清和政策研究会






























































清和政策研究会

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陰十四菊

略称
細田派
前身
十日会(岸派)
設立年
1979年(昭和54年)1月24日
設立者
福田赳夫
種類
自由民主党の派閥
本部
塩崎ビル3階
位置
東京都千代田区平河町二丁目7-1
メンバー
自由民主党所属国会議員
会長
細田博之
関連組織
愛正会(藤山派)
交友クラブ(川島派)
政眞会(加藤グループ)
予算
328,712,111円[1]
ウェブサイト
清和政策研究会
過去名
清和会
21世紀を考える会・新政策研究会



  1. ^ 平成22年分政治資金収支報告書参照



清和政策研究会(せいわせいさくけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。旧称は清和会(せいわかい)。略称は清和研(せいわけん)。


通称、細田派(福田派→安倍派→三塚派→森派→町村派→細田派)。




目次






  • 1 概要


  • 2 歴史


    • 2.1 福田派


    • 2.2 安倍派


    • 2.3 三塚派


    • 2.4 森派


    • 2.5 町村派


    • 2.6 細田派




  • 3 歴代会長


  • 4 現在の構成


    • 4.1 役員


    • 4.2 衆議院議員


    • 4.3 参議院議員




  • 5 脚注


  • 6 関連項目


  • 7 外部リンク





概要


党内では、平成研究会や宏池会と並ぶ保守の名門派閥である。自民党内では保守合同時の日本民主党(岸信介・鳩山一郎派)の流れを汲む。日本民主党の「反・吉田茂」路線を起源に持つため、親米を基調としながらも自主憲法論・憲法改正論を唱え、再軍備に積極的であるなど比較的タカ派色が強く、冷戦期にはその反共主義志向の反映として、韓国・台湾に独自の人脈を持った。


岸派から続く自民党の有力派閥だったが、いわゆる「角福戦争」以降、自由党系の田中派(後の平成研究会)と大平派(宏池会)の主流派連合に対し、福田赳夫の他に総理・総裁を出すことが出来ず、非主流派に甘んじることが多かった。森内閣において福田以来久々の総裁派閥となったが、森は小渕内閣を継承しており、平成研究会の色が濃かった。清和会が名実ともに主流派として実質的に政権の中枢を担うようになったのは、小泉内閣以降である。


グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)の旧館(旧李王家邸)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に政治資金パーティーを開催することが慣例となっていたが、同ホテルの営業終了に伴い、2011年2月、紀尾井町に移転した。



歴史



福田派





福田赳夫


「十日会」(岸信介派)の分裂を受けて、福田赳夫を中心として1962年に結成された「党風刷新連盟」(結成当初は「党風刷新懇話会」)が起源[1][2]。1970年11月に時の首相・佐藤栄作に勧められ「紀尾井会」、通称福田派が派閥として正式に旗揚げされた。


1972年まで7年に及んだ佐藤内閣の後継をめぐるいわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤の意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、木曜クラブ(田中派)と「角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって伸び悩み、1976年に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎ着けるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。


1972年、総裁選で敗れた直後に周山クラブ(保利グループ)と春秋会(園田派)を統合して「八日会」へと名称変更、1976年末、福田赳夫内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、1979年1月に清和会を結成した。出典は、東晋の元帝が詔で諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『晋書』諸葛恢伝)。この旧「清和会」は略称ではなく正式名称である。1984年に自由革新同友会(石原派・旧中川派)を吸収する(後の志帥会の源流。なお、古屋圭司の養父・古屋亨は先行離脱し福田派に移籍していた)。



安倍派


安倍晋太郎が会長であった際、派閥内の三塚博・加藤六月・塩川正十郎・森喜朗の4人の実力者を称して安倍派四天王と呼び、竹下派七奉行と比較された。安倍はポスト中曽根を逃したものの竹下内閣では幹事長として主流派入りし、ポスト竹下の最右翼と見なされていたが、リクルート事件のダメージを受けたまま病に倒れた。その後、安倍の後継会長を三塚・加藤が争い(この抗争は両者の名を取って「三六戦争」と呼ばれる)、森の支持を得た三塚が1991年6月、清和会会長に就任した。


