦協力(アラブ反乱)を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束する(フサイン=マクマホン協定、en:McMahon–Hussein Correspondence)。


  • レオポルト・ベルヒトルト(de:Leopold Berchtold)

1863年生。オーストリア=ハンガリー帝国の外交官・外相。1914年のサラエヴォ事件に際して、外相として対セルビア強硬策を取り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の全面的支援を取り付け、セルビア政府にオーストリア最後通牒を発し、対セルビア宣戦布告を主導し、これにより第一次世界大戦を惹起することとなる。


  • オースティン・チェンバレン(en:Austen Chamberlain)

1863年生。イギリスの外務大臣(1924年-1929年)。1925年ロカルノ条約の締結に成功し、第一次世界大戦後の独仏間の利害調整、ドイツの国際連盟加盟を実現する。1930年代後半に独伊に対する宥和政策を取り、1938年にミュンヘン会談に参加したネヴィル・チェンバレンは異母弟である。


  • エア・クロウ(en:Eyre Crowe)

1864年生。イギリスの外交官。1907年ドイツ帝国をイギリスの仮想敵国と位置付ける最初の重要な公式文書であるクロウ・メモランダム("Memorandum on the Present State of British Relations with France and Germany")を作成する。この中で、イギリス外交が(1)本質的に地理環境に規定されること、(2)勢力均衡を求める伝統があること、(3)できるだけ他国に恩恵を与え、できるだけ他国を挑発しない伝統があることを指摘する[46]。クロウは、父がイギリス人、母がドイツ人で、ドイツで育ち、ドイツ人女性と結婚し、ドイツ文化を愛していたが、プロイセンがドイツ諸侯国を軍事的に支配していることに憤慨していた[47]


  • 段祺瑞(だん きずい、zh:段祺瑞、en:Duan Qirui)

1865年生。清末及び1911年の辛亥革命後の軍閥が割拠する時代の中華民国の軍閥政治家(安徽派)・初代陸軍総長・国務総理。辛亥革命直後は袁世凱に従い陸軍総長等を務めるが、袁の皇帝即位の目論見には反対する。1916年袁の死後、黎元洪が大総統に就任し、段は国務総理に就任する。段は安徽派を形成し、馮国璋は直隷派を形成する。直隷派が英米の支援を受けるのに対し、段の安徽派は日本の支援を受け、1918年西原借款(en:Nishihara Loans)を受け入れた。しかし、1920年安直戦争で安徽派は直隷派に敗れ、段は下野する。1924年の第二次奉直戦争で奉天派の張作霖が直隷派を壊滅させると、1925年段は臨時執政に擁立されたが、影響力は限定的なものに止まった。


  • 孫文(そんぶん、zh:孫中山、en:Sun Yat-sen)

1866年生。1911年の辛亥革命後の1912年に成立した南京の中華民国の臨時大総統、中国国民党総理。1878年(米国の傀儡国家になる前の)ハワイ王国(1795年-1893年)に移住する。1905年汪兆銘らと東京で中国革命同盟会(のちに中国同盟会と改称)を設立。辛亥革命後、アメリカから中国に戻り、1912年1月1日中華民国を設立し、臨時大総統となる。しかし、同年2月12日に袁世凱に臨時大総統の地位を譲る。1917年のロシア革命後「連ソ容共・労農扶助」と方針転換する。1922年のコミンテルン(ru:Коммунистический интернационал、 en:Communist International、 zh:第三国际)極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年ソ連のアドリフ・ヨッフェと、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援・ソ連との連帯を明らかにする「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表し、第一次国共合作を成立させる。

  • ポール・クローデル

1868年生。フランスの外交官。外交官のかたわら劇作家や詩人としても活動している。


  • フランソワ・ジョルジュ=ピコ(fr:François Georges-Picot)

1870年生。フランスの外交官。イギリス人の中東学者マーク・サイクスとともに、英仏露によるオスマン帝国領の分割を約束したサイクス・ピコ協定(en:Sykes–Picot Agreement)の原案を作成する。


1871年から1880年に生誕した者



  • コーデル・ハル(en:Cordell Hull)

1871年生。米国の国務長官(1933年-1944年)。日米開戦直前に最後通牒ともいえるハル・ノートを提示する。国際連合(en:United Nations、fr:Organisation des Nations unies、de:Vereinte Nationen、es:Organización de las Naciones Unidas、zh:联合国、ru:Организация Объединённых Наций、ar:الأمم المتحدة、fa:سازمان ملل متحد)の発案者である。11年9か月に及ぶ国務長官在任期間は米国史上最長である。


  • アレクサンドラ・コロンタイ(ru:Коллонтай, Александра Михайловна、en:Alexandra Kollontai)

1872年生(女性)。ロシア帝国の革命家、ソビエト連邦の外交官。世界初の女性大使。21歳で結婚し、子供も持つがマルクス主義に傾倒し、1898年、家庭を捨て、チューリッヒ大学でマルクス主義研究に入る。1919年、ヨーロッパ初の女性閣僚(人民委員)に就任、1923年、駐ノルウェー大使(世界初の女性大使)、駐メキシコ大使、駐スウェーデン大使。


  • ゲオルギー・チチェーリン(ru:Чичерин, Георгий Васильевич、en:Georgy Chicherin)

1872年生。ソビエト連邦の外務人民委員・外務大臣(1918年-1930年)。1918年ブレスト=リトフスク条約に調印。1922年、ソ連全権としてジェノア会議に出席し、その間にドイツ外相ヴァルター・ラーテナウと、相互に領土・金銭要求を放棄するラパロ条約を電撃的に締結する。その後、ヴェルサイユ条約違反となる、ソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認める独ソ秘密軍事協定が締結される。


  • ハーバート・フーヴァー(en:Herbert Hoover、zh:赫伯特·胡佛)

1874年生。米国の商務長官(1921年-1928年)、大統領(1929年-1933年)。大統領在任中の1929年10月24日、ニュー・ヨークのウォール街株式市場の大暴落が起こり(暗黒の木曜日)、世界恐慌に突入した際、スムート・ホーリー法に基づき米国の関税を記録的な高さに引き上げ、保護貿易政策をとる。これに対し、多くの国が報復関税を課し、世界恐慌がより深刻なものとなる。


  • ウィンストン・チャーチル(en:Winston Churchill、zh:温斯顿·丘吉尔)


1874年生。イギリスの海軍大臣・首相。米国人の母を持ち、フランクリン・ルーズベルト米国大統領に粘り強く、ドイツ戦への参加を働きかけ、1941年8月大西洋憲章を締結。1945年2月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンがヤルタ会談を行い、英米仏ソによるドイツの分割占領、ソ連の対日参戦、国際連合構想などを合意する。帝国主義的・人種差別的な思想傾向を持つ。


第二次世界大戦(en:World War II、fr:Seconde Guerre mondiale、de:Zweiter Weltkrieg、zh:第二次世界大战)による英国の没落について、テヘラン会談(1943年)の際に、「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らす。

1945年7月1日、米国(ハリー・S・トルーマン大統領)が日本に対して原爆使用することに最終同意する。米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないことを定めた1943年8月の米英間のケベック協定(en:Quebec Agreement)に基づく[48]

回顧録において、「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と記す。

1946年「鉄のカーテン」演説によりソ連の脅威を訴え、米国の政策に多大な影響を及ぼす。



  • 張作霖(ちょう さくりん、zh:张作霖、en:Zhang Zuolin)

1875年生。1911年の辛亥革命後の軍閥が割拠する時代の中華民国の軍閥政治家(奉天派)・大元帥。1922年の第一次奉直戦争では、英米に支援された直隷派(呉佩孚)に敗れるが、1924年の第二次奉直戦争で直隷派を壊滅させ、1925年段祺瑞を臨時執政に擁立する。当時国民党(国民革命軍)はソ連(コミンテルン)の強い影響下にあったため(第一次国共合作)、日英米は揃って張を支持し、1926年12月張は北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言する。しかし、1927年の南京事件・上海クーデターを経て、蒋介石が共産主義者への弾圧を開始すると、英米は国民党の支援に転じ、1928年張は国民革命軍との戦争(北伐)に敗れ、北京を脱出する。その後奉天に向かう途中列車ごと爆殺される(張作霖爆殺事件)。張学良の父。


  • マクシム・リトヴィノフ(ru:Литвинов, Максим Максимович、en:Maxim Litvinov)

1876年生。ソビエト連邦の外交官・駐英代表・外務人民委員(外務大臣)・駐米大使。外相として、従来の善隣外交と革命輸出という二元外交から、ソ連と資本主義諸国との平和的共存に方針を転換し、米ソ国交回復(1933年)、常任理事国としての国際連盟加盟(1934年)、仏ソ相互援助条約締結(1935年)、チェコスロバキア=ソ連相互援助条約締結(1935年)を実現する。ミュンヘン会談(1938年)により英仏への猜疑心を募らせたスターリンは、リトヴィノフを外相から解任し、独ソ不可侵条約を締結する(1939年8月23日)。しかし、独ソ戦(1941年6月22日)が始まるとリトヴィノフは外務次官に復帰し、イギリスとの関係修復に努める。


  • エリック・ドラモンド(en:Eric Drummond, 7th Earl of Perth)

1876年生。イギリスの外交官。国際連盟の初代事務総長(1920年-1933年)。このとき"Bushido: The Soul of Japan"(『武士道』)の著者として有名な新渡戸稲造が国際連盟事務次長に就任している(1920年-1926年)。満州事変に際しリットン調査団を派遣する。


  • ムハンマド・アリー・ジンナー(ur:محمد علی جناح、hi:मोहम्मद अली जिन्नाह、en:Muhammad Ali Jinnah)

1876年生。インド・ムスリム連盟の指導者、独立パキスタン(ur:پاکستان、en:Pakistan、zh:巴基斯坦)の初代総督。1947年6月、ムスリム連盟の要求に従い、インド総督ルイス・マウントバッテンはインド・パキスタン分離独立案を発表し、8月にイギリス国王を国家元首に頂く独立君主制国家パキスタン(現在のバングラデシュを含む)が成立し、ジンナーはその総督に就任する。


  • オスカー・トラウトマン(de:Oskar Trautmann)

1877年生。ドイツの外交官。1904年ドイツ帝国外務省入省。駐神戸総領事・駐東京参事官・駐南京公使。1937年11月から1938年1月16日までの期間に日本と中華民国国民政府間の和平交渉を仲介する(トラウトマン和平工作)。


  • グスタフ・シュトレーゼマン(de:Gustav Stresemann)

1878年生。ドイツの外相・首相。1924年、ドーズ案による賠償金の減額に成功する。1925年ロカルノ条約を締結し、第一次世界大戦後の独仏間の対立を収拾し、ドイツの常任理事国としての国際連盟加盟を実現する。同年、フランスのブリアン外相とともにノーベル平和賞を受賞する。ヴェルサイユ条約改正論者でありオーストリア併合を含むドイツ東部国境の見直しを目指していた。


  • ジョセフ・アヴェノル(fr:Joseph Avenol)

1879年生。フランスの財務官僚。1916年駐英大使館勤務し金融問題を担当。1922年国際連盟の財務官として財政改革に取り組む。国際連盟事務総長(1933年-1940年)として日本の連盟脱退、第二次エチオピア戦争、ドイツによるアンシュルス(オーストリア併合)、ポーランド侵攻等の困難な問題に次々と直面する。1940年6月22日に独仏休戦協定が締結されると、アヴェノルは連盟のイギリス人職員を解雇し、ヴィシー政権首班となったフィリップ・ペタンに忠誠を宣誓する書簡を送る。


  • レフ・トロツキー(en:Leon Trotsky、ru:Троцкий, Лев Давидович)

1879年生。1917年、ウラジーミル・レーニン(en:Vladimir Lenin、zh:弗拉基米尔·伊里奇·列宁)とともにロシア十月革命を主導し、ロシア共和国外務人民委員として、第1次世界大戦のドイツ帝国との講和交渉を担当し、1918年のブレスト=リトフスク条約締結に関わる。1924年のレーニンの死後、閑職に追われ、1929年にソビエト連邦から国外追放される。


  • ダグラス・マッカーサー(en:Douglas MacArthur、zh:道格拉斯·麦克阿瑟)

1880年生。米国の軍人。1905年駐日米国大使館付武官副官。GHQの最高責任者である連合国軍最高司令官(en:SCAP)を務め、占領下の日本に重要な指導力を発揮する。陸軍元帥。


  • ジョセフ・グルー(en:Joseph Grew)

1880年生。米国の外交官。日米開戦時の駐日大使であり、開戦回避に努めた。


1881年から1890年に生誕した者



  • ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ、tr:Mustafa Kemal Atatürk、en:Mustafa Kemal Atatürk、zh:穆斯塔法·凯末尔·阿塔图尔克)


1881年生。、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領。第一次世界大戦中の1918年10月30日、オスマン帝国と連合国の間でムドロス休戦協定が成立したが、1919年、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国の前身となるアンカラ政府を樹立し、二重政府状態が出現する。

1920年8月10日、オスマン帝国(イスタンブール政府)は連合国とセーヴル条約を締結したが、アンカラ政府はこれに反対し、1921年、ウラジーミル・レーニン指導下のボリシェビキ政府と友好条約(モスクワ条約)を締結する。

1922年10月のローザンヌ講和会議には、オスマン帝国政府とアンカラ政府の双方が招聘されたが、同年11月オスマン皇族を全て国外退去させ、二重政府状態を解消し、翌1923年7月アンカラ政府が連合国とローザンヌ条約を締結する。

1923年10月23日、共和制を宣言し、ムスタファ・ケマルが初代大統領に就任し、以降、脱イスラム国家化を進める。



  • モハンマド・モサッデク(モサデク、 fa:محمد مصدق、en:Mohammad Mosaddegh、zh:穆罕默德·摩萨台)

1882年生。イランのパフラヴィー朝(1925年-1979年、fa:دودمان پهلوی、en:Pahlavi dynasty)の首相。1951年民主的選挙により首相に選出、石油国有化法を成立させ、アングロ・イラニアン石油会社(en:Anglo-Persian Oil Company)から利権を取り戻し、石油産業の国有化を実行する。国際石油資本(メジャー)の報復によるイラン産石油の国際市場から閉め出し、米国中央情報局(CIA、 en:Central Intelligence Agency)と英国秘密情報部(SIS、 en:Secret Intelligence Service)による秘密工作により、1953年モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝(パーレビ国王)派クーデターが起こり、モサッデクは逮捕され、失脚する。


  • 汪兆銘(おう ちょうめい、zh:汪精卫、en:Wang Jingwei)

1883年生。中華民国の外交部長、南京国民政府(汪兆銘政権)の主席。1905年孫文らと東京で中国革命同盟会(のち中国同盟会に改称)を設立。1912年中華民国の成立宣言を起草。1933年塘沽停戦協定の締結に関わる。日中戦争が始まると、徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆被害・共産化を憂慮する和平グループの中心的存在となり、1938年重慶を脱出、1940年南京国民政府(汪兆銘政権)を設立する。1943年大東亜会議に出席する。


  • ジョン・メイナード・ケインズ(en:John Maynard Keynes、zh:约翰·梅纳德·凯恩斯)

1883年生。イギリスの経済学者・官僚。1906年インド省(en:India Office)入省、1915年大蔵省入省。1919年パリ講和会議に大蔵省主席代表として参加し、対独賠償要求に反対して辞任し、「平和の経済的帰結」("en:The Economic Consequences of the Peace")を発表。1936年「雇用・利子および貨幣の一般理論」("en:The General Theory of Employment, Interest and Money")を発表。


  • アドリフ・ヨッフェ(ru:Иоффе, Адольф Абрамович、en:Adolph Joffe)

1883年生。ソビエト連邦の外交官。1917年ドイツ帝国等の中央同盟国との休戦協定に署名する。1923年孫文に対しソ連が中国国民党を支援する孫文・ヨッフェ共同宣言を発表する。


  • ロベール・シューマン(fr:Robert Schuman)

1886年生。フランスの首相(閣僚評議会議長)・外務大臣。1950年、独仏間の緊張の主な原因を取り除くことを求め、ジャン・モネの計画(『モネ・プラン』)を採用して、ドイツに石炭と鉄鋼業を共同で運営することを要請した(『シューマン宣言』)。この要請が欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の基礎になり、その後欧州連合(EU、en:European Union、fr:Union européenne、de:Europäische Union、es:Unión Europea、ru:Европейский союз、zh:欧洲联盟、tr:Avrupa Birliği、ar:الاتحاد الأوروبي、fa:اتحادیه اروپا)に発展した。ジャン・モネらとともに欧州連合の父と称される。


