カナダ
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- カナダ
- Canada
(国旗)
(国章)
- 国の標語:A Mari Usque Ad Mare
(ラテン語: 海から海へ)
国歌:O Canada(英語)
Ô Canada(フランス語)
オー・カナダ
公用語
英語 フランス語
首都
オタワ
最大の都市
トロント
- 政府
女王
エリザベス2世
総督
ジュリー・ペイエット
首相
ジャスティン・トルドー
- 面積
総計
9,984,670km2(2位)
水面積率
8.9%
- 人口
総計(2016年)
3629万人(36位)
人口密度
3.4人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)
1兆6,024億[1]カナダドル ($)
- GDP (MER)
合計(2008年)
1兆5,109億[1]ドル(9位)
- GDP (PPP)
合計(2008年)
1兆3,032億[1]ドル(13位)
1人あたり
39,182[1]ドル
独立
- BNA法
- ウェストミンスター憲章
- カナダ法 (Canada Act)
イギリスから
1867年7月1日
1931年12月11日
1982年4月17日
通貨
カナダドル ($) (CAD)
時間帯
UTC -3.5 から -8(DST:-2.5 から -7)
ISO 3166-1
CA / CAN
ccTLD
.ca
国際電話番号
1
カナダ(英・仏: Canada、英語発音: [ˈkænədə] 聞く キャナダ、フランス語発音: [kanada] キャナダ、カナダ)は、10の州と3の準州を持つ連邦立憲君主制国家である。イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国のひとつ。北アメリカ大陸北部に位置し、アメリカ合衆国と国境を接する。首都はオタワ(オンタリオ州)。国土面積は世界最大のロシアに次いで広い。
歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。1763年からイギリス帝国に包括された。1867年の連邦化をきっかけに独立が進み、1931年ウエストミンスター憲章で承認され、1982年憲法制定をもって政体が安定した[2]。一連の過程においてアメリカと政治・経済両面での関係が深まった。第一次世界大戦のとき首都にはイングランド銀行初の在外金準備が保管され、1917年7月上旬にJPモルガンへ償還するときなどに取り崩された[3]。1943年にケベック協定を結んだ(当時のウラン生産力も参照)。1952年にはロスチャイルドの主導でブリンコ(BRINCO)という自然開発計画がスタートしている[4]。結果として1955年と1960年を比べて、ウラン生産量は約13倍に跳ね上がった[5]。1969年に石油自給国となる過程では、開発資金を供給するセカンダリー・バンキングへ機関投資家も参入したので、カナダの政治経済は機関化したのであった。
立憲君主制で、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。パワー・コーポレーションと政界の連携により北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟した。1999-2008年は経常収支が黒字で推移した。世界金融危機をすぎてから金融に対する規制の甘さが問題化した。2018年、米国・メキシコ・カナダ協定に合意した。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 宗教対立がそのまま入植
2.2 独立すれば治まるはず
2.3 第二の政府ウィニペグ
2.4 英墺投資で揺れる政治
2.5 国際収支を再建する途上
2.6 パワー・コーポレーション
2.7 経常収支を動かす外資
3 政治
3.1 政治体制
3.2 行政
3.3 立法
3.4 司法
3.5 軍事
4 国際関係
5 地方行政区分
5.1 都市圏人口
6 地理と交通
7 気候
8 経済
8.1 鉱業
8.2 貿易
9 国民
9.1 人種
9.2 言語
9.3 宗教
9.4 市民結婚法
9.5 保健
10 文化
10.1 文学
10.2 音楽
10.3 映画
10.4 世界遺産
10.5 主な祝祭日
10.5.1 その他の祝日
11 スポーツ
11.1 アイスホッケー
11.2 野球
11.3 カナディアンフットボール
11.4 バスケットボール
11.5 サッカー
11.6 モータースポーツ
11.7 その他の種目
11.8 オリンピック等の行事
12 脚注
12.1 注釈
12.2 出典
13 関連項目
14 外部リンク
国名
日本政府による公式名は「カナダ」[6]。日本における漢字表記は「加奈陀」であり、「加」と略される。中国語における表記は「加拿大」。国名はセントローレンス川流域イロコイ族の「村落」を意味する語「カナタ」(kanata)に由来する[7]。連邦制を強調するため、「カナダ連邦」、「カナダ連邦政府」などの呼称が使われることもある。
1982年憲法が制定される前には複数の名称が存在したが、現在は公用語の英語とフランス語の双方で「Canada」のみが公式名と定められている[8]。建国時には国号はカナダ王国(Kingdom of Canada)とすることも検討されていた。初めて「Canada」の名が使われたのは1791年のことである[7]。
歴史
ファースト・ネーション(先住民)やイヌイットの言い伝えでは先住民たちは時の始まりからこの地に住んでいたとある。一方、考古学的研究では北部ユーコン準州に26,500年前、南部オンタリオ州には9,500年前に人類がいたことが示されている[9][10]。
宗教対立がそのまま入植
ヨーロッパ人の到来は西暦1000年にヴァイキングがランス・オ・メドーに居住したのが初めてであるが、この植民地は短期間で放棄されている。その後、1497年にイタリア人のジョヴァンニ・カボト(ジョン・カボット)がイングランドのために大西洋側を探検し[11]、1534年にはフランスのジャック・カルティエがこれに続いた[12]。
1603年に到着したフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、1605年に初めてのヨーロッパ人定住地をポート・ロワイヤル(現ノバスコシア州アナポリス・ロイヤル)に築き、1608年にはケベックを建てた。これらは後にそれぞれアカディアとカナダの首都となった。 ヌーベルフランスの植民地の中ではカナダ人(Canadiens:フランス系カナダ人)はセント・ローレンス川流域に、アカディア人は現在の沿岸諸州に集中的に居住している。フランス人の毛皮商人とカトリック宣教師たちは五大湖、ハドソン湾そしてミシシッピー川流域からルイジアナを探検した。イングランドは1610年にニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部(現アメリカ合衆国領)に13植民地を築いた。
1670年、ハドソン湾会社が設立された。毛皮の倉庫証券は通貨としても使われた。1689年と1763年に一連の北米植民地戦争が起こり、その結果、ユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアが英国の支配下となり、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)のパリ条約でカナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。
1763年宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加えた。これはまたフランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限した。1769年にセント・ジョンズ島(現在のプリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となった。ケベックでの紛争を避けるため、1774年にケベック法が制定され、ケベックの領域が五大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてはフランス語とカトリック信仰、フランス法が許された。これは13植民地の多くの住民を怒らせることになり、アメリカ独立への動因となった[13]。 1783年のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、五大湖南部がアメリカへ割譲された。戦後におよそ5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている[14]。一部の王党派のために沿岸諸州のニューブランズウィックがノバスコシアから分割された。ケベックの英語話者王党派のために1791年法が制定され、フランス語圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダがそれぞれ独自の議会を持った。この分断策は1837年にローワーとアッパーの両方で反乱が起きて無意味となった。
