本多忠恒
本多 忠恒(ほんだ ただつね、明暦3年(1656年) - 宝永元年11月10日(1704年12月6日))は、江戸時代前期の大名。河内西代藩初代。伊勢神戸藩本多家藩祖。
近江膳所藩主・本多康将の次男。子は本多忠統(次男)、娘(藤堂良端継室)など。官位は従五位下、河内守。幼名、団七郎。通称、織部。
延宝7年(1679年)、父の隠居に伴い近江国高島郡・甲賀郡、河内国錦部郡で1万石を分与されて立藩する。宝永元年(1704年)没し、跡を次男の忠統が継いだ。
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本多 忠恒(ほんだ ただつね、明暦3年(1656年) - 宝永元年11月10日(1704年12月6日))は、江戸時代前期の大名。河内西代藩初代。伊勢神戸藩本多家藩祖。
近江膳所藩主・本多康将の次男。子は本多忠統(次男)、娘(藤堂良端継室)など。官位は従五位下、河内守。幼名、団七郎。通称、織部。
延宝7年(1679年)、父の隠居に伴い近江国高島郡・甲賀郡、河内国錦部郡で1万石を分与されて立藩する。宝永元年(1704年)没し、跡を次男の忠統が継いだ。
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