  • ハロルド・ニコルソン(en:Harold Nicolson)


1886年生。イギリスの外交官。オックスフォード大学ベリオール校卒業後、イギリス外務省に入省、1929年まで勤務。


パリ講和会議にイギリス代表団の一員として参加。ウッドロウ・ウィルソン(en:Woodrow Wilson、zh:伍德罗·威尔逊)米国大統領の頑迷・横柄な交渉態度に絶望的に批判的評価を示す。

『外交』("Diplomacy")(斎藤真・深谷満雄訳、東京大学出版会, 1965年/UP選書, 1968年)において、公開外交や外交の民主化によって世論の影響力が強まる状況にあって、外交の立法的側面(政策決定)と執行的側面(交渉)を区別し、後者を専門家に任せる必要を説く。

"Peacemaking 1919"(revised edition, Constable, 1943)において、パリ講和会議の交渉における外交の民主化の問題点を「自国民の民意の興奮状態での期待感と、永続的な平和構築へ向けての冷静な考慮を調和させることは困難である。」と指摘。



  • 顧維鈞(こ いきん、zh:顾维钧、en:Wellington Koo)

1888年生。中華民国初期の外交官・国民党政府の政治家。袁世凱の下で外交部参事を務め、以後、外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議の各中華民国全権代表などの要職を歴任。1931年国民党政府に参加し、以降外交部長、駐仏大使、駐英大使、駐米大使を歴任。国際司法裁判所判事(1957年-1967年)。


  • ジョン・フォスター・ダレス(en:John Foster Dulles)

1888年生。米国の国務長官(1953年-1959年)。封じ込め(en:Containment)政策から巻き返し(en:Rollback)政策への転換を主導する。北大西洋条約機構(NATO、1949年)、太平洋安全保障条約(ANZUS、1951年)、日米安全保障条約(1951年)、東南アジア条約機構(SEATO、1954年)、中央条約機構(CENTO、1955年)の設立に尽力する。ミサイル・ギャップ論争がなされていた1958年、米国はソ連の攻撃を抑止をするに「十分な軍事力」を持つ限り、ソ連に対してあらゆる分野でいつも優位である必要はなく、米国に必要なのは「尊敬される軍事力」であって、「世界最大の軍事力」ではない、と主張する[49]。CIA長官を務めたアレン・ウェルシュ・ダレスは実弟。


  • ショーン・レスター(en:Seán Lester)

1888年生。アイルランドの外交官。1923年外務省入省。国際連盟の最後の事務総長を務める(1940年8月31日-1946年4月18日)。アイルランド最高裁判所長官。


  • レフ・カラハン(ru:Карахан, Лев Михайлович、en:Lev Karakhan)

1889年生。ソビエト連邦の外交官。1919年外務人民委員代理として中華民国が清から継承した不平等条約の即時・無条件撤廃を表明し(カラハン宣言)、中国での共産主義への支持を広げる。1925年駐華大使であるときに、日本の芳澤謙吉と日ソ基本条約を締結する。


  • オイゲン・オット(de:Eugen Ott)

1889年生。ドイツの軍人・外交官。駐東京ドイツ大使館付武官・駐日大使。ドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員で、日本の政界に知人が多く日本の政治などに関して豊富な知識を持つナチス党員のリヒャルト・ゾルゲを顧問としていたが、1941年10月にゾルゲはソ連のスパイであることが発覚する(ゾルゲ事件)。


  • ジャワハルラール・ネルー(hi:जवाहरलाल नेहरू、en:Jawaharlal Nehru、zh:贾瓦哈拉尔·尼赫鲁)


1889年生。1947年に独立したインドの初代首相兼外務大臣(1947年-1964年)。インド国民会議議長。日露戦争での日本の勝利について「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」(『父が子に語る世界史』)と記す。

インド国民会議派の幹部としてマハトマ・ガンディー、スバス・チャンドラ・ボース等とイギリスからの独立運動を指導する。

独立後、「非同盟・中立」外交を推進し、1954年周恩来と「平和五原則」を発表し、翌1955年には第三世界の中心的存在として、周恩来、インドネシア大統領のスカルノ、エジプト大統領のナセルと共にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催し、反帝国主義・反植民地主義を謳い、「平和十原則」を発表した。



  • ヴャチェスラフ・モロトフ(ru:Молотов, Вячеслав Михайлович、en:Vyacheslav Molotov)

1890年生。ソビエト連邦外務人民委員・外相。ヨシフ・スターリン(en:Joseph Stalin、zh:约瑟夫·维萨里奥诺维奇·斯大林)の片腕として活動。、1939年独ソ不可侵条約(en:Molotov–Ribbentrop Pact、zh:苏德互不侵犯条约)調印。1941年日ソ中立条約(en:Soviet–Japanese Neutrality Pact)調印。戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、冷戦期の共産圏の基礎を作った。


  • ドワイト・D・アイゼンハワー(en:Dwight D. Eisenhower、zh:德怀特·艾森豪威尔)

1890年生。米国の軍人、大統領(1953年-1961年)。第二次世界大戦における連合国遠征軍最高司令官(en:Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、SCAEF)、陸軍参謀総長・陸軍元帥、NATO軍最高司令官(欧州連合軍最高司令官)。冷戦が長期に及ぶ前提の下、過大な国防予算が米国の兵営国家化、財政破綻を招くことを懸念し、通常戦力の削減により財政均衡を図る一方、大量報復戦略(en:Massive retaliation strategy)に基づく核軍拡を実施する[50]


  • シャルル・ド・ゴール(fr:Charles de Gaulle、zh:夏爾·戴高樂)


1890年生。フランス第五共和政の初代大統領(1959年-1969年)。ド・ゴール主義(fr:Gaullisme、en:Gaullism)と呼ばれる、西ドイツ、共産主義諸国との協力を進め、米英と距離を置く独自外交路線を取る。

1960年2月原爆実験に成功し、米ソ英に次ぐ核保有国となり、1963年の部分的核実験禁止条約に加盟せず、以降も核実験を繰り返す。

1966年北大西洋条約機構(NATO)の軍事機構から脱退し、イギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟を拒否する。



1891年から1900年に生誕した者



  • 胡適(こ てき、zh:胡適、en:Hu Shih)

1891年生。中華民国の思想家・外交官・駐米大使(1938年-1942年)・北京大学学長。台湾政府外交部顧問。1917年陳独秀の依頼に基づき、雑誌『新青年』に「文学改良芻議(ぶんがくかいりょうすうぎ)」を寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱。1935年「日本切腹中国介錯論」を発表し、中国が日本に負け続けたとしても持久戦になった場合には、米ソ両国と衝突する日本が自壊することを予想する。


  • ハインリヒ・ゲオルク・スターマー(de:Heinrich Georg Stahmer)

1892年生。ドイツの外交官・外相。非公式の外交機関リッベントロップ事務所に所属し、1936年の日独防共協定締結に関わる。外相として1940年の日独伊三国軍事同盟の締結に関わる。1941年駐南京国民政府(汪兆銘政権)特命全権大使。1943年から駐日ドイツ大使。


  • E・H・カー(en:E. H. Carr)

1892年生。イギリスの外交官・歴史学者・政治学者。1916年から1936年までイギリス外務省勤務。1939年『危機の二十年』("The Twenty Years' Crisis 1919-1939")、1961年『歴史とは何か』("What is History?")等の著作多数。


  • アレン・ウェルシュ・ダレス(en:Allen Dulles)

1893年生。米国の外交官・中央情報局(CIA)長官(1953年-1961年)。1945年、OSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局、CIAの前身)のスイスベルン支局長として、日本と降伏条件の交渉を行う。CIA長官として、イランのアーバーダーン危機に対するモハンマド・モサッデク政権転覆作戦(エイジャックス作戦、1953年 en:Operation Ajax)やグアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン政権転覆作戦(PBSUCCESS作戦、1954年)を指揮し、ピッグズ湾侵攻計画を策定した。国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスは実兄。


  • ディーン・アチソン(en:Dean Acheson)

1893年生。米国の国務次官・国務長官。経済担当国務次官補として1944年戦後国際金融秩序を構想するブレトン・ウッズ会議に出席する。国務次官として、トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランの立案に重要な役割を果たす。国務長官として、共産主義の封じ込め政策を継続し、北大西洋条約機構(en:North Atlantic Treaty Organization(NATO)、fr:Organisation du traité de l'Atlantique nord(OTAN))の結成に尽力する。


  • ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(de:Joachim von Ribbentrop)


1893年生。ナチス・ドイツ(en:Nazi Germany、zh:納粹德國)の非公式の外交特使・駐英大使・外務大臣。以下の各条約に調印し、アドルフ・ヒトラー(de:Adolf Hitler、zh:阿道夫·希特勒)政権の外交政策を推進。

1935年英独海軍協定(de:Deutsch-britisches Flottenabkommen、en:Anglo-German Naval Agreement)

1936年日独防共協定(de:Antikominternpakt、en:Anti-Comintern Pact)

1939年独ソ不可侵条約(de:Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakt、en:Molotov–Ribbentrop Pact)

1940年日独伊三国軍事同盟(de:Dreimächtepakt、en:Tripartite Pact)



  • ニキータ・フルシチョフ(ru:Хрущёв, Никита Сергеевич、en:Nikita Khrushchev、zh:尼基塔·谢尔盖耶维奇·赫鲁晓夫)

1894年生。ソ連の第4代最高指導者(1953年-1964年)。ウクライナ人。1954年、クリミア半島をロシアからウクライナに移管する。1956年スターリン批判を行うとともに、米国、フランスなどの資本主義諸国と平和共存外交を進める。1956年日ソ共同宣言に先立ち、平和条約締結後に歯舞・色丹を引き渡すことに合意し、1959年ソ連の指導者として初めて米国を訪問する(雪融け、en:Khrushchev Thaw)。しかし、1962年キューバに核ミサイルを配備することを企図し、キューバ危機を引き起こす。


  • トリグブ・リー(no:Trygve Lie、en:Trygve Lie)

1896年生。ノルウェー出身。初代国際連合事務総長(1946年-1952年)。


  • 周恩来(しゅう おんらい、zh:周恩来、en:Zhou Enlai)


1898年生。中華人民共和国(zh:中华人民共和国・Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó、 en:People's Republic of China、 fr:République populaire de Chine、de:Volksrepublik China、 es:República Popular China、 ru:Китайская Народная Республика、 ar:جمهورية الصين الشعبية、 fa:جمهوری خلق چین、 tr:Çin Halk Cumhuriyeti)の初代国務院総理(首相)・初代外交部部長。

1936年12月の西安事件に際して、中国国民党の蒋介石を説得し、中国共産党との一致抗日に方針転換させる。

1954年のジュネーヴ会議で第一次インドシナ戦争休戦の実現に尽力。同時に、インドのジャワハルラール・ネルー首相と平和五原則を発表。翌1955年インドネシアのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)で平和十原則を発表。毛沢東(zh:毛泽东、en:Mao Zedong)共産党主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命(zh:文化大革命、en:Cultural Revolution)中も失脚しなかった。1972年田中角栄首相と日中共同声明(zh:中日聯合聲明)に調印。



  • アドレー・スティーブンソン(en:Adlai Stevenson II)

1900年生。米国の国連大使、1962年キューバ危機(en:Cuban Missile Crisis)に際して国連大使として、外交的に手段による解決を主張するとともに、国際連合安全保障理事会(en:United Nations Security Council)で、ソ連の国連大使ワレリアン・ゾリン(ru:Зорин, Валериан Александрович、 en:Valerian Zorin)と論争し、キューバのミサイル配備を世界中に知らしめることに成功する。映画『13デイズ』(2001年、監督ロジャー・ドナルドソン、主演ケビン・コスナー)の中でスティーブンソンの活躍が好意的に描写されている。


  • グラッドウィン・ジェブ(en:Gladwyn Jebb)

1900年生。イギリスの外交官。テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談など多数の国際会議に出席する。1945年8月に国際連合設立準備委員会事務局長となり、同年10月事務総長代行を務める。国際連合顧問・国連大使・駐仏大使。


1901年から1920年に生誕した者



  • フアン・パブロ・ペレス・アルフォンソ(es:Juan Pablo Pérez Alfonzo)

1903年生。ベネズエラの外交官、開発相(1945年‐1948年)、鉱山・炭化水素相(1959年-1963年)。資源ナショナリズムが高揚する中、1959年のアラブ連盟第1回アラブ石油会議に招待された際、石油メジャーに対抗するため、南米と中東の石油産油国を団結させる協定の構想を示し、1960年の石油輸出国機構(OPEC)設立を実現させる。OPECの父と言われる。


  • ジョージ・ケナン(en:George F. Kennan)

1904年生。米国の外交官。1940年代から1950年代末にかけての米国の外交政策立案者で、ソ連の封じ込めを柱とするアメリカの冷戦政策を計画する。"American Diplomacy, 1900-1950", (University of Chicago Press, 1951)(近藤晋一・飯田藤次訳『アメリカ外交50年』(岩波書店, 1952年))著。


  • 鄧小平(トン シャオピン、zh:邓小平、en:Deng Xiaoping)

1904年生。中国共産党の中央軍事委員会主席・事実上の最高指導者。1978年日中平和友好条約の批准のため来日。1984年香港の返還に関する合意書に英国のマーガレット・サッチャー(en:Margaret Thatcher、zh:玛格丽特·撒切尔)首相と調印。1992年南巡講話を発表し、「韜光養晦」(とうこうようかい)の大方針の下、「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付、有所作為(冷静に観察し、足場を固め、落ち着いて対処し、できることをやる。)」の姿勢で、中国の改革開放路線を推進し、経済成長に専念しつつ、国際場裏では自国の主張を強く押し出さないように控えめな外交姿勢をとる[51]


  • ダグ・ハマーショルド(sv:Dag Hammarskjöld、en:Dag Hammarskjöld)

1905年生。スウェーデンの外交官・大蔵官僚。大蔵次官・スウェーデン銀行総裁・外務次官。第2代国際連合事務総長(1953年-1961年)。1956年第二次中東戦争(スエズ戦争)に際して第一次国際連合緊急軍(スエズ国連軍)を組織する。


  • ヤコフ・マリク(ru:Малик, Яков Александрович、en:Yakov Malik)

1906年生。ソ連の外交官。1942年から駐日大使を務め、終戦直前の1945年6月には、広田弘毅元首相から非公式での終戦斡旋の相談を受ける。しかし、同年8月には日本政府に最後通牒、後に宣戦布告文書を手交する。戦後、駐英大使として松本俊一全権代表と日ソ国交回復交渉を行う。


  • レオニード・ブレジネフ(ru:Брежнев, Леонид Ильич、en:Leonid Brezhnev、zh:列昂尼德·伊里奇·勃列日涅夫)

1907年生。ソ連の第5代最高指導者(1964年‐1982年)。1968年チェコスロバキアのプラハの春と呼ばれる改革運動に対しワルシャワ条約機構軍を投入し、弾圧する(「ブレジネフ・ドクトリン」(制限主権論))。1972年、米国と戦略兵器制限条約(SALT I)に調印し、デタント(緊張緩和)をもたらす。しかし、1979年アフガニスタン侵攻を実施する。


  • リンドン・ジョンソン(en:Lyndon B. Johnson、zh:林登·约翰逊)

1908年生。米国の大統領(1963年11月22日-1969年)。ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に伴い副大統領から大統領に就任する。1964年のトンキン湾事件を契機にベトナム戦争(1955年-1975年)に本格的に介入し、北爆・地上軍投入を開始するも泥沼化させる。これにより、米国における大幅な財政赤字の派生、インフレの昂進、ドルの海外流出、経済競争力の低下を惹起する[52]


  • ウ・タント(my:သန့်၊ ဦး、en:U Thant、zh:吴丹)


1909年生。イギリス領インド帝国ビルマ(現ミャンマー)出身。第3代国際連合事務総長(1961年-1971年)。国連総会において、1963年に人種差別撤廃宣言を採択し、1965年に人種差別撤廃条約を採択する。

