小笠原長徳
凡例 小笠原長徳 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天文16年8月21日(1547年10月4日) |
別名 | 与次郎(通称) |
戒名 | 華笑源栄院殿居士 |
墓所 | 島根県邑智郡川本町大字三原 |
官位 | 兵部大輔、弾正少弼 |
主君 | 小笠原長隆→大内義隆 |
氏族 | 清和源氏義光流石見小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長隆 母:佐波秀連の娘 |
兄弟 | 長徳、君谷長晴、長国(甘南備寺昌章)、長実、長相、長次、山名式部少輔室 |
妻 | 福屋氏 |
子 | 長雄、隆章 |
小笠原 長徳(おがさわら ながのり)は、戦国時代の武将。石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)の川本温湯城を本拠地とする国人・石見小笠原氏の第13代当主。
生涯
石見小笠原氏第12代当主・小笠原長隆の長男として生まれる。
長徳は、父・長隆と共に、周囲の国人である佐波氏や福屋氏と争い、石見大森銀山を巡って大内氏や尼子氏とも戦いを繰り広げた。天文11年(1542年)4月4日に父が死去し、その後を継ぐが、長隆と長徳の代に石見小笠原氏の所領は邑智郡、邇摩郡、安濃郡の三郡にまたがり、石見国東部で最大のものとなった。また、石見大森銀山の経営にも重要な役割を持つなど、石見小笠原氏の隆盛期を迎えた[1]。
長隆の死の直前の天文11年(1542年)3月、大内義隆が自ら大軍を率いて山口を進発し、尼子晴久の出雲国へ攻め入った(第一次月山富田城の戦い)。この出雲遠征において石見国では益田藤兼、福屋隆兼、出羽祐盛、佐波隆秀、本城常光、吉川経安、久利清六らが大内義隆に味方し、石見小笠原氏も大内氏へ味方した。長徳は嫡男の長雄を大内義隆の下に派遣し、自らは同年7月に尼子氏が押さえていた石見大森銀山を攻撃。尼子方の将兵を追い払って山吹城へ入城した[2]。
しかし、天文12年(1543年)4月に吉川興経、三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、山内隆通らが尼子方へ寝返ったため大内義隆は撤退。尼子晴久は激しく追撃し、大内軍の殿を務めた毛利元就の軍などに甚大な被害を与えた。勢いに乗った晴久は7月に大軍を率いて石見国に侵入し、久利清六や佐波隆秀らを攻撃した。最終的に石見大森銀山を再び奪取して出雲国へ帰国する[3]。
天文15年(1546年)6月17日、長雄と共に甘南備寺の寺領を安堵する[4]。
天文16年(1547年)8月21日に死去。嫡男の長雄が後を継いだ。
脚注
^ 『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』3頁。
^ 『萩藩諸家系譜』112頁。
^ 『萩藩諸家系譜』113頁。
^ 『川本町誌 歴史編』271頁。
参考文献
川本町誌編纂委員会『川本町誌 歴史編』(1977年)
川本町歴史研究会編『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』(川本町歴史研究会、2001年)
岡部忠夫『萩藩諸家系譜』(マツノ書店、1999年)
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