前田光高
凡例 前田 光高 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 元和元年11月20日(1616年1月9日) |
死没 | 正保2年4月5日(1645年4月30日) |
改名 | 犬千代(幼名)→利高(初名)→光高 |
戒名 | 陽廣院殿將巌天良大居士 |
墓所 | 野田山墓地 |
官位 | 正四位下・左近衛権少将兼筑前守 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 加賀藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田利常、母:天徳院(徳川秀忠の娘) |
兄弟 | 光高(利高)、利次、利治、利明 |
妻 | 正室:大姫(徳川家光の養女・徳川頼房女) |
子 | 綱利(綱紀)、万菊丸 |
前田 光高(まえだ みつたか)は、加賀藩の第3代藩主。加賀前田家4代。第2代藩主・前田利常の長男。母は第2代将軍徳川秀忠の娘・珠姫(天徳院)。正室は第3代将軍徳川家光の養女で水戸藩主・徳川頼房の娘・大姫。徳川家康の外曾孫で、藩祖・前田利家の嫡孫である。
子に前田綱紀(長男、初め綱利)、万菊丸(次男)。幼名は犬千代(いぬちよ)。初名は利高(としたか)。
目次
1 生涯
2 人物・逸話
3 官職および位階等の履歴
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
生涯
元和元年(1615年)11月20日、加賀藩主・前田利光(のちの利常)の長男として生まれる。寛永6年(1629年)4月23日、元服し、母方の叔父にあたる将軍徳川家光より「松平」の名字と偏諱(「光」の一字)を与えられ、松平筑前守光高と称する[1](逆に「光」の字を諱の下(二文字目)におくのを避けた父・利光は「利常」に改名している)。寛永16年(1639年)の父・利常の隠居に伴い、家督を継ぐ。富山藩、大聖寺藩の分封と、利常の隠居領のため、加賀藩領の石高は歴代最少の80万石となる。
寛永20年(1643年)、長男(嫡男)の犬千代(のちの綱紀)が誕生するが、この報せを聞いた直後の参勤で、120里をわずか6泊7日で歩いたスピード記録を持つ[注釈 1]。
正保2年(1645年)4月5日、老中・酒井忠勝を招いた茶会の席で突然倒れて急死した[注釈 2]。享年30(満29歳没)。家督および藩主の座は幼少の嫡男・犬千代(のち元服して綱利、綱紀と改名)が継いだが、初めの頃は祖父である利常がそれを補佐する体制がとられた。
法名は陽廣院殿將巌天良大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。
人物・逸話
- 第3代将軍徳川家光は母方の叔父にあたり、家光はなかなか男子に恵まれなかったため、一時甥であるこの光高を後継者にしようとしたという。
- 両親共美男美女と名高かった故にかなりの美男子と言われ、当時から家光の衆道(男色)相手をしていた時期もあったという噂が流れていた。
- 光高は腕力が絶倫で、指で碁石を碁盤に押し込んだという逸話がある[4]。
- 光高はなかなかの器量人であり、武芸や和漢の才に優れて『遺訓』『銘歌』『一本種』『自論記』など著作が多数ある。また光高は秀忠の外孫のためか幕府に対する忠誠が厚く、このため父の利常と衝突することも少なくなかった[5]。
- 光高は下戸であったとされ、それを物語る逸話がある。隣藩の福井藩主松平忠昌は酒豪であったが、江戸で向かいの屋敷に住んでいた光高が突然死すると、将軍家光は忠昌の健康を心配し、飲酒を控えるように伝えたが、忠昌は短冊に一編の狂歌を書いて、家光への返事とした。「向い(の屋敷)なる加賀の筑前(前田筑前守光高)下戸なれば 三十一で昨日死にけり」 この返事を受け取った家光は、忠昌だからしょうがない、とそのままとなった[3]。ちなみに忠昌は光高の4ヵ月後に死亡した。
官職および位階等の履歴
※日付=旧暦
寛永6年(1629年)4月23日 - 元服し、将軍徳川家光の偏諱を授かり光高と名乗る。正四位下左近衛権少将兼筑前守に叙任。- 寛永16年(1639年)4月23日 - 家督を継ぐ。
脚注
注釈
^ 『可観小説』には、綱紀誕生に光高は大いに喜び、誕生数日後には利常と共に連歌会を開いて喜びを歌で現している[2]。
^ 突然の急死に関しては、その才能や人物を恐れた幕府による毒殺や、近臣らによる毒殺などの噂もあったとされる[3]。
出典
^ 村川浩平 『日本近世武家政権論』 近代文芸社、2000年6月、167頁。
^ 若林 1986, p. 1.
- ^ ab若林 1986, p. 7.
^ 若林 1986, p. 12.
^ 若林 1986, p. 5-7.
参考文献
- 山本博文 『遊びをする将軍・踊る大名』 教育出版〈江戸東京ライブラリー〉、2002年。ISBN 4316358901。
- 若林喜三郎 『前田綱紀』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年、新装版。ISBN 4-642-05058-2。
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