近江国
近江国 | |
---|---|
■-近江国 ■-東山道 | |
別称 | 江州(ごうしゅう) |
所属 | 東山道 |
相当領域 | 滋賀県 |
諸元 | |
国力 | 大国 |
距離 | 近国 |
郡・郷数 | 12郡93郷 |
国内主要施設 | |
近江国府 | 滋賀県大津市(近江国庁跡) |
近江国分寺 | 1.(推定)滋賀県甲賀市(紫香楽宮跡) 2.(推定)滋賀県大津市野郷原 3.(推定)滋賀県大津市光が丘町 |
近江国分尼寺 | (未詳) |
一宮 | 建部大社(滋賀県大津市) |
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。
目次
1 「近江」の名称と由来
2 沿革
2.1 近世以降の沿革
3 国内の施設
3.1 宮
3.2 国府
3.3 国分寺・国分尼寺
3.4 神社
4 地域
4.1 郡
4.2 江戸時代の藩
5 人物
5.1 国司
5.1.1 近江守
5.1.2 近江介
5.1.3 近江掾
5.2 守護
5.2.1 鎌倉幕府
5.2.2 室町幕府
5.3 戦国大名
5.4 武家官位としての近江守
5.4.1 江戸時代以前
5.4.2 江戸時代
6 近江国の合戦
7 その他
8 関連氏族
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
「近江」の名称と由来
近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される[1]。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない[2]。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。
沿革
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,597村・858,618石7斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
滋賀郡(110村・46,138石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、門跡領、膳所藩、宮川藩、下野佐野藩、山城淀藩、河内狭山藩
栗太郡(125村・70,472石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、膳所藩、三上藩、上野前橋藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、伊勢菰野藩、和泉伯太藩
野洲郡(99村・68,554石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、施薬院領、西大路藩、大溝藩、三上藩、宮川藩、山上藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、上野前橋藩、和泉伯太藩、陸奥仙台藩[3]
甲賀郡(140村・78,776石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、水口藩、山上藩、宮川藩、三上藩、膳所藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩
蒲生郡(235村・139,733石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、公家領、門跡領、西大路藩、水口藩、宮川藩、山上藩、大和郡山藩、武蔵川越藩、陸奥仙台藩[3]、尾張名古屋藩、山城淀藩、丹後宮津藩、上野前橋藩、讃岐丸亀藩、和泉伯太藩、丹後峰山藩
神崎郡(86村・48,583石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、山上藩、大和郡山藩
愛知郡(117村・64,845石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩
犬上郡(122村・62,137石余) - 彦根藩
坂田郡(178村・92,105石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩、水口藩、山上藩、大和郡山藩、出羽山形藩、紀伊和歌山藩、讃岐丸亀藩
浅井郡(148村・76,876石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、膳所藩、山上藩、大和郡山藩、山城淀藩、三河吉田藩、出羽山形藩
伊香郡(71村・36,243石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、彦根藩、膳所藩、山城淀藩、上総飯野藩、三河吉田藩
高島郡(166村・74,151石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、大溝藩、膳所藩、大和郡山藩、越前鞠山藩、武蔵川越藩、若狭小浜藩、和泉伯太藩、加賀藩、山城淀藩、三河吉田藩、丹波福知山藩
慶応4年