人種差別撤廃条約の正式名称は『あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約』である。

en:International Convention on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination

fr:Convention internationale sur l'élimination de toutes les formes de discrimination raciale

de:Internationales Übereinkommen zur Beseitigung jeder Form von Rassendiskriminierung

es:Convención Internacional sobre la Eliminación de todas las Formas de Discriminación Racial

pt:Convenção internacional sobre a eliminação de todas as formas de discriminação racial

ru:Международная конвенция о ликвидации всех форм расовой дискриминации

ar:الاتفاقية الدولية للقضاء على جميع أشكال التمييز العنصري

fa:معاهده بین‌المللی محو همه اشکال تبعیض نژادی

tr:Her Türlü Irk Ayrımcılığının Ortadan Kaldırılmasına İlişkin Uluslararası Sözleşme

zh:消除一切形式种族歧视国际公约

ko:모든 형태의 인종차별 철폐에 관한 국제협약

vi:Công ước quốc tế về xóa bỏ mọi hình thức phân biệt chủng tộc

ta:அனைத்துவகை இனத்துவ பாகுப்பாட்டையும் ஒழிப்பதற்கான அனைத்துலக உடன்படிக்கை

he:האמנה בדבר ביעור כל צורות האפליה הגזעית



  • ディーン・ラスク(en:Dean Rusk)

1909年生。米国の外交官。ケネディ及びジョンソン政権で国務長官(1961年-1969年)を務めた。朝鮮半島の分断線を北緯38度(38度線)と決定したのはラスクであるといわれている。1962年のキューバ危機(en:Cuban Missile Crisis)ではエクスコムのメンバーとして危機に対応する。


  • アンドレイ・グロムイコ(ru:Громыко, Андрей Андреевич、en:Andrei Gromyko、zh:安德烈·安德烈耶维奇·葛罗米柯)

1909年生。ソビエト連邦の外交官。28年間外務大臣を務める(1957年-1985年)。駐英大使時代には、日ソ共同宣言に先立つロンドン交渉でソ連側の代表となる。ブレジネフ書記長時代のデタント(緊張緩和)を実現するが、1979年のアフガニスタン侵攻によってデタントの終焉を招く。


  • リチャード・ニクソン(en:Richard Nixon、zh:理查德·尼克松)


1913年生。米国の副大統領(1953年-1961年)、大統領(1969年-1974年8月9日)。外交においてヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官(その後、国務長官)を重用する。

1969年11月、佐藤栄作首相と1972年の沖縄返還を合意する。

1971年7月、翌年の中華人民共和国訪問を発表する(第1次ニクソン・ショック)。

1971年8月ドルと金の交換停止を発表する(第2次ニクソン・ショック、ドル・ショック)。

1972年5月、ソ連のブレジネフ書記長と第一次戦略兵器制限条約(SALT I)と弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)に調印する。

1973年1月、パリでベトナム和平協定に調印する。



  • ヴィリー・ブラント(de:Willy Brandt、zh:维利·勃兰特)

1913年生。西ベルリン市長、西ドイツ外務大臣・首相。1961年西ベルリン市長としてベルリンの壁建設に対応。西ドイツ首相として東ドイツ、ソビエト連邦を始めとする共産主義諸国との関係改善を進める「東方外交」を展開し、1969年に核拡散防止条約(en:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)に調印、1970年に初の東西ドイツ首脳会談を実現、西ドイツとソ連との国境不可侵と武力不行使を誓うモスクワ条約を調印、ポーランドとの間で相互武力不行使とオーデル・ナイセ川をポーランドの西部国境とすることを定めたワルシャワ条約を調印、1971年の米英仏ソのベルリン4ヶ国協定の締結につなげる。社会主義インターナショナル(en:Socialist International、 ru:Социалистический интернационал、 zh:社會黨國際)議長(1976年-1992年)。


  • アブドルカリーム・カーシム(ar:عبد الكريم قاسم、en:Abd al-Karim Qasim)


1914年生。イラク共和国の初代首相(1958年-1963年)。1960年、石油輸出国機構(OPEC、en:Organization of the Petroleum Exporting Countries)の創設を呼びかけ、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国によりバグダードで同機構を設立する。その後、OPECには、カタール、リビア、アラブ首長国連邦(UAE)、インドネシア等が加盟する。

OPEC加盟国のうち中東6カ国及びアラブ石油輸出国機構(OAPEC、en:Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)は、1973年第四次中東戦争が勃発すると、原油価格の引き上げを実施し、日本を含む先進工業国にオイルショックと呼ばれる混乱を引き起こす。



  • ガマール・アブドゥル=ナーセル(ナセル、 ar:جمال عبد الناصر、en:Gamal Abdel Nasser、zh:贾迈勒·阿卜杜-纳赛尔)


1918年生。エジプト共和国の大統領・首相、アラブ連合共和国の初代大統領兼首相。1952年ムハンマド・ナギーブとともにクーデターを起こし、国王ファールーク1世を追放し、権力を掌握、翌1953年エジプト共和国を建国する。汎アラブ主義の政策をとり、1956年スエズ運河の国有化に成功し、1958年にはシリアと合邦してアラブ連合共和国を建国し、初代大統領兼首相に就任する。


汎アラブ主義は、アラブ独自の民族主義と社会主義が融合したものであり、バアス党(アラブ社会主義復興党)、リビアのムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)、イラクのサッダーム・フセインなどに影響を与える。



  • クルト・ヴァルトハイム(de:Kurt Waldheim、zh:库尔特·瓦尔德海姆)

1918年生。1945年オーストリア外務省入省。外交官・連邦外務大臣、第4代国際連合事務総長(1972年-1981年)、第6代オーストリア大統領(1986年-1992年)。


  • デ・クエヤル(es:Javier Pérez de Cuéllar、zh:佩雷斯·德奎利亚尔)

1920年生。ペルーの外交官、首相兼外務大臣。第5代国際連合事務総長(1982年-1991年)。


1921年から1940年に生誕した者



  • イツハク・ラビン(he:יצחק רבין、en:Yitzhak Rabin)

1922年生。イスラエル(he:ישראל、en:Israel、zh:以色列)の参謀総長、駐米大使、首相(1974年-1977年、1992年-1995年)。パレスチナ問題についてアラブ側との和平を進め、1993年にオスロ合意(en:Oslo I Accord)に調印し、1994年にはヨルダンとの平和条約(en:Israel–Jordan peace treaty)に調印する。ラビンのこの功績によりヤーセル・アラファトパレスチナ解放機構議長、シモン・ペレスイスラエル外相と共にノーベル平和賞を受賞する。


  • ブトロス・ブトロス=ガーリ(ガリ、 ar:بطرس بطرس غالي、en:Boutros Boutros-Ghali)

1922年生。エジプトの国際法学者、外交官、第6代国際連合事務総長(1992年-1996年)。


  • ヘンリー・キッシンジャー(en:Henry Kissinger)

1923年生。米国のニクソン政権・フォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官(1969年-1975年)、国務長官(1973年-1977年)。1971年、ニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問。周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。米中和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。岡崎久彦監訳『外交(上・下)』(日本経済新聞社, 1996年)、伏見威蕃訳『国際秩序』(日本経済新聞社, 2016年)の著者。


  • 金鍾泌(キム・ジョンピル、ko:김종필、en:Kim Jong-pil)

1926年生。韓国の初代中央情報部(KCIA)部長(1961年-1963年)、国務総理(1971年-1975年、1998年-2000年)。大日本帝国時代の忠清南道出身。1961年、朴正煕(パク・チョンヒ)と5・16軍事クーデターを主導する。交戦当事国ではなかった韓国の対日請求について、1962年、日本の大平正芳外相と「無償3億ドル、有償2億ドルおよび民間信用供与」を提供する経済協力方式で合意し(金・大平メモ)、1965年の日韓基本条約締結に尽力する。


  • チェ・ゲバラ(es:Che Guevara、zh:切·格瓦拉)

1928年生。アルゼンチン生まれの革命家、キューバのゲリラ指導者。裕福な家庭で育ち、ブエノスアイレス大学医学部を卒業し、医師免許を取得。1956年メキシコ亡命中のフィデル・カストロと出会い、従軍医として反独裁闘争に参加し、1959年キューバ革命に成功、キューバの国立銀行総裁に就任、通商使節団を連れてアジア・アフリカ歴訪の一環で来日し、広島の原爆資料館を訪問する。1960年石油関連産業を接収、国有化する。1964年国際連合総会でキューバ主席として演説する。1965年以降国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れ、1967年ボリビアで捕らえられ、処刑される。


  • エドゥアルド・シェワルナゼ(ru:Шеварднадзе, Эдуард Амвросиевич、en:Eduard Shevardnadze、zh:爱德华·谢瓦尔德纳泽)

1928年生。ソビエト連邦の外務大臣(1985年-1990年)。ミハイル・ゴルバチョフ(ru:Горбачёв, Михаил Сергеевич、en:Mikhail Gorbachev、zh:米哈伊尔·谢尔盖耶维奇·戈尔巴乔夫)書記長の新思考外交を推進する。グルジア大統領(1995年-2003年)。


  • ズビグネフ・ブレジンスキー(en:Zbigniew Brzezinski)

1928年生。米国カーター政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官(1977年-1981年)。ポーランドのワルシャワで出生。外交官であった父のカナダ赴任に伴い、1938年にカナダに移住。1939年のナチス・ドイツのポーランド侵攻により帰国できなくなる。そのままカナダで成長し、マギル大学で学部と大学院修士課程を修了し、ハーバード大学大学院で博士号を取得する。大統領補佐官として1979年のイランアメリカ大使館人質事件に対応する。


  • ジェイムズ・ベイカー(en:James Baker)

1930年生。米国の国務長官(1989年-1992年)。1991年、「アジア太平洋地域における米国の利益は、商業的なアクセスを保全し、米国とその同盟国に対して敵対的な覇権国あるいは国家連合の台頭を阻止することにある。」と表明する[53]


  • ミハイル・ゴルバチョフ(ru:Горбачёв, Михаил Сергеевич、 en:Mikhail Gorbachev、zh:米哈伊尔·谢尔盖耶维奇·戈尔巴乔夫)


1931年生。ソビエト連邦共産党書記長(1985年-1991年)・最初で最後の大統領(1990年-1991年12月25日)。内政ではペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行し、外交では新思考外交に基づき東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させる。1987年米国大統領ロナルド・レーガンと中距離核戦力全廃条約を締結する。

ソ連の崩壊により独立したウクライナ、カザフスタン、ベラルーシは、自国領土に配備された核兵器をロシアに引き渡す代わりに、西側からの経済支援と体制保証を受けた(ナン・ルーガープログラム、en:Nunn–Lugar Cooperative Threat Reduction Program)[54]



  • ジョセフ・ナイ(en:Joseph Nye)


1937年生。米国の国際政治学者、国務副次官(1977年-1979年)、国家情報会議議長(1993年-1994年)、国防次官補(1994年-1995年)。2007年、政策シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)においてリチャード・アーミテージと連名で「第二次アーミテージ・レポート」(正式名称:"The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020")を発表し、日米同盟を英米同盟のような緊密な関係へと変化させ、東アジア地域の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むインセンティブとすることを提言する。

2018年10月26日、東京都内のシンポジウムにおいて「米国と中国とは、協力と競争の両方の関係がある。米中は安全保障や貿易で対立するが、気候変動や国際的な金融制度の安定では協力が必要だ。米中冷戦と言ってしまうと意味のある政策が機能しなくなる。」、「もし北朝鮮の非核化ではなく、核施設の廃棄の見返りとして朝鮮半島の終戦宣言を出すようなことがあれば間違いだ。」と発言する[55]



  • コリン・パウエル(en:Colin Powell)

1937年生。米国の軍人・国家安全保障問題担当大統領補佐官(1987年-1989年)・統合参謀本部議長(1989年-1993年)、国務長官(2001年-2005年)。アフリカ系アメリカ人初の国務長官。陸軍大将。1996年の大統領選挙に際して、世論調査では幅広い層からの圧倒的な支持があったが、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対もあり出馬しなかった。


  • サッダーム・フセイン(ar:صدام حسين、en:Saddam Hussein、zh:萨达姆·侯赛因)


1937年生。イラク共和国の大統領(1979年-2003年)。

1980年、イラン・イラク戦争(1980年-1988年、en:Iran–Iraq War)を開始し、イランの「イスラム革命の波及」を恐れる欧米、ソ連、中国、湾岸アラブ諸国の支援を取り付け、終戦までに世界第4位の軍事大国と呼ばれるほどの力をつける。

1990年、クウェートに侵攻し、湾岸戦争(en:Gulf War)を引き起こす。

2003年、米国が開始したイラク戦争(en:Iraq War)に敗北し、逮捕され、失脚する。

イラクの首都バグダードは、アッバース朝(750年-1517年、ar:الدولة العباسية、en:Abbasid Caliphate、zh:阿拔斯王朝)の都として栄え、ギリシャ・ペルシャ・インドにおける哲学・数学・自然科学・医学などの文化が融合して高度なイスラーム文化が発達し、これはのちにラテン語にも翻訳されてヨーロッパ文化の発展にも大きな影響を与えた。



  • ヨハン・イェルゲン・ホルスト(no:Johan Jørgen Holst、en:Johan Jørgen Holst)

1937年生。ノルウェーの政治家。防衛大臣・外務大臣。1993年のイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間のオスロ合意(パレスチナ暫定自治協定、en:Oslo I Accord、ar:اتفاقية أوسلو)の仲介に中心的な役割を果たす。


  • コフィー・アナン(ak:Kofi Annan、en:Kofi Annan)

1938年生。ガーナ出身。1962年世界保健機関(WHO)の行政・予算担当官として国際連合に勤務。国連職員から初めて事務総長に選任される(第7代国際連合事務総長、1997年-2006年)。


  • グレアム・アリソン(en:Graham T. Allison)

1940年生。の政治学者。ハーバード大学ケネディ行政大学院の初代院長。第一期クリントン政権の政策担当国防次官補。主著、"Essence of Decision: Explaining the Cuban Missile Crisis", (Little, Brown, 1971)、邦訳 『決定の本質-キューバ・ミサイル危機の分析』(宮里政玄訳、中央公論社、1977年)、"Destined for War: Can America and China Escape Thucydides’s Trap?", (Houghton Mifflin Harcour, 2017),邦訳 『米中戦争前夜』(藤原朝子訳、ダイヤモンド社、2017年)。


  • トニー・メンデス(en:Tony Mendez)

1940年生。米国の中央情報局(CIA、 en:Central Intelligence Agency)工作員。1979年のイランアメリカ大使館人質事件の際に、人質になることを免れてカナダ大使公邸等に避難した6名の米国外交官を、映画制作隊に偽装させてイラン国外へ出国させ救出する(カナダの策謀、 en:Canadian Caper)。その活躍は『アルゴ』(2012年、ベン・アフレック監督・主演、第85回アカデミー賞作品賞受賞)として映画化される。


1941年から1945年に生誕した者



  • ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐、ar:معمر القذافي、en:Muammar Gaddafi、zh:穆阿迈尔·卡扎菲)


1942年生。リビアの軍人、革命家、最高指導者。1969年クーデターを起こし、革命指導評議会議長となる。

1972年、汎アラブ主義に基づき、エジプトのアンワル・アッ=サーダート、シリアのハーフィズ・アル=アサドと組んで三か国によるアラブ共和国連邦を構想するが、本格的な統合には至らなかった。

2002年、アフリカ統一機構からアフリカ連合(en:African Union、fr:Union africaine、ar:الاتحاد الأفريقي、zh:非洲联盟)への改組で主導的な役割を果たす。

2003年、核放棄を宣言し、査察団の受入れを行い、米国などの経済制裁を解除され、2006年に米国とリビアの国交正常化を実現する。



  • 金桂冠(キム・ゲグァン、ko:김계관、en:Kim Kye-gwan)


