出羽ノ花國市
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基礎情報 | ||||
四股名 | 出羽ノ花 國市 | |||
本名 | 市川 國一(旧姓:駒澤) | |||
愛称 | 蔵前の陰の天皇・相撲界の今太閤 相撲界の代議士 | |||
生年月日 | 1909年3月1日 | |||
没年月日 | (1987-05-30) 1987年5月30日(78歳没) | |||
出身 | 石川県能美郡(現:石川県小松市) (出生地は東京都江東区) | |||
身長 | 173cm | |||
体重 | 110kg | |||
BMI | 36.75 | |||
所属部屋 | 出羽海部屋 | |||
得意技 | 左四つ、寄り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東前頭筆頭 | |||
生涯戦歴 | 96勝104敗47休(24場所) | |||
幕内戦歴 | 68勝77敗47休(16場所) | |||
データ | ||||
初土俵 | 1925年1月場所 | |||
入幕 | 1932年1月場所 | |||
引退 | 1940年5月場所 | |||
引退後 | 第4代日本相撲協会理事長 | |||
備考 | ||||
2015年9月2日現在 ■テンプレート ■プロジェクト 相撲 |
出羽ノ花 國市(でわのはな くにいち、1909年3月1日 - 1987年5月30日)は、石川県能美郡(現:石川県小松市)出身(出生地は東京都江東区)の元大相撲力士。本名は市川 國一(いちかわ くにいち)(旧姓:駒澤)。
目次
1 経歴
1.1 現役力士として
1.2 親方時代~蔵前国技館建設までの苦難
1.3 国会答弁、海外公演の成功
1.4 九重独立問題
1.5 相撲協会理事長就任
2 人物
3 エピソード
4 主な成績
4.1 場所別成績
5 脚注
6 関連項目
経歴
現役力士として
1909年3月1日に東京府南葛飾郡大島町(現:東京都江東区大島)で肥料会社を営む家に生まれ、石川県能美郡(現:石川県小松市)で育つ。既に9歳で体重が60kgに達して怪童と話題になり、実家の得意先の世話で出羽ノ海部屋を紹介された。毎週土曜日には地元の巡査の迎えで部屋に行って関取と相撲を取らせてもらったり、出羽海によって遊びに連れて行ってもらったり、部屋に宿泊する時は豪華な文房具をお土産に貰ったりするなど可愛がられた。
その後、本格的に相撲に取り組むこととなり、1925年1月場所で「出羽ノ子」という四股名で初土俵を踏む。1930年5月場所に十両昇進を果たすが、1932年1月に勃発した春秋園事件によって、一度幕下へ降格していながら抜擢されて一気に新入幕を果たす(同期入幕に双葉山定次がいた)。この時に「出羽ノ花」に改名したが、新入幕の直後に腸チフスによって2月場所、3月場所を休場したため、十両に降格となった。
チフスを完治させて1934年1月場所に再入幕するが、出羽ノ花の相撲は正攻法過ぎて上位力士にまるで通用せず、出羽海も「あいつ(出羽ノ花)に駒ノ里の出足でもあれば大関になれるのに」と嘆いたこともあるという。1940年1月場所3日目の幡瀬川邦七郎戦で内掛けを受けて敗れた際に右膝関節内出血の重傷を負い、同年5月場所を全休したのを最後に現役を引退した。通常通り歩けるまでに一年も要し、この怪我の後遺症によって足が曲がってしまい、両足を揃えて立つことが出来なくなった。
1936年5月場所では初日に敗れてから勝ち・負けが交互に続く「ヌケヌケ」だったことがある。この当時は一場所11日間興行のため、最終的には5勝6敗で負け越した。
親方時代~蔵前国技館建設までの苦難
現役引退後は年寄・武藏川を襲名し、武藏川喜偉と名乗る。戦前の巡業で満州へ遠征した際に、日本相撲協会が勧進元に対して言い値をそのまま支払う様子を見て愕然とし、経済学や簿記・経理、算盤を学んで協会の財政運営に貢献した。現役時代は大きな活躍が無かった出羽ノ花だが、これ以降は協会の金庫番・知恵袋としての大活躍を見せることとなる。
