淡路仁茂
淡路仁茂 九段 | |
---|---|
名前 | 淡路仁茂 |
生年月日 | (1950-03-21) 1950年3月21日(68歳) |
プロ入り年月日 | 1974年4月1日(24歳) |
棋士番号 | 113 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
師匠 | 藤内金吾八段 |
段位 | 九段 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 |
1回 |
2015年2月10日現在 | |
この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:infobox_将棋棋士を参照してください。 ■Template |
淡路 仁茂(あわじ ひとしげ、1950年3月21日 - )は、将棋棋士。棋士番号は113。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。名人戦A級通算1期。
目次
1 棋歴
2 棋風
3 反則負け
4 人物
5 昇段履歴
6 主な成績
6.1 通算成績
6.2 在籍クラス
6.3 タイトル挑戦
6.4 一般棋戦優勝
6.5 将棋大賞
6.6 その他表彰
7 著書
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
棋歴
関西三段リーグで1970年、1972年に優勝するが、東西決戦で敗れて四段昇段を逸する。そして、1973年度に3度目の優勝をし、「3度目は東西決戦不要」の規定により四段昇段してプロデビューする。
1977年度、入るのが難しいとされる十段リーグ(第16期)と王将リーグ(第27期)のメンバーとなった。この年度は、将棋大賞の新人賞、最多勝利賞(43勝)、最多対局賞(65局)を受賞した。
1979年度、第35期棋聖戦で、中原誠への挑戦者となる。五番勝負は敗退したが、将棋大賞の敢闘賞を受賞。
第40期(1981年度)、第41期(1982年度)の順位戦で、それぞれ8勝2敗、9勝3敗の成績を収め、2年連続昇級でA級八段となる。
第43期(2002年度)王位戦でリーグ入り。森内俊之、南芳一に勝利するが、リーグ残留失敗。翌年の第44期(2003年度)王位戦で、またもリーグ入り。佐藤康光らに勝利するが、リーグ残留失敗。
2011年度以降は順位戦に出場せずフリークラスに転出。65歳で迎えた2014年度公式戦の最終対局(2015年5月21日・第28期竜王戦5組残留決定戦・対森けい二)に勝ち、6組への“降級”を回避した上で引退[1][2]。勝敗に関わらず引退となる対局に勝ち、“有終の美”を飾ったケースは大内延介(2010年4月20日・第23期竜王戦5組残留決定戦・対石田和雄)以来5年ぶりであった。
棋風
受けにおいて粘り強い棋風を持ち、不倒流[3]と呼ばれる。
また、対局の手数が多いことから、三枚目の男という異名がついた。当時、棋譜を記録する用紙には一枚に80手までしか記入できなかったため、160手を超えると3枚目の記録用紙に書くことになる。その回数が非常に多いことからついたネーミングである。
さらに、六段時代の1981年には王位戦予選で中田章道と339手の将棋を指し、中田が勝利した。この対局は入玉を含まない対局としては2016年現在も公式戦の最長手数である。後に『将棋世界』の付録にて、この将棋をとりあげた際に、自ら「長手数の美学」と題をつけた。こちらも淡路を良く表すキャッチフレーズとして、用いられるようになった[4]。
後手番一手損角換わり戦法の産みの親であり、升田幸三賞を受賞した。また、現代矢倉の基礎的な変化をまとめた功績もある。
反則負け
反則を犯した回数が全棋士中1位である。内訳は、二歩が4回、二手指し(相手が指す前に2回続けて指す)が2回、さらに角筋の間違いが1回の計7回である。
対戦相手等の内訳は以下の通りである。
- 1980年 対戦者:石田和雄 5七の角を1一に成る[5]
- 1985年 対戦者:島朗 二歩
- 1986年 対戦者:石田和雄 二歩
- 1986年 対戦者:大原英二 二手指し
- 1990年 対戦者:森けい二 二歩
- 1997年 対戦者:矢倉規広 二歩
- 2005年 対戦者:岡崎洋 二手指し
あまりの反則の多さに、2005年にNHK衛星第2テレビで放映された「大逆転将棋」の「プロ反則負け特集」で、反則の回数が通算5回以上ということで、米長邦雄永世棋聖から「永世反則王」の称号を与えられるという演出があった[6]。