3月7日(1868年3月30日) - 大津代官所に大津裁判所が設置され、幕府領を管轄。
4月28日(1868年5月20日) - 大津裁判所の管轄地域が大津県の管轄となる。
6月4日(1868年7月23日) - 戊辰戦争の処分により仙台藩が減封となり、郡内の領地が大津県の管轄となる。
- 明治元年12月22日(1869年2月3日) - 寺社領のうち滋賀郡の滋賀院領が大津県の管轄となる。
- 明治2年
6月17日(1869年7月25日) - 版籍奉還により、加賀藩(通称)の正式名称が金沢藩となる。
6月19日(1869年7月27日) - 版籍奉還により、吉田藩が改称して豊橋藩となる。
6月24日(1869年8月1日) - 版籍奉還により、鞠山藩(通称)の正式名称が敦賀藩となる。- 彦根藩が戊辰戦争の戦功によって加増され、彦根藩預地のうち坂田郡および愛知郡の一部が彦根藩領となる。
- 明治3年
- 2月 - 旗本領・狭山藩領[4]が大津県の管轄となる。
3月23日(1870年4月23日) - 敦賀藩が改称して鞠山藩となる。
4月14日(1870年5月14日) - 三上藩が藩庁の移転により和泉吉見藩となる。
7月17日(1870年8月13日) - 山形藩が転封により近江朝日山藩となる。それにともない坂田郡・浅井郡で領地替えが行われ、坂田郡の山形藩領と浅井郡の山上藩領が消滅。浅井郡の膳所藩領が滋賀郡の大津県の管轄地域に転封。
9月17日(1870年10月11日) - 鞠山藩が小浜藩に編入。- 10月 - 丸亀藩[5]領・飯野藩領が大津県の管轄となる。
- このころ和歌山藩領が大津県の管轄となる。
- 明治4年
- 4月 - 彦根藩預地が大津県の管轄となる。
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が膳所県、宮川県、水口県、山上県、西大路県、彦根県、朝日山県および佐野県、淀県、前橋県、宮津県、菰野県、伯太県、川越県、郡山県、名古屋県、豊橋県、峰山県、小浜県、金沢県、福知山県、吉見県の飛地となる。- 10月 - 大溝藩領[6]・公家領・門跡領・寺社領が大津県の管轄となる。
10月28日(1871年12月10日) - 第1次府県統合により、前橋県の管轄地域が群馬県の管轄となる。
11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により、宮津県・峰山県の管轄地域が豊岡県の管轄となる。
11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、佐野県の管轄地域が栃木県、川越県の管轄地域が入間県の管轄となる。
11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、豊橋県の管轄地域が額田県の管轄となる。
11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により、滋賀郡・栗太郡・甲賀郡・野洲郡・蒲生郡が大津県、神崎郡・愛知郡・犬上郡・坂田郡・浅井郡・伊香郡・高島郡が長浜県の管轄となる。
- 明治5年
1月19日(1872年2月27日) - 大津県が改称して滋賀県となる。
2月27日(1872年4月4日) - 長浜県が改称して犬上県となる。
9月28日(1872年10月30日) - 全域が滋賀県の管轄となる。
国内の施設
宮
近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。
大津宮(大津京) - 天智天皇-弘文天皇
紫香楽宮 - 聖武天皇
- (伝)保良宮 - 淳仁天皇、陪都として
古事記,日本書紀には志賀高穴穂宮の存在が記述されており、景行天皇,成務天皇,仲哀天皇が都したとされている。
国府
栗太郡勢多に所在。1964年(昭和39年)に現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。
国分寺・国分尼寺
国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年(弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。
神社
- 延喜式内社
- 『延喜式神名帳』には、大社13座10社・小社142座132社の計155座142社が記されている(近江国の式内社一覧を参照)。大社10社は以下に示すもので、全て名神大社である。
滋賀郡
小野神社二座- 日吉神社 (現 日吉大社)
栗太郡
- 佐久奈度神社
- 建部神社 (現 建部大社)
甲賀郡
川田神社二座
野洲郡
- 御上神社
- 兵主神社 (現 兵主大社)
蒲生郡
- 奥津嶋神社 - 奥津嶋神社または大嶋神社奥津嶋神社に比定。
伊香郡
- 伊香具神社
高嶋郡
水尾神社二座
総社・一宮以下
- 総社 不明
- 一宮 建部大社
- 二宮 日吉大社 - 比叡山延暦寺と関係が深く、一宮を凌ぐほどの力があったと見られている。
- 三宮 多賀大社または御上神社
地域
郡
- 滋賀郡
- 栗太郡
- 甲賀郡
- 野洲郡
- 蒲生郡
- 神崎郡
- 愛知郡
- 犬上郡
- 坂田郡
- 浅井郡
- 伊香郡
- 高島郡
江戸時代の藩