独立すれば治まるはず
アッパーおよびローワー・カナダは米英戦争(1812年戦争)の主戦場となった。カナダ防衛は英国系北アメリカ人に一体感をもたらした。穀物法制定(1815年)と人身保護法廃止(1816年)により、英国とアイルランドからの大規模な移民が始まった。1817年にモントリオール銀行ができて、合衆国とは対照的な勅許銀行体制の原点となった[15]。
1837年に責任政府を求める反乱が起こり、その後のダーラム報告では責任政府とフランス系カナダ人の英国文化への同化が勧告された[16]。1840年憲法法により、アッパーおよびローワー・カナダはカナダ連合に合併した。議会においては、フランス系および英国系カナダ人はともにフランス系カナダ人の権利の復活のために努力した。1849年に英領北アメリカ植民地全土に責任政府が設置された。[17][18]
1846年に英国と米国によるオレゴン条約が結ばれオレゴン境界紛争が終結した。これによってカナダは北緯49度線に沿って西へ境界を広げ、バンクーバー・アイランド植民地(1849年)とブリティッシュコロンビア植民地(1858年)への道を拓いた。また、ルパート・ランドと北極圏地域の既得権を分解し企業家を育てた[19]。ニューファンドランドには大西洋横断電信ケーブルが敷設され、本国の手綱となった。西方でゴールドラッシュが起きたことなどからカナダの人口が増えていった。一方で、フランス系カナダ人がニューイングランドへ流れ出た。
フェニアン襲撃に対応しながら憲政会議を重ね(写真参照)、1867年7月1日に1867年憲法法が採択された。オンタリオ・ケベック・ノヴァスコシア・ニューブランズウィックが統合され、「カナダの名の下の一つの自治領」である連邦がつくられた[20] 。カナダはルパートランドと北西地域を合わせたノースウエスト準州を統治することが前提とされた。この地では不満を抱いたメティ(フランス系と先住民の混血)によるレッド・リヴァーの反乱が起こり[21]、1870年7月にマニトバ州がつくられた。ブリティッシュコロンビア植民地とバンクーバーアイランド植民地(1866年に合併)は1871年に、プリンスエドワードアイランド植民地は1873年に、連邦へそれぞれ加入した。後者は極端に面積が小さいのに連邦の一州となった他、さまざまな経済利権を連邦から勝ち取った[22]。
第二の政府ウィニペグ
保守党のジョン・A・マクドナルド首相 は萌芽期のカナダ産業を守るための関税政策を制定した。西部を開拓するために政府はカナダ太平洋鉄道をふくむ3本の大陸横断鉄道を助成した。自治領土地法により開拓者のために大平原が解放され、そしてこの地域の治安維持のために北西騎馬警察が設立された。1898年、ノースウェスト準州でのクロンダイク・ゴールドラッシュの後、政府はユーコン準州を設置した。自由党のウィルフリッド・ローリエ政権下ではヨーロッパ大陸からの移民が大平原に定住し、アルバータとサスカチュワンが1905年に州に昇格している。1877年ブタ戦争の処理にドイツ帝国の介入があった(詳細)。
1900年から1913年までイギリスの対カナダ投資額は40倍に増えて総額17億5000万ドルとなった[23]。その6割が公債・鉄道に集中した[23]。逆にアメリカからの投資は、総額こそイギリスの1/3強であったが6割以上が工業と鉱産・森林資源に投下され、しかも経営権をともなう普通株の取得やカナダに子会社・分工場を設立する直接投資であった[23]。分工場はカナダ企業として各自治体からの助成を獲得した[23]。その製品はカナダ産として優遇を受けながら大英帝国へ輸出された[23]。カルテルとして名高い1909年10月9日のゲーリー晩餐会にはカナダの製鋼会社も参加した[24]。1909年から企業の合併ブームが起こった(詳細)。
1914年、英国の宣戦布告に伴いカナダは自動的に第一次世界大戦に参戦、志願兵を西部戦線へ派遣した。彼らは後にカナダ軍団の一部となり、ヴィミーリッジの戦いやその他の大きな戦いで重要な役割を果たしている。1917年には保守党のロバート・ボーデン首相がフランス語圏ケベックの住民たちの反対にもかかわらず徴兵制を導入して徴兵危機が起こっている。第一次世界大戦のとき首都にはイングランド銀行初の在外金準備が保管され、1917年7月上旬にJPモルガンへ償還するときなどに取り崩された[3]。JPモルガンは連邦債・州債・カナダ企業証券の引受大手であった[3]。
1919年にカナダは英国とは別個に国際連盟へ加盟した。この時期ヴィクター・キャヴェンディッシュが総督であった。1922年4-5月、入国審査に職種要件を枢密院令により設けた。英米系移民は適用から除外された。ミルナー幼稚園出身のレオ・エイマリ(Leo Amery)が移民法(Empire Settlement Act 1922)の導入へ尽力した。英国政府と汽船会社の共同助成により[25]、農民となる少年移民が粘り強く集められた。1928年、カナダへやってきたエイマリにウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングが移民政策は採算が合わないと主張した[26]。この年カナダは他の植民地を引き離して最高値の27,521人のイギリス移民を受け入れた[27]。
1920年代、カナダの生命保険は証券投資に国内およびアメリカの投資銀行を利用し、これらとの関係を深めた[28]。
英墺投資で揺れる政治
1931年、ウエストミンスター憲章によりカナダの独立が承認された。同年9月に通貨の対米ドル相場が急落して、合衆国からの資金調達ができなくなった。この年マニトバ州の小麦プールが破産した。小麦プールとは、霜などから作物を守れる倉庫の持てない農民が共同設立した会社で、資金を担保にモントリオール銀行などから金を借りて、作物の買いつけ・貯蔵運搬・輸出営業を全て担う、民主的アグリビジネスであった[29]。これをメインバンクが再生してからカナダ銀行ができた。
1930年代の大恐慌にカナダ国民は大いに苦しめられた。このため社会主義政党の協同連邦党が誕生した。1935年からのマッケンジー・キング率いる自由党政権は、1936年7月より本国イギリスからの資金流入が鈍った(詳細)。1939年に第二次世界大戦が勃発し、キングは9月10日に独自に対独宣戦布告した[30]。急ごしらえの訓練を経て[31]、12月カナダ軍が英国に到達した。カナダ軍は大西洋の戦い・ディエップの戦い・ノルマンディーの戦いに参加しナチス・ドイツを打倒した。この大戦では110万人のカナダ人が軍務に従事した。カナダ経済は戦争需要による好景気に活気づいた。1940年代から1950年代のトミー・ダグラス知事が福祉政策をとった。愛国者と貧しい人が兵役に志願して疲弊し、豊かな人は英米の投資競争にあやかって肥えた。1945年の終戦後にカナダは国際連合の原加盟国となり、再びアメリカへ接近した。ミドルパワーとして自らを国際社会に売り込んだのである。
1950年12月、イギリス供給省が20年間のアルミニウム供給契約をアルキャンと結んだ[32]。1952年にはロスチャイルドの主導でブリンコ(BRINCO)という自然開発計画がスタートしている[4]。1951年12月から1955年11月までの期間、SGウォーバーグ[注釈 1]、N・M・ロスチャイルド&サンズ、サミュエル・モンタギュー、ロバート・ベンソン(Robert Benson)、ハンブローズ(現ソシエテ・ジェネラル)などが次々とカナダへ投資子会社を設立した[33]。1952年からリオ・ティントが進出の勢いを加速させた[34]。1956年スエズ危機をめぐりアメリカへカナダが接近すると、翌年にインペリアル・ケミカル・インダストリーズと製紙会社のボウォーター(Bowater)のイギリス系商社が一斉にカナダへ大規模投資をくりだした[35]。そしてカナダ横断パイプラインが敷設されだした(詳細)。建材を提供したラファージュは、1956年カナダのセメント業界で75%ものシェアを獲得したが、同年マルセル・デモン(Marcel Demonque)の発案でバンクーバーに容量2万トンの工場を建設し、翌々年から稼動させた[36]。