1943年生。大日本帝国時代の平安北道出身。北朝鮮の外交官。

2018年5月16日、北朝鮮核・ミサイル問題に関する米朝首脳会談の開催を前に、第1外務次官として、「トランプ米政権が一方的な核放棄だけを北朝鮮に強要しようとするなら、我々は対話にもはや興味を持たず、朝米首脳会談に応じるかどうか再考せざるを得ない。」、「我々は、朝鮮半島の非核化の用意を表明し、そのためには米国の敵視政策と核脅威による恐喝を終わらせることが先決条件になると数度にわたって明言したが、米国はわが国の寛容な措置を弱気の表れと誤解し、彼らの制裁と圧迫攻勢の結果だと主張している。」、ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)らが核放棄を先行させる「リビア方式」や「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization)」の実現を主張していることについて「対話を通じて問題を解決するのでなく、大国に国を委ねて崩壊したリビアやイラクの運命をわが国に強要しようとしている。」、「米国は我々が核を放棄すれば、経済的補償や恩恵を与えると騒いでいるが、我々は米国に期待して経済建設を進めたことは一度としてなく、今後もそのような取引を決してしないだろう。」との談話を発表する[56]

2018年5月25日、ドナルド・トランプ米国大統領が6月12日開催予定であった米朝首脳会談の中止を発表したことに対し、「極めて遺憾である。」とした上で、「北朝鮮としては問題解決のため、いつ、いかなる形ででも直接会談する意向があることを改めて米側に伝える」と述べる[57]



  • ヘルムート・コール(de:Helmut Kohl、zh:赫尔穆特·科尔)

1944年生。ドイツ連邦共和国の首相(1982年-1998年)。1990年東西ドイツの再統一について定める統一条約、米英仏ソの占領国としてのドイツに対する権利の放棄を定めるドイツ最終規定条約を締結し、ドイツ再統一を実現する。1992年欧州連合(EU、en:European Union、fr:Union européenne、de:Europäische Union、es:Unión Europea、ru:Европейский союз、zh:欧洲联盟、tr:Avrupa Birliği、ar:الاتحاد الأوروبي、fa:اتحادیه اروپا)の創設を定めるマーストリヒト条約を締結する。


  • 潘基文(パン ギムン、ko:반기문、en:Ban Ki-moon)

1944年生。大日本帝国時代の忠清北道出身。韓国の外交官・外交通商部長官(外相)。第8代国際連合事務総長(2007年-2016年)。


  • リチャード・アーミテージ(en:Richard Armitage、zh:理查德·李·阿米蒂奇)


1945年生。米国の国防次官補(1983年‐1989年)、国務副長官(2001年‐2005年)。知日派として知られる。2015年、旭日大綬章授章。

2007年、政策シンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)において政策提言報告「第二次アーミテージ・レポート」(正式名称:"The U.S.-Japan Alliance: Getting Asia Right through 2020")を発表、日米同盟を英米のような緊密な同盟関係へと変化させ、東アジアの地域秩序の中で台頭する中国を穏健な形で秩序の中に取り込むインセンティブとすることを提言する。

2018年10月26日、東京都内のシンポジウムにおいて、「ウラジーミル・プーチンロシア大統領は北方領土の問題を解決しようとは思ってないはずだ。日本は失望し続ける状況になるだろう。」と発言する[58]



1946年から1950年に生誕した者



  • 鄭義溶(チョン・ウィヨン、ko:정의용、en:Chung Eui-yong)


1946年生。韓国の外交官、国家安全保障室長。2018年3月5日、韓国大統領府の特使団代表として朝鮮民主主義人民共和国に派遣され、金正恩委員長と面会し、南北首脳会談の開催で合意する。


北朝鮮核・ミサイル問題に関する南北首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月12日、米国のジョン・ボルトン国家安全保障担当大統領補佐官と協議を行う。



  • 金英哲(キム・ヨンチョル、ko:김영철、en:Kim Yong-chol)


1946年生。ソビエト民政庁・北朝鮮人民委員会統治下の両江道出身。北朝鮮の軍人・政治家。朝鮮労働党統一戦線部長。北朝鮮核・ミサイル問題の渦中、2018年2月25日、韓国での平昌オリンピック閉会式に出席し、金正恩の同年3月25日、5月7日の訪中、4月27日の南北首脳会談に同行する。

2018年5月30日、31日に訪米し、6月12日開催の米朝首脳会談を前に、マイク・ポンペオ国務長官と会談し、最終調整を行う[59]。同年6月1日、ドナルド・トランプ大統領とも会談し、異例の厚遇を受ける[60]



  • ドナルド・トランプ(en:Donald Trump、zh:唐納·川普)


1946年生。米国の第45代大統領(2017年1月20日~)。

2017年1月、「アメリカ第一主義」を掲げ、気候変動枠組に関するパリ協定からの離脱、環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱、北米自由貿易協定(NAFTA、en:North American Free Trade Agreement)の再交渉、イラン核合意(JCPOA、en:Joint Comprehensive Plan of Action)の見直しを表明する。

2017年12月18日、国家安全保障戦略を発表し、「アメリカ第一主義」、「力による平和」の堅持を主張する。

2018年2月2日、核体制の見直し(NPR, en:Nuclear Posture Review)を公表し、重大で戦略的な非核攻撃に対し核兵器で反撃する可能性と、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM、en:Submarine-launched ballistic missile)用の小型核弾頭等を開発する方針を示す。

2018年2月23日、イスラエルの米国大使館をテルアビブからエルサレムに移転することを正式に発表する(同年5月14日、移転が実行され、ガザ地区で移転に抗議するデモ隊とイスラエル軍が衝突し、多数の死傷者を出す[13]。)。

2018年3月1日、ロシアと対立するウクライナへの対戦車ミサイル売却を許可したと公表する。

2018年3月8日、通商拡大法(en:Trade Expansion Act)232条に基づき安全保障(en:National security)に与える影響を理由に、暫定除外されたカナダ、メキシコ以外からの鉄鋼製品に25%、アルミニウム製品に10%の関税を課す輸入制限を発動することを決定する(その後、同月22日にEU、韓国、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチンを暫定除外し、同月23日から主にロシア、トルコ、日本からの鉄鋼製品、ロシア、UAE、中国のアルミニウム製品を対象として関税が課される。さらに同年6月1日、EU、カナダ、メキシコに関税を課し、三者が報復関税を課すことを表明する[61]。)。

2018年3月22日、中国の知的財産権問題をめぐる調査も考慮し、スーパー301条による中国製品への関税賦課を米国通商代表部(USTR)に指示する。同年6月15日、中国の知的財産侵害に対する制裁関税の最終リスト(500億ドル相当、1102品目)を公表する[26](これに対し、中国も翌16日、500億ドル相当の報復関税を実施することを発表する[62]。)。さらに、同年7月10日、中国の知的財産侵害に対する制裁関税の追加措置案(2000億ドル相当、6031品目)を発表する[63](同年9月24日実施され、中国は直ちに600億ドル相当の報復措置をとる[64]。)。

2018年4月12日、米国通商代表部(USTR)のロバート・ライトハイザー(en:Robert Lighthizer)代表と、ラリー・クドロー(en:Larry Kudlow)国家経済会議(NEC)委員長に対して、TPP復帰の検討を指示する。

2018年4月27日の南北首脳会談(板門店宣言)を受け、「北朝鮮が非核化するまでは最大限の圧力を加え続ける」と述べ、安易に制裁緩和に応じない方針を維持すると強調する[65]

2018年5月8日、イラン核合意(JCPOA)から米国が離脱すること、及びイランに対する経済制裁を再び実行することを表明する(同表明をイスラエル及びサウジアラビアは支持したが、アントニオ・グテーレス国連事務総長その他主要国は懸念・失望を示す[66]。また、元CIA長官のジョン・オーウェン・ブレナン(en:John O. Brennan)は、トランプ大統領の狂気が、米国のコミットメントに対する国際的信頼を蝕み、米国の最も近しい同盟国たちを遠ざけ、イランのタカ派を勢いづけ、北朝鮮に核兵器を維持するさらなる理由を与えてしまったと、批判する[67]。2018年6月4日、イランのタカ派とされる最高指導者ハメネイ師は、イラン核合意が無効になった場合にはウラン濃縮活動を加速させるとし、国内担当機関に準備を指示する[68]。)

2018年5月23日、通商拡大法(en:Trade Expansion Act)232条に基づき安全保障に与える影響を理由に、自動車・自動車部品に追加関税を課す輸入制限の検討に入ると発表する[69]

2018年5月23日、同年夏に実施予定の環太平洋合同演習(RIMPAC)への中国に対する招待を取り消したと発表する。南シナ海での軍事拠点化を進める中国を牽制するものであり、バラク・オバマ前政権からの転換を象徴する動きである[70]

2018年5月24日、北朝鮮核・ミサイル問題等に関して同年6月12日に開催が予定されていた米朝首脳会談を中止する考えを表明する[71]。しかし、1日も経たないうちに態度を変え、北朝鮮当局者と生産的な話し合いが持たれたとして、米朝首脳会談が依然として実現し得るとの見解を示す[72]

2018年6月12日、北朝鮮の金正恩と米朝首脳会談を行い、朝鮮半島の完全な非核化、北朝鮮の安全保証等に言及する共同声明を発表する(同声明には、全ての大量破壊兵器及び全ての射程の弾道ミサイルの完全、検証可能かつ不可逆的な廃棄/非核化(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement/Denuclearization)並びにその具体的プロセス及び期限、拉致問題の解決、並びに朝鮮戦争の終結合意について言及がなかった。)[73]

2018年8月9日、衛星利用測位システム(GPS)からミサイル発射検知センサーに至るまで宇宙に関連する軍事能力を管轄する「宇宙軍」(Space Force)を2020年までに創設する計画を表明する[74]

2018年10月1日、北米自由貿易協定(NAFTA)を見直した、米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA、en:United States–Mexico–Canada Agreement、fr:Accord États-Unis-Mexique-Canada、es:Acuerdo Estados Unidos-México-Canadá)の締結を3カ国で合意する。

2018年10月20日、旧ソ連と締結し(1987年)、ロシアに承継された中距離核戦力(INF)全廃条約(en:Intermediate-Range Nuclear Forces Treaty、ru:Договор о ликвидации ракет средней и меньшей дальности、zh:中程导弹条约)を破棄する意向を表明する[75]。射程500kmから5500kmの中距離核戦力は、ロシアにとって主として欧州を標的とするものであるが、シベリアからは日本、中国全体も射程内である。



  • エフゲニー・アファナーシエフ(ru:Афанасьев, Евгений Владимирович、en:Yevgeniy Vladimirovich Afanas'yev)

1947年生。ロシアの外交官。1970年ソビエト連邦外務省入省。駐韓大使・第一アジア局長・駐タイ大使・駐日大使(2012年-2018年)。


  • リチャード・コート(en:Richard Court)

1947年生。オーストラリアの西オーストラリア州首相(1993年-2001年)、駐日オーストラリア大使(2017年~)。日豪経済交流への貢献により、2008年旭日重光章を受章。


  • 王岐山(ワン・チーシャン、zh:王岐山、en:Wang Qishan)


1948年生。中国の国務院副総理(2008年-2013年)、副主席(2018年3月~)。北京市長(2003年-2007年)として2008年開催の北京オリンピックの準備に当たる。

イラン核合意からの米国の離脱、米国による通商拡大法232条に基づく関税引上げ、北朝鮮核・ミサイル問題、シリア騒乱などが懸案となっている2018年5月24日、国家副主席としてロシアを訪問し、ウラジーミル・プーチン露大統領と会談し、両国関係の一層の強化で一致する[76]



  • ハサン・ロウハーニー(ロウハニ、fa:حسن روحانی、en:Hassan Rouhani、zh:哈桑·鲁哈尼)


1948年生。イランの国家安全保障最高評議会議長(1989年‐2005年)、核問題交渉最高責任者(2003年‐2005年)、大統領(2013年~)。テヘラン大学を卒業後、英国のグラスゴー・カレドニアン大学に留学し、博士号を取得。2013年11月24日、米英仏露中独(P5プラス1、the five permanent members of the United Nations Security Council plus Germany)と、イランの核開発の透明性を高める代わりに対イラン制裁の一部を緩和する「第1段階の措置」で合意。2015年7月14日、P5プラス1、EUと「イラン核合意」(JCPOA、en:Joint Comprehensive Plan of Action、 fa:برنامه جامع اقدام مشترک)を行い、これによりイランは濃縮ウラン貯蔵量の削減、遠心分離機の削減など原子力分野の活動を大きく制限される代わりに、米国、EU、国連による制裁が解除される。

2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意離脱表明を受け、同日、同表明を批判するとともに、米国を除く5カ国(独英仏露中)と協議して核合意の目的が達成されるなら、イランは現状を維持する、と表明する[66]

2018年7月22日、ドナルド・トランプ米国政権がイラン産原油の輸入停止を各国に呼びかけていることを受け、禁輸が実行された場合にホルムズ海峡(fa:تنگه هرمز、en:Strait of Hormuz、zh:霍爾木茲海峽)を封鎖する可能性を示唆する[77]

2018年9月7日、イランを訪問したロシアのウラジーミル・プーチン大統領、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領と個別に会談し、3国に経済制裁を課すトランプ米政権に対抗するため連携することで一致する[78]



  • ジョン・ボルトン(en:John R. Bolton、zh:约翰·博尔顿)


1948年生。米国の外交官。国務次官(軍備管理・国際安全保障担当、2001年-2005年)、国連大使(2005年-2006年)、国家安全保障問題担当大統領補佐官(2018年~)。国務次官として、開戦への慎重論も多かった国務省内において、対イラク開戦推進派としてイラク戦争(2003年-2011年)への流れをつくる。


北朝鮮核・ミサイル問題に関する日米首脳会談、南北(韓国・北朝鮮)首脳会談、米朝首脳会談に先立ち、2018年4月12日、日本の谷内正太郎国家安全保障局長、韓国の鄭義溶国家安全保障室長と協議を行う。

2018年4月27日の南北首脳会談(板門店宣言)を受け、4月29日、米国が目指す、北朝鮮の核放棄の具体的な方策として「リビア方式」を念頭においていると述べる。「リビア方式」とは、リビアのカダフィ政権が核開発計画を放棄する際に採った行程であり、同政権の非核化宣言を受け、査察の実施により核計画の完全放棄が確認された後に制裁解除と経済支援を行った一連のプロセスである[79]

2018年5月13日、北朝鮮に要求する恒久的な非核化(PVID)の内容として、全ての核兵器の廃棄・除去(米国への搬入)、ウラン濃縮・プルトニウム再処理能力の放棄、弾道ミサイル及び化学・生物兵器の廃棄を挙げる[80]

2018年7月22日、イランが米国にとって「負の行動」をとった場合に過去にほとんど経験したことがない代償を払うことになるとドナルド・トランプ米国大統領が考えている、との声明を発表する[81]

2018年10月12日、中国は通商、軍事、政治などあらゆる分野で行動を改める必要がある、と発言する[82]



  • デイヴィッド・マイケル・デイヴィス(en:David Michael Davis、zh:戴德偉)

1948年生。イギリスのヨーロッパ担当大臣(1994年-1997年、 en:Minister of State for Europe)・欧州連合離脱大臣(en:Secretary of State for Exiting the European Union、2016年7月13日-2018年7月8日)。テリーザ・メイ(en:Theresa May、zh:文翠珊)首相の下で、内閣府の欧州部門、外務・英連邦省(en:Foreign and Commonwealth Office)欧州局、EU英国政府代表部(en:Committee of Permanent Representatives)出身の職員が統合されて組織された欧州連合離脱省(en:Department for Exiting the European Union)を統括する。しかし、2018年7月8日、EUとの通商関係を重視するメイ首相の示した穏健な離脱方針に反発し、スティーブ・ベーカー(en:Steve Baker)EU離脱担当副大臣とともに辞任する[83]。(さらに、翌9日、ボリス・ジョンソン(en:Boris Johnson)外相も同様の理由で辞任する[84]。)


  • ハムロホン・ザリフィ(tg:Ҳамрохон Зарифӣ、fr:Khamrokhon Zarifi)

1948年生。タジキスタンの外交官・外相。外務次官(1995年-2002年)、駐米大使(非常駐、2002年-2006年)、外相(2006年-2013年)、駐日大使(2015年~)。


  • アントニオ・グテーレス(グテレス、pt:António Guterres、zh:安东尼奥·古特雷斯)


1949年生。ポルトガルの首相(1995年-2002年)、社会主義インターナショナル(en:Socialist International、 ru:Социалистический интернационал、 zh:社會黨國際)議長(1999年-2005年)、国連難民高等弁務官(UNHCR、2005年-2015年)、第9代国際連合事務総長(2017年~)。

