東ローマ帝国
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- ローマ帝国
Res Publica Romana[1](ラテン語)
Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων[1](ギリシア語)
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395年 - 1453年
↓
(国旗)
(国章)
東ローマ帝国の版図の変遷
公用語
ラテン語、ギリシア語(620年以降[2])
首都
コンスタンティノポリス
- 皇帝
395年 - 408年
アルカディウス(初代)
527年 - 565年
ユスティニアヌス1世
976年 - 1025年
バシレイオス2世
1448年 - 1453年
コンスタンティノス11世ドラガセス(最後)
- 変遷
成立(東西分割)
395年
イスラム帝国によって領土の大半を失陥
7世紀
第4回十字軍により一旦滅亡
1204年
亡命政権ニカイア帝国によって再興
1261年
オスマン帝国によって滅亡
1453年5月29日
通貨
ノミスマ
先代
次代
ローマ帝国
ヴァンダル王国
東ゴート王国
オスマン帝国
モスクワ大公国
セルビア王国
第二次ブルガリア帝国
キプロス王国
ヴェネツィア共和国
テオドロ公国
- 公式な国号は「ローマ帝国」。
- 正式な成立時期はない。
古代ローマ | ||||
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統治期間 | ||||
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東ローマ帝国(ひがしローマていこく、英語: Eastern Roman Empire[3])またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。
西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。
目次
1 名称
2 概要
3 歴史
3.1 前史
3.1.1 年表
3.2 前期(395年 - 610年頃)
3.2.1 再興と挫折
3.3 中期(610年頃 - 1204年)
3.3.1 危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
3.3.1.1 アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)
3.3.2 最盛期(9世紀 - 11世紀前半)
3.3.3 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)
3.3.3.1 セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)
3.3.4 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)
3.3.4.1 第4回十字軍
3.4 後期(1204年 - 1453年)
3.4.1 帝国の再興(1204年 - 1261年)
3.4.2 モンゴル襲来(1223年 - 1299年)
3.4.2.1 オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)
3.4.3 滅亡(1453年)
4 政治
4.1 イデオロギー
4.2 政治体制
4.3 行政制度
4.3.1 属州制からテマ制へ
4.3.2 テマ制の崩壊
4.3.3 プロノイア制
5 住民
6 文化
7 宗教
7.1 正教会
7.2 「皇帝教皇主義」という誤解
7.3 宗教論争
8 法律
9 経済
10 軍事
10.1 初期の軍制
10.2 テマとタグマ
10.3 プロノイア制の時代
10.4 軍隊の規模
11 用語の表記方法について
12 脚註
13 文献
13.1 参考文献
13.2 他の関連文献
14 関連項目
14.1 帝国史
14.1.1 王朝
14.1.2 戦争
14.1.3 軍事
14.1.4 法制度
14.2 地域
14.3 都市
14.4 正教会・キリスト教
14.5 文化
14.6 民族
14.7 周辺諸勢力
15 外部リンク
名称

皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には "+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人のバシレウス)と書かれている。
この国家(およびその類似概念)については、いくつかの呼び方が行われている。
- ローマ帝国
3世紀末から4世紀前半にかけて帝国の中心は東方世界へと移行したが、「ローマ人の皇帝」がローマ本土にも存在していた時代には、東ローマ帝国が自らをローマと同等のものとして扱うことは許されなかった[4][5]。しかし476年に西方正帝が消滅して「ローマ人の皇帝」が帝国東方にしか存在しないようになると、次第に東ローマ帝国では「ローマに代わる第二のローマ」という自意識が育ち、同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった[6]。こうしてローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼ぶことはなく[7]、正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシア語:ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn)」であった[1]。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania/Romania)」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes/Elines)」[8]ではなく「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi/Romei)」を称していた。- 東ローマ帝国
- 古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年のテオドシウス1世の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった[9]。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。
- ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
ローマ国家自体は古代から1453年まで連綿と続いたものであり、上述の通り「東ローマ帝国」の住民も自らの国家を「ローマ帝国」と認識していた。ところが、7世紀頃以降のこの国家は「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いがあまりにも顕著であるため、便宜上、別の名称が使用されるようになった[10]。「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオン(中世・現代ギリシア語ではビザンティオン)に由来している。「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz[11]、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine に、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞に由来している。日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティオン帝国」は、英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている[12]。ただし、これらの呼称は7世紀頃以降のこの帝国を指して使われることが多く、その点で、4世紀末~6世紀頃(古代末期)の「東ローマ帝国」とはややその概念を異にしている[13]。- ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた[14]。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。また、例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。- 中世ローマ帝国
- この国家を「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」「ギリシア帝国」と呼ぶのは中立的でないとし、少なくとも日本における呼称としては適切でないとする見解が日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは(特に7世紀頃以降のこの国家を指して)「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた[15]。この呼称はなかなか普及しなかったが、1980年に渡辺金一が普及力の強い岩波新書における自らの著書の題名に冠した[16]ことにより、一般の読書人にも知られるようになった。
概要
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった[2]。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる[17]。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
歴史