同年、三塚は総裁選に出馬するが、加藤がこれに反し、竹下派の推す宮澤喜一支持を表明した。そのため加藤は同年10月に三塚派を除名され、政眞会を結成、のちに自民党も離脱することとなる。加藤の離脱後、三塚を支持した森、塩川、小泉、玉澤徳一郎、中川秀直などと、加藤を支持したものの清和会に残った亀井静香、平沼赳夫、中川昭一、尾身幸次、町村信孝などとの間にしこりが残ったといわれている。



三塚派




森喜朗


三塚派に移行してからは、森グループと、急速に派内での発言力を増していた亀井グループとの対立が激しくなる。1994年11月、自民党の下野に伴い呼び掛けられた派閥解消で、清和会は解散し、派閥に代わり結成が認められた政策集団として21世紀を考える会・新政策研究会を結成した。三塚は同会の会長にそのまま留任した。


1998年、森グループ主導により、三塚派の独自候補として小泉純一郎の自民党総裁選出馬を決定したことに亀井グループが反発。異議を唱えるが押し切られ、総裁選後に森が党幹事長に就任したことで派の分裂が決定的となる。同年9月に亀井グループは三塚派を離脱した。その後、12月に森が三塚から派閥を継承する。



森派


森喜朗が三塚の後継会長となった1998年末に、かつての清和会にちなんで清和政策研究会へと改称した。2000年に森が首相に就任、福田以来の総裁派閥となった。森は派閥を一時的に離脱したため、小泉純一郎が2000年4月から清和政策研究会会長に就任し森内閣を支えた。派閥を継承した森は同じく発言力を増しつつあった小泉と組み、混乱していた派内を掌握した。ただし、森内閣は基本的には小渕前内閣の骨格を継承しており、村上正邦や青木幹雄といった前内閣を支えた他派閥の実力者に依存する政権であった。なお、小泉が会長を務めていた期間も呼称は森派のままであった。


森の退陣後に小泉が首相に就任、森は派閥の会長に復帰した。小泉は派閥を恒久的に離脱したため、会長総裁分離が定着した。小泉は最大派閥であった橋本派を「抵抗勢力」と名指しする中、参議院の協力を得て、非主流派を反主流派に移行させなかった。その結果、2005年の衆議院選挙で党内第一派閥へと躍り出て、「清和会支配」に移行した。


2006年、小泉総裁退任に伴う自民党総裁選挙では有力候補として同じ森派の安倍晋三・福田康夫が挙がった。森派はかつて安倍・福田の父親が率いた派閥であることも注目され、2人が立候補すれば森派の分裂も予想されたものの、福田が不出馬を宣言したため派閥分裂の危機は回避され、9月に安倍が総裁に選出された。



町村派




町村信孝


2006年10月19日、森は派閥会長を退任し、町村信孝が同派会長に就任。派閥名は「町村派」となった。10月26日の派閥総会で森は同派名誉会長に就任した。町村への派閥継承は、幹事長に就任したもう一方の実力者中川秀直とのバランスを考慮したものだった。その影響力や行動などから領袖から退いた後も森が事実上の派閥のオーナーと考えられていた。


同年9月、福田康夫が総理総裁になり森・小泉・安倍・福田の4代連続で総理総裁を輩出する。町村が福田康夫内閣の官房長官に就任したことにより、派閥会長職を廃して代わりに代表世話人を置くことを決定。代表世話人には町村・中川秀直・谷川秀善(参院)の3人が就き、集団指導体制となった。官房長官という要職での入閣により閥務に比重が置けない町村と、党幹事長を辞任して派閥に復帰した中川の派内での処遇を考慮した結果の措置であった。報道での派閥名は町村派から変更されなかった。


2007年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙の結果自民党は敗北したが、町村派は参議院でも津島派を抜き、衆参両院で党内最大派閥となった。数を減らした他派閥に配慮して、無派閥議員への派閥勧誘は他派閥が終えるのを待ってから行った。