1945年8月に終戦を迎えた直後、敗戦によって旧・両国国技館が接収されて使用できず、本場所を天候に左右されやすい野外での興行にせざるを得ない間、武藏川の自宅を担保にする(他の親方も自宅を担保にした者が数名いる)などの懸命な資金の工面を行い、その中から蔵前仮設国技館建設資金を捻出した。1949年には日本橋浜町公園に仮設の国技館[1]を建設したが、GHQから取り壊し命令を受けた武藏川は、いったん仮設国技館の外壁を剥がして取り壊したように見せかけ、後で新しい外壁で覆って新築と言い張る苦肉の策を思いつき、実行して同年1月場所・5月場所の興行をやり抜いた。蔵前国技館を建設する際には、神奈川県相模原市のアメリカ陸軍相模総合補給廠で眠っていた旧大日本帝国海軍飛行機工場の廃材に着目し、GHQからの払い下げを受けて念願の鉄筋鉄骨での国技館建設を果たした。この直後に朝鮮戦争による朝鮮特需で鉄の価格が急騰したため、絶妙のタイミングで買い抜けたこととなった。
国会答弁、海外公演の成功
1957年4月に出羽海理事長が国会(衆議院文教委員会)に呼ばれ、相撲協会のあり方について追及を受けた際に、責任感の強さから割腹自殺未遂を図る騒ぎを起こした。現役理事長の自殺未遂という前代未聞の大問題に発展したため、病気療養として欠席した際に代理として白羽の矢が立ったのが武藏川である。武藏川は追及にも堂々と答弁し、他の議員から「正に大臣も務まる、あなたの答弁は実に立派だ。相撲協会は立派に行えるでしょう」と言わしめたほどである[2]。明晰な頭脳と雄弁ぶりから、「角界の代議士」と言われることもあり、また一方では「力士になっていなかったら、大実業家になっていたのではないか」という声もあった。これによって生まれた才覚を勤勉と努力により開花させ、大相撲の為に余すところなく発揮した。
出羽海は1960年11月に急死したことで、年寄名跡を「出羽海(8代)」に変更して部屋を継承した。この際、先代は九重に部屋を継承させたかったと言ったようだが、現役時代の最高位が低かった武藏川が部屋を継承したことで、後の問題への火種となった。継承直後は佐田の山晋松に次ぐ関取がなかなか出ていない状況のため、幕下の古参力士に対して「うちは下宿屋じゃないんだぞ」と通達して廃業(リストラ)させ、その結果として北の富士勝昭、福の花孝一など数人が十両昇進を果たした[2]。北の富士の著書によると、「稽古中に(武藏川が)千円札の山をそばに置いて『勝った方にやるぞ』と言った。これで頑張って稽古に励んだ」[3]「親方から100万円(現在の500万円に相当)ほどの借金をしたが、九重部屋に移籍する時に返しに行ったら全額帳消しにしてもらった」[4]など、先代より気前の良いところがあり、部屋の食事事情も改善されたという。その一方で、力士がタニマチに食事などを御馳走になることを好ましく思っていなかったという証言も残る。
1965年には、日本相撲協会として戦後初の海外公演となるソビエト連邦公演の団長に就任し、モスクワにあるボリショイ劇場とハバロフスクのレーニンスポーツ宮殿での興行を成功させた。
九重独立問題
ソビエト連邦公演からの帰国後、佐田の山晋松の岳父となって後継者に指名し、土地建物の名義も全て「市川 晋松」(佐田の山)に書き換えた。これは周囲の「今度こそ後継者は九重だろう」という予想を完全に覆すものとなった。これに対し、1967年1月場所の直前に、横綱へ昇進していた佐田の山晋松への後継決定を不服として、九重が弟子13名を連れての独立を申し出た。出羽海は悩んだあげく即答を避け、1月場所終了後の回答を約束した。1月場所の終了後の1月31日、出羽海一門の全年寄を出羽海部屋大広間に呼び集め、九重部屋の創設は「出羽海一門からの破門」を条件に認めると回答、北の富士勝昭を筆頭に10名(3名は親による反対を理由に認めず)の現役力士が高砂一門へ移籍した。