国際収支を再建する途上
第二次世界大戦は、第一次世界大戦よりも一層、イギリス対外資産を減少させた(1939-45年に約11億ポンド減)。主因はドル資産を中心とした資産売却であった。この減少過程を投資受け入れ国別に見ていくと、1939-45年の絶対額ではインド・パキスタンの減少額が最大であり、次いでカナダ、アメリカとなっている。1946-48年では絶対額でアルゼンチンの2.67億ポンドが群を抜いており、あとはカナダ、ニュージーランド、オーストラリア、ブラジルとつづく。カナダが上位に来ないのは、カナダの対外問題大臣サン・ローラン(Louis St. Laurent)の意向である。彼はイギリスのカナダ証券売却に強く反対し、対英借款交渉では見返りにカナダへ投資するように要求していた。カナダの経常収支は、特にアメリカに対して赤字基調であり、それが主に、巨額のアメリカ資本で埋め合わせられていた[注釈 2]。そこでカナダはイギリスのシェア拡大を望んだのである。1950-51年、アルキャンへ供給省から1800万ポンドと2300万ポンドが投資された。1952年夏、アメリカ復興金融公庫(Reconstruction Finance Corporation)から受けていた融資を返済したイギリスは、担保として凍結されていた巨額のアメリカ証券を処分できるようになった。イギリス大蔵省はおよそ5億USドル分を保有・売却した。1952年8月、大蔵省とイングランド銀行は、売上げを英国企業によるカナダ投資へ使うことに合意した。この英国企業を新設するかどうかは議論されたが、最終的にはシティのマーチャント・バンクを通じて資金を投下することになった。[35]
実際にSGウォーバーグやロスチャイルドを具体例とするマーチャント・バンクが投資子会社を設立した。その資金は当時でいうところのフリンジ・バンキング、後にセカンダリー・バンキングと呼ばれ社会問題化するホールセールから出ていた。しかしマーチャント・バンクはシティに対する忠誠心が低い者もあった。SGウォーバーグはイングランド銀行の庇護する引受商社ではなかったのである。セカンダリー・バンキングの機動性はモルガンの考案した米国預託証券によっていたので、シティ外の機関投資家もセカンダリー・バンキングへ参入し、苛烈な競争を展開した。カナダでは1967年銀行法の付帯条項で銀行金利が自由化され、住宅用モーゲージ貸出がスタートした[38][注釈 3]。1969年、カナダ原油の輪出が初めて輸入を上回った[39]。この傾向は1970年代まで続き、石油の国際収支は1962年の1億7400万ドルの赤字から、1972年には3億3400万ドルの黒字へと変わった[39]。
パワー・コーポレーション
1960年、カナダ権利章典が制定された。これは州の同意が得られなかったので連邦権限の範囲で運用された。1965年に現在のサトウカエデの葉の国旗が採用・掲揚された。1969年には二カ国語公用語が実施された。1971年には多文化主義が宣言されている。ケベックでは近代からナショナリスト運動(Quebec nationalism)が続いており、1960年代の経済改革(静かなる革命)につながった[40] 。1970年に運動がエスカレートしケベック解放戦線がオクトーバー・クライシスを引き起こした。このころから1982年のカナダ憲法制定にかけて、首相のピエール・トルドーが連邦の一体化を強力に推進した。
1963年から1968年にかけて、SGウォーバーグを媒介にカナダ経済はユーロ債市場とリンクした[41][42]。機関化に伴い[注釈 4]、ユニバーサルヘルスケア制度・年金制度(Canada Pension Plan)[注釈 5]・学生ローンといった社会民主主義的諸制度も創設された。これらの政策については地方政府、特にケベックとアルバータが管轄権の侵害であると反対している[注釈 6]。1970年、ムーディーズのカナダ証券協会(Canadian Securities Institute)が発足[注釈 7]。1973年、新生マニトバ・プールが事実上の小麦独占体となった。1975年、企業集中に関する王立委員会(Royal Commission on Corporate Concentration)が開かれた。構成員は三人だけである。まず一人目がロバート・ブライス、二人目が税務専門家のディッカーソン(Robert Dickerson)であり、三人目のピエール(Pierre Nadeau)は今日のトタルであるペトロフィナ・カナダ社長でカナダロイヤル銀行の重役だった[45]。パワー・コーポレーション(Power Corporation of Canada)が同会議を利用し、エドワード・プランケット・テイラーのアーガス・コーポレーションを買収しようと三年間も調整を試みた。一方、投資信託のパトナム(Putnam Investments)がパワー・コーポレーションの計算で、アメリカのアセット・マネジメント市場に、これからずっと利用できるような貪欲ともいえる足がかりを提供した[46]。
1981年、パワー・コーポレーションがBNPパリバとコンパニー・ナショナル・ア・ポトファイの二社をともない、ベルギーの投資銀行グループ・ブリュッセル・ランバートに参加した。パワー・コーポレーションのポール・デズマレー(Paul Desmarais)は、1984年から首相のブライアン・マルルーニーと懇意であった[47]。
1982年に英国カナダ法の改正によるカナダ憲法成立が決まり、「権利と自由憲章」がつくられカナダは完全な主権国家となった[48]。
ケベック分離派のテロリズムの10年後に当たる1980年に、ケベック州の連邦からの分離に関する住民投票が行われたが拒否され、1989年には憲法改正も試みられたが失敗している[49]。同年、ポール・デズマレーがドムタール(Domtar)買収に失敗。ドムタールは王立委員会のときアーガス側企業であった[45]。1993年から首相のジャン・クレティエンは、1990年に自由党党首となるまでパワー・コーポレーションの重役であった[50]。マルルーニーとクレティエンの政権リレーにより北米自由貿易協定が実現した。参加したメキシコには負い目があった(ニューヨーク連邦準備銀行#機関化サロン)。1995年に二度目の住民投票が行われたが、50.6%対49.4%の小差で拒否された[49] 。1997年に最高裁から州による一方的な連邦脱退は違憲であるとの判断が下され、交渉による連邦からの脱退を規定した法律が定められた[49]。
国内の先住民問題ではオカ、イペルウッシュ、ガスタフセン湖で土地問題を巡り様々な法廷闘争と幾度かの暴力沙汰が起きた。1999年にカナダ政府はイヌイットの自治政府であるヌナブト準州をつくり、ブリティッシュコロンビア州では土地問題でニスカ族との最終合意に達している。2008年には首相が先住民を対象とした寄宿学校問題(en)で過去の政府の行いを謝罪している。
経常収支を動かす外資
カナダの経常収支は述べたように赤字基調なのであるが、1999年に黒字に転じて、世界金融危機後ふたたび赤字となった[51]。黒字の期間にはシャドー・バンキング・システムが発達した。銀行の負債に対して50%以上の規模を維持し、赤字期間の割合が低いという相関を示したのである[52]。この期間はMMFの残高が400億カナダドルより高い水準を保った[53]。
問題の期間に粉飾決算も事件化した。2002年、YBM磁石(YBM Magnex International, Inc.)が倒産した。トロント証券取引所に対して、YBM磁石はマグネットの製造と販売から何億ドルもの収入を得ていると虚偽の報告をしていた。その虚偽報告を受け、同社の株価は1994年の7月から1998年3月にかけて1株当たり10セントから20.15ドルまで上昇した。YBMはロシアの暴力団が保持していた企業である。その暴力団は企業所有を隠し、同社を合法的企業と見せかけ、上場できるようペーパーカンパニーのネットワークを準備して、弁護士や会計士に賄賂を払っていた(資金洗浄)。会計業務を担当していた二社(Deloitte & Touche, Coopers & Lybrand)は最終的に同社の財務諸表を適正と認めることを拒否した。2004年にはノーテルネットワークスの会計不正が明らかになった。ノーテルは一昨年の利益を粉飾して、7億3200万ドルから4億3400万ドルまで減少させていた。2005年6月に株主らと訴訟上の和解に至り、原告側に現金で5億7500万ドルを支払い、6億3000万の株式を発行することになった(総株式数の14.5%)。[54]