2017年7月7日、核兵器禁止条約(核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約、en:Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons)を国連総会で採択する。但し、全核保有国、及び米国の核の傘の下にある日本、ドイツ、カナダ、オーストラリア、韓国などは不参加。

2018年8月8日、安倍晋三首相との共同記者発表において、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化によって、北朝鮮が国際社会の正常なメンバーになることを推進する。」と表明する[85]

2018年8月9日、長崎の平和式典に現職の国連事務総長として初めて参加し、「長崎を地球最後の被爆地にしよう」と呼びかけ、国際社会に核軍縮に全力で取り組むよう求める[86]



  • ベンヤミン・ネタニヤフ(he:בנימין נתניהו、en:Benjamin Netanyahu、zh:本雅明·内塔尼亚胡)


1949年生。イスラエルの首相(1996年-1999年、2009年~)。「イラン核合意」(en:Joint Comprehensive Plan of Action、 fa:برنامه جامع اقدام مشترک)の修正又は破棄を繰り返し求め、2018年4月30日、イランによる秘密裏の核兵器開発計画に関する新たな証拠を入手したと発表する(ただし、イランが核合意の後に、積極的に核兵器の取得に動いた証拠は示さなかった。)[87]

2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意の離脱表明前の同年4月9日から、イスラエルはシリア領内のイラン軍事施設などの空爆を継続し、イランを挑発し、緊張を高める[88][89][90][91]

2018年8月20日、イスラエル訪問中のジョン・ボルトン米国大統領補佐官と共同会見し、イランの核兵器保有を阻止することが最優先課題であると主張し、イラン核合意の存続を目指す欧州諸国に対してイランへの圧力を強めるよう求める[92]

ユダヤ系米国人は親イスラエル的であることが多いが、J Street(en:J Street)のように平和志向的で、パレスチナとの二国家共存を主張するユダヤ人ロビー団体も存在する。



  • セルゲイ・ラブロフ(ru:Лавров, Сергей Викторович、en:Sergey Lavrov、zh:谢尔盖·维克托罗维奇·拉夫罗夫)


1950年生。1972年ソビエト連邦外務省入省。ロシアの外務次官・国連大使(1994年-2004年)・外務大臣(2004年~)。

2018年5月14日、イランのザリフ外相と会談し、米国が離脱表明したイラン核合意の堅持を確認し、在イスラエル米国大使館の移転問題にも触れ、米国政権は重要な国際合意を修正しようとしていると述べ、欧州や中国を交えた対応協議に意欲を示す[13]

2018年5月31日、北朝鮮を訪問し、李容浩外相と会談し、「北朝鮮の非核化にはいくつかの段階を経なければならない」と指摘し[93]、さらに金正恩国務委員長と会談し、「ロシアは朝鮮半島と北東アジア全体の平和と安定、繁栄に関心がある」と述べる[94]



  • 楊潔篪(ヤン・チェチー、en:Yang Jiechi、zh:杨洁篪)


1950年生。中華人民共和国の外交官。駐米大使(2001年-2005年)、外交部長(2005年-2013年)、国務委員(外交担当、2013年~)。

2018年11月9日、マイク・ポンペオ米国務長官、ジェームズ・マティス米国防長官と米中外交・安全保障対話を行い、米国から南シナ海問題・台湾問題・ウイグル族ら中国内の弾圧の問題を指摘されたことに対し、激しく反発し、米国による航行の自由作戦の中止を要求する[95]



1951年から1953年に生誕した者



  • ミシェル・バルニエ(fr:Michel Barnier)

1951年生。フランスの欧州問題担当国務大臣・外務大臣、域内市場・サービス担当欧州委員、ブレグジット(en:Brexit)に関する欧州連合(EU)の首席交渉官(2016年~)。2018年5月14日、ブレグジットに関し、アイルランド国境問題などで交渉が難航していると指摘し、「英国の秩序ある離脱に向けた準備にはさらなる作業が必要である」とし、同年3月以降、交渉の顕著な進展がないとして、同年秋の最終合意までの時間的な懸念を表明する[96]


  • ゴンサロ・デ・ベニート・セカデス(es:Gonzalo de Benito Secades)

1951年生。スペインの外交官。駐スイス大使(2003年-2008年)、駐アラブ首長国連邦大使(2009年-2011年)、外務副大臣(2012年-2014年)、駐日大使(2014年~)。


  • リー・シェンロン(en:Lee Hsien Loong、zh:李显龙)

1952年生。シンガポールの首相(2004年~)。2018年4月28日、東南アジア諸国連合(ASEAN、en:Association of Southeast Asian Nations、zh:东南亚国家联盟)の首脳会議を議長として開催し、台頭する保護貿易主義と反グローバル心理に深い憂慮を表明するとともに、ASEANが進める東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnership、zh:区域全面经济伙伴关系协定)の交渉を加速させ、自由貿易を推進する立場を明確にすると表明する[97]。父はリー・クアンユー(en:Lee Kuan Yew、zh:李光耀)


  • スシュマ・スワラージ(hi:सुषमा स्वराज、en:Sushma Swaraj)

1952年生(女性)。インドの外相(2014年~)。2018年5月28日、ドナルド・トランプ米国政権によるイラン核合意からの離脱・対イラン経済制裁の再開に関し、国連による制裁措置のみを遵守し、米国による対イラン制裁など他国の措置には従わない方針を示す。イランはインドの主要原油調達先で、両国は長年にわたり政治・経済面で良好な関係を保っている[98]


  • レックス・ティラーソン(en:Rex Tillerson、zh:雷克斯·蒂勒森)

1952年生。米国の第69代国務長官(2017年2月~2018年3月)。北朝鮮の核・ミサイル問題が続く2017年12月22日、北朝鮮が崩壊する事態に備え中国と話し合い、核兵器をきちんと回収するため米軍が北緯38度線を越えて北朝鮮に進入したとしても、「環境が整えば」米軍は撤退することを中国に保証している、と発言する[99]。ドナルド・トランプ大統領のイラン核合意の破棄、NAFTA離脱、鉄鋼・アルミニウムの輸入制限等の主要な方針を抑制する立場であったが、2018年3月に国務長官を解任される[100]。エクソンモービル会長兼CEO(2006年-2017年)


  • ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ(el:Γιώργος Α. Παπανδρέου、en:George Papandreou、zh:乔治·帕潘德里欧)

1952年生。ギリシャの外務大臣(1999年-2004年、2009年-2010年)、首相(2009年-2011年)。首相として2010年欧州ソブリン危機に対応する。社会主義インターナショナル議長(2008年~)。


  • クリストファー・ヒル(en:Christopher R. Hill、zh:克里斯托弗·罗伯特·希尔)

1952年生。米国の外交官。東アジア・太平洋担当国務次官補・北朝鮮核問題をめぐる六者会合のアメリカ首席代表や駐イラク大使を歴任する。2005年9月に北朝鮮の『段階的』な核放棄を盛り込んだ共同声明を取りまとめる[101]


  • ヴィオレル・イスティチョアイア=ブドゥラ(ro:Viorel Isticioaia-Budura)

1952年生。ルーマニアの外交官。駐韓大使・駐中国大使。駐日EU大使(駐日欧州連合代表部の代表、2014年~)。


  • ウラジーミル・プーチン(ru:Путин, Владимир Владимирович、en:Vladimir Putin、zh:弗拉基米尔·弗拉基米罗维奇·普京)


1952年生。ロシア連邦大統領(2000年-2008年、2012年~)、首相(1999年-2000年、2008年-2012年)。2001年5月中国、中央アジア諸国と上海協力機構(en:Shanghai Cooperation Organisation、 zh:上海合作组织、fr:Organisation de coopération de Shanghai、 de:Shanghaier Organisation für Zusammenarbeit、 ru:Шанхайская организация сотрудничества、 tr:Şanghay İşbirliği Örgütü、 fa:سازمان همکاری شانگهای、 ar:منظمة شانغهاي للتعاون)を設立、同年7月中国の江沢民と中露善隣友好協力条約(en:2001 Sino-Russian Treaty of Friendship、 zh:中俄睦邻友好合作条约、 ru:Российско-китайский договор о добрососедстве, дружбе и сотрудничестве)を締結。2014年クリミア危機際してクリミア半島をロシア連邦に編入する(en:Annexation of Crimea by the Russian Federation)。

2018年6月12日開催予定の米朝首脳会談の直前である、同月8日、訪中し、習近平と会談し、中露の友好関係を強調するとともに、北朝鮮の非核化へ歩調を合わせて対応する方針を表明する[102]

2018年8月18日、ドイツを訪問し、アンゲラ・メルケル独首相と、独露間を直接結ぶ天然ガスパイプライン事業「ノルドストリーム2」を推進することで一致する。米国に加え、バルト3国、ポーランド、ウクライナも、自国を通過する欧露間のパイプラインの重要性が低下し、ロシアの威圧を受け易くなるとして、反発する[103]



  • 習近平(シー ジンピン、zh:习近平、en:Xi Jinping)


1953年生。中華人民共和国(zh:中华人民共和国・Zhōnghuá Rénmín Gònghéguó、en:People's Republic of China (PRC))の国家主席(2013年~)。中国共産党(zh:中国共产党・ Zhōngguó Gòngchǎndǎng、 en:Communist Party of China、 fr:Parti communiste chinois、de:Kommunistische Partei Chinas、 es:Partido Comunista de China、 ru:Коммунистическая партия Китая、 ar:الحزب الشيوعي الصيني、 tr:Çin Komünist Partisi)の中央委員会総書記(2012年~)・中央軍事委員会主席(2012年~)。

『一帯一路』(zh:一带一路・Yídài yílù、en:One Belt One Road Initiative)の経済圏構想を唱える。

2015年に台湾の馬英九総統とシンガポールで、1949年の中台分断後初の首脳会談を行い、「一つの中国」原則を確認した「92コンセンサス(九二共識)」を基に、平和的な関係を築く考えで一致する。

2015年11月、中国と中東欧16カ国をメンバーとする第4回中国・中東欧諸国首脳会議において「16プラス1協力」が中国と欧州の包括的・戦略的パートナーシップの重要な構成部分、有益な補完であると指摘する[104]

2017年の中国共産党第十九回全国代表大会では、小康社会(少しゆとりのある社会、zh:小康社会)の全面的完成を目標とし、「中国の夢の実現は平和な国際環境と切り離しては考えられない」と述べる[105]

父である習仲勲(シー・チョンシュン)は、胡耀邦党総書記に並ぶ開明派であり、全人代常務副委員長として、1982年の憲法改正を主導し、行き過ぎた党治・人治が文化大革命を引き起こしたとの反省から、個人独裁を防ぐため、「法に基づく国家統治(法治)」を目指し、国家主席任期を2期10年に制限した[106]。しかし、習近平は、2018年3月の全人代で国家主席の任期を撤廃する憲法修正を行う。


ドナルド・トランプ米国大統領によるNAFTA見直し、在イスラエル米国大使館のエルサレム移転、イラン核合意離脱表明、鉄鋼・アルミニウムに対する高関税賦課により、米国と、EU、日本、カナダ、メキシコの足並みが乱れる中、カナダで開催される第44回G7首脳会議(サミット)に重ねて、2018年6月9日、上海協力機構(SCO)首脳会議を開催し、ロシア(プーチン大統領)、インド(モディ首相)、イラン(ロウハニ大統領)との連携を図る。

2018年6月下旬、外交政策に関する共産党中央外事工作委員会(zh:中央外事工作委员会、en:Central Foreign Affairs Commission)において、(1)大国関係はうまく整え、安定的でバランスのよい関係に向けた枠組み作りを目指す、(2)周辺外交に取り組み、中国に有利な近隣環境を作る、(3)発展途上国は国際実務における生来の同盟軍であり、協力と団結に取り組む、との方針を示す[63]

2018年11月5日、第1回国際輸入博覧会の開幕演説において、「目下の国際、国内の経済情勢の下、中国経済の発展も突出した矛盾と問題に突き当たっている。一部中国企業の経営が困難に直面し、リスクが増大している。」と述べる[107]



  • アリフィン・タスリフ(id:Arifin Tasrif)

1953年生。駐日インドネシア大使(2017年~)。バンドン工科大学で化学工学博士号を取得。国営肥料会社ペトロキミア・グレシック(id:Petrokimia Gresik)に勤務し、1986年から1987年にかけて日本事務所長として日本に滞在。持株会社ププック・インドネシア(id:Pupuk Indonesia Holding Company)社長(2010年-2015年)。


  • ハンス・カール・フォン・ヴェアテルン(de:Hans Carl von Werthern、zh:魏翰楷)

1953年生。ドイツの外交官。1984年西ドイツ外務省入省。2007年駐中国大使館文化参事官・政治部長・公使。駐日ドイツ大使(2014年~)。


  • 王毅(ワン イー、zh:王毅、en:Wang Yi)


1953年生。中国の外交官。1982年中華人民共和国外交部入省。駐日大使館参事官(1989年-1994年)、駐日大使(2004年-2007年)、外交部長(外相、2013年~)、国務委員(2018年~)。中国共産党中央委員(2007年~)。


尖閣諸島国有化問題(zh:日本政府购买钓鱼岛事件)を契機に途絶えていた、8年ぶりとなる日中ハイレベル経済対話(zh:中日经济高层对话)を、2018年(平成30年)4月16日、王毅が河野太郎外務大臣と共同議長として開催し、自由貿易体制の重要性、並びに日中韓の自由貿易協定(FTA)及び東アジア地域包括的経済連携(RCEP、en:Regional Comprehensive Economic Partnership、zh:区域全面经济伙伴关系协定)の締結に向けた協力を確認する[27]

北朝鮮の核・ミサイル問題に関し、2018年4月27日の南北首脳会談(板門店宣言)の後、米朝首脳会談を前に、同年5月2日から3日、北朝鮮を訪問し、金正恩国務委員長、李容浩外相と会談する。

2018年5月23日、同年夏に実施予定の環太平洋合同演習(RIMPAC)への中国に対する招待を米国が取り消したのに対し、「非建設的で軽率な行動だ。中米の相互理解の役に立たない。」と批判する[70]

2018年5月28日、上海協力機構首脳会議を6月9日、10日の両日に青島市で開催すると発表する。ウラジーミル・プーチンロシア大統領、ハサン・ロウハーニーイラン大統領が出席予定であり、6月12日開催の米朝首脳会談の直前に、北朝鮮の段階的非核化の立場を擁護し、ドナルド・トランプ米国政権を牽制する可能性がある[108]



1954年から1956年に生誕した者



  • 慈成男(チャ ソンナム、ko:자성남、en:Ja Song Nam)

1954年生。朝鮮民主主義人民共和国の外交官。駐英大使(2006年-2011年)、国連常駐代表(2014年~)。2017年12月15日に開催された、北朝鮮の核・ミサイル問題を協議する国連安全保障理事会閣僚級会合に出席し、核開発が米国の脅威に対する自衛措置であるとして、「北朝鮮は、世界で最強の核軍事国家として、大きく発展するよう前進する」と発言する。


  • アンゲラ・メルケル(de:Angela Merkel、zh:安格拉·梅克爾)


1954年生(女性)。ドイツの環境・自然保護・原子力安全担当大臣(1994年-1998年)・首相(2005年~)。ポーランド系ドイツ人。西ドイツのハンブルグで出生したが、生後まもなく東ドイツに移住する。同国で理論物理学を専攻し博士号を取得する。1990年の同国最後の選挙で当選し、ドイツ再統一後、女性・青少年問題担当大臣に抜擢される。2014年4月、訪独した習近平中国国家主席に、新疆、チベット、内蒙古が清の領土外であった頃の古地図を贈る。2015年、100万人を超える難民のドイツへの移入を許可する。

2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意(JCPOA)離脱表明を受け、同日、テリーザ・メイイギリス首相、エマニュエル・マクロンフランス大統領と共同声明を発表し、全関係者にイラン核合意実施継続への努力維持と責任感ある行動を要請する、と表明する[109]

2018年5月18日、ロシアを訪問し、ウラジーミル・プーチン大統領と会談し、イラン核合意、ロシアが軍事介入するシリア、ウクライナの問題を協議し、「欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)とロシアの対話を支持する」と表明し、「米国第一」を掲げるトランプ米国大統領への不信感を背景に、ロシアとの協調を図る[110]

2018年5月24日、中国を訪問し、李克強中国首相と会談し、自由貿易体制の堅持とイラン核合意の維持で合意し、トランプ米国政権を牽制する[111]