藩名 | 居城 | 藩主 |
---|---|---|
彦根藩 | 佐和山城 (1600年~1606年) 彦根城 (1606年~1871年) | 井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石) |
膳所藩 | 膳所城 | 戸田家(1601年~1616年、3万石) |
水口藩 | 水口城 | 加藤家(1682年~1695年、2万石) |
大溝藩 | 大溝陣屋 | 分部家(1619年~1871年、2万石) |
仁正寺藩 | 仁正寺陣屋 | 市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石) |
山上藩 | 山上陣屋 | 安藤家(1604年~1695年、1万石) |
近江宮川藩 | 宮川陣屋 | 堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石) |
三上藩 | 三上陣屋 | 遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石) |
堅田藩 | 堅田陣屋 | 堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石) |
朽木藩 | 朽木陣屋 | 朽木稙綱(1636年~1648年、1万石) |
大森藩 | 大森陣屋 | 最上義俊(1622年~1632年、1万石) |
近江高島藩 | 佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石) | |
近江小室藩 | 小室陣屋 | 小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石) |
人物
国司
近江守
『続日本紀』
多治比水守-和銅元年(708年)任官
采女比良夫-和銅3年(710年)任官
藤原武智麻呂-和銅5年(712年)任官[7]
長田王-霊亀2年(716年)任官
甘南備神前-天平13年(741年)任官
藤原仲麻呂-天平17年(745年)任官
藤原縄麻呂-天平神護2年(766年)任官
藤原家依-宝亀2年(771年)任官
高倉福信-宝亀7年(776年)任官
藤原種継-天応元年(781年)任官
多治比長野-延暦5年(786年)
『日本後紀』
大中臣諸魚-延暦8年(789年)任官- 紀勝長
巨勢野足-大同3年(808年)任官
藤原貞嗣-弘仁元年(810年)任官- 藤原継業
藤原緒嗣-弘仁3年(812年)任官- 秋篠安人
良岑安世-弘仁7年(816年)
『続日本後紀』
源信-承和2年(835年)任官
源明-承和6年(839年)任官
源融-承和9年(842年)任官,承和14年(847年)任官
南淵永河-承和12年(845年)任官
藤原岳守-承和15年(848年)任官
『日本文徳天皇実録』
小野篁-仁寿元年(851年)
藤原助-仁寿三年(853年)正月
藤原氏宗-仁寿三年(853年)7月
源冷-天安元年(857年)
『日本三代実録』
- 源融-貞観2年(860年)
春澄善縄-貞観6年(864年)- 源多
在原善淵-貞観10年(868年)
南淵年名-貞観12年(870年)- 源勤
- 菅原是善
- 在原行平
- 忠貞王
源是忠-仁和元年(885年)
藤原有実 - 延喜11年(911年)任官
藤原玄上 - 延喜16年(916年)、延喜20年(920年)任官(権守)
藤原玄上 - 延長5年(927年)任官
藤原師成 - 康平5年(1062年)任官
源隆俊 - 康平5年(1062年)任官
佐々木秀綱 - 延元3年/暦応元年(1338年)任官
近江介
藤原有実 - 貞観15年(873年)任官
藤原恒佐 - 延喜7年(907年)任官
源隆俊 - 長久2年(1041年)任官- 源隆俊 - 永承3年(1048年)還任
藤原顕家 - 永承7年(1052年)任官
近江掾
藤原有相 - 承平2年(932年)任官
守護
鎌倉幕府
- 1187年~1191年 - 佐々木定綱
- 1193年~1205年 - 佐々木定綱
- 1205年~1221年 - 佐々木広綱
- 1221年~1233年 - 佐々木信綱
- 1245年~1252年 - 佐々木泰綱
- 1275年~1310年 - 佐々木頼綱
- 1310年~1333年 - 佐々木時信
室町幕府
- 1335年 - 1336年 - 六角氏頼
- 1336年 - 1338年 - 京極高氏(佐々木道誉)
- 1338年 - 1340年 - 京極秀綱(佐々木秀綱)
- 1340年 - 1351年 - 六角氏頼
- 1351年 - 山内信詮[8]
- 1351年 - 六角直綱
- 1352年 - 1353年 - 六角義信
- 1354年 - 1370年 - 六角氏頼
- 1370年 - 1377年 - 六角高経(後の京極高詮)[9]
- 1377年 - 1411年 - 六角満高
- 1411年 - ? - 青木持通
- 1412年 - 1416年 - 六角満高
- 1416年 - 1441年 - 六角満綱
- 1441年 - 1445年 - 六角持綱
- 1445年 - 1456年 - 六角久頼
- 1456年 - 1458年 - 六角高頼(1度目)(六角政頼?)