ノーテルは世界金融危機で外資に機関化された[注釈 8]。危機は証券業務が連邦法で規制されないことに論議を醸したが、2011年に法案が最高裁の違憲判決に潰えた[55]。この年6月1-2日、トロント証券取引所に上場する一企業の株価が崩落、翌2012年3月30日に倒産した。それは嘉汉林业(Sino-Forest Corporation)である。上場した1995年から資本金およそ9億カナダドルを虚偽表示し、さらに粉飾決算を繰り返していた。十数億ドルに達するねずみ講であった[54]。
MMFが勢いを殺がれてからもシャドー・バンキングは健在である。一般のミューチュアル・ファンドとレポ取引の規模は拡大し続けている。レポ取引は総額でミューチュアル・ファンドほど拡大していないが、内訳としてリバース・レポの増額がレポの減額を補って余りある点に注目できる。リバース・レポの牽引役はカナダ六大銀行である。そしてこれらがリバース・レポで借り入れている証券で増えているのは、危機の地雷ともいえたMBSである。[56][57]
カナダは一層巨額の直接投資をアメリカと交換するようになっている[58]。他方、カナダの銀行の2/3は資金洗浄排除措置が著しく甘いと指摘されている[59]。アメリカでは銀証分離をくぐるためシャドー・バンキングを発達させているが、しかしカナダではユニバーサル・バンクが通用するため銀行の規模がシャドー・バンクに対して大きめで、銀行がレポのようなシャドー・バンキングを行っている。米加経済は関係をより緊密にする一方で、金融の実情に対して臨む態度が対照的である。
2018年1月、コロラド消防警察年金組合(Fire & Police Pension Association of Colorado)が、カナダロイヤル銀行、トロント・ドミニオン銀行、スコシアバンク、モントリオール銀行、CIBC、カナダ・ナショナル銀行、バンカメ、ドイツ銀行、そしてHSBCを訴えていることが分かった。これら9行が2007年8月9日から2014年6月30日まで、カナダドル取引金利(Canadian Dollar Offered Rate)を操作して原告に損害を与えたという。被告らは、この金利にリンクした巨額のデリバティブを原告から借りていたので金利低下を企図したものとされている。カナダドル取引金利は銀行引受手形の金利であり、カナダ当局は2013年1月から操作の疑いをかけていた。[60]
同年10月、デロイト・カナダがバンロー(Banro Corporation)という鉱業からの独立性を守っていないとして35万ドルの制裁金を命令される見通しであることがわかった[61]。南アフリカにもつコンサルタント子会社(Venmyn Deloitte)が手の込んだ粉飾資料を提出した疑いである。事件の国際性と処分の画期性が着目される。
政治
1982年憲法第33条はカナダ憲法最大の特徴をなす。連邦議会・州議会の立法に対して最高裁が違憲判断を下したときでも、立法府が譲らなければ違憲判決の発効を先延ばしできるのである。猶予は最長5年間だが何度も更新できる。この制度を利用したケベック州の反動が立憲してすぐに起こった。しかし多様な経済政策が問題の顕在化を防いでいる。
政治体制
政体は立憲君主制である。公式にはイギリス国王が国家元首(但しカナダではあくまでカナダ国王の扱い)となる[62]。形式的にはカナダ総督がカナダ国王の代理を務め、また実質的な首長は、総選挙により選出される連邦政府の首相である。
現行のカナダの憲法は1982年に施行されたため「1982年憲法」と呼ばれている。この憲法により、二言語多文化主義・ケベック州の特殊性・原住民居留地の特殊性などが認められている。
行政
政府は、議院内閣制を採用している。カナダは、歴史的に各州の合意により連邦が設立された経緯があることから、州に大幅な自治権が認められており、それぞれの州に首相、内閣及び議会がある。このためカナダにおける政治とは、州政府対連邦政府の駆け引きそのものということもできる。
立法
立法府たる議会はオタワに所在し、カナダ議会は上院定数105名、下院定数338名の二院制を採用している。
主な政党には中道右派・保守主義のカナダ保守党、中道左派・リベラリズムのカナダ自由党の二大政党と、中道左派・社会民主主義政党の新民主党、ケベック州の地域政党である左派のブロック・ケベコワ、環境保護主義のカナダ緑の党がある。
1993年の下院総選挙で、与党・カナダ進歩保守党が改選前の169議席のうち167議席を失うという大惨敗を喫したことは、議会制民主主義が発達している先進国の政権与党が壊滅的な敗北を喫した例として、小選挙区制のモデルケースの一つとなる歴史的選挙であった。
司法
一般的にアメリカ合衆国よりもリベラルな国民性で知られ、死刑制度を廃止している。
1989年のモントリオール理工科大学虐殺事件をきっかけに銃規制が強化されており、拳銃の携帯については一般には認められておらず、拳銃を携帯できるのは警察、軍、司法関係と現金輸送を行う民間業者など非常に限られている。
しかしながら、農村部を中心に狩猟が非常に盛んであり猟銃の保持率は高いが、銃を使った犯罪発生率は極めて低い。
軍事
カナダは1950年代から1990年代にかけて数多くの国連平和維持活動に参加し、なるべくなら集団安全保障体制を望んでいた。しかしキューバ危機の後NATOへ急接近した。2001年にはNATO主導のアフガニスタン紛争にも派兵している。
一方で、2003年のイラク戦争への参加は拒否した。
国際関係
カナダは英連邦に加盟している。カナダは世界の先進7ヶ国(G7)および主要8ヶ国(G8)の一つである。
地方行政区分
カナダは10の州(プロビンス、province)と3つの準州(テリトリー、territory)に区分されている。
人口は2015年7月1日の推計値[63]。
名称 | 人口(人) | 州都/主府/本部 | 備考 |
---|---|---|---|
ブリティッシュコロンビア州 British Columbia | 4,683,139 | ビクトリア Victoria | ■ |
アルバータ州 Alberta | 4,196,457 | エドモントン Edmonton | ■ |
サスカチュワン州 Saskatchewan | 1,133,637 | レジャイナ Regina | ■ |
マニトバ州 Manitoba | 1,293,378 | ウィニペグ Winnipeg | ■ |
オンタリオ州 Ontario | 13,792,052 | トロント Toronto | ■ |
ケベック州 Québec | 8,263,600 | ケベック市 Ville de Québec | ■ |
ニューブランズウィック州 New Brunswick / Nouveau-Brunswick | 753,871 | フレデリクトン Fredericton | ■ |
ノバスコシア州 Nova Scotia | 943,002 | ハリファックス Halifax | ■ |
ニューファンドランド・ラブラドール州 Newfoundland and Labrador | 527,756 | セント・ジョンズ St. John's | ■ |
プリンスエドワード島州 Prince Edward Island | 146,447 | シャーロットタウン Charlottetown | ■ |
ユーコン準州 Yukon Territory | 37,428 | ホワイトホース Whitehorse | ■ |
北西準州 Northwest Territories | 44,088 | イエローナイフ Yellowknife | ■ |
ヌナブト準州 Nunavut | 36,919 | イカルイト Iqaluit | ■ |
都市圏人口
都市 | 行政区分 | 人口 | 都市 | 行政区分 | 人口 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | トロント | オンタリオ州 | 6,129,934 | 11 | ロンドン | オンタリオ州 | 506,418 | |||
2 | モントリオール | ケベック州 | 4,060,692 | 12 | ハリファックス | ノバスコシア州 | 417,847 | |||
3 | バンクーバー | ブリティッシュコロンビア州 | 2,504,340 | 13 | セントキャサリンズ/ナイアガラフォールズ | オンタリオ州 | 408,222 | |||
4 | カルガリー | アルバータ州 | 1,439,756 | 14 | オシャワ | オンタリオ州 | 388,956 | |||
5 | エドモントン | アルバータ州 | 1,363,277 | 15 | ビクトリア | ブリティッシュコロンビア州 | 365,291 | |||