破門とする理由は出羽海部屋中興の祖にして、一門の創設者である常陸山谷右衛門の「不許分家独立」の不文律が背景にあることは間違いないが、破門までして独立を許した経緯については諸説あり、「九重の希望は叶えたいが、一門の掟には背けない中での苦渋の決断」「北の富士が移籍することで対佐田の山戦が可能となり、好取組を増やすため」といった好意的な見方があるが、その一方で「先代から『出羽海』を継承した際に『独立したい者はいないか』と言ったのに不服のある者を一門から追い出す狙いがある」といった否定的な見方もあった。さらに、北の富士に対しては「本当に(移籍で)いいのか?残ってもいいんだぞ」と言ったとも伝わり、これが事実なら「対佐田の山戦を可能にして好取組を増やす」という目的は否定されることとなる。先代・出羽海の遺族は九重を支持していたことから、それに影響を受けたのは間違いないと思われる。なお、一門からの破門を条件に独立を許された例としては、立浪一門へ移籍した武隈部屋が存在するが、今回の九重独立騒動との関連は不明である。
相撲協会理事長就任
1968年3月場所を最後に佐田の山晋松が引退すると、出羽海の名跡を譲って武蔵川(こちらの「蔵」は現在の字)に戻した。また、同年12月16日に時津風理事長が死去すると、死去翌日に後任の理事長に就任した。理事長就任後は日本相撲協会の近代化に尽くし、1969年5月場所から勝負判定の参考としてビデオ映像の導入を決断したほか、1971年には蔵前国技館改装の竣工にこぎ着けた。また、文部省から中学生力士の学校欠席問題が指摘されたのを機に中学校卒業前の入門を禁止し、義務教育を終了させることを最優先とした。
この時期の日本相撲協会は土俵の内外で大きな動きが相次ぎ、本場所では大鵬幸喜の現役引退、玉の海正洋の横綱昇進と急逝を経て、元弟子・北の富士勝昭、琴櫻傑將の横綱昇進、そして輪島大士・北の湖敏満の台頭を導いたほか、1972年には外国(ハワイ州出身)力士である高見山大五郎が幕内最高優勝を果たした。海外公演も、1973年には前年の国交回復を受けて中華人民共和国公演(北京市と上海市)を実現させ、大相撲の国際化を推進した。このような矢継ぎ早の行動による大相撲の活性化が、後の両国国技館建設につながる大相撲人気の隆盛の礎となる。
一方で、相撲茶屋を経営する市川家と養子縁組を行った関係上、相撲茶屋問題の改革には消極的で、この点では時津風と正反対の方針を取ったと言える。この点に関しては武蔵川理事長の汚点として後年まで伝わり、自身と養子縁組を行った佐田の山晋松も、後に就任する理事長時代に年寄株改革を提言した時は、相撲茶屋による既得権益で退職後の生活が保障されている点を角界内部、マスコミ、好角家などから難詰された。
1974年に理事長を春日野へ譲り、自身は相談役となった。同年2月28日付で停年を迎えた後も引き続き相談役を務め、1976年1月に日本相撲協会を退職した。同年2月からは日本相撲協会嘱託として相撲博物館館長を務め、1987年5月30日に死去、78歳没。死去後、日本相撲協会は功績を称えて同年6月2日に協会葬を行い、同年6月9日に正五位勲三等瑞宝章が追贈された。
人物
色白の人形のような体格で人気があり、生来の器用さとちゃんこ番を散々やらされたので料理が上手く、自宅でフグを捌いて家族や来客に振る舞ったとされる。また着物に凝り、普段も大島紬を愛用した。
現役時代はあまり活躍できなかったが、その真価は力士引退後に発揮された。上記で述べたように日本相撲協会の理事として協会運営に尽力し、蔵前国技館の建設の立役者となった。その後、日本相撲協会の理事長に就任し、大相撲と協会の近代化・国際化に手腕を振るい、その功績はいまでも高く評価されている。
エピソード
- 初代両国国技館を博物館明治村に移築することを希望していたが、「大き過ぎて運べない」と言われた時には落胆していた。
- 夫人(2007年7月死去)との間に長女・恵津子がおり、彼女は佐田の山晋松の夫人である。
- 現役時代は”ゆるふんの出羽ノ花”と評されるほど締め込みの緩い力士であったが、引退後は稽古場で力士たちに廻しをしっかり締めるように指導していた[5]。
- 市川家は国技館サービス株式会社の下で最大規模の相撲茶屋「四ツ万」(相撲案内所十二番)を経営している。
- 親方時代の名前「喜偉」の「偉」は、その後の武蔵川にも引き継がれている(三重ノ海剛司は「晃偉」、武蔵丸光洋は「光偉」)。
- 春日野(元横綱・栃錦)と共に、部屋別総当たり制には反対であった。部屋別総当たり制の導入が論じられていた1964年ごろの出羽海部屋と春日野部屋は本家・分家の関係として普段からともに稽古を行う間柄であり、春日野も「佐田の山がこの一番で横綱になろうとしているとき、ウチの栃ノ海や栃光が、人情として力いっぱいの相撲が取れますか?見る人はそういう相撲を八百長だと言いますよ」と話していた[6]。