- 1458年 - 1460年 - 六角政堯(1度目)
- 1460年 - 1468年 - 六角高頼(2度目)
- 1468年 - 1469年 - 六角政堯(2度目)
- 1469年 - 1470年 - 京極持清
- 1470年 - 1471年 - 京極孫童子丸
- 1471年 - 1471年 - 六角政堯(3度目)
- 1471年 - 1473年 - 六角虎夜叉
- 1473年 - 1478年 - 京極政高(京極政経)
- 1478年 - 1487年 - 六角高頼(3度目)
- 1488年 - 1489年 - 結城尚豊
- 1489年 - 六角高頼
- 1490年 - 1492年 - 細川政元
- 1492年 - 1493年 - 六角虎千代
- 1493年 - 1494年 - 山内就綱
- 1495年 - ? - 六角高頼
- 1507年 - ? - 六角氏綱
- 1508年 - ? - 京極高清
- 1511年 - 1518年 - 六角氏綱
- 1518年 - 1552年 - 六角定頼
- 1552年 - ? - 六角義賢
戦国大名
六角氏(観音寺城):守護大名から近江南部の戦国大名へ。1568年、観音寺城の戦いで織田信長に敗れて以降衰退
京極氏(上平寺城):近江北部の戦国大名。被官の浅井氏に実権を奪われ衰退、後豊臣秀吉に臣従して大名として復活
浅井氏(小谷城):北近江の国人から主家の京極氏に代わり戦国大名へ。1573年、小谷城の戦いで織田信長に敗れて滅亡
織田信長(安土城):近江平定後、1579年に岐阜城から安土に居城を移す- 織田政権の大名
明智光秀(坂本城):1571年、比叡山焼き討ちの後、信長より光秀に近江国滋賀郡が与えられた
羽柴秀吉(長浜城):1579年の浅井氏滅亡後、信長から浅井氏旧領を拝領
丹羽長秀(佐和山城):浅井氏の旧領の一部と越前朝倉氏旧領南部を拝領
津田信澄(大溝城):
- 豊臣政権の大名
八幡山城:豊臣秀次(43万石、秀次は20万石、宿老23万石)→京極高次(2万8,000石)→1594年廃城・高次は大津城に転封- 長浜城:山内一豊(2万石)→一豊は1591年遠江掛川城5万1,000石に転封・長浜城は江戸時代の1615年に廃城
坂本城:丹羽長秀→杉原家次→浅野長政→1586年廃城・長政は大津城に転封
大津城:浅野長政(2万石)→増田長盛→新庄直頼(1万2,000石)→京極高次(6万石)→1601年廃城・高次は若狭小浜城8万2,000石に転封
佐和山城:堀秀政(9万石)→堀尾吉晴(4万石)→石田三成(19万4,000石)→江戸時代の1606年に廃城
大溝城:丹羽長秀→加藤光泰→生駒親正→京極高次→高次は八幡山城に転封
水口岡山城:中村一氏→増田長盛→長束正家
武家官位としての近江守
江戸時代以前
- 浦上宗助
- 織田寛定
- 飯尾定宗
相良長毎:肥後相良氏の第13代当主
江戸時代
常陸下館藩石川家
石川総茂:伊勢神戸藩の第3代藩主、常陸下館藩初代藩主
石川総親:第6代藩主
石川総貨:第8代藩主
- その他
浅野長員:安芸広島新田藩第3代藩主
浅野長容:広島新田藩の第4代藩主
加納久堅:伊勢八田藩第2代藩主
近江国の合戦
672年:壬申の乱(瀬田橋の戦い)、大海人皇子軍(村国男依) x 大友皇子(弘文天皇)軍
764年:藤原仲麻呂の乱、藤原仲麻呂×孝謙上皇
1184年:粟津の戦い、源頼朝軍(源範頼) x 源義仲軍
1468年:第一次観音寺城の戦い、京極持清・京極勝秀連合軍 x 六角高頼軍(伊庭行隆)- 1468年:第二次観音寺城の戦い、六角政堯・京極持清連合軍 x 六角高頼軍(山内政綱)
1469年:第三次観音寺城の戦い、六角高頼軍 x 京極持清軍(多賀高忠、六角政堯)
