島唄
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島唄(しまうた)とは、「しま」の歌のこと。一義に、奄美群島で歌われる民謡(奄美民謡)のこと。
目次
1 定義
2 概要
3 特徴
4 代表的な島唄
4.1 奄美大島
4.2 喜界島
4.3 徳之島
4.4 沖永良部島
5 代表的な唄者
6 レコード
7 脚注
8 外部リンク
定義
琉球語の「しま(島)」には、「島嶼(island)」の他に「村落(village)」の意があり、奄美・沖縄・先島住民は琉球王国時代からシマ(村落)ごとに帰属意識をもつシマ社会を形成していた。シマごとに決まり事や習俗は微妙に異なり、シマで歌われる歌も多様であった。「我がシマぬウタ(私の村の歌)」が「島唄」の語源である。シマ社会で伝えられてきた言葉を「シマくとぅば(島言葉)」というが[1]、「島唄」も同様の表現である。「島嶼の歌でなく村落の歌である」ということを示すために、「島」という漢字を使わず「シマ唄」と表記されることがある。
これらの歌を「島唄」と総称したのは奄美群島が最初である。このため「本来、島唄とは奄美民謡のことを指す」という言い方がなされる。広義ではシマ社会の歌としての「島唄(シマ唄)」は旧琉球王国全域に分布するとも言える。ただ、THE BOOMの楽曲「島唄」(1992年)の大ヒット等により沖縄・奄美以外の日本本土でも「島唄」という表現が知られるようになると、中には奄美群島の民謡と琉球民謡を混同するものや、沖縄民謡の別名として「島唄」と表記するものも現れ、奄美出身者や奄美民謡関係者からは「島唄は奄美民謡のこと」と主張する声もある。
本項では特に注釈がない限り奄美群島の民謡としての島唄(シマ唄)について記述する。
概要
奄美方言では、「シマ」という言葉は自らの郷里、帰属地を指し、シマ唄とは郷里の民謡を意味する。「シマ」という言葉の指す範囲は、奄美群島・個々の島・集落など、場面によって様々であるが、「シマ」と片仮名表記する場合には集落のことを指すことが多い。奄美群島や沖縄県では集落ごとにそのオリジナルの民謡を持っていることが多く、奄美大島の高齢者は、出身集落以外の歌を「シマウタ」とは呼ばないとの報告もある[2]。複数のシマに広まっている歌であっても、集落ごとに異なった歌詞や旋律をもつ場合もある。
歌の内容としては集落毎の生活に密接に根ざしている労働歌や、伝承を歌詞にした歌、呪術の一種であるサカ歌などを口伝によって伝えてきたものが多い。即興の歌遊び(歌掛け)も行われた。島唄に長けたものは唄者(うたしゃ)と称されるが、シマ社会では職業としての歌手ではなかった。20世紀以降、録音・放送技術の発展により歌の保存や伝達手段は飛躍的に進歩したが、方言そのものの衰退という新たな課題が生じている。一方で、島唄がライブなどで興業的に歌われる機会が増え、職業的な島唄歌手も存在するが、奄美群島の著名な唄者は他に生業をもっていることが多い。唄者が競いあう「奄美民謡大賞」などの大会も存在する。これらで大賞を受賞すると群島内でCDなどが発売されるが、中には元ちとせや中孝介などメジャーデビューした者もいる。
楽曲としては伝統的な曲のほか、「ワイド節」のように近年新たに作られ普及した歌もある。
「島唄」という呼称は1970年代に、琉球放送のラジオ番組などを通じて沖縄に導入された[2]。上述したTHE BOOMの「島唄」のヒットにより、「島唄」という表現の知名度は全国的なものとなった。
特徴
グィン(裏声を瞬間的に含めるこぶしの一種)とファルセットを多用する独特の歌唱法を持ち、音域が非常に広いなどの特徴を持っている。
奄美大島の島唄は、北部の笠利節/笠利唄(かさんぶし/かさんうた)と南部の東節/東唄(ひぎゃぶし/ひぎゃうた)の2つの流れに大別される。笠利節は、ゆったりとした調子で深みのある荘重な表現が特徴であり、東節は、激しく変化に富んだ節回しで情緒的な表現が特徴である。笠利出身の当原ミツヨ、松山美枝子、里アンナは笠利節、朝崎郁恵、元ちとせ、中孝介は東節の系統にあたる。