主な成績
- 通算成績:96勝104敗47休 勝率.480
- 幕内成績:68勝77敗47休 勝率.469
- 現役在位:24場所
- 幕内在位:16場所
場所別成績
春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1925年 (大正14年) | (前相撲) | x | 新序 0–2 | x | ||
1926年 (大正15年) | 東序ノ口12枚目 2–3 | x | 西序ノ口5枚目 4–2 | x | ||
1927年 (昭和2年) | 東序二段29枚目 4–2 | 東序二段29枚目 5–1 | 西三段目49枚目 3–3 | 西三段目31枚目 3–3 | ||
1928年 (昭和3年) | 西三段目37枚目 2–4 | 西三段目17枚目 3–3 | 東三段目41枚目 4–2 | 東三段目41枚目 3–3 | ||
1929年 (昭和4年) | 西三段目12枚目 4–2 | 西三段目12枚目 4–2 | 西幕下25枚目 3–3 | 西幕下25枚目 4–2 | ||
1930年 (昭和5年) | 西幕下11枚目 6–0 | 西幕下11枚目 3–3 | 西十両9枚目 2–9 | 西十両9枚目 5–6 | ||
1931年 (昭和6年) | 東幕下3枚目 3–3 | 東幕下3枚目 3–3 | 東幕下5枚目 5–1 | 東幕下5枚目 2–4 | ||
1932年 (昭和7年) | 東前頭5枚目 0–0–8 | 東前頭5枚目 0–0–10 | 東十両5枚目 0–0–11 | 東十両5枚目 6–5 | ||
1933年 (昭和8年) | 西十両11枚目 8–3 | x | 東十両3枚目 7–4 | x | ||
1934年 (昭和9年) | 西前頭14枚目 6–5 | x | 東前頭10枚目 6–5 | x | ||
1935年 (昭和10年) | 東前頭7枚目 6–5 | x | 西前頭4枚目 7–4 | x | ||
1936年 (昭和11年) | 東前頭筆頭 2–9 | x | 東前頭9枚目 5–6 | x | ||
1937年 (昭和12年) | 東前頭10枚目 5–6 | x | 西前頭13枚目 6–4–3 | x | ||
1938年 (昭和13年) | 西前頭9枚目 7–6 | x | 東前頭8枚目 5–8 | x | ||
1939年 (昭和14年) | 東前頭13枚目 7–6 | x | 西前頭10枚目 6–9 | x | ||
1940年 (昭和15年) | 西前頭12枚目 0–4–11[7] | x | 西前頭19枚目 引退 0–0–15 | x | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 1932年1月番付では幕下西筆頭
脚注
^ 当時の写真では「假設國技館」と旧字体で表記されている。
- ^ ab『大相撲ジャーナル』2014年2月号13ページ
^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p38
^ 特に北の富士は「ぼくは次男坊みたいなものだったんです」と語るような手厚い扱いを受けたとされており、出羽海も「北の富士はガミガミ言っちゃダメなんだ。酒飲んで遊ばせたほうが彼はよく稽古する」と北の富士を可愛がっていた。
- 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P152-153
^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P154
^ 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p69
^ 右膝関節内出血により4日目から途中休場
関連項目
- 常ノ花寛市
- 千代の山雅信
- 三重ノ海剛司
- 大相撲力士一覧
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