遼
- 遼
- 大遼
契丹國
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916年 - 1125年
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1000年頃の領域
公用語
契丹語、中古漢語
首都
上京臨潢府(現バイリン左旗)
- 皇帝
907年 - 926年
耶律阿保機
1101年 - 1125年
天祚帝
- 変遷
建国
916年
金によって滅亡
1125年
遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。
目次
1 名称
2 歴史
3 政治
4 地理
5 日本との関係
6 遼の皇帝
6.1 系図
7 関連項目
8 脚注
9 参考資料
名称
建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、本来であれば947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と呼ぶべきであるが、便宜上まとめて遼とする。
歴史

=北宋、遼(簡体字で「辽」)、西夏の境域図。北宋政和元年、遼天慶元年(1111年)
![]() モンゴルの歴史 | |||
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中国 |
モンゴル高原 |
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周 |
戎狄 |
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秦 |
月氏 |
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東胡 |
漢 |
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鉄勒 |
突厥 |
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唐 |
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モンゴル人民共和国 |
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モンゴル国 |
現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
さらに2代耶律徳光は五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と南朝宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。
宋の太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り澶淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。
女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝金を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。
政治
遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。
北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。
南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。
この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを南朝宋の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。
遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。
満州の歴史 | ||||||||||||||||||||
箕子朝鮮 |
東胡 |
濊貊 沃沮 |
粛慎 |
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燕 |
遼西郡 |
遼東郡 |
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秦 |
遼西郡 |
遼東郡 |
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前漢 |
遼西郡 |
遼東郡 |
衛氏朝鮮 |
匈奴 |
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漢四郡 |
夫余 |
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後漢 |
遼西郡 |
烏桓 |
鮮卑 |
挹婁 |
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遼東郡 |
高句麗 |
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玄菟郡 |
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魏 |
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公孫度 |
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遼東郡 | ||||||||||||||||||||
玄菟郡 | ||||||||||||||||||||
西晋 |
平州 |
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慕容部 |
宇文部 |
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前燕 |
平州 |
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前秦 |
平州 |
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後燕 |
平州 |
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北燕 | ||||||||||||||||||||
北魏 |
営州 |
契丹 |
庫莫奚 |
室韋 |
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東魏 |
営州 |
勿吉 |
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北斉 |
営州 |
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北周 |
営州 |
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隋 |
柳城郡 |
靺鞨 |
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燕郡 | ||||||||||||||||||||
遼西郡 | ||||||||||||||||||||
唐 |
営州 |
松漠都督府 |
饒楽都督府 |
室韋都督府 |
安東都護府 |
渤海国 |
黒水都督府 |
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五代十国 |
営州 |
契丹 |
渤海国 |
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遼 |
上京道 |
|
東丹 |
女真 |
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中京道 |
定安 |
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東京道 |
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金 |
東京路 |
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上京路 | ||||||||||||||||||||