奄美大島を含む、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で、沖永良部島以南(奄美群島では他に与論島)では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担う。琉歌は八音を中心に、五音・六音・七音を標準とする定型詩であり、基本的には「サンパチロク」といわれ、八・八・八・六を基本形とする。
主に用いる楽器の奄美三味線は見た目には沖縄の三線と似ているが、沖縄では太い弦を爪(水牛の角)や、最近では安値で管理しやすいギター用ピックなどでダウンストロークに弾くのに対し、奄美の島唄では細い弦を薄くて細長い竹べらやプラスチックのへらを用いてアップストロークを多用する。また、棹を押さえる左手の指で弦を弾く「はじき」や、ハンマリングの「うちゆび」、これらを組み合わせた3連音も多用される。このように奏法・調弦に大きな差があり、鎖国期にはニシキヘビの皮のかわりに和紙を10枚重ねたものが庶民のあいだで愛用されたことから楽器本体の構造にも違いがあるため、基本的に三線との使い回しはできない。呼称は地域や年代によって様々だが、シャミセン(三味線)、ジャミセン(蛇皮線・鹿児島県伝統工芸品)、サンシル(沖永良部島)、サンシンと呼ばれる。リズムを取るための打楽器としては独特の太鼓ちぢん(鼓の転化音)が普及している。
演歌、本土の民謡、琉球民謡などでは逃げの声として避けられる裏声も、ヨーデルでのそれと同様に、頻繁に用いられるのが特徴的である。その理由に対し民謡研究家仲宗根幸市が以下の仮説を出している:
- 琉歌のルーツは神託に求められ、非日常的で神聖な行為と関連していたため。
おなり神(うない神)信仰による男性の女性の声に近づけて歌いたいという願望。- 薩摩の支配下で大っぴらに苦しみを表現できなかったため。
- 山合の急峻な地形でのコミュニケーション手段。
- 音色変化と音域を補うという音楽的理由。
代表的な島唄
奄美大島
- 朝花節
- 行きゅんにゃ加那
- かんつめ節
- よいすら節
- 塩道長浜節
- 国直米姉節
- 太陽ぬ落てぃまぐれ
- いとぅ
- 六調
喜界島
- 渡しゃ
- むちゃ加那節
- 俊金節
徳之島
- 徳之島節
- 徳之島一切節
- ワイド節
沖永良部島
- さいさい節
代表的な唄者
南政五郎
大島郡笠利村(現・奄美市)佐仁出身。1889年-1985年。カサン唄の代表的唄者として知られる。地元で唄者として知られた母のもとで育ち、唄遊び(歌掛け)の場で自然に島唄を覚えて育つ。25歳の時、名瀬の八千代館という劇場でデビューした。戦後になり、アメリカ統治下で娯楽の乏しかった時代に奄美諸島各地を回り、その名を全島に広めた。1961年(昭和36年)、文部省主催・全国民俗芸能大会に参加。1975年(昭和50年)、郷土民族部門・南海文化賞受賞[3]。
武下和平
関西在住。戦後の島唄の先駆者。昭和30年代から活躍。島唄のレコードが普及し、武下の流暢な三味線の音色と、独特の裏声に魅了されて地元では勿論、本土でも島唄がより広く知られることとなった。関東、関西、地元と島唄普及に尽くしている。
坪山豊
- 奄美大島(奄美市名瀬)在住。島唄界の第一人者。国内はもとより、海外までも招待を受けて活躍中。船大工という職業を持ちながら、奄美大島の生活の風、香りを受けながら島唄の普及に尽力している。人柄の良さから多くの門下生を育て、その門下生も全国民謡大会での優勝や大きなライブなどで活躍している。NHKなど、テレビ出演多数。自身の作った「ワイド節」「あやはぶら」など、島唄をポピュラーにした功績も大きい。
築地俊造
- 奄美大島(奄美市名瀬)在住。30代のころ福島幸義に師事。その後坪山豊と交流し、島唄の磨きをかけた。国内、国外招待多数。高音質の唱法に特徴があり、洋楽にも通じるものがあるといわれている。島唄の即興が得意。日本民謡大賞優勝、総理大臣杯受賞。
当原ミツヨ
- 奄美大島(奄美市笠利)在住。1987年(昭和62年)、地元で民謡大会が行われ、初めて出場する。地区大会を勝ち進み、初出場で日本民謡大賞での日本一の栄冠を手に。奄美群島初の女性民謡日本一となる。その時の「野茶坊節」は一躍全国に知られるようになる。その後同大会では、奄美大島(瀬戸内町)のRIKKIが優勝した。大島紬を織るかたわら、教室を開講し後輩の指導、ライブなどで活躍中。
