小阪昇
小阪 昇 七段 | |
---|---|
名前 | 小阪 昇 |
生年月日 | (1950-02-18) 1950年2月18日(68歳) |
プロ入り年月日 | 1973年10月1日(23歳) |
棋士番号 | 112 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
師匠 | 藤内金吾八段 |
段位 | 七段 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 |
1回 |
通算成績 | 444勝580敗(0.4336) |
2016年10月3日現在 | |
この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:infobox_将棋棋士を参照してください。 ■Template |
小阪 昇(こさか のぼる、1950年2月18日 - ) は、将棋棋士。2010年、引退。藤内金吾八段門下。棋士番号は112。兵庫県神戸市出身。
目次
1 棋歴
2 棋風
3 人物
4 昇段履歴
5 主な成績
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
棋歴
奨励会A組(旧三段リーグ)で10期5年足踏みするが、1973年前期(第10期)に11勝1敗というずば抜けた成績で1位となり、関東1位の桐谷広人との東西決戦を制して、1973年10月1日付けでプロ入りする。
第16期(1975年度)王位戦でリーグ入り。
1978年、第9回新人王戦で決勝三番勝負に進出。相手は、弟弟子で親友[1]でもある森安秀光であった。森安は前回優勝者であり2年連続通算4回目の優勝を狙っていたが、小阪が1敗の後の2連勝で優勝した。なお、中原誠名人との記念対局(名人vs新人王戦優勝者)では敗れた。
第31回(1981年度)NHK杯戦で本戦出場。1回戦で宮坂幸雄に勝ち、2回戦では兄弟子の内藤國雄に勝利する(3回戦で大山康晴に敗れる)。
第44期(1985年度)のC級2組順位戦は、7勝2敗で最終局を迎え、自力ではないものの昇級の可能性があった。これに勝って8勝2敗としたものの、ライバルのうち1名が勝ったため次点(4位)に終わった。翌年度、第45期(1986年度)C級2組順位戦では、順位戦デビューの羽生善治に勝利するなどして、第7戦まで無傷の全勝。しかも、前期の次点の成績により順位表で絶好のポジションにいた。しかし、そこから3連敗して7勝3敗の8位となり、またも昇級を逃した。
1988年度、第1期竜王戦4組においては、勝てば早速3組に昇級という一番(準決勝)で羽生と当たり、負けている。
2010年に引退。2009年度に引退規定が改定され、引退日は年度末(3月末)から最終対局日に変更された[2]。小阪は2010年度に入ってから竜王戦6組の昇級者決定戦で3連勝し、7月14日に千葉幸生に敗れるまで引退日が延びた[3]。
棋風
振り飛車党で、中飛車、四間飛車、三間飛車、向かい飛車、相振り飛車のいずれも指す。先手番では時折り居飛車も指す。後手番では中飛車や三間飛車が多い。
金や銀を前線に繰り出す厚い攻めに特徴がある棋風である。
人物
- 自分が三段の頃、当時中学生の谷川浩司に、毎週将棋を教えに行っていたことがある[1]。
麻雀が趣味で、同じく棋士の伊達康夫、桐山清澄、小林健二らとの研究会が約15年も続いた[1]。
昇段履歴
1962年 8級 = 奨励会入会
1965年 初段
1973年10月1日 四段(奨励会A組関西優勝 + 東西決戦で勝利) = プロ入り
1980年11月17日 五段(贈五段 = 将棋の日表彰)
1987年7月9日 六段(勝数規定 = 五段昇段後120勝)
1999年9月28日 七段(勝数規定 = 六段昇段後150勝)
2010年7月14日 引退
主な成績
- 通算成績
- 444勝580敗
- 棋戦優勝
新人王戦 1回(1978年度 = 第9回)
- 優勝合計1回
- 在籍クラス
- 竜王戦 自己最高4組
- 順位戦 自己最高C級2組
- 表彰
- 現役勤続25年表彰(1997年)
脚注
- ^ abc「将棋世界」2000年1月号付録より。
^ “引退棋士のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
^ “小阪 昇七段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
関連項目
- 将棋棋士一覧
外部リンク
- 小阪昇|棋士データベース|日本将棋連盟
|