6 | オタワ/ガティノー | オンタリオ州/ケベック州 | 1,332,001 | 16 | ウィンザー | オンタリオ州 | 335,787 | |||
7 | ケベック | ケベック州 | 806,359 | 17 | サスカトゥーン | サスカチュワン州 | 304,975 | |||
8 | ウィニペグ | マニトバ州 | 793,428 | 18 | レジャイナ | サスカチュワン州 | 241,422 | |||
9 | ハミルトン | オンタリオ州 | 771,703 | 19 | シェルブルック | ケベック州 | 214,485 | |||
10 | キッチナー/ケンブリッジ/ウォータールー | オンタリオ州 | 511,319 | 20 | セントジョンズ | ニューファンドランド・ラブラドール州 | 214,285 | |||
2015年推計値 |
地理と交通
カナダの国土は北アメリカ大陸の北半分を占める。南および西はアメリカ合衆国と接する。東は大西洋、デイビス海峡、西岸の一部は太平洋、北はボーフォート海、北極海に面する。国土の中央部のウィニペグ湖からロッキー山脈にかけては、広大なプレーリー地域である。水路となる五大湖の北にはカナダ楯状地が広がる。
ロシアに次いで世界で2番目に広大な国土を持つ国であり、北アメリカ大陸の約41%を占めている。なお、カナダの領土の54%は森林で占められている。ノースウエスト準州北西は湿地帯であり、地面や湖が凍る冬季でないと車両の通行が困難である。
人口密度は3.2人/km2で、国土の多くは北極圏内にある。人の住める地域は面積に比して少ない。カナダ人の80%はアメリカ合衆国との国境から200km以内に住んでおり、人口の約40%がオンタリオ州に集中している。人口が最も多い地域は五大湖、セントローレンス川周辺である。そして、大半のカナダ人は、アメリカ合衆国とカナダ国境線に沿って約500キロ幅の細長い帯状に住んでおり、それより北は人口が極端に少ない。
気候
太平洋側の西海岸沿岸部を除き、ほぼ全域が亜寒帯・寒帯に属する。
バンクーバーやビクトリアなどが位置する西海岸の沿岸部は暖流の影響で温帯の西岸海洋性気候に属し、夏は涼しく乾燥していて過ごしやすく晴れる日が多いが、冬は温暖で雨が多い。北米屈指のスキーリゾートのウィスラーなどが位置するロッキー山脈の西側の山岳地帯は世界有数の豪雪地帯となっている。
アルバータ州からサスカチュワン州、マニトバ州にかけては、亜寒帯湿潤気候、湿潤大陸性気候に加えてステップ気候も広がり降水量が少なく乾燥している。夏は比較的気温が上がるが、乾燥していて過ごしやすい。一方、冬は零下50度近くまで下がることもあり、シベリアに匹敵する酷寒地である。特に中央部に位置するウィニペグは大陸性の気候が顕著であり、レジャイナやサスカトゥーンなどと並び北アメリカで最も寒い都市(アラスカのアンカレッジよりはるかに寒い。)とされる。
トロントやモントリオールなどの大都市が位置し、人口が集中するセントローレンス川沿いは亜寒帯湿潤気候に属し、夏は比較的湿度が高く蒸し暑くなる。トロントなどのオンタリオ州南端部ではそれほど厳しい寒さとはならないが、オタワやモントリオールなどでは最寒月の平均気温が-10度以下となり、-30度程度まで下がることもあるほど、寒さが厳しく降雪量も多い。ノバスコシア州やニューファンドランド島などの大西洋側沿岸地方はより海洋性の気候の特色を有していくことになり、冬季は低気圧の発達により豪雪地帯となる。
北極圏などの北部地域は寒帯に属しツンドラ気候が分布し永久凍土が広がっている。
カナダ国内における最高気温極値はサスカチュワン州のMidaleとYellow Grassで観測された45 °C、最低気温極値はユーコン準州のSnagで観測された−63 °Cであり、これは、アメリカ大陸で最も低い気温である。
平年値 (月単位) | 太平洋岸 | 西部 | 中部 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ビクトリア | バンクーバー | プリンスルパート | カムループス | カルガリー | エドモントン | フォートマクマレー | サスカトゥーン | ウィニペグ | チャーチル | サンダーベイ | ||
気候区分 | Cfb | Cfb | Cfb | BSk | BSk | Dfb | Dfb | BSk/Dfb | Dfb | Dfc | Dfb | |
平均 気温 (°C) | 最暖月 | 16.9 (7月) | 18.0 (7,8月) | 13.8 (8月) | 21.5 (7月) | 16.5 (7月) | 17.7 (7月) | 17.1 (7月) | 18.5 (7月) | 19.7 (7月) | 12.7 (7月) | 17.7 (7月) |
最寒月 | 4.6 (1月) | 4.1 (1月) | 2.4 (1月) | −2.8 (1月) | −7.1 (1月) | −10.4 (1月) | −17.4 (1月) | −15.5 (1月) | −16.4 (1月) | −26 (1月) | −14.3 (1月) | |
降水量 (mm) | 最多月 | 152.6 (11月) | 188.9 (11月) | 373.6 (10月) | 37.4 (6月) | 94.0 (6月) | 93.8 (7月) | 80.7 (7月) | 65.8 (6月) | 90.0 (6月) | 69.9 (9月) | 89.5 (8月) |
最少月 | 17.9 (7月) | 35.6 (7月) | 108.8 (6月) | 12.4 (2月) | 9.4 (1,2月) | 12.0 (2月) | 13.2 (2月) | 8.8 (2月) | 13.8 (2月) | 16.6 (2月) | 20.5 (2月) | |
平年値 (月単位) | 東部 | 大西洋岸 | 北部 | |||||||||
トロント | オタワ | モントリオール | ケベックシティ | ラブラドール・シティ | ハリファックス | セントジョンズ | ホワイトホース | イエローナイフ | イカルイト | ユーレカ | ||
気候区分 | Dfa | Dfb | Dfb | Dfb | Dfb | Dfb | Dfb | Dfc | Dfc | ET | ET | |
平均 気温 (°C) | 最暖月 | 21.5 (7月) | 21.0 (7月) | 21.2 (7月) | 19.3 (7月) | 13.8 (7月) | 18.8 (7月) | 16.1 (8月) | 14.3 (7月) | 17.0 (7月) | 8.2 (7月) | 6.1 (7月) |
最寒月 | −5.5 (1月) | −10.3 (1月) | −9.7 (1月) | −12.8 (1月) | −22.2 (1月) | −5.9 (1月) | −4.9 (2月) | −15.2 (1月) | −25.6 (1月) | −27.5 (1月) | −37.4 (2月) | |
降水量 (mm) | 最多月 | 78.1 (8月) | 92.8 (6月) | 96.4 (11月) | 121.4 (7月) | 113.9 (7月) | 154.2 (11月) | 164.8 (12月) | 38.1 (7月) | 40.8 (7月) | 69.5 (8月) | 16.1 (8月) |
最少月 | 47.7 (2月) | 54.3 (2月) | 62.7 (2月) | 74.5 (2月) | 40.3 (2月) | 93.5 (8月) | 91.6 (7月) | 7.0 (4月) | 11.3 (4月) | 18.7 (2,3月) | 2.2 (3月) |
経済
IMFによると、2010年のカナダのGDPは1兆5636億ドル(約130兆円)であり、世界第9位である[64]。20世紀初めまで経済の主体は農業だったが、モントリオールやトロントが金融センターとなって、現在では世界有数の先進工業国となった。工業は自動車産業や機械産業が成長し、近年はIT産業が発展してきている。カナダでは唯一の発券銀行として中央銀行のカナダ銀行があり、通貨カナダドルを発行、管理している。1ドル=100セントである。2012年3月29日にカナダ政府は実用性や製造コストなどの問題や理由により1セント通貨の製造を廃止することを発表している[65]。世界金融危機のときにカナダ銀行総裁であったマーク・カーニーは、2013年からイングランド銀行総裁を務めている。カナダは京都議定書に署名はしたものの2011年12月に脱退を表明した[66]。2009年の気候変動実績指標では最下位のサウジアラビアに次ぐ59位であり、二酸化炭素排出量は10年前より25%も増えている。