朝崎郁恵
加計呂麻島生まれ。現在、神奈川県在住。島唄の研究をしていた父の影響を受け、10代で天才唄者として活躍していた。その後、横浜に在住し、1984年から10年連続して国立劇場で公演。ニューヨークのカーネギー・ホールやロサンジェルス、キューバなどでもコンサートを開催。最近は、ピアノとのコラボレーションによるミニアルバムCD「海美(あまみ)」を発表。細野晴臣、UAをはじめ多くの信奉者を集めた。67歳でメジャーデビュー。メディアからも大きな反響をよび、NHKの『新日本風土記』のテーマ曲「あはがり」も歌っている。毎年恒例の「渋谷おはら祭」でも、常連で活躍。
RIKKI
- 奄美大島(瀬戸内町)出身。佐賀県在住。本名・中野律紀(なかの りつき)。高校生の時、初出場で日本民謡大賞で日本一に、曲目は「むちゃ加那」。その後上京して本格的な歌手デビューを目指し、BMGビクターより本名の中野律紀でポップス系のアルバム『風の声』でデビュー。 海外での活動も多く、最近は奄美の新しい音楽スタイルを目指している。NHKなどテレビ出演も多い。
元ちとせ
- 奄美大島(瀬戸内町)出身。島唄の特徴的な歌唱法である裏声を生かし、全国に感動を与えた本格的な女性歌手。1996年に奄美民謡大賞新人賞、1998年に同大賞を受賞。2002年メジャー・デビュー。『ワダツミの木』は、リリース後2ヶ月を経てシングル・チャートで1位を記録。ファースト・アルバム『ハイヌミカゼ』は2週連続1位。『千の夜と千の昼』、『いつか風になる日』と、シングルをリリースし、セカンドアルバム『ノマド・ソウル』を発表。
中孝介
- 奄美大島出身。島唄の名人の坪山豊に師事、シマ唄を習い始める。第19回奄美民謡大賞に初出場し、努力賞を受賞。2000年には同大賞で新人賞、日本民謡協会奄美連合大会で総合優勝。琉球大学卒業後の2006年にシングル『それぞれに』でメジャーデビュー。テレビ、CM等でも活躍中。
里アンナ
- 奄美大島(奄美市笠利)出身。2005年にメジャー・デビュー。主な出演に2005年の『愛・地球博』のオープニング・イベントや、2010年の『上海万博』での海外公演がある。ミュージカルにも出演する傍ら、三味線を弾き、島唄のみのライブを行うこともしている。
牧岡奈美
喜界島(喜界町)出身。2001年に奄美民謡大賞を受賞。『うふくんでーた』(2001年)、『南柯 Nanka』(2005年)、『シツルシマ』(2007年)などのアルバムを発表。現在は関東在住で、ライブ活動などを行っている。
レコード
シマ唄は、方言で歌われることから、奄美群島という非常に限定された地域の音楽であるため、そのレコードも独特の製作・流通形態を持っている。シマ唄のレコードの多くは、奄美市名瀬の商店街の中にある、セントラル楽器という小さな楽器店が製作し、自社の店舗で販売するものである。レコーディングも、かつてはセントラル楽器の社宅で行われていた。
セントラル楽器によるシマ唄のレコード化に大きな役割を果たしたのは、北海道出身で早稲田大学の修士課程大学院生として奄美の民謡を調査していた小川学夫である。小川は1963年(昭和38年)から1977年(昭和52年)まで、早稲田大院生かつセントラル楽器の社員として奄美で活動し、数多くのシマ唄のレコード製作を行った。
大手のキングレコードは、民族音楽のCDを多く制作しており、そのひとつとして制作された『MUSIC OF AMAMI』
(1991年)のような例もある。
脚注
^ 「しまくとぅば」普及推進計画」、沖縄県。2015年1月22日閲覧。沖縄県はしまくとぅばの日も制定している。
- ^ ab〈しまうた〉にまつわる諸概念の成立過程 ―奄美諸島を中心として―(pdf) - 高橋美樹、2003年10月、『立命館言語文化研究』15巻2号、立命館大学国際言語文化研究所
^ 南政五郎 - 奄美島唄学校(セントラル楽器)
外部リンク
- 奄美音楽館
奄美音楽情報[リンク切れ]
- 奄美の島唄と三味線がよくわかるサイト
奄美の島唄・ラジオ喜界島 - 島唄の試聴が可能
セントラル楽器 - 島唄の代表的なインディーズ・レーベル