2008年3月、総理総裁就任以来派閥を抜けていた安倍晋三が「相談役」として復帰。安倍復帰前からの相談役としては衛藤征士郎らがいる。一方、小泉純一郎は首相退任後は無派閥のまま、2009年に政界を引退した。


2008年9月、福田総裁退任に伴う自民党総裁選では、町村も有力な総裁候補ではあったものの、安倍・福田と2代にわたって政権運営に失敗したことから、森・安倍・町村は安倍・福田政権を支え続けた麻生太郎を支持し、清和会から総裁候補を擁立しない方針を採った。中川がこの方針に反して小池百合子を擁立したため、派内の分裂が表面化した。麻生内閣発足に伴い幹事長ポストに細田博之が就任。町村は官房長官を離任したが、集団指導体制に変更はなかった。


2009年1月に入り、2011年からの消費税増税を目指した麻生政権に対し、中川は「その瞬間に判断する」などと本会議での造反をちらつかせ抵抗した。一時は決裂の様相も見られた。結局税調幹部でもある町村が増税実施時期を明記しない形での中川との妥協案を作成し対立は収束したが、政権に反対した動きは森、安倍などの怒りを買い、中川を代表世話人から外す考えが示された。


2009年2月5日の派閥総会で森が提案した人事案は、町村を会長に昇格させ、中川と谷川を代表世話人として続投させるというものであった。中堅、若手の一部からは反対する声もあったが、最終的に人事案は了承され、町村が会長に復帰することになった。同年3月5日の総会で森が最高顧問から安倍と同じく相談役に就くことが決まり、町村会長のもとでの新体制が固まった。


2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙により、衆議院における勢力は公示前の3分の1に減少し、古賀派に次ぐ第2位に後退したが、参議院と合わせ、全体として最大派閥の座は維持した[3]。9月3日、元防衛大臣の小池百合子が「派閥単位ではなく、党まるごとで一致団結すべき」として退会した[4]


2009年9月に発足した谷垣新執行部では総裁および党幹部ポストから外された。町村派が党執行部ポストに就任できなかったことは、福田派時代の1979年の大平政権以来30年ぶりのことであった。


同年10月、町村の意向で代表世話人の廃止が了承された[5]。同月末、代表世話人廃止により派内で事実上失脚した中川秀直が退会した[6]


2010年8月12日の自民党参議院議員会長選挙をめぐり、森喜朗が音頭を取って町村派、額賀派、古賀派は谷川秀善参院幹事長を推した。しかし町村派の安倍晋三、世耕弘成など中堅・若手が「派閥で動くのは良くない」と造反し、伊吹派の中曽根弘文を推薦した[7]。選挙の結果、中曽根が参院議員会長に就任した。


町村派では9月2日に幹部会を開き、造反議員の処分を検討したが結論は出ず、森は、谷川の票固めに失敗した鈴木政二をなじったり、安倍に対する不満をあらわにしたりした挙句、「額賀派や古賀派に合わせる顔がない」「もう面倒見切れない」と派閥退会届を提出した[8][9]。12月11日、会長の町村が正式に届を受理した[10]


2012年9月の総裁選において、会長の町村が出馬を表明。復帰後派内に影響力を持つ安倍に支援を要請するが、安倍はこれを拒否して自らも出馬。町村もそのまま出馬し、20人の推薦人で派内は完全に分裂する。選挙戦の最中に町村は体調不良で活動を中止するも、そのまま投票日まで立候補は取りやめなかった。これは立候補を取りやめた場合、自身への票がそのまま安倍に流れることを警戒したためともいわれる。結局、投票で安倍が当選、自身2度目の総裁に返り咲いた。


第46回衆議院議員総選挙の結果、自民党が政権を奪還、安倍が内閣総理大臣に再び就任。


第23回参議院議員通常選挙の結果、会員の山崎正昭が参議院議長に就任。



細田派


第47回衆議院議員総選挙の結果、会長の町村が衆議院議長に就任。このため、立法府と行政府の長を町村派出身議員が独占することとなった。また、慣例により町村が会派を離脱したために、細田博之が後任の会長に就任し、細田派となった。