鉱業
王有の鉱山会社CBDC があるほど力を入れている。
鉱物資源に非常に恵まれており、世界シェア10位に入る鉱物が17種ある。以下では2003年時点の統計データに基づく。有機鉱物資源では、天然ガス(6565千兆ジュール、3位)、燃料となる褐炭(3695万トン、9位)のほか、石炭(2954万トン)と原油(9111万トン)の産出量も多い。ダイヤモンドの産出量も1120万カラットに及び、世界第6位である。
金属資源では、 ウラン鉱(1万トン、1位、世界シェア29.2%)、カリ塩鉱(820万トン、1位、世界シェア30.9%)、 イオウ(903万トン、2位)、鉄鉱(1980万トン、3位)、銀鉱(1309トン、3位)、タングステン鉱(2750トン、3位)、ニッケル鉱(16万トン、3位)、亜鉛鉱(100万トン、4位)、コバルト鉱(4304トン、5位)、塩(1335万トン、5位)、鉛鉱(15万トン、5位)、金鉱(141トン、7位)、アンチモン鉱(143トン、8位)、銅鉱(56万トン、8位)が特筆される。このほか、マグネシウム鉱、リン鉱も採掘されている。銀は大不況 (1873年-1896年) のころからコバルトなどの工業用金属を選鉱するときに副産物として生産されており、世界的な供給過剰と価格の下落を引き起こした[67]。
カナダは第二次世界大戦のころベルギー領コンゴやチェコスロバキアと並ぶ世界的なウラン供給国であった[68][69]。2000年となっては日本の天然ウラン輸入元における取引額1位であった。
貿易
最大の貿易相手国はアメリカで、輸出の5分の4以上、輸入の約3分の2を占める。鉱物、木材、穀物は現在も重要な輸出品だが、近年は工業製品が中心となっている。アメリカへの輸出品で最も多いのは、自動車と関連部品である。1989年にアメリカとのFTAが発効し、1994年にはメキシコも加わってNAFTAが結ばれた。アメリカ以外の主要輸出相手国は日本、イギリス、中国、メキシコ、ドイツ、イタリア。主要輸入相手国は中国、メキシコ、日本、イギリス、ドイツである。主要輸出品は、自動車および自動車部品、精密機器、原油、天然ガス、金属および金属製品、産業用機械、通信機器、化学製品、木材、パルプ、小麦、魚類(サケ類、イクラ、マグロ等)、メープルシロップなど。輸入品は自動車部品、自動車、機械、化学製品、コンピューター、原油、通信機器などである。
国民
カナダの人口は連邦化時点から単調増加を続けている。カナダでは社会保険番号が国民識別番号として運用される。
人種
2011年国勢調査によると、ヨーロッパ系白人が76.7%、黒人2.9%、先住民4.3%、中南米系やアジア系などを含むその他が16.2%となっている。その他の内訳は東アジア系(4.8%)、南アジア系(4.8%)、東南アジア系(2.8%)、西アジア・アラブ系(1.8%)、ラテンアメリカ系(1.2%)、混血(0.5%)、その他(0.3%)となっている。カナダの人種統計では、白人、先住民族以外を有色人種と分類し、全人口の19.1%を占めている。先住民族はさらに北アメリカインディアン系をまとめた呼称であるファースト・ネーションズ (First Nations) (2.6%) 、インディアンとヨーロッパ白人の混血のメティ(1.4%)、エスキモー民族のイヌイットの3つに分類されている。
カナダとアメリカの人種構成の違いは、もともと黒人奴隷がほとんど存在しなかったために黒人(2.5%)が非常に少なく、イギリス系、フランス系が人口の半数を占めていることである。アメリカと同じくアイルランド系とドイツ系とイタリア系も多いが、カナダはウクライナ系が非常に多いのが特徴で、ウクライナ・ロシア以外では最大規模である。またアメリカで非常に多いスペイン語圏出身者が少ない。アジア系が多いといってもカナダは大英帝国の植民地だった影響で大多数は南アジア系、中国系(特に香港など広東語圏)であり、逆にアメリカに多いアジア系の日系、韓国系、ベトナム系は比較的少ない。特にバンクーバーとトロントは巨大なアジア系人口を抱え、この2都市では白人は人口の半数弱を占めるに過ぎない。一方、アフリカ系は主に、トロント、モントリオールに集中している。1999年に中国系のエイドリアン・クラークソン、続いて2005年にハイチ系のミカエル・ジャンが総督に就任するなど、リベラルな国民性も合わせて人種には寛容な姿勢を示している。
中国系カナダ人は、1850年代、ゴールドラッシュや鉄道建設の労働者としてカナダに流入したのが始まりである。カナダは中国系の排斥を意図して、人頭税を課したり、中国系排斥を狙った中国人移民法を1920年代に成立させている。これについて、カナダ政府は2006年に謝罪した。カナダには、政府関連事業に80万カナダドル(約7500万円)を5年間、無利子で融資した場合、永住権を獲得できるプログラムが有り、このプログラムに申し込む半数は中国系とされる。カナダでは、この投資額を引き上げる動きがあり、中国系を排斥する意図があるのではと一部で指摘されている[70]。2015年2月、中国人移民の急増に耐えかねたカナダ当局は、このプログラムを打ち切っている[71]。
2006年の調査では住民の祖先は、イングランド系21%、フランス系15.8%、スコットランド系15.2%、アイルランド系13.9%、ドイツ系10.2%、イタリア系5%、中国系4%、ウクライナ系3.6%、オランダ系3.3%、ポーランド系3.1%、インド系3%である。また、3.8%のカナダ人が先住民族の血を引くと回答している。3分の1の国民が自らの民族をカナダ人であると主張しているが、これは、移民である祖先の出身国の民族意識よりも、民族的アイデンティティそのものはもはやカナダ人であると主張する人たちであり、大多数はイギリス系とフランス系であると思われる。
言語
英語(カナダ英語を参照)とフランス語(Canadian Frenchを参照)が1969年に制定された公用語法によって認められている公用語である。この公用語法では、連邦政府における英語とフランス語が平等な地位にあることが定められた。連邦裁判所、連邦議会(カナダ国会)や連邦政府機関のすべてで英仏二カ国語が平等に扱われる。カナダ国民は、十分に需要がある場合には連邦政府の行政サービスを英語またはフランス語にて受ける権利があり、公用語の少数派側であっても、すべての州・準州にて教育を受ける権利が保障されている。
2006年国勢調査[72]によると、国民の約58%が英語、約22%がフランス語を第一言語としている。約98%が英語かフランス語のどちらかを話し(57.8%が英語のみを、13.3%がフランス語のみを、17.7%が両言語を話すことができる)
フランス語が主に使われている地域はケベック州、オンタリオ州のオタワなどの東部地域と北オンタリオ地方、ニューブランズウィック州のアカディア人の多い地域、およびマニトバ州の南部である。このうち、ケベック州はフランス語(ケベック・フランス語を参照)のみを、ニューブランズウィック州は英語とフランス語を州の公用語とし、他州は英語のみを州の公用語としている。
なお、ユーコン準州では英語とフランス語が、ヌナブト準州では英語、フランス語、イヌクティトゥット語、イヌイナクトゥン語が、ノースウエスト準州では英語、フランス語、イヌクティトゥット語、イヌイナクトゥン語、クリー語、ドグリブ語、チペワイアン語、サウススレイビー語、ノーススレイビー語、グウィッチン語、イヌビアルクトゥン語も公用語となっている。
公用語以外の言語を使う住民も600万人ほどおり、中国語(広東語が多い)の話者が103万人、イタリア語が45万人、ドイツ語が44万人、などである。また先住民の中には個々の部族の言語を使うものもいるが、多くの言語はだんだんと使われなくなっていく傾向にある。
カナダでは移民社会を構成しているので、200語以上の言語が国勢調査で母語として回答されている。中国語を母語とする人口は全体の3.3%であり、英語、フランス語に続く第三位の母語となっている。第四位はパンジャブ語であり増加中である。その他に母語として多いのはスペイン語、アラビア語、タガログ語、ウルドゥ語である。
カナダでは二カ国語主義の国家ではあるものの、英語とフランス語の両方で会話が出来るのは人口の17.4%である。ケベック州在住の英語話者の69%はフランス語も話せ、ケベック州以外に在住のフランス語話者の83.6%が英語も話せる。
宗教
2001年の国勢調査によると、キリスト教徒が多数(77%)を占める。内訳はアングロアメリカ圏でありながら、カトリックが43.2%と最も多い。次にプロテスタントが29.2%、正教会・東方諸教会が1.6%となっている。
