おじか型巡視船 (初代)
おじか型巡視船 | |
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![]() 3番船「さつま」(PL104) | |
基本情報 | |
艦種 | 旧海軍海防艦型巡視船 |
就役期間 | 1954年 - 1966年 |
前級 | だいおう型 (700トン型) |
次級 | のじま型 (900トン型) |
要目 | |
常備排水量 | 1,028トン[1] |
満載排水量 | 1,195トン[1] |
総トン数 | 878トン |
全長 | 78.8メートル (259 ft) |
最大幅 | 9.1メートル (30 ft) |
深さ | 5.3メートル (17 ft) |
主機 | 22号10型ディーゼルエンジン×2基 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
出力 | 1,250 bhp×2[1] |
速力 | 16ノット |
航続距離 | 4,700海里 (12kt巡航時) |
乗員 | 48名 |
兵装 | Mk.22 3インチ単装緩射砲×1基 Mk.10 20mm単装機銃×2基 ※PL-106は20mm単装機銃のうち1基を40mm単装機銃に換装 |
レーダー | スペリーSO-3 対水上捜索用[1] |
おじか型巡視船(おじかがたじゅんしせん、英語: Ojika-class patrol vessel)は海上保安庁の巡視船。公称船型は旧海軍海防艦型。いずれも、日振型海防艦および準同型艦である鵜来型海防艦を巡視船として再就役させたものである[2]。
目次
1 来歴
2 運用
3 登場作品
4 出典
5 外部リンク
来歴
気象レーダーや気象衛星の体制が整備される以前は、地上気象観測が難しい外洋域においては、気象観測船による気象観測が行われてきた。連合国軍占領下の日本においても、アメリカ当局からの要請で日本周辺の観測が求められ、経費の大半をアメリカが負担するかたちで、運輸省中央気象台により、1947年より北方定点(X点; 塩釜の東方約1,000キロ)、1948年からは更に南方定点(P点; 室戸岬の南方約500キロ)の観測が開始された[3]。
これらの観測業務にあたる気象観測船としては、1947年の開始当初は中央気象台が戦前から運用してきた凌風丸のみが用いられていたが、1948年からは、第二復員省で復員輸送・掃海活動に従事していた海防艦4隻(生名,竹生,鵜來,新南)が加わった。更に1950年には、米軍の連絡船として用いられたのちに保管艦扱いとなっていた志賀も参加した[3]。
サンフランシスコ平和条約発効後の1953年11月、アメリカ側からの財政支援が打ち切られたこともあり、同年で、定点観測はいったん打ち切りとなった。しかしこのうち南方定点については、日本としても台風や梅雨前線の観測上不可欠であったことから、のちに改めて独力での観測続行が決定された。この体制改編に伴い、1954年1月、海防艦5隻はそろって海上保安庁に移籍し、巡視船としての籍を与えられた。これが本型である[2][3]。
運用
本型は、中央気象台より引き継いだ定点気象観測任務を継続するとともに、揺籃期の海上保安庁において長距離救難の一翼を担って活躍した。巡視船として再就役した時点では非武装だったが、この時期、アメリカ極東海軍より兵装の貸与(のちに供与へ切り替え)が開始されていたこともあり、のちに他の大型・中型巡視船と同様にMk.22 3インチ単装緩射砲などの兵装を搭載している[2]。
また「こじま」は、第二復員省時代に米軍の連絡船として徴用されていた際に居住設備を強化されていたことから、特に海上保安大学校の練習船として遠洋航海などに用いられた[1][3]。しかしもともと戦時急造艦としての性格があり、定点気象観測において荒天下で酷使されていたことや巡視船艇勢力の充実もあって、1960年代中盤に相次いで解役された[2]。
その後、「つがる」は石油開発公団の宿泊船として、1971年までボルネオ島において運用されていた[3]。また「こじま」は千葉市に払い下げられて海洋公民館として活用されていたが、建築基準法並びに消防法に適合しないことが判明して1993年(平成5年)4月1日に休館した。太平洋戦争に従軍した艦としては最後の現存戦闘艦艇であったことから、「文化遺産こじまを保存する会」を中心に保存を求める署名運動が行なわれ、1万人以上の解体反対署名が寄せられたが、1998年(平成10年)、老朽化や保存コストを理由として解体撤去された[4][5]。
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元艦級 | 艦名 | 造船所 | 竣工 | # | 船名 | 就役 | 配属 | 解役 |
日振型 |
生名 |
日立造船 桜島造船所 |
1944年 10月15日 |
PL-102 |
おじか |
1954年 1月1日 |
塩釜 (第二管区) |
1963年5月25日[7] |
鵜来型 |
竹生 |
浦賀船渠 |
1944年 12月31日 |
PL-103 |
あつみ |
横浜 (第三管区) |
1962年4月10日[7] |
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鵜來 |
日本鋼管 鶴見造船所 |
1944年 6月5日 |
PL-104 |
さつま |
鹿児島 (第十管区) |
1965年11月24日[7] |
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新南 |
浦賀船渠 |
1944年 10月21日 |
PL-105 |
つがる |
舞鶴(第八管区) 1960年3月31日釧路(第一管区)[8] 1965年11月24日鹿児島 (第十管区)[9] |
1966年6月3日[7] |
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志賀 |
佐世保 海軍工廠 |
1945年 3月20日 |
PL-106 |
こじま |
呉 (第六管区) |
1964年5月6日[7] |
登場作品
- 『モスラ』
- 「さつま」が登場。インファント島調査隊を目的地の近海まで輸送する。
海上保安庁の全面協力により、撮影には実物が使用されている。
出典
- ^ abcde真山良文「練習巡視船「こじま」三代記」、『世界の艦船』第466号、海人社、1993年6月、 141-145頁。
- ^ abcd「海上保安庁全船艇史」、『世界の艦船』第613号、海人社、2003年7月、 73頁、 NAID 40005855317。
- ^ abcde「海上保安庁100のトリビア」、『世界の艦船』、海人社、2013年3月、 84頁、 NAID 40019591103。
^ 海上保安大学校. “歴代「こじま」物語”. 2012年10月1日閲覧。
^ 千葉日報 (2012年1月19日). “人工都市「美浜区」の象徴 市が解体した最後の「軍艦」 こじまを保存する会(千葉市美浜区)”. 2012年10月1日閲覧。
^ 日本海洋データセンター (2010年2月16日). “船舶コード表 : 海上保安庁警備救難部(大型巡視船)”. 2013年3月4日閲覧。
- ^ abcde「海上保安庁三十年史」 331~332項。
^ 北の海の巡視船 79項
^ さつまPL-104と交代、さつまは同日解役となった。11月30日に就役したさつまの後継船(えりもPL-13)が第一管区釧路海上保安本部に配属となった。 北の海の巡視船 78-79項
外部リンク
- 海防艦型巡視船について(仮)
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