2018年8月18日、ドイツを訪問した、ロシア大統領プーチンと、独露間を直接結ぶ天然ガスパイプライン事業「ノルドストリーム2」を推進することで一致する。米国に加え、バルト3国、ポーランド、ウクライナも、自国を通過する欧露間のパイプラインの重要性が低下し、ロシアの威圧を受け易くなるとして、反発する[112]

2018年11月13日、欧州議会(en:European Parliament)において、NATOの下での欧州と米国の協力と両立できるとの認識を示しながら、「欧州を守るには欧州自体が強くなるしかない」と強調し、「私たちはいつの日か、真の欧州軍を創設するという構想に取り組まなければならない」と訴える(これは、フランスのマクロン大統領の提唱に同調したものである。)。また、欧州安全保障理事会(en:European Security Council)の設立も呼び掛ける[113]



  • 程永華(チョン ヨンホワ、zh:程永华、en:Cheng Yonghua)

1954年生。中国の外交官。1973年日中国交正常化後初の中国人留学生として来日。1977年から1983年まで駐日大使館勤務。2003年駐日公使、駐マレーシア大使、駐韓大使、駐日大使(2010年~)。


  • 呉釗燮(ウ・ジャオシエ、zh:吳釗燮、en:Joseph Wu)

1954年生。中華民国(台湾)の外交官、駐米代表(2007年-2008年)、外交部長(2018年~)。2018年5月24日、西アフリカのブルキナファソが台湾に断行の通告を行ったことに対し、「中国が唯一の原因である」と非難する。蔡英文政権成立後、台湾と断行した国は4カ国目であり、台湾と外交関係のある国は18カ国に減少する[70]


  • 李俊揆(イ ジュンギュ、ko:이준규)

1954年生。韓国の外交官。慶應義塾大学訪問研究員として研究生活を送る。1993年、外交部通商第1課長として日韓貿易分野を担当する。1996年12月から在日韓国大使館の参事官を務める。駐日大使(2016年~)。


  • ジョセフ・ユン(en:Joseph Y. Yun)

1954年生。米国の外交官。韓国で生まれ、1964年まで同国で育つ。駐マレーシア大使(2013年-2016年)。米国の北朝鮮担当特別代表(2016年10月~2018年3月)。


  • コンドリーザ・ライス(en:Condoleezza Rice)

1954年生(女性)。米国の国家安全保障問題担当大統領補佐官(2001年-2005年)・国務長官(2005年-2009年)。アフリカ系アメリカ人女性初の国務長官。


  • ジャン=クロード・ユンケル(fr:Jean-Claude Juncker、zh:让-克洛德·容克)


1954年生。ルクセンブルクの首相(1995年-2013年)、欧州委員会委員長(2014年~)。

2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意(JCPOA)離脱、経済制裁の再実施の表明を受け、同月17日、米国による経済制裁から欧州企業を守る義務があるとして、対抗手段として、欧州企業に対してEU域外の第三国による経済制裁に従わないよう命じる「ブロッキング規則」の発動プロセスに入ると表明する。同規則は1990年代に米国の対キューバ制裁への対抗策として制定されたが、これまで発動されたことはない。また欧州投資銀行(EIB)にイラン関連融資を認める方針を表明する。[114]

2018年5月31日、トランプ米政権がEU、カナダ、メキシコから輸入する鉄鋼、アルミニウムに6月1日から追加関税を発動すると発表したことに対し、直ちに、EUによる報復関税と世界貿易機関(WTO)への提訴の方針を発表する[61](同月8日、WTOにおける米EU間の協議に日本が参加意向であることをWTOに通知する[30]。)。

2018年9月12日、欧州議会の施政方針演説で、EUの共通外交政策の意思決定を早め、EUの国際的な存在感を強めるため、全会一致原則を見直し、加盟国の規模などを加味した「特定多数決」の活用を提案する[115]



  • ジョン・ルース(en:John Roos)

1955年生。第28代駐日アメリカ合衆国大使(2009年-2013年)。2010年8月6日、米国政府代表として初めて広島平和記念式典に出席、同年9月26日、長崎県の原子爆弾落下中心地碑に献花をした。2012年8月9日、駐日米国大使として初めて長崎平和祈念式典に参加した。株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループグローバル・アドバイザリーボード委員(2013年~)、ソニー株式会社取締役(2014年~)。


  • 康京和(カン・ギョンファ、ko:강경화、en:Kang Kyung-wha)


1955年生(女性)。大韓民国の外交官・外交部長官(外務大臣)。英語通訳の能力を買われ、1999年外交官試験を経ずに外交通商部に特別採用され、外交通商部長官補佐官に就任。2001年国連代表部公使。2006年国際連合人権高等弁務官事務所副代表。2017年から韓国史上初の女性の外交部長官。

2018年6月12日の米朝首脳会談後の同年8月、ASEAN地域フォーラム(ARF)の際に、北朝鮮の李容浩外相に会談を打診したが拒否される[116]



  • 李克強(リー・クーチアン、zh:李克强、en:Li Keqiang)


1955年生。中国の国務院総理(首相、2013年~)。2018年5月、3年ぶりに開催された日中韓首脳会談のために来日し、日中韓自由貿易協定(FTA)と東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の交渉を加速させることを表明するとともに、ドナルド・トランプ米国政権を念頭に「経済のグローバル化を推し進め、合理的に問題を解決し、高く貿易の自由化を掲げ、保護主義に対抗していこう」と呼びかける。

2018年5月24日、訪中したアンゲラ・メルケルドイツ首相と会談し、朝鮮半島問題についてメルケルが非核化の実現に期待を示したのに対し、李克強は対話による解決を主張し、米朝首脳会談の開催を支持する[117]。(その後、同日、ドナルド・トランプ米国大統領は、同年6月12日開催が予定されていた米朝首脳会談を中止する考えを表明する[69]。)

2018年8月12日、日中平和友好条約の署名40年を迎え、安倍晋三首相と祝電を交換し、「互恵協力を深め、意見の相違を適切にコントロールし、中日関係の長期的で健全かつ安定した発展を推進していく」と表明する[116]



  • ハリー・B・ハリス・ジュニア(en:Harry B. Harris Jr.、zh:哈里·B·哈里斯)


1956年生。神奈川県横須賀市出身。母は神戸出身の日本人。アメリカ海軍の軍人、海軍大将(en:Admiral)、第24代アメリカ太平洋軍司令官。米国海軍史上初のアジア系(日系)の大将である。2018年5月18日、駐韓米国大使に指名される。2018年4月、旭日大綬章受賞。

2018年5月30日、米国の太平洋軍は、ハリスの軍司令官離任式において、米国戦略構想でインド洋の重要性が高まっていることを反映して、インド太平洋軍(Indo-Pacific Command)に改称すると発表される[118]



  • テリーザ・メイ(en:Theresa May、zh:文翠珊)

1956年生(女性)。イギリスの首相(2016年7月13日~)。デーヴィッド・キャメロン前首相の下で、2016年6月13日に行われたイギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票で離脱票が過半数となった責任を取り、キャメロンが辞任したため、後任首相となる。同年7月14日、欧州連合離脱省(en:Department for Exiting the European Union)を設置する。2017年3月29日、ドナルド・トゥスクEU大統領に対し、リスボン条約第50条に基づき、欧州連合からのイギリス脱退(en:Brexit)を正式に通知する。以降、秩序ある脱退に向け、脱退後のEUとイギリスの関係について交渉が開始される。デイヴィッド・マイケル・デイヴィスが欧州連合離脱担当大臣を辞任した後の2018年7月24日、「自らがEUとの交渉を率い、欧州連合離脱担当大臣は私の補佐としての役割を担う」を表明する[119]


  • 李容浩(リ・ヨンホ、ko:리용호、en:Ri Yong-ho)


1956年生。朝鮮民主主義人民共和国の外交官・外務大臣。2003年駐英大使、2011年、北朝鮮の核開発問題を話し合う6カ国協議(en:Six-party talks、zh:六方会谈、ru:Шестисторонние переговоры、ko:6자 회담)の主席代表、2016年から外務大臣・国務委員会委員。

2018年6月12日の米朝首脳会談後の同年8月、ASEAN地域フォーラム(ARF)の際に、韓国の康京和外相に会談を打診されたが拒絶する[116]

2018年8月9日、米国によるイラン核合意からの離脱・経済制裁再開の問題の渦中にあるイランを訪問し、ラリジャニ国会議長と会談し、「北朝鮮は米国との交渉で非核化に合意したが、核に関する科学的知識は保持していく。米国がわれわれへの敵対心を捨てないことを知っているからだ。」と述べる[120]。なお、北朝鮮は、過去、イランの核開発計画に協力したことがあると言われる(イランと北朝鮮の関係)。

2018年9月29日、国連総会の一般討論演説で、「米国との信頼関係なくしては国家の安全保障に自信を持つことができず、先に一方的に核武装を解除することは断じてない」として、非核化措置を先行させる考えを否定し、朝鮮戦争の終結宣言を通じた体制の保証を要求する[121]



1957年から1959年に生誕した者



  • アフメト・ビュレント・メリチ(tr:Ahmet Bülent Meriç)

1957年生。トルコの外交官。1980年財務省入省、1981年外務省に転省。駐シンガポール大使(2007年-2009年)、駐ウクライナ大使(2009年-2011年)、外務省国際安全保障局長(2011年-2014年)、駐日大使(2014年-2017年)。配偶者は日本生まれでトルコ国籍のアイリン・クミコ。


  • ドナルド・トゥスク(pl:Donald Tusk)

1957年生。ポーランドの首相(2007年-2014年)、欧州連合大統領(欧州理事会議長、2014年~)。2018年6月27日、EU加盟国首脳らに米欧関係の悪化を巡って、最悪のシナリオに備えなければならないと呼びかけ、ドナルド・トランプ米国大統領の「米国最優先」の政策が米欧の通商分野の対立にとどまらず、第二次世界大戦後の安定を支えてきた大西洋同盟全体に亀裂をもたらしているとの懸念を強調する[122]


  • マウロ・ペトリチオーネ(it:Raffaele Mauro Petriccione)

1957年生。イタリア出身の欧州公務員。日本・EU経済連携協定(EPA)のEU側の主席交渉官。欧州委員会貿易総局次長(Deputy Director-General, Directorate-General for Trade, the European Commission、2014年~)。


  • キャロライン・ケネディ(en:Caroline Kennedy)

1957年生(女性)。第29代駐日アメリカ合衆国大使(2013年-2017年)。前任の駐日大使ジョン・ルースと同様に広島市、長崎市での平和式典に出席(2016年を除く)するとともに、国務長官ジョン・ケリーとともに現職の大統領バラク・オバマの広島訪問を推し進めた一人とされる。父ジョン・F・ケネディ第35代米国大統領と母ジャクリーン・ケネディの長女。


  • スジャン・ロメーシュチャンドラ・チノイ(en:Sujan R. Chinoy)

1958年生。インドの外交官。中国と東アジアを専門とする。インド国家安全保障委員会(en:National Security Council of India)事務局勤務(2009年-2012年)、駐日大使(2015年~)。


  • アハマッド・アルバラック(ar:أحمد بن يونس البراك、 en:Ahmad Younos Sulaiman Al Barrak)

1958年生。サウジアラビアの外交官。1982年外務省入省。国連サウジアラビア政府代表部(2002年-2008年)、外務省国際関係総局長(2008年-2010年)、駐韓国大使(2010年-2015年)、駐日大使(2015年~)。


  • ポール・マデン(en:Paul Madden)

1959年生。イギリスの外交官。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院にて日本語を学ぶ。1980年-1987年、貿易産業省(現、国際通商省、DIT、en:Department for International Trade)。1988年外務・英連邦省入省、4年間日本に赴任(経済・貿易政策部一等書記官)。駐日大使(2017年~)。


  • マイク・ペンス(en:Mike Pence)


1959年生。米国の副大統領(2017年~)。2018年10月4日、ワシントンの政策研究機関ハドソン研究所(en:Hudson Institute)で演説し、中国の外交政策等を批判し、国際慣行を無視した経済活動や覇権主義的な海洋進出を展開する中国に「決して屈しない」と訴え、中国に態度変更を厳然と求めていくと強調する[123]。この演説を、第二次世界大戦後のソ連との冷戦の到来を告げたウィンストン・チャーチル元英首相の「鉄のカーテン」演説と重ねる向きもある[124]

2018年11月17日、アジア太平洋経済協力(APEC、en:Asia-Pacific Economic Cooperation、zh:亚太经济合作组织)首脳会議のため訪問したパプアニューギニアにおいて、習近平の面前で、巨額の対米貿易黒字を抱える中国を非難し、不均衡是正のための輸入関税の上乗せを正当化し、中国が貿易慣行を改めるまで変更しないと強調し、さらなる追加制裁関税も示唆する[125]。同年のAPECは、米中対立のため、首脳宣言採択の断念という異例の事態となる[126]



  • カレン・ピアース(en:Karen Pierce)

1959年生(女性)。イギリスの外交官。1981年外務・英連邦省(FCO、en:Foreign and Commonwealth Office)入省、日本語研修後、東京で三等書記官として勤務(1984年-1987年)。在ジュネーブ国連機関常駐代表(2012年-2015年)、駐アフガニスタン大使(2015年-2016年)、国連大使(2018年~)。


  • グエン・クオック・クオン(vi:Nguyễn Quốc Cường・阮國强)

1959年生。ベトナムの外交官。外務副大臣(2008年-2011年、2014年-2015年)、駐米大使(2011年-2014年)、駐日大使(2015年~)。


  • トゥレイン・タン・ズィン(en:U Thurain Thant Zin)

1959年生。駐日ミャンマー大使(2015年~)。ミャンマーの防衛大学で修学後、国軍に入隊。2012年に外務省に入省。


  • モルテザー・ラフマーニー・モヴァッヘド(en:Morteza Rahmani Movahed、fa:مرتضی رحمانی موحد‎)

1959年生。イランの外交官。駐日イラン大使(2018年~)


1960年から1962年に生誕した者



  • モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ(ザリフ、fa:محمدجواد ظریف、 en:Mohammad Javad Zarif、zh:穆罕默德·贾瓦德·扎里夫)


1960年生。イランの外交官。国連大使(2002年-2007年)、外相(2013年~)。2015年7月14日、P5+1、EUとイランの核開発問題に関するイラン核合意(en:Iran nuclear deal framework、包括的共同作業計画(JCPOA)、en:Joint Comprehensive Plan of Action、fa:برنامه جامع اقدام مشترک)に調印する。

イラン核合意は、一定期間に限りイランによる開発・実験を制限するにとどまる(サンセット条項)ことに加え、イランによるミサイル開発・実験について言及しておらず、かつ、「核兵器を搭載可能な弾道ミサイルの開発と発射」を禁じる、合意以前の安保理決議1737号、1747号、1803号及び1929号を失効させることになったが、新たな安保理決議2231号(2015年7月20日)では、イランは「核兵器を運搬できるように設計されたミサイルを発射しないように要請された」(Iran is called upon not to undertake any activity related to ballistic missiles designed to be capable of delivering nuclear weapons)にとどまる[127]

2018年5月8日のドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意離脱表明を受け、同日、同表明を批判するとともに、ロウハニ大統領の指示により、イランが核合意から十分な恩恵を得ることを、他の合意当事国(独英仏露中)が担保するか否かを見極める外交的取り組みを主導する、と表明する[128]。同月13日に中国の王毅外相と、同月15日にロシアのラブロフ外相と、同月16日に独英仏の各外相とモゲリーニEU外交安全保障上級代表と協議し、米国抜きでも核合意の堅持を目指す方針を確認する[129]

2018年7月16日、イランは、国際司法裁判所に米国の核合意離脱を巡り、米国による経済制裁の即時解除を求めて提訴する(米国とイラン革命前の王制イランが締結した1955年の友好経済関係条約(Treaty of Amity and Economic Relations)に違反すると主張する。)[130]



  • ミハイル・ガルージン(ru:Галузин, Михаил Юрьевич)

1960年生。ロシアの外交官。駐インドネシア大使(2012年-2017年)、駐日大使(2018年~)。駐日ソ連大使館(1983年-1986年)、駐日ロシア大使館(1992年-1997年、2001年-2008年)に勤め、ロシア外務省で日本を担当する第3アジア局長(2010年-2012年)を務めた知日派であり、日本語・英語に堪能で、日露首脳会談の通訳の経験もある[131]