ムスリムが2%、ユダヤ教徒が1.1%、仏教徒が1.0%、ヒンドゥー教徒が1.0%、シーク教徒が0.9%。無宗教は16.5%である。
プロテスタントの力が政治的にも文化的にも強い影響力を持っているアメリカ合衆国と比べるとカナダはより世俗的である。これは教会出席率にも表している。アメリカ合衆国では
毎週教会に通う人の割合が43%で、全く通わない、もしくはほとんど行かないという人の割合はわずか8%である。一方、カナダでは毎週教会に通う人の割合が20%にとどまり、全く通わない、もしくはほとんど行かないという人の割合は38%と逆転している。
市民結婚法
カナダでは、2005年7月20日に「市民結婚法(Civil Marriage Act)」が成立し、結婚を「すべての他人を除外した2人の人物の合法的な連合」と定義している、つまり異性間の結婚と同性間の結婚に区別がなく現在世界で最も容易に同性結婚をすることが可能である。
保健
各州が運営するMedicareにより、一般税収を原資とした公費負担医療が実施されている。診察などは無料提供されているが、薬剤等を含む医療費における自己負担率は30%ほど[73]。
文化
カナダの文化はしばしば「進歩的、多様で、多文化主義的」[74]とされる。先住民の文化から、移住してきたヨーロッパ系の文化、さらに近年の様々な国からの移民の持ち込む幅広いものが含まれ、混じり、重なり、形成されている。その中で政治的にも多文化主義が憲法で守られ、政策的にも推進されてきた[75]。ケベックでは文化アイデンティティーは強く、仏語話者の評論家はケベック文化は英語圏と違った独自性を持つと強調する[76]。しかしながらカナダは全体として、「文化のモザイク」(様々な人種・民族・地域文化が共存する)を形成しているとされる[77]。国の政策でもユニバーサルヘルスケア、富の再分配のための高い税金、死刑廃止、貧困撲滅への努力、多文化主義推進、厳しい銃規制、同性結婚合法化などが挙げられ、カナダの政策や文化上の社会的価値観を反映している
[78]。カナダ料理の多様性は、カナダの経済社会がサラダボウル化していることを特に分かりやすく表現している。
文学
『赤毛のアン』の作者L・M・モンゴメリはカナダの文学者である。またサイバーパンクSF作家であるウィリアム・ギブソンはアメリカ合衆国出身だが、徴兵を拒否しカナダに移住したため、「カナダの作家」として扱われることがある。また、マーガレット・アトウッドもカナダの作家である。
音楽
カナダの音楽は先住民族やヨーロッパからの移民をはじめとし、様々な人々によって創造・継承されてきた。1600年代以降より、カナダでは国際的に著名な作曲家、演奏家などの音楽家を輩出してきた[79]。17世紀以降では教会や集会所、邸宅の大広間、学校、コンサートホール、レコード会社、ラジオ・テレビ局など様々な音楽のインフラが形成されてきた[80][81]。これらの音楽はアメリカ合衆国からの影響を大きく受け[82][83][84]ながらも、「カナディアン・ロック」と言うジャンルを生み出した[85]。
ポピュラー音楽・ロックの分野ではニール・ヤングやジョニ・ミッチェル、ザ・バンドらの優れたミュージシャンを輩出した。また、ゴードン・ライトフット、ゲス・フー、BTO、レナード・コーエン、アン・マレー、ラッシュ、ポール・アンカ、セリーヌ・ディオン、ニッケルバック、アヴリル・ラヴィーン、ダニエル・パウター、ジャスティン・ビーバー、ドレイクらもカナダ出身である。ジャズでは、オスカー・ピーターソンが国際的に成功した。
カナダ記録芸術科学アカデミー(Canadian Academy of Recording Arts and Sciences)がカナダの音楽産業を代表し1970年よりジュノー賞の授与を行なっている。またカナダにおける音楽の放送はカナダ・ラジオテレビ通信委員会によって規制されている。
クラシック音楽の分野では、20世紀半ばに活躍したマレイ・アダスキン、ジョン・ワインツワイグなども著名であり、また独創的なバッハ解釈で名高いグレン・グールドなどはトロント生まれである。また、モントリオール交響楽団はシャルル・デュトワが指揮者を務めている間に実力を高め、北米大陸屈指のオーケストラとして知られるようになった。作曲家のマリー・シェーファーはサウンドスケープの提唱者であり「魔法の歌(マジック・ソングズ)」「ガメラン」等の作品がある。
その他、カナディアン・カントリーミュージック賞、ケベック音楽に授与されるフェリックス賞など、様々なジャンルの音楽に授与される音楽賞が設けられている。
映画
カナダは公用語として英語とフランス語の両方を採用しており、両言語の映画が制作されている。なお、カナダにおける映画制作の主な拠点となっているのは、トロント、モントリオール、バンクーバーである。このうち、モントリオールではモントリオール世界映画祭という、比較的名の知られた映画祭が開催される。
世界遺産
カナダ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が6件存在する。さらにアメリカ合衆国にまたがって2件の自然遺産が登録されている。
主な祝祭日
祝日は概ね、カトリックに傾くほど数が多い。世界史全体において、プロテスタントの隆盛に伴い減らされてきた。
日付 | 祝祭日 (英語 / 仏語) | 備考 |
---|---|---|
1月1日 | 元日 New Year's Day jour de l'An | 法令による。 |
復活祭の直前の金曜日 | 聖金曜日 Good Friday vendredi saint | 法令による。4月になることが多い(イースターを参照)。 |
復活祭の翌日 | イースター・マンデー Easter Monday lundi de Pâques | 4月になることが多い(イースターを参照)。 |
5月25日の直前の月曜日 | ヴィクトリア・デー Victoria Day fête de la Reine | ヴィクトリア女王の誕生日と現在の国王誕生祭(Sovereign's birthday、fête de la Reine、王朝節)。[86]法令による。ケベック州では、パトリオットの祝日(fête des patriotes)として祝う。パトリオットの祝日は、愛国者の反逆(Patriotes Rebellion)の記念日。 |
7月1日 | カナダ・デー Canada Day fête du Canada | カナダ建国記念日。法令による。1867年の英領北アメリカ法による3つの植民地の連邦自治開始(カナダ建国)を記念する日。 |
9月の第1月曜日 | レイバー・デー Labour Day fête du travail | 法令による。労働者の日。 |
10月の第2月曜日 | 感謝祭 Thanksgiving action de grâce | 法令による。アメリカとは異なる月に祝う。 |
11月11日 | リメンバランス・デー Remembrance Day jour du souvenir | 第一次世界大戦終結の記念日。州によって祝日では無い事がある。 |
12月25日 | クリスマス Christmas Noël | 法令による。 |
12月26日 | ボクシング・デー Boxing Day lendemain de Noël | 法令による。 |
その他の祝日
- 2月第3月曜日「ファミリー・デー」(Family Day)[87]:アルバータ州、オンタリオ州、サスカチュワン州で設定。ブリティッシュコロンビア州では2月第2月曜日。マニトバ州では「ルイ・リエル・デー」、プリンスエドワード州では「アイランダー・デー」として設定されている。
- 8月第1月曜日「シビック・ホリデー」(Civic Holiday)[88]:ブリティッシュコロンビア州(ブリティッシュコロンビア・デー)、ニューブランズウィック州(ニューブランズウィック・デー)、ノースウエスト準州(シビック・ホリデー)、ヌナブト準州(シビック・ホリデー)、サスカチュワン州(サスカチュワン・デー)として設定されている。アルバータ州、マニトバ州、オンタリオ州、ノバスコシア州、プリンスエドワード州では雇用主によって休日となる。ニューファンドランド・ラブラドール州、ケベック州、ユーコン準州では休日ではない。
この他にも、いくつかの州で設定されている祝日、州ごとに設定された祝日などがある。
スポーツ
英連邦の一員であるカナダであるが、スポーツ文化においては旧宗主国イギリスの影響はあまり残っていない。隣国アメリカ合衆国とも一線を画す独自のスポーツ文化が存在する。
アイスホッケー
