本多俊次



































































 

凡例
本多俊次
時代
江戸時代前期
生誕
文禄4年(1595年)
死没
寛文8年8月11日(1668年9月17日)
改名
俊次→浄有(法号)
戒名
専光院俊自浄有大居士
墓所
滋賀県大津市丸の内町の縁心寺
官位
従五位下、下総守
幕府
江戸幕府
主君
徳川秀忠→家光→家綱

近江膳所藩主→三河西尾藩主→伊勢亀山藩主→近江膳所藩主
氏族
本多氏
父母
父:本多康俊、母:菅沼定盈の娘
兄弟
俊次、忠相、俊昌、俊之、景次、
妹(前田利孝正室)

正室:立花宗茂の養女(小田部統房の娘)

康長、娘(牧野光成正室)、康将、忠顕、忠隆、俊正、名和宗朝、鈴木仍時、娘(春木孝光室)、娘(細川興栄正室)、忠利、守之、立花鎮俊、忠英、娘(伊丹某室)、娘(本多直国室)

本多 俊次(ほんだ としつぐ)は、江戸時代前期の大名。酒井忠次の孫。康俊系本多家宗家2代。



生涯


文禄4年(1595年)、徳川氏の重臣(のち膳所藩初代藩主)本多康俊の長男として下総小篠で生まれる。慶長15年(1610年)に従五位下・下総守に叙任される。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では父と共に参加し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・徳川秀忠に従って武功を挙げた。


元和7年(1621年)2月、父の死去により家督を継いで膳所藩主となる。しかし7月、5000石加増の3万5000石で三河西尾に加増移封された。寛永9年(1632年)10月23日、遠江掛川城の守備を務めた功績などにより、寛永13年(1636年)6月23日に1万5000石加増の5万石で伊勢亀山に加増移封された。そして慶安4年(1651年)4月4日、2万石加増の7万石で、再び膳所藩主として再任された。


寛文4年(1664年)9月12日、次男の康将に家督を譲って隠居する。寛文8年(1668年)8月11日、膳所で死去した。享年74。







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