壬申の乱
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、 脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です 。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2018年8月 ) 壬申の乱 乱時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石 (岐阜県不破郡関ケ原町松尾) 戦争 :壬申の乱 年月日 : (元嘉暦)天武天皇元年6月24日 - 7月23日 (ユリウス暦)672年7月24日 - 8月21日 場所 :美濃国、近江国、伊勢国、伊賀国 結果 :大海人皇子軍の勝利、近江朝廷の滅亡 交戦勢力 大海人皇子軍 近江朝廷軍 指導者・指揮官 大海人皇子 大友皇子 戦力 2~3万 2~3万 損害 ? 大敗 表示 不破関のおよその位置を示した地図 壬申の乱 (じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日 [1] )に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。 目次 1 乱の経過 2 乱の原因 2.1 皇位継承紛争 2.2 白村江の敗戦 2.3 額田王をめぐる不和 3 異説・俗説 4 壬申の乱が描かれた創作作品 5 脚注 6 参考文献 7 関連項目 8 外部リンク 乱の経過 660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら...