  • ウィリアム・F・ハガティ(en:William F. Hagerty)

1960年生。第30代駐日アメリカ合衆国大使(2017年~)。ボストン・コンサルティング・グループの上級駐在員として東京に3年間(1988年-1991年)滞在したことがある。


  • アッバース・アラーグチー(アラグチ、fa:سید عباس عراقچی、en:Abbas Araghchi)

1960年生。イランの外交官。1989年イラン外務省入省。駐フィンランド大使(1999年-2003年)、駐日大使(2007年-2011年)、法律・国際問題担当外務次官(2013年~)。P5+1(5常任理事国とドイツ)との核協議における首席交渉官。姓を「アラグチ」と表記されることが多いが、日系人ではなく、日本姓との関連はない。


  • ソン・キム(en:Sung Kim、ko:성 김、zh:金成)

1960年生。韓国系米国人。米国の外交官。韓国で生まれ、1973年まで韓国で育つ。駐韓国大使(2011年-2014年)、駐フィリピン大使(2016年~)。バラク・オバマ政権での六カ国協議担当特使(2008年-2011年)、北朝鮮担当特別代表(2014年-2016年)を務め、ドナルド・トランプ政権での、北朝鮮の核・ミサイル問題に関する2018年6月12日開催の米朝首脳会談の実務者協議団代表を務める(北朝鮮側のカウンターパートは崔善姫外務次官。)[101]


  • 崔善姫(チェ・ソンヒ、ko:최선희)


1960年頃生(女性)。北朝鮮の外交官。1980年代半ばに外務省入省。米州局副局長、六者会合次席代表、北米局長。外務次官(2018年~)。2018年5月24日、外務次官として、『核対核の最終決戦』にも言及し[132]、「米国が我々の善意を冒涜して非道に振る舞うなら、朝米首脳会談の再考を金正恩委員長に提起する」として、首脳会談を取りやめる可能性に言及する[69]。(その後、同日、ドナルド・トランプ米国大統領は、同年6月12日開催が予定されていた米朝首脳会談を中止する考えを表明する[69]。)

2018年10月9日、中国・ロシアとの外務次官協議を行い、3カ国の共同声明として、北朝鮮が有意義かつ実践的な非核化措置をとっており、適切な時期に同国に対する制裁の見直しを始める必要性について見解の一致を見たと発表する(これを受け康京和韓国外相も独自制裁緩和を示唆し、韓国と日米両国との足並みの乱れが示される。)[133]



  • リサ・キンゴ(en:Lise Kingo、da:Lise Kingo)

1961年生(女性)。デンマーク生。グローバル企業に持続可能かつ社会的責任ある政策を採用することを促す国連グローバル・コンパクト(en:United Nations Global Compact)事務局長(2015年~)。


  • バラク・オバマ(en:Barack Obama、zh:贝拉克·奥巴马)


1961年生。アメリカ合衆国(en:United States of America、 fr:États-Unis d'Amérique、 de:Vereinigte Staaten von Amerika、 es:Estados Unidos de América、 ru:Соединённые Штаты Америки、 zh:美国・美利堅合眾國、 ar:الوِلاَيات المُتّحِدَة الأمِيرْكِيّة、 fa:ایالات متحده آمریکا、 tr:Amerika Birleşik Devletleri)の第44代大統領(2009年-2017年)。史上初のアフリカ系アメリカ人(いわゆる黒人)の米国大統領。

オバマ政権は、「中国が国際的なルールを遵守する限りにおいて、平和的で繁栄する中国の台頭を歓迎する。」との基本的な立場をとる[134]

2009年プラハ演説で、米国が先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意を表明する。

2010年3月、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領と新戦略兵器削減条約(新START、en:New Strategic Arms Reduction Treaty)を合意し、2011年2月、ミュンヘン安全保障会議(MSC、en:Munich Security Conference)において批准書を交換し、発効させる。

2015年キューバと54年ぶりに国交正常化実現、翌年キューバを訪問する。

2016年現職の大統領として初めて広島を訪問し、広島平和記念公園・広島平和記念資料館を視察、慰霊碑に献花し、「核兵器なき世界」に向けた所感を述べた。



  • アサド・マジード・カーン(en:Asad Majeed Khan)

1961年頃生。パキスタンの外交官。1990年から1991年に日本にて語学研修。在東京パキスタン大使館二等書記官(1993年-1996年)。九州大学にて国際経済法及び国際商法博士号取得(2002年)。国連パキスタン政府代表部公使・参事官(2004年-2010年)、駐日大使(2017年~)。


  • アーディル・アル=ジュベイル(ar:عادل الجبير、 en:Adel al-Jubeir)

1962年生。サウジアラビアの外交官。駐米大使(2007年-2015年)、外務大臣(2015年~)。2018年5月8日にドナルド・トランプ米国大統領がイラン核合意(JCPOA)からの離脱を表明したことを受け、同月9日、もしイランが核開発を再開するのであれば、サウジアラビアもあらゆる手を尽くして同じことをする、と明言する[135]


  • ワシーリー・ネベンジャ(ru:Небензя, Василий Алексеевич、 en:Vasily Nebenzya)

1962年生。ロシアの外交官。国連大使(2017年~)。2018年4月12日、国連安全保障理事会において、ニッキー・ヘイリー米国国連大使が提案した、シリア騒乱における化学兵器使用の加害者を特定する独立調査団の設置案に対し、拒否権を行使する(なお、中国は棄権。これに対し、同月13日(ニューヨーク時間午後9時頃、シリア時間14日未明)、英米仏軍は、シリアの化学兵器関連施設を巡航ミサイルトマホークで攻撃する。)。


  • イーホル・ハルチェンコ(uk:Харченко Ігор Юрійович、 en:Ihor Kharchenko)

1962年生。ウクライナの外交官。駐ルーマニア大使(1998年-2000年)、外務副大臣(2000年-2003年)、駐ポーランド大使(2003年-2005年)、駐英大使(2005年-2010年)、駐日大使(2013年~)。2014年クリミア危機に際して、度々、ウクライナの領土保全を主張する。


  • レザー・ナザルアーハーリー(fa:رضا نظرآهاری、 en:Reza Nazar Ahari)

1962年生。イランの外交官。駐フィンランド大使(兼駐エストニア大使、2006年-2009年)、駐日大使(2012年-2017年)。


  • ハーバート・マクマスター(en:H. R. McMaster、zh:H·R·麥克馬斯特)

1962年生。米国の国家安全保障問題担当大統領補佐官(2017年2月~2018年4月)。陸軍中将。


1963年から1965年に生誕した者



  • 馬朝旭(マ・ジャオシュ、zh:马朝旭、en:Ma Zhaoxu)

1963年生。中国の外交官、駐豪大使(2013年-2016年)、在ジュネーブ国連機関常駐代表(2016年-2018年)、国連大使(2018年~)。


  • フランソワ・デラトル(fr:François Delattre)

1963年生。フランスの外交官、駐カナダ大使(2008年-2011年)、駐米大使(2011年-2014年)、国連大使(2014年~)。


  • マイク・ポンペオ(en:Mike Pompeo、zh:邁克·蓬佩奧)


1963年生。イタリア系アメリカ人。米国の中央情報局(CIA)長官(2017年-2018年4月)、国務長官(2018年4月26日~)。

2017年、CIA長官として韓国を訪問し、脱北した北朝鮮の元駐英公使と金正恩体制への反乱煽動、転覆可能性などを協議するとともに、CIAに北朝鮮対応の専従組織を新設する。

北朝鮮の核・ミサイル問題等を協議する米朝首脳会談に先立ち、2018年4月1日頃、CIA長官として秘密裏に訪朝し、金正恩国務委員長と会談し、非核化実現への「行程を示す用意がある」との発言を引き出す[136]

2018年4月12日、上院外交委員会の開催した国務長官指名を承認するための公聴会において、北朝鮮の「体制転換を求めていない」、イラン核合意(en:Joint Comprehensive Plan of Action)の「見直しが可能か模索する」と表明する[137]。同月26日承認。アメリカ合衆国上院外交委員会(en:United States Senate Committee on Foreign Relations)は、上院の主要な外交政策の立法と論議を担当し、対外援助計画に対する監督(ただし運営はしない)及び資金提供、並びに同盟国に対する兵器売却、訓練の資金提供について一般的な責任を負い、また、国務省の高官の指名について公聴会(en:United States congressional hearing)を開催する。

2018年4月27日の南北首脳会談(板門店宣言)を受け、「透明で検証可能な行動が不可欠である」として、北朝鮮に対し非核化に向けた実質的な取り組みを求める[65] とともに、過去には約束が交わされ、希望が出てきたところで、北朝鮮に粉々にされた歴史があると強調する[97]

2018年5月2日、国務長官就任宣誓において、(イラン核合意のサンセット条項を意識してか)北朝鮮の核兵器を含む大量破壊兵器の『恒久的で』、検証可能かつ不可逆な廃棄(PVID)を遅延なく行うことを約束する(“We are committed to the permanent, verifiable, irreversible dismantling of North Korea’s weapons of mass destruction program and to do so without delay.[138]” )と演説する[139]。(なお、この演説で、短・中距離弾道ミサイルの廃棄(PVID又はCVID)について言及されたのか報道からは明らかでない。)

2018年5月9日、平壌で金正恩国務委員長と会談し、北朝鮮に拘束されていた韓国系米国人3名の解放を実現する。

2018年5月13日、米国のイラン核合意(JCPOA)離脱による経済制裁の再開は、欧州を狙ったものではないと説明し、イランの弾道ミサイルの開発や中東での影響力を制限する新しい合意を目指す考えを強調する。同月21日、イランに対し、「前例のない経済的圧力」をかけ、(1)ウラン濃縮停止、(2)国際原子力機関(IAEA)による全施設査察、(3)シリア撤退、(4)弾道ミサイル拡散停止、などを要求することを明らかにする[140]


米朝首脳会談を翌日に控えた2018年6月11日、米国が受け入れられる唯一の結果は、「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化」(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization)であるとし、北朝鮮が非核化するなら安全保障を提供する準備ができていると述べる[141]。米朝首脳による共同声明は、朝鮮半島の非核化、北朝鮮の安全保証等に関する抽象的な内容に留まったところ、同月13日、共同声明以外にも、両国間の合意事項が多くあることを明らかにしたが[30]、同月24日、非核化に向けた北朝鮮との交渉に期限を設けるつもりはないと述べ[142]、北朝鮮の核保有既成事実化の術中に嵌まったかの様相を呈する。

2018年8月16日、国務省内にイラン政策を統括する組織を立ち上げると発表し、同省のブライアン・フック(en:Brian Hook)政策企画局長をイラン担当特別代表に任命し、同組織のトップに充てる[143]



  • スティーブン・ビーガン(en:Stephen Biegun)

1963年生。米国の北朝鮮担当特別代表(2018年~)。フォード・モーター副社長。


  • ローラン・ピック(fr:Laurent Pic、 en:Laurent Pic)

1964年生。フランスの外交官。ジャン=マルク・エロー(fr:Jean-Marc Ayrault)首相官房外交顧問(2012年-2014年)、駐オランダ大使(2014年-2016年)、ジャン=マルク・エロー外務・国際開発大臣官房長(2016年-2017年)、駐日大使(2017年~)。


  • スーザン・ライス(en:Susan Rice、zh:苏珊·赖斯)

1964年生(女性)。米国のアフリカ担当国務次官補(1997年-2001年)・国際連合大使(2009年-2013年)・国家安全保障問題担当大統領補佐官(2013年-2017年)。アフリカ系アメリカ人女性初の米国国連大使。


  • バッシャール・アル=アサド(ar:بشار الأسد、en:Bashar al-Assad、zh:巴沙尔·阿萨德)


1965年生。シリア(ar:سوريا、en:Syria、zh:叙利亚)の大統領(2000年~)。対イスラエル闘争を続けるパレスチナ(en:Palestine、zh:巴勒斯坦地区)のハマスやレバノン(en:Lebanon、zh:黎巴嫩)のヒズボラを支援しているとの嫌疑をかけられており、米国はシリアを「テロ支援国家」に指定し、また北朝鮮と核開発で協力しているとみている。ロシア(en:Russia、zh:俄罗斯)、イラン(en:Iran、zh:伊朗)、北朝鮮と友好関係にある。2011年から続くシリア騒乱の当事者であり、イスラム国(ISIL、Islamic State in Iraq and the Levant)等と抗争する。

シリアの首都ダマスカスは、アンダルス(現在のスペイン)からインドまで広がるウマイヤ朝(661年-750年、en:Umayyad Caliphate、es:Califato Omeya、ar:الدولة الأموية、fa:خلافت اموی、zh:倭马亚王朝)の首都として栄えた。



1966年以降に生誕した者



  • セシリア・マルムストローム(sv:Cecilia Malmström、 en:Cecilia Malmström)


1968年生(女性)。スウェーデンの政治家・欧州委員。スウェーデンの欧州担当大臣(2006-2010)、欧州連合の貿易担当欧州委員(en:European Commissioner for Trade、2014年~)。2017年、日本の岸田文雄外相と日本・EU経済連携協定(EPA)につき閣僚交渉を行う。

2018年3月、米国通商拡大法232条に基づき安全保障を理由として米国が提案した、鉄鋼・アルミニウムに対する関税による輸入制限への対応を行う。米国がさらに自動車・自動車部品への関税措置の検討を表明する中、2018年5月31日、日米欧三極貿易担当閣僚会合に際して、世耕弘成経済産業大臣と共同声明を発表し、米国の関税措置につき、安全保障により正当化されるものではなく、WTOルールに基づく多角的貿易体制を崩壊させかねないとして、かかる懸念の米国との議論にあたって日本とEUが密接に協力し、他国にも連携を呼び掛ける方針を確認する[59]



  • クリスティア・フリーランド(en:Chrystia Freeland、fr:Chrystia Freeland、zh:方慧蘭)


1968年生(女性)。カナダの政治家、通商大臣(2015年‐2017年)、外務大臣(2017年~)。2018年6月1日、ドナルド・トランプ米国政権が欧州連合(EU)、カナダ、メキシコに対して鉄鋼・アルミニウムへの関税賦課による輸入制限を行ったことに対し、同日、カナダが世界貿易機関(WTO)に提訴したことを発表し、米国の安全保障を口実とした保護主義的な政策はWTO協定に違反していると主張し、同じくWTOに同日提訴したEUと緊密に連携していくと表明する[144](同月8日、WTOにおける米加間の協議に日本が参加意向であることをWTOに通知する[30]。)。

2018年7月25日、メキシコを訪問し、エンリケ・ペーニャ・ニエト(es:Enrique Peña Nieto)大統領、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール(es:Andrés Manuel López Obrador)次期大統領、グアハルド経済相、ビデガライ外相と個別に会談し、NAFTA再交渉について、米加墨3カ国での枠組みを守りながら、早期妥結に向け努力することで一致する[145]



  • ジャスティン・トルドー(en:Justin Trudeau、fr:Justin Trudeau、zh:賈斯汀·杜魯多)


1971年生。カナダの政治家、首相(2015年~)。2018年5月31日、ドナルド・トランプ米国政権が、米国通商拡大法232条に基づき安全保障を理由として欧州連合(EU)、カナダ、メキシコに対して鉄鋼・アルミニウムへの関税賦課による輸入制限を行うと発表したことに対し、同日、「米国民に他意はない。いずれ常識が戻るだろう。しかし、今回の決定にその兆しは見られない。」「過去150年の歴史の中で、カナダは米国とノルマンディーからアフガニスタンまで、戦いと死を共にした。そのカナダが米国安全保障上の脅威とは信じがたい。」と米国を非難する[61]

トランプ米国大統領による鉄鋼・アルミへの高関税賦課、イラン核合意離脱表明、等による米国と他の6カ国の対立が鮮明になる中、2018年6月9日、G7首脳会議(サミット)の議長として、「自由で公正で相互に有益な貿易と投資が成長と雇用の原動力である。」、「関税引下げや非関税障壁の撤廃に向け努力する。」、「イランの核開発が平和的なものであることを恒久的に保証できるよう努力する。」等の内容の首脳宣言をまとめる[146](しかし、途中退席していたトランプが、事後に宣言を承認しないと発表する[147]。)。



