本多康将



























































 

凡例
本多康将
時代
江戸時代前期 - 中期
生誕
元和8年(1622年)
死没
元禄4年1月7日(1691年2月4日)
改名
康将、覚翁(法号)
戒名
了義院別岸覚翁大居士
墓所
滋賀県大津市丸の内町の縁心寺
官位
従五位下、兵部少輔
幕府
江戸幕府

近江膳所藩主
氏族
本多氏
父母
父:本多俊次
母:立花宗茂の養女(小田部統房の娘)
兄弟
康長、康将、忠顕、忠隆、俊正、名和宗朝、鈴木仍時、忠利、守之、立花鎮俊、忠英、ほか女子

忠恒、娘(松平重栄正室のち甘露寺方長室)
娘(松平忠継正室)、娘(本多康慶正室)
養子:康慶

本多 康将(ほんだ やすまさ)は、近江膳所藩の第3代藩主。康俊系本多家宗家3代。



生涯


元和8年(1622年)、三河西尾藩主・本多俊次の次男として西尾で生まれる。万治元年(1658年)に兄の康長が早世したため、万治2年(1659年)12月15日に世子に指名され、12月28日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官される。寛文4年(1664年)9月12日、父の隠居により家督を継いで第3代藩主となった。


延宝3年(1675年)に隠居を江戸幕府に願い出たが、許されなかった。延宝7年(1679年)6月18日、家督を甥で養子の康慶に家督を譲って隠居する。元禄4年(1691年)1月7日、膳所で死去した。享年70。


『土芥寇讎記』の養子の康慶の項目に拠れば、「養父(康将)は美女を集めて酒宴・乱舞・三味線・琴を催し、淫乱に溺れ昼夜を分けず、弊をなし奢り極め」ているとされ、またその費用を領民に課した為「下の困窮を知らず」と述されている。また同書では「三代(俊次か?-康将-康慶)並びて愚将たる事、前代未聞なり」とされている。







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