アイスホッケーは現在カナダで最も盛んなスポーツであり、国技にも制定されている[89]。カナダの国土はアイスホッケーに非常に適した自然環境であり、冬の間は子供から大人までが娯楽でアイスホッケーを楽しむという人も多い。約58万人のカナダ人がアイスホッケーの競技者登録をしており、カナダ国内にはホッケー選手230人に一つの割合でインドアのアイスホッケーリンクが存在している[90]。
北米最大のプロリーグであるNHLは1917年にカナダで設立され、その後アメリカ合衆国へと拡大した。現在カナダ7チーム、アメリカ合衆国23チームの計30チームからなる。NHL選手の半数以上がカナダ人である[90]。アメリカ合衆国ではNFL、MLB、NBAに次ぐ4番手に位置づけられるNHLだが、カナダでは絶大な人気を有する。特にカナダ最大の都市トロントを本拠地とするトロント・メープルリーフスと第二の都市モントリオールを本拠地とするモントリオール・カナディアンズは宿命のライバルとして知られている。NHLの優勝決定トーナメントであるスタンレー・カップにカナダのチームが勝ち進むと大きな盛り上がりを見せる。"The Great One"と称され、NHLの4つのチームを渡り歩いたウェイン・グレツキーは、引退してもなおカナダの国民的英雄である。[要出典]
男子はオリンピックでは初採用となった1920年のアントワープ五輪から1952年のオスロ五輪まで7大会で金メダル6度、銀メダル1度の圧倒的強さを誇っていたが、ソビエト連邦や欧州諸国の台頭に伴い、長らく金メダルから遠ざかった。2002年のソルトレイクシティ五輪では50年ぶりの金メダルを獲得し、2010年の地元開催となったバンクーバー五輪では男女とも金メダルを獲得している。
野球
野球は隣国アメリカ合衆国の影響を受け、カナダでもポピュラーなスポーツの1つである。パンアメリカン競技大会では2011年、2015年(男子)と2大会連続で優勝を果たし[91]、優勝回数はキューバに次いで2番目に多いなど、野球強豪国の一つである。
カナダ最大の都市トロントを本拠地とするメジャーリーグベースボール(MLB)のトロント・ブルージェイズ(1977年設立、アメリカンリーグ東地区)はアメリカ合衆国外に本拠地を置く唯一の球団である。ブルージェイズは世界初の本格的開閉式ドーム球場ロジャース・センター(旧称スカイ・ドーム)を本拠地としており、1992年、1993年にはワールドシリーズを連覇した。当時はブルージェイズがMLB屈指の強豪球団であったため、1991年にはMLB史上初めて年間観客動員が400万人を突破した(1993年まで継続)。
近年でも2015年に地区優勝、2016年にワイルドカードでプレーオフ進出などの好成績もあり、2016年の観客動員数はリーグ最多だった[92]。しかし、かつてカナダに本拠地を置くもう1つの球団として「モントリオール・エクスポズ」(1969年設立、ナショナルリーグ東地区)が存在したが、フランス語圏であるモントリオールは英語圏に比べて野球の認知度が低く、慢性的な財政難に悩まされ、2005年にワシントンD.C.に移転し球団名もワシントン・ナショナルズに改めた。
- カナダ出身の野球選手
ラリー・ウォーカー、1993年に日本の中日ドラゴンズでプレー経験もあるマット・ステアーズ、ジャスティン・モルノー、ジェイソン・ベイ、ジョーイ・ボット、エリック・ガニエ、ラッセル・マーティン、マイケル・ソーンダース、ブレット・ロウリーらが有名である。
カナディアンフットボール
カナディアンフットボールはカナダでは単にフットボールと呼称し、隣国アメリカ合衆国で盛んなアメリカンフットボールに非常によく似たスポーツである。カナダではアイスホッケーに次いで人気のあるスポーツであり[93]、国内8チームからなるプロリーグカナディアン・フットボール・リーグ(CFL)の優勝決定戦グレイ・カップはカナダ最大のスポーツイベントである[94]。
バスケットボール
バスケットボールの考案者はカナダ人のジェームズ・ネイスミスであり、カナダの人気スポーツの1つとなっている。特にノバスコシア州やオンタリオ州の南部で盛んである。トロントを本拠地とするNBAトロント・ラプターズ(1995年設立)は現在アメリカ合衆国外に本拠地を置く唯一のNBAチームである。ラプターズの設立と時を同じくして、バンクーバーにもバンクーバー・グリズリーズが設立されたが、こちらは観客動員の低迷による経営難に悩まされ、2001年にテネシー州メンフィスへと移転した。NBAでも多くのカナダ人選手が活躍しており、2年連続でシーズンMVPを獲得したスティーブ・ナッシュはその代表格である。
サッカー
旧宗主国イギリスの国技の1つであるサッカーの人気は一部の移民一世世代を除いては、これまで隣国アメリカ合衆国と同様あまり高くなかった。しかし、近年はFIFAワールドカップ、UEFA欧州選手権などのテレビ中継の人気が高まり[95]、認知度が高まりつつある。大会開催中には自身または親世代の出身国チームの応援をする人々が増えており、各民族コミュニティーでは集まってテレビ観戦するなどの機会が増えている。
2007年にはメジャーリーグサッカー(MLS)で初めて米国外を本拠地とするトロントFCが誕生し、MLSのチーム中で最高の観客動員数を誇っている。2011年にはバンクーバー・ホワイトキャップス、2012年にはモントリオール・インパクトの参戦が決定した。さらには、オタワにもMLSチーム参加が検討されている。2007年にはFIFA U-20ワールドカップが開催されている。日本人でもバンクーバー・ホワイトキャップスの工藤壮人が在籍している。サッカーカナダ女子代表は2012年のロンドンオリンピックで3位に入り初の銅メダルを獲得。2015 FIFA女子ワールドカップの開催国である。
2026年にはアメリカ合衆国、メキシコとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となる。
モータースポーツ
カナダではフォーミュラ1のカナダグランプリが1967年から毎年開催されている(2009年のみ不開催)。1978年からはモントリオールのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットが使用されている。また、インディカー・シリーズもトロント、エドモントンの市街地コースで開催されている。NASCARのカナダ国内選手権「NASCAR Canadian Tire Series」も国内各地で開催されている。
その他の種目
カーリングは国民的なスポーツであり、現在行われている国際ルールはカナダで確立したもので、1807年に王立カーリングクラブが設立されたカナダは、現在も強豪国の1つである。ラクロスは北米プロリーグであるメジャーリーグ・ラクロスのチームもある。
オリンピック等の行事
カナダでは冬季オリンピックが2回、夏季オリンピックが1回開催されている。
夏季オリンピック
モントリオールオリンピック(1976年7月17日 - 8月1日)
冬季オリンピック
カルガリーオリンピック(1988年2月13日 - 2月28日)
バンクーバーオリンピック(2010年2月12日 - 2月28日)
カナダではパンアメリカン競技大会が3回開催されている。3回開催された国はカナダのみである[96]。
脚注
注釈
^ ユーロ債市場を開拓してからBNPパリバと密接に関係。スイス銀行コーポレイションを経て現UBS。
^ 1947-57年にかけてのアメリカ外債市場では準内国債であるカナダ債と世界銀行債の比率が8割以上を占めていた[37]。
^ モーゲージは後に証券化されてユーロカレンシーの信用創造に拍車をかけた。
^ トランスアーバン(Transurban)は典型。
^ 2017年には21年ぶりの制度改革が行われた。2019-23年に所得代替率を1/3まで引き上げ、2024-25年に保険料賦課対象所得を114%まで拡大する。[43]
^ この論争は戦前から続いている(詳細)。
^ カナダの証券会社は規模が小さかったので、カナダの機関投資家や企業は大口の証券取引をメリルリンチなどアメリカの証券会社に依頼することが多かった[44]。
^ 2004年に破産保護されたエア・カナダもドイツ銀行などに機関化された。
出典
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関連項目
- カナダ関係記事の一覧
- ヌーヴェル・フランス
外部リンク
- 政府
カナダ政府 (英語)(フランス語)
カナダ総督府 (英語)(フランス語)
カナダ首相府 (英語)(フランス語)
カナダ大使館 (日本語)
- 日本政府
日本外務省 - カナダ (日本語)
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