  • ニッキー・ヘイリー(en:Nikki Haley、zh:妮基·黑利)


1972年生(女性)。米国の政治家。インド系アメリカ人。サウスカロライナ州知事(2011年-2017年)、米国の国際連合大使(2017年~)。安全保障理事会においてシリア騒乱、北朝鮮核・ミサイル問題などの懸案に対応する。

在イスラエル米国大使館のエルサレム移転に抗議するガザ地区のデモ隊に対し、イスラエル軍が発砲し、多数の犠牲者が出たことを受け開催された、2018年5月15日の国連安保理緊急会合において、会合冒頭の犠牲者への黙祷には参加せず、各国からイスラエル軍への非難が相次ぐ中、イスラエルを擁護し、終盤のパレスチナ自治政府の国連大使の演説の前に議場を立ち去る[148]

2018年6月1日、安保理において、クウェートが提出した、イスラエル軍の武力行使にさらされるパレスチナ市民の保護を求める決議案に対し、フランス・ロシアなど10カ国が賛成(イギリスなど4カ国は棄権)したにもかかわらず、「テロ組織であるハマスに言及がなく、イスラエルの非難ばかりして一方的である。」と主張して米国のみが反対し、拒否権を行使する。他方、米国はハマスの暴力への非難を盛り込んだ決議案を提出して対抗したが、拒否権を持つロシアなど3カ国が反対し、11カ国が棄権し、同案も否決される[144]

2018年6月19日、米国が国際連合人権理事会(en:United Nations Human Rights Council)から公式に離脱すると表明する[149]



  • セイコウ・ルイス・イシカワ・コバヤシ(日本名:石川成幸、es:Seiko Luis Ishikawa Kobayashi)


1972年生。ベネズエラの外交官、駐日大使(2005年~)。父母ともに日系ベネズエラ人。


ベネズエラの原油確認埋蔵量は、サウジアラビアを上回り、世界1位である。しかし、政治・経済が不安定であり、2010年代に入ってから、ハイパーインフレーションが慢性化し、市民生活が混乱に陥る危機的状況となっている[150][151]



  • フェデリカ・モゲリーニ(it:Federica Mogherini、 en:Federica Mogherini、zh:费代丽卡·莫盖里尼)


1973年生(女性)。イタリアの政治家。イタリアの外務大臣(2014年2月-2014年10月)、欧州委員会副委員長兼欧州連合外務・安全保障政策上級代表(en:High Representative of the Union for Foreign Affairs and Security Policy、2014年11月~)。2015年イランの外相モハンマド・ジャヴァード・ザリーフ(fa:محمدجواد ظریف、 en:Mohammad Javad Zarif)と、イランの核開発問題に関するイラン核合意(en:Iran nuclear deal framework、包括的共同作業計画(JCPOA)、en:Joint Comprehensive Plan of Action、fa:برنامه جامع اقدام مشترک)の交渉にあたり、2015年7月14日に協定を取りまとめる。

2018年4月、G7外相会合において、カナダ外相クリスティア・フリーランド(en:Chrystia Freeland、fr:Chrystia Freeland、zh:方慧蘭)と共同で、女性の活躍を後押しすること等を目的に、世界の女性外相を集めた会合を同年9月に開催することを表明する[152](9月21日モントリオールで開催。日本の河野太郎外相が唯一の男性として出席する[153]。)。

2018年10月、ドナルド・トランプ米政権が中距離核戦力(INF)全廃条約の破棄を表明したことに対し、同盟国、世界全体の安全保障へ及ぼす影響を考慮するよう、米国に要求する[154]。射程500kmから5500kmの中距離核戦力は、ロシアにとって主として欧州を標的とするものであるが、シベリアからは日本、中国全体も射程内である。



  • エマニュエル・マクロン(fr:Emmanuel Macron、zh:埃马纽埃尔·马克龙)


1977年生。フランスの大統領(2017年~)。2018年4月25日、米国議会での演説に際し、「米国第一主義」に基づく、貿易、気候、核拡散防止におけるドナルド・トランプ大統領の政策に反対姿勢を表明し、「われわれは、新たな種類の多国間主義(fr:Multilatéralisme、en:Multilateralism、zh:多邊主義)を基礎に、より効果的で、責任ある、結果志向の多国間主義を基礎に、21世紀の世界秩序を構築することができる」("We can build the 21st century world order based on a new breed multilateralism, based on a more effective, accountable, and results-oriented multilateralism.[155]")と述べ、ルールに基づく世界秩序を擁護する[156]

2018年5月8日、ドナルド・トランプ米国大統領のイラン核合意(JCPOA)離脱表明を受け、同日、アンゲラ・メルケルドイツ首相、テリーザ・メイイギリス首相と共同声明を発表し、全関係者にイラン核合意実施継続への努力維持と責任感ある行動を要請する、と表明する[109]

2018年11月11日の第一次世界大戦終結100周年を前に、同月5日、中国、ロシア、米国から欧州を防衛するために、「真の欧州軍」が必要であると発言する。EUは2017年、欧州の軍事力の増強、戦略的自立のために欧州防衛基金(EDF、en:Eupopean Defense Fund)を創設している[157]



  • 金正恩(キム・ジョンウン、ko:김정은、en:Kim Jong-un、zh:金正恩)


1984年生。朝鮮民主主義人民共和国の第3代最高指導者(2011年~)、朝鮮人民軍第3代最高司令官(2011年~)。母は大阪市生野区鶴橋生まれの元在日朝鮮人の高英姫(コウ・ヨンヒ)。金与正(キム・ヨジョン)は実妹。


北朝鮮核・ミサイル問題などの中心にいる。

2018年3月6日、韓国の鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安全保障室長との会談で、「朝鮮半島非核化」の意思と、「体制の安全」が保障されれば核を保有する理由がないことを示す。[158]

北朝鮮の核・ミサイル問題に関する南北首脳会談(2018年4月27日開催)、米朝首脳会談(同年6月12日開催)に先立つ、同年4月20日、(米国を射程とする)大陸間弾道ミサイル(ICBM、en:Intercontinental ballistic missile)の試射及び今後の核実験の中止と、核実験場の廃棄を宣言する(なお、すでに保有する、日本全域・グアム島を含む東アジアを射程とする短距離弾道ミサイル(SRBM、en:Short-range ballistic missile)及び中距離弾道ミサイル(IRBM、en:Intermediate-range ballistic missile)、並びに核兵器の放棄には言及していない)。

2018年4月27日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と、軍事境界線のある板門店で、11年ぶりとなる南北首脳会談を開催し、「完全な非核化を通じて、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した」とする「板門店宣言」(ko:판문점 선언、en:Panmunjom Declaration、zh:板门店宣言)を共同発表する[159]。なお、同宣言は北朝鮮拉致問題、非核化に向けた具体的プロセスに言及していない。

2018年5月7日・8日に訪中し、習近平国家主席に対し、米国と非核化について包括的合意に至った場合における、非核化プロセスの中間段階での中国からの経済的支援を要請する[160]

2018年5月16日、李善権(リ・ソングォン)祖国平和統一委員長の名前で、米韓合同空軍演習「マックスサンダー」が実施されていることを理由に、同日開催予定であった南北閣僚級会談の無期延期を通告する[56]。金桂冠(キム・ゲグァン、ko:김계관、en:Kim Kye-gwan)第1外務次官の談話として、ボルトン米国大統領補佐官が「核放棄先行」や「完全で検証可能かつ不可逆な非核化(CVID、en:Complete, Verifiable and Irreversible Denuclearization)」を要求していることを非難し、トランプ政権が一方的な核放棄を強要するなら朝米首脳会談に応じるか否かを再考せざるを得ない、と表明する[129]

2018年5月24日、トランプ米国大統領が米朝首脳会談の中止を発表したことを受け、同月25日午後、文在寅韓国大統領に「形式は問わないので会いたい」と伝え、翌26日、秘密裏に板門店で会談し、「半島の完全な非核化についての意思が確固としている」ことを表明する[161][162]

2018年6月12日、シンガポールにおいて、トランプ米国大統領と史上初の米朝首脳会談を実現し、朝鮮半島の完全な非核化、北朝鮮の安全保証等を内容とする共同声明を発表する[73]

生野区に在日朝鮮人・韓国人が多い(2016年10月現在約2万3500人、区人口の約18%)のは、1910年の韓国併合後の時期に生野区(旧猪飼野地域)で実施された平野川治水工事に朝鮮半島から多くの作業員が参加し、定住し、さらに1922年の大阪-済州島(ko:제주도、 en:Jeju Island)間定期直行船君が代丸の就航、1948年の済州島四・三事件により出稼ぎ者や避難者が知人・親戚を頼り、生野区に移り住んだためである。

なお、7世紀にも朝鮮半島の百済(346年頃-660年、ko:백제、 en:Baekje)から同国の王子善光(百済王氏(くだらのこにきしし)の始祖)を含む多数の渡来人が来日し、知識・技術をもたらした。生野区西部、天王寺区南東部、東住吉区北部などに定住し、これらの地域に百済郡(くだらのこおり)、北百済村、南百済村、関西本線百済駅がかつて存在し、現在でも百済貨物ターミナル駅に名残がある。



外交官が登場する作品




  • 杉原千畝 スギハラチウネ(2016年公開の邦画)


  • 外交官・黒田康作(2011年に放送されたフジテレビ系列のドラマ)


  • アンダルシア 女神の報復(2011年公開の邦画)


  • アマルフィ 女神の報酬(2009年公開の邦画)



関連項目




  • 外交 - 外交交渉 - 外交政策


  • アグレマン - ペルソナ・ノン・グラータ


  • 外務省 - 大使館(在外公館) - 総領事


  • 大使 - 駐在武官


  • 待命大使 - 名称大使 - 政府代表 - 全権委員


  • 特命全権大使 - 臨時代理大使

  • アタッシェ(英語版)

  • キャリア (国家公務員)#外務キャリア

  • ローカルランク

  • スパイ



脚注




  1. ^ 杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、2007年5月1日、第4版、203頁。ISBN 978-4-641-04640-5。


  2. ^ 杉原高嶺、水上千之、臼杵知史、吉井淳、加藤信行、高田映 『現代国際法講義』 有斐閣、2007年5月1日、第4版、193頁。ISBN 978-4-641-04640-5。


  3. ^ 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999年7月30日、新版、567頁。ISBN 4-641-04593-3。


  4. ^ 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999年7月30日、新版、569頁。ISBN 4-641-04593-3。


  5. ^ 山本草二 『国際法』 有斐閣、1999年7月30日、新版、570頁。ISBN 4-641-04593-3。


  6. ^ 外務省記録「欧米大国ト特命全権大使交換一件」


  7. ^ 日経新聞180518追想録


  8. ^ 丹羽宇一郎『財界だって格差社会はノー』文藝春秋2007年3月号


  9. ^ 日本経済新聞夕刊2017年4月26日追想録


  10. ^ 日経新聞180505


  11. ^ 日経新聞180609


  12. ^ 日経新聞180510

  13. ^ abc日経新聞180515

  14. ^ ab日経新聞180529


  15. ^ 日経新聞181113


  16. ^ 日経新聞180418


  17. ^ 毎日新聞180511


  18. ^ 日経新聞181020


  19. ^ 日経新聞181027


  20. ^ 時事181114


  21. ^ 日経新聞181031


  22. ^ 産経新聞181011


  23. ^ 日本経済新聞2017年4月30日

  24. ^ ab日経新聞20170818


  25. ^ 毎日新聞180421

  26. ^ ab日経新聞180615

  27. ^ ab日経新聞180416


  28. ^ 日経新聞180423


  29. ^ 外務省大臣談話180427

  30. ^ abcd日経新聞180614


  31. ^ 産経新聞181011


  32. ^ 「ギリシア・ローマ文明の世界とエジプト・西アジア文明の世界とをまったく異なる実体として捉える『地中海分断モデル』」(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』32頁(京都大学学術出版界、2006年)、Manning, J.G. & I.Morris "The Ancient Economy: Evidence and Models"(Stanford, 2005))


  33. ^ 「東方に移住したギリシャ人がギリシャ語や芸術、都市的な生活文化を広めたが、これとオリエント伝統文化が融合して新しいヘレニズム文化が生み出された。」(木下靖彦他編「改訂版詳説世界史研究」48頁(山川出版社))


  34. ^ ペルシア戦争における「アカイメネス(アケメネス)朝軍撤退後のギリシャ世界の昂揚感、あるいはアカイメネス朝に対する嫌悪感にもかかわらず、広大なオリエント世界を支配するアカイメネス朝ペルシア帝国の権力と冨は、驚嘆と羨望の対象であった。」(永田雄三編「西アジア史Ⅱ」49頁(山川出版社))


  35. ^ 「(ギリシャ、ローマなど)いわゆる地中海文明とは、オリエント(文明)の一部たるシリアの拡大、つまりオリエントの一部としてとらえるのが正当である。」「(ペルシャを征服したアレクサンドロス大王の帝国も)古代ギリシャ世界を東方に広げたのではない。オリエントの西端の勢力が中央に進出してきたと考えた方がいい」(岡本隆司「世界史序説」55-56頁(ちくま新書、2018年))、日経新聞180811


  36. ^ 「エーゲ海先史文明が発見されたのは植民地主義の時代のさなかであり、当時すでに植民地化された西アジアでは高度な古代文明の存在が明らかにされていた。エーゲ海先史文明は、その解明の当初から、植民地の宗主国にふさわしい文明であるべく、過重な期待を背負わされていたのである。」(周藤芳幸『古代ギリシャ 地中海世界への展開』38頁(京都大学学術出版会、2006年)、Hamilakis, Y. "Labyrinth Revisited: Rethinking 'Minoan' Archaeology"(Oxford, 2002))


  37. ^ 細谷雄一『外交』p.46(有斐閣、2007年)


  38. ^ 細谷雄一『外交』p.53(有斐閣、2007年)


  39. ^ 細谷雄一『外交』pp.52-53(有斐閣、2007年)


  40. ^ 細谷雄一『外交』p.67(有斐閣、2007年)


  41. ^ グレアム・アリソン(藤原朝子訳)『米中戦争前夜』96頁(ダイヤモンド社、2017年)


  42. ^ グレアム・アリソン(藤原朝子訳)『米中戦争前夜』133頁(ダイヤモンド社、2017年)


  43. ^ ジェームズ・ジョル「第一次世界大戦の起源」(改訂新版、みすず書房)p.26


  44. ^ グレアム・アリソン(藤原朝子訳)『米中戦争前夜』156頁(ダイヤモンド社、2017年)


  45. ^ ジェームズ・ジョル「第一次世界大戦の起源」(改訂新版、みすず書房)pp.23-45


  46. ^ 佐々木雄太等編『イギリス外交史』pp.3-4(有斐閣、2005)


  47. ^ グレアム・アリソン(藤原朝子訳)『米中戦争前夜』86頁(ダイヤモンド社、2017年)


  48. ^ 産経新聞180810


  49. ^ 佐々木卓也編「新版戦後アメリカ外交史」91頁


  50. ^ 佐々木卓也編「新版戦後アメリカ外交史」78-81頁


  51. ^ 「現代日本の地政学」23頁(中公新書)


  52. ^ 佐々木卓也編「新版戦後アメリカ外交史」122頁


  53. ^ 「現代日本の地政学」13頁(中公新書)


  54. ^ ハンギョレ新聞180608


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  148. ^ 読売新聞180517


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  150. ^ 2018年9月の物価上昇率は年率48万8865%(日経新聞181009)。


  151. ^ IMFは2018年の年間インフレ率を137万%、2019年は1000万%と予想する(Bloomberg181009)。


  152. ^ 日経新聞180424


  153. ^ 時事通信180922


  154. ^ 日経新聞181025


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  161. ^ 朝日新聞180527


  162. ^ BBC News180526



参考文献



  • 西川吉光 『現代国際関係論』 晃洋書房


  • アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫上下, 1961年/平凡社東洋文庫に伝記ほか)

  • 安成英樹「外交官」(『歴史学事典 8 人と仕事』(弘文堂、2001年) ISBN 978-4-335-21038-9

  • 木村昌人編『外交』(日本史小百科 近代 東京堂出版 1999年)

  • ニコルソン 斎藤真訳 『外交』(UP選書 東京大学出版会 1968年)



外部リンク



  • 外務職員の公の名称に関する省令

  • 外交官になるには?




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