東遼 |
大真国 |
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元 |
遼陽行省 |
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明 |
遼東都司 |
奴児干都指揮使司 |
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建州女真 |
海西女真 |
野人女真 |
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清 |
満州 |
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東三省 |
ロマノフ朝 |
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中国朝鮮関係史 | ||||||||||||||||||||
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地理
遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市が設けられた(→複都制)。
上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区巴林左旗南波羅城)- 東京遼陽府(現在の遼陽)
中京大定府(現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県)- 南京析津府(燕京:現在の北京)
- 西京大同府(現在の大同)
都は上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区巴林左旗の南、巴林左旗は内モンゴル自治区南部の都市赤峰市から北上した大興安嶺山脈の麓にある。)に置かれた。
日本との関係
中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかった。しかし、嘉保2年(1094年)5月25日、前大宰権帥の正二位行権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された[1]。なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。
遼の皇帝
契丹と遼 907年 - 1125年 | ||||||
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廟号 |
諡号 |
漢名 |
契丹名 |
常用名称 |
在位時間 |
年号 |
太祖 |
大聖大明神烈天皇帝 |
億 |
阿保機 |
耶律阿保機 |
907年 - 926年7月 |
神冊 916年12月 - 922年1月 天賛 922年2月 - 926年2月 |
─ |
淳欽皇后 |
平 |
月里朶 |
述律平 |
926年7月 - 927年11月 |
天顕 926年 - 927年 |
太宗 |
孝武恵文皇帝 |
徳光 |
堯骨 |
耶律徳光 |
926年11月 - 947年4月 |
天顕 927年 - 938年11月 会同 938年 - 947年1月 |
世宗 |
孝和荘憲皇帝 |
阮 |
兀欲 |
耶律阮 |
947年4月 - 951年9月 |
天禄 947年9月 - 951年9月 |
穆宗 |
孝安敬正皇帝 |
璟/明 |
述律 |
耶律璟 |
951年9月 - 969年2月 |
応暦 951年9月 - 969年2月 |
景宗 |
孝成康靖皇帝 |
賢 |
明扆 |
耶律賢 |
969年2月 - 982年9月 |
保寧 969年2月 - 979年11月 乾亨 979年11月 - 983年6月 |
聖宗 |
文武大孝宣皇帝 |
隆緒 |
文殊奴 |
耶律隆緒 |
982年9月 - 1031年6月 |
統和 983年6月 - 1012年閏10月 開泰 1012年11月 - 1021年11月 |
興宗 |
神聖孝章皇帝 |
宗真 |
只骨 |
耶律宗真 |
1031年6月 - 1055年8月 |
景福 1031年6月 - 1032年11月 重熙 1032年11月 - 1055年8月 |
道宗 |
孝文皇帝 |
洪基 |
查剌 |
耶律洪基 |
1055年8月 - 1101年1月 |
清寧 1055年8月 - 1064年 咸雍 1065年 - 1074年 |
─ |
─ |
延禧 |
阿果 |
耶律延禧 |
1101年2月 - 1125年2月 |
乾統 1101年2月 - 1110年 天慶 1111年 - 1120年 |
北遼と西北遼 1122年 - 1123年 | ||||||
廟号 |
諡号 |
漢名 |
契丹名 |
常用名称 |
在位時間 |
年号 |
宣宗 |
孝章皇帝 |
淳 |
涅里 |
耶律淳 |
1122年3月 - 6月 |
建福 1122年3月 - 6月 |
─ |
─ |
定 |
─ |
耶律定(摂政:蕭普賢女) |
1122年6月 - 12月 |
徳興 1122年6月 - 12月 |
─ |
順文皇帝 |
─ |
雅里 |
耶律雅里 |
1123年5月 - 10月 |
神暦 1123年5月 - 10月 |
英宗 |
顕武皇帝 |
─ |
朮烈 |
耶律朮烈 |
1123年10月 - 11月 |
神暦 1123年10月 - 11月 |
西遼 1132年 - 1218年 | ||||||
廟号 |
諡号 |
漢名 |
契丹名 |
常用名称 |
在位時間 |
年号 |
徳宗 |
天祐皇帝 |
─ |
大石 |
耶律大石 |
1124年7月 - 1143年 |
延慶 1132年2月 - 1134年 康国 1134年 - 1143年 |
─ |
感天皇后 |
─ |
塔不煙 |
蕭塔不煙 |
1144年 - 1150年 |
咸清 1144年 - 1150年 |
仁宗 |
正徳皇帝 |
─ |
夷列 |
耶律夷列 |
1151年 - 1163年 |
紹興 1151年 - 1163年 |
─ |
承天皇后 |
─ |
普速完 |
耶律普速完 |
1164年 - 1178年 |
崇福 1164年 - 1178年 |
─ |
文顕皇帝 |
─ |
直魯古 |
耶律直魯古 |
1179年 - 1211年 |
天禧 1179年 - 1211年 |
─ |
閔文皇帝 |
─ |
屈出律 |
屈出律 |
1212年 - 1218年 |
天禧 1212年 - 1218年 |
系図
太祖 1 |
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突欲 (義宗) |
太宗 2 |
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世宗 3 |
穆宗 4 |
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景宗 5 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
聖宗 6 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
興宗 7 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
道宗 8 |
和魯斡 | 徳宗 西1 |
|||||||||||||||||||||||||||||
濬 (順宗) |
宣宗 北1 |
仁宗 西2 |
|||||||||||||||||||||||||||||
天祚帝 9 |
英宗 北4 |
末主 西3 |
|||||||||||||||||||||||||||||
順文帝 北3 |
秦王 (北2) |
(女) | 閔文帝 西4 |
||||||||||||||||||||||||||||
太字は皇帝、北は北遼、西は西遼、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。
関連項目
- 北遼
- 東遼
- 西遼
- 燕雲十六州
- 契丹
- 契丹の高麗侵攻
- 契丹文字
- 高麗
- 五代十国時代
- 西夏
- 澶淵の盟
- テュルク諸語
- 東丹国
- 北宋
- モンゴル諸語
- 耶律氏
- 遊牧民
- 全モンゴリア
脚注
^ 池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年)201頁参照。
参考資料
- 池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年)
- 『遼史』