第24回参議院議員通常選挙の結果、会員の伊達忠一が参議院議長に就任。



歴代会長

































































会長 派閥呼称 期間
1
福田赳夫 福田派
1979年 - 1986年
2
安倍晋太郎 安倍派
1986年 - 1991年
3
三塚博 三塚派
1991年 - 1998年
4
森喜朗 森派
1998年 - 2000年
5

小泉純一郎※1

2000年 - 2001年
6
森喜朗
2001年 - 2006年
7
町村信孝 町村派
2006年 - 2007年
-
町村信孝
中川秀直
谷川秀善※2

2007年 - 2009年
8
町村信孝
2009年 - 2014年
9
細田博之 細田派
2014年 -

※1 森の総理大臣就任期間の留守役

※2 3人の「代表世話人」による集団指導体制



現在の構成



役員

























会長
会長代理
座長
参院議員会長
副会長
事務総長
事務局長
政策委員長
最高顧問

細田博之

塩谷立

橋本聖子

世耕弘成

下村博文
馳浩
高木毅
松野博一
山谷えり子
下村博文
(副会長兼任)
高木毅
(副会長兼任)

奥野信亮

衛藤征士郎
山崎正昭

(2018年)



衆議院議員




























































































衛藤征士郎
(12回・参1回、大分2区)

細田博之
(10回、島根1区)

安倍晋三[注 1]
(9回、山口4区)

塩谷立
(9回、静岡8区)

下村博文
(8回、東京11区)

馳浩
(7回・参1回、石川1区)

高木毅
(7回、福井2区)

松野博一
(7回、千葉3区)

吉野正芳
(7回、福島5区)

柴山昌彦
(6回、埼玉8区)

谷川弥一
(6回、長崎3区)

西村康稔
(6回、兵庫9区)

松島みどり
(6回、東京14区)

稲田朋美
(5回、福井1区)

奥野信亮
(5回、比例近畿)

鈴木淳司
(5回、比例東海)

中山泰秀
(5回、大阪4区)

西村明宏
(5回、宮城3区)

萩生田光一
(5回、東京24区)

宮下一郎
(5回、長野5区)

越智隆雄
(4回、比例東京)

大塚拓
(4回、埼玉9区)

亀岡偉民
(4回、比例東北)

関芳弘
(4回、兵庫3区)

高鳥修一
(4回、新潟6区)

土井亨
(4回、宮城1区)

中根一幸
(4回、比例北関東)

松本文明
(4回、比例東京)

岸信夫
(3回・参2回、山口2区)

義家弘介
(3回・参1回、神奈川16区)

穴見陽一
(3回、大分1区)

池田佳隆
(3回、比例東海)

大西英男
(3回、東京16区)

小田原潔
(3回、比例東京)

加藤寛治
(3回、長崎2区)

菅家一郎
(3回、福島4区)

神田憲次
(3回、比例東海)

佐々木紀
(3回、石川2区)

白須賀貴樹
(3回、千葉13区)

田畑裕明
(3回、富山1区)

長尾敬
(3回、大阪14区)

根本幸典
(3回、愛知15区)

藤原崇
(3回、比例東北)

福田達夫
(3回、群馬4区)

細田健一
(3回、比例北陸信越)

堀井学
(3回、北海道9区)

三ッ林裕巳
(3回、埼玉14区)

宮沢博行
(3回、静岡3区)

簗和生
(3回、栃木3区)

山田美樹
(3回、比例東京)

上野宏史
(2回・参1回、比例南関東)

尾身朝子
(2回、群馬1区)

谷川とむ
(2回、比例近畿)

杉田水脈
(2回、比例中国)

古田圭一
(2回、比例中国)

宗清皇一
(2回、大阪13区)

和田義明
(2回、北海道5区)

安藤高夫
(1回、比例東京)

上杉謙太郎
(1回、比例東北)

木村次郎
(1回、青森3区)

高木啓
(1回、比例東京)


(計61名)
※安倍晋三は自由民主党総裁および内閣総理大臣在任中のため脱会中



参議院議員


























































山崎正昭
(5回、福井県)

世耕弘成
(4回、和歌山県)