1487年 - 1491年:長享・延徳の乱、室町幕府軍 x 六角高頼軍
1509年:如意ヶ嶽の戦い、細川高国・大内義興軍 x 細川澄元・三好之長軍
1560年:野良田の戦い、浅井長政軍 x 六角義賢軍
1568年:観音寺城の戦い、織田信長軍 x 六角義治・六角義賢軍
1570年:野洲河原の戦い、織田信長軍(柴田勝家、佐久間信盛) x 六角軍(六角義賢・義治)- 1570年:姉川の戦い、織田信長・徳川家康軍 x 浅井・朝倉軍(浅井長政、朝倉景健)
- 1570年:志賀の陣、織田信長軍 x 浅井・朝倉・延暦寺軍
- 1570年:宇佐山城の戦い、織田信長軍(織田信治、森可成、青地茂綱、各務元正) x 浅井・朝倉・延暦寺・六角義賢軍
1571年:比叡山焼き討ち、織田信長軍(明智光秀、池田恒興、柴田勝家、佐久間信盛、木下秀吉等) x 延暦寺軍
1583年:賤ヶ岳の戦い、羽柴秀吉軍 x 柴田勝家軍
1600年:大津城の戦い、西軍(毛利元康、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門) x 東軍(京極高次)- 1600年:佐和山城の戦い、東軍(小早川秀秋等) x 西軍(石田正継、石田正澄)
その他
2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある[10]。
関連氏族
- 六角氏
- 京極氏
- 塩津地頭熊谷氏
脚注
^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19-20頁。
^ 櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」、『近江地方史研究』第32号、1996年。
- ^ ab「旧高旧領取調帳」の記載は大津県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。
^ 狭山藩は明治2年12月26日(1870年1月27日)に廃藩。
^ 丸亀藩は明治4年4月10日(1871年5月28日)に廃藩。
^ 大溝藩は明治4年6月3日(1871年4月16日)に廃藩。
^ 『籐氏家伝』の「武智麻呂伝」にある。続日本紀には霊亀2年(716年)5月に在職であったことが分かる。
^ 六角氏頼が出家してしまい、嫡男の義信はまだ幼少だったため、氏頼の弟の定詮(後の山内信詮)が後見として守護に任じられたが、観応の擾乱で足利尊氏と敵対する足利直義方に離反したため、もう一人の弟である直綱に守護に交替させられた(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。
^ 佐々木氏宗家の氏頼嫡男の義信が先立ったため、佐々木氏傍家の京極氏から養嗣子として高経を迎えた。当初は六角氏の家督と近江守護を継ぐが、氏頼嗣子の満高が立ったため、内紛で実家の京極氏に戻された後に「京極高詮」として京極氏の家督と(近江ではなく)飛騨守護を継いだ。
^ 近江の人 木沢まさと: ブランド構築に向けて、木沢成人、2009年12月11日更新、2011年3月8日閲覧。
参考文献
角川日本地名大辞典 25 滋賀県- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
- 志賀清林
- 伯太藩
- 伊庭貞剛
- 近江町
- 近江八景
- 江州音頭
- 近江弁
- 近江商人
- 近江牛
三上山(近江富士)
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