尾鷲電気
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 三重県北牟婁郡尾鷲町 |
| 設立 | 1910年(明治43年)5月21日 |
| 業種 | 電気 |
| 事業内容 | 電気供給事業 |
| 代表者 | 栗原実也(社長) |
| 資本金 | 110万円(うち払込72万円) |
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尾鷲電気株式会社(おわせでんき かぶしきがいしゃ)は、明治末期から昭和初頭にかけて存在した日本の電力会社である。中部電力管内にかつて存在した事業者の一つ。
1910年(明治43年)に現在の三重県尾鷲市にて開業。東紀州の中心的な事業者であったが、1927年(昭和2年)に三重合同電気(後の合同電気)に合併された。
目次
1 沿革
2 供給区域
3 主な発電所
3.1 又口川発電所
3.2 銚子川発電所
4 脚注
沿革
三重県では、1897年(明治30年)に県庁所在地津市において津電灯が開業したのを皮切りに、各地で電気事業が出現していた。県の南部、北牟婁郡尾鷲町(現・尾鷲市)においても有志の間で電気事業の計画が進められ、1910年(明治43年)5月21日、町内の中井浦に尾鷲電気株式会社が設立された[2]。資本金は5万円で、尾鷲の実業家浜田常助らによる設立である[3]。
1910年10月、尾鷲電気は出力75キロワットの火力発電所を設置して電気の供給を開始した[2]。発電所は中井浦の本社に隣接して設置され、中部地方では初となる吸入式ガス機関を採用していた[3]。当時の電灯は石油ランプよりも高価で、生活習慣から夜間の照明を必要としなかったこともあって普及は遅いものであった[2]。1915年(大正4年)になって尾鷲町の大部分で供給が始まり、隣接する引本町(現・紀北町)にも供給が及んだ[2]。
開業以来火力発電を電源としていた尾鷲電気であったが、水力発電へと転換すべく銚子川水系の開発を立案、まず1919年(大正8年)に出力145キロワットの又口川発電所を新設した[2]。1921年(大正10年)に資本金を30万円増資して60万円とし[2]、1923年(大正13年)11月には銚子川発電所も建設している[4][5]。またこの間の1922年(大正11年)9月には、小規模火力発電所によって九鬼村に供給していた九鬼電灯(1919年11月開業)を統合した[6]。
1924年(大正13年)、資本金を110万円とした[7]。しかしその3年後の1927年(昭和2年)4月、尾鷲電気と三重合同電気(後の合同電気)の合併が認可された[7]。この三重合同電気は、津電灯をはじめ三重県内の主要事業者を合同して1922年(大正11年)に成立した事業者で、発足後も各地で事業の統合を進めていた[8]。1927年5月15日、尾鷲電気は県内の北牟婁電気などとともに三重合同電気に合併されて消滅した[8]。合併前、1926年時点で社長は栗原実也(元尾鷲町長[9])で、三重合同電気副社長の安保庸三が取締役の一人であった[1]。
供給区域
1926年末時点での尾鷲電気の電灯・電力供給区域は以下の通り[10]。
北牟婁郡
尾鷲町・九鬼村・須賀利村(現・尾鷲市)
相賀村・引本町・船津村・桂城村(現・紀北町)
南牟婁郡
北輪内村・南輪内村(現・尾鷲市)
荒坂村・新鹿村・泊村(現・熊野市)
上記地域を供給区域として、1926年度末時点では、電灯については需要家7,826戸に対し計1万6,454灯を供給、電力については電動機用に164.9キロワットを供給していた[11]。なお、これらの地域は1951年(昭和26年)に発足した中部電力の供給区域にすべて含まれている[12]。
主な発電所
又口川発電所
又口川発電所は、尾鷲町(現・尾鷲市)南浦矢所に存在した水力発電所である[13]。尾鷲電気により1919年(大正8年)10月に発電を開始したが[13]、合同電気の手に渡った後1935年(昭和10年)8月に廃止された[4]。
銚子川水系又口川より毎秒0.50立方メートルを取水し、川の左岸に沿った約2.7キロメートルの水路で39.5メートルの落差を得て発電した[13]。発電所は現クチスボダムのやや下流、又口川と古和谷の合流点直前にあった[13]。電業社製フランシス水車と芝浦製作所製三相交流発電機各1台を備え、出力は145キロワットであった[13]。発生電力の周波数は50ヘルツ[13]。
銚子川発電所
銚子川発電所は、紀北町相賀に存在した水力発電所である[5]。尾鷲電気により1923年(大正12年)11月に運転を開始した[5][4]。
銚子川より毎秒0.42立方メートルを取水し、川の左岸に沿った約1.2キロメートルの水路で38.82メートルの有効落差を得て発電した[5]。大阪酉島製作所製フランシス水車および大阪電機製三相交流発電機各1台を備え、出力は120キロワット[5]。又口川発電所と同様に発生電力の周波数は50ヘルツであったが、1937年(昭和12年)5月に60ヘルツへ変更されている[5]。
尾鷲電気から合同電気、東邦電力、中部配電を経て1951年(昭和26年)以降は中部電力に帰属した[4]。この間の1942年(昭和17年)に発電所上流側で銚子川第二発電所が発電を開始しており[14]、同年6月銚子川発電所は銚子川第一発電所に改称した[4]。廃止は1963年(昭和38年)8月15日で、洪水で破損したためである[5]。
脚注
- ^ ab阿部直躬 『日本全国諸会社役員録』第34回、商業興信所、1926年、下編93頁。NDLJP:936471/497
- ^ abcdef尾鷲市役所(編)『尾鷲市史』下巻、尾鷲市役所、1971年、332-337頁
- ^ ab浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第10回講演報告資料集 三重の電気事業史とその遺産、中部産業遺産研究会、2002年、139-140頁
- ^ abcde中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』下巻、中部電力、1995年、333-334・347-348頁
- ^ abcdefg黒川静夫『三重の水力発電』、三重県良書出版会、1997年、98-99頁
^ 「戦前三重県の火力発電事業」、142-143頁
- ^ ab『尾鷲市史』下巻、515頁
- ^ ab東邦電力史編纂委員会(編) 『東邦電力史』、東邦電力史刊行会、1962年、239-242頁
^ 『尾鷲市史』下巻、866頁
^ 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』第19回、電気協会、1928年、145頁、NDLJP:1076946/99
^ 『電気事業要覧』第19回、676-677・712-713頁、NDLJP:1076946/365
^ 三重県は南牟婁郡の一部以外中部電力の供給区域である。『中部地方電気事業史』下巻、4-5頁
- ^ abcdef『三重の水力発電』、97-98頁
^ 『三重の水力発電』、101頁