橋本聖子
(4回、比例区)

伊達忠一
(3回、北海道)

岡田直樹
(3回、石川県)

末松信介
(3回、兵庫県)

中川雅治
(3回、東京都)

野上浩太郎
(3回、富山県)

山谷えり子
(3回・衆院1回、比例区)

山本順三
(3回、愛媛県)

礒崎陽輔
(2回、大分県)

江島潔
(2回、山口県)

高階恵美子
(2回、比例区)

西田昌司
(2回、京都府)

長谷川岳
(2回、北海道)

古川俊治
(2回、埼玉県)

丸川珠代
(2回、東京都)

森まさこ
(2回、福島県)

赤池誠章
(1回・衆院1回、比例区)

石井正弘
(1回、岡山県)

石田昌宏
(1回、比例区)

井原巧
(1回、愛媛県)

上野通子
(1回、栃木県)

太田房江
(1回、比例区)

大野泰正
(1回、岐阜県)

北村経夫
(1回、比例区)

酒井庸行
(1回、愛知県)

佐藤啓
(1回、奈良県)

滝波宏文
(1回、福井県)

長峯誠
(1回、宮崎県)

堀井巌
(1回、奈良県)

松川るい
(1回、大阪府)

宮島喜文
(1回、比例区)

宮本周司
(1回、比例区)

山田修路
(1回、石川県)

山田宏
(1回・衆院2回、比例区)

羽生田俊
(1回、比例区)


  • 客員会員[12]





井上義行
(1回、比例区、無所属[注 2]


(自民37+無所属1名)
※伊達忠一は参議院議長在任中のため脱会中



脚注


[ヘルプ]




  1. ^ 現在、離脱中(後述)[11]


  2. ^ 自由民主党には入党せず、無所属のまま入会。


出典




  1. ^ 親台湾派議員の総帥に 「群雀中の一鶴」灘尾弘吉(4)


  2. ^ 自由民主党の組織と機能


  3. ^ “大量落選で派閥必衰…「本当に自民壊れた」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年9月1日). オリジナルの2009年9月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20090903160449/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090901-OYT1T00063.htm 2009年12月8日閲覧。 


  4. ^ “小池百合子氏が町村派を退会 「派閥の時代でない」”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2009年9月3日). http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009090301000648.html 2010年1月14日閲覧。 


  5. ^ “自民・町村派が代表世話人を廃止へ 中川秀直氏外し?”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2009年10月15日). オリジナルの2009年11月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091101063957/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091015/stt0910151932014-n1.htm 2009年12月2日閲覧。 


  6. ^ “自民、中川秀直元幹事長が町村派を退会”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2009年10月29日). オリジナルの2009年11月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20091101063013/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910291058004-n1.htm 2009年12月2日閲覧。 


  7. ^ “自民党:参院会長に中曽根氏 得票同数で抽選、派閥連合に勝利”. 毎日jp (毎日新聞社). (2010年8月12日). オリジナルの2010年8月14日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100814154056/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100812ddm005010030000c.html 2010年8月12日閲覧。 


  8. ^ “自民町村派:参院会長選の処分うやむや 森氏が退会届”. 毎日jp (毎日新聞社). (2010年9月2日). オリジナルの2010年9月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100903044938/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100903k0000m010082000c.html 2010年9月2日閲覧。 


  9. ^ “町村派のお家騒動深刻 森氏が「退会届」”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2010年9月3日). オリジナルの2010年9月3日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20100903233208/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100903/stt1009030021000-n1.htm 2010年10月18日閲覧。 


  10. ^ “森元首相が町村派退会 町村氏「今後は会友として相談」”. asahi.com (朝日新聞社). (2010年12月11日). オリジナルの2010年12月12日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101212201117/http://www.asahi.com/politics/update/1211/TKY201012110177.html 


  11. ^ 「自民総裁選 『あと3年かじ取る』 首相、出馬を正式表明」 『山形新聞』. 2018年8月27日付朝刊、8版、1面。


  12. ^ 井上氏、細田派に正式入会




関連項目



  • 保守傍流

  • 十日会系



外部リンク


  • 公式サイト









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