また、2007年6月、竜王戦で大内延介と対局して時間切負けをしている。本人はこの件について「記録係が淡路に対して行っていた秒読みを隣で対局していた対局者の秒読みだと思い込んでいた。」と述懐している。
反則の多さについては、淡路自身も意識しているのか、上記「プロ反則負け特集」の司会をした神吉宏充の証言によると、神吉が反則負けをした際には、直後にうなだれる神吉のもとに駆けつけ、「君も(反則を)やったか!」と喜んだという。
また、自身の引退対局(上述)が終局した後のインタビューでも、通算成績について言及した際に「反則が多かったからなー」と述懐した[7]。
人物
- 神戸将棋センター館主として広く普及活動を行っており、弟子に久保利明、村田智弘、女流の村田智穂等がいる。
- 指導熱心、弟子煩悩な面を語るエピソードとして、弟子の一人である久保が4歳のときに淡路は19枚落ち(淡路側は玉将1枚のみ)から指導した、将棋世界の企画における角落ち対局(上手久保・下手金井恒太)の際、棋士室で上手の久保の心配をしていた、などがある[8]。
2005年度より2011年度まで、日本将棋連盟常務理事。2015年6月より同監事。
パソコン、インターネットに明るく、日本将棋連盟の棋譜管理ソフトの開発に携わった。また、他の棋士のパソコンのセットアップなども行う。
羽生善治との通算対戦成績は、2勝1敗と勝ち越しである(2連勝の後に1敗)[9]。
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。
1966年 5級 = 奨励会入会
1968年 初段
1974年4月1日 四段 =プロ入り
1975年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
1978年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
1982年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
1983年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
1996年4月26日 九段(勝数規定)
2015年5月21日 引退
主な成績
通算成績
- 1392戦 695勝697敗 勝率 0.4993
在籍クラス
順位戦A級 通算1期(第42期)
竜王戦2組 通算6期(第1,3,4,6-8期)
タイトル挑戦
棋聖 1回(第35期-1979年度後期)
- 登場回数合計1、獲得合計0
一般棋戦優勝
オールスター勝ち抜き戦5勝以上 1回(第6回-1983年度、5連勝)
- 優勝合計 1回
将棋大賞
- 第5回(1977年度) 新人賞・最多対局賞・最多勝利賞
- 第7回(1979年度) 敢闘賞
- 第33回(2005年度) 升田幸三賞(後手番一手損角換わり)
- 第43回(2015年度) 東京将棋記者会賞[10]
その他表彰
1998年 現役勤続25年
2003年 将棋栄誉賞(通算600勝達成)
著書
- 早指し将棋の指し方(1980年11月、成美堂出版、ISBN 4-415-04619-3)
脚注
^ 順位戦のC級2組で降級点を3回喫したり、三段リーグで次点2回を獲得したりしてフリークラスに編入した棋士が、在籍期限の最終年度に竜王戦5組に残留した場合は竜王戦に限定して2年間引退を延長できる規定が存在する。しかし淡路は自身の意思でフリークラスに転出したため、この規定の対象外であった。
^ “淡路仁茂九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
^ 「不倒流」は原田泰夫による命名。
^ 「将棋世界」2009年1月号「感想戦後の感想」
^ この時、5七と6六に淡路の角があった。無論、6六の角が1一に成るのは反則ではない。
^ ただし、この称号は日本将棋連盟に公的に存在するものではなく、あくまで同番組における演出の一環として設けられた架空の称号である。
^ 日本将棋連盟モバイル「淡路仁茂九段・共同インタビュー」2015年5月21日(潤記者)
^ 「将棋世界」2009年6月号「トップ棋士vs新鋭棋士 指し込み2番勝負!!」
^ 玲瓏・羽生善治データベース
^ “第43回将棋大賞受賞者のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
関連項目
- 将棋棋士一覧
- 棋戦 (将棋)
外部リンク
- 淡路仁茂|棋士データベース|日本将棋連盟
- 神戸将棋教室
|
将棋大賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|