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った[18]。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。
前史
いつからを東ローマ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない[19]。それらの主なものには、たとえば下記に挙げる考え方がある。
第一には、ディオクレティアヌスが皇帝権を分割し、東方にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。ただし、ディオクレティアヌスのテトラルキアは、首都ローマを防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて前線に留まるという体制であり、地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかったと考えられている。
次に、コンスタンティヌス1世がコンスタンティノポリスを建設した330年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。コンスタンティヌス1世は、古代ローマの元老院とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、6世紀以降の東ローマ帝国の人々も、この330年を自分たちの国の建国年と考えていた。著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーも、『ビザンツ帝国史』において建都直前の324年(テトラルキアの内戦Civil wars of the Tetrarchyが終結した年)を帝国史の始点としている。ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには法務官、護民官、財務官、首都長官といった首都機能は整備されておらず、帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。330年の時点ではコンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである[20]。
次に、ウァレンティニアヌス1世が皇帝権の東西分割を行った364年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある[21][22][23]。唯一の正帝となったウァレンティニアヌス1世は、364年に弟ウァレンスを東方正帝として指名し、帝国の東西分担統治を開始した。後述するテオドシウス朝の分担統治も、制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、帝権分割の視点から言えば364年こそが帝国にとって重要な転換点であった[24]とされる。フランスの古代史家アンドレ・ピガニオルは、この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。
次に、テオドシウス1世が自身の死に際して彼の二人の息子達(アルカディウスとホノリウス)に帝国の半分ずつを相続させた395年をもって東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。ただしテオドシウスは前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、制度上は、テオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の執政官の下で運営され、法律は東西皇帝の連名で発布された。また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位もウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、東西いずれかの皇帝が没した際には、その後継者が指名されるまでは残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。これらの理由から20世紀以降の歴史学では、アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく[25]、それは過去に幾度となく行われてきた単なる分治の一つにすぎない[26]との評価をされることが多い。一方で、結果としてみるならば、テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになった[27]のだとする評価もある。
上記いずれの年代も何らかの意味では歴史の転換点とみなすことができ、またそれが他の年代を帝国史の始点とすることに対する反対論拠ともなっている[19]。
年表
378年、皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死。
390年、ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。)
前期(395年 - 610年頃)
再興と挫折

ユスティニアヌス1世
本項では、ローマ帝国の東西両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となったテオドシウス1世が、395年の死に際し、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を、継がせた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。
皇帝テオドシウス2世(401年 - 450年)は、パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび侵入されたため、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁テオドシウスの城壁を築き、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める事に専心した。皇帝マルキアヌス(450年 - 457年)は、451年にカルケドン公会議を開催し、第2エフェソス公会議以来の問題となっていたエウテュケスの唱えるエウテュケス主義や単性説を改めて異端として避け、三位一体を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力した。453年にアッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。マルキアヌスが急死すると、皇帝にはトラキア人のレオ1世(457年 - 474年)が据えられたが、アラン人のパトリキでマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。しかし、471年にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。
西ローマ帝国での皇帝権はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し、476年に西方正帝の地位が消滅した。東ゲルマン族のスキリア族のオドアケルは西ローマ皇帝を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(474年 - 491年)に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の宗主権を認めてローマ帝国のイタリア領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。
西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は
アナトリア・シリア・エジプトのような、ゲルマン人の手の届かない地域に豊かな穀倉地帯を保持していた
- 対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われた。
- アナトリアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいた
西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西ローマ帝国へ移住させた
- ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。
- 首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた
ことなどが挙げられる。

ハギア・ソフィア大聖堂
周囲の尖塔はオスマン帝国時代のもの
しかし488年にイタリアの統治方針についてゼノンとイタリア領主オドアケルが対立したことがきっかけとなり、東ローマ皇帝ゼノンがオドアケル追討を命じた。489年に東ゴート族のテオドリックがイタリア侵攻を開始した。491年、皇帝ゼノンが急死し、皇后アリアドネはアナスタシウス1世(491年 - 518年)と結婚して皇帝に据え、混乱を防いだ。493年にオドアケルは暗殺され、テオドリックがイタリアの総督および道長官に任命された。テオドリックは497年にアナスタシウス1世よりイタリア王を名乗ることが許され、ここに東ゴート王国(497年-553年)が成立した。ただし東ゴート王国の領土と住民は依然としてローマ帝国のものとされ、民政は引き続き西ローマ帝国政府が運営し、立法権は東ローマ皇帝が行使した。
アナスタシウス1世の下で東ローマ帝国は力を蓄えたが、その一方で、単性論寄りの宗教政策によってカトリック教会と対立が再び表面化した。502年のen:Anastasian Warが長きに渡るサーサーン朝とのビザンチン・サーサーン戦争の発端となった。アナスタシウス1世が急死すると、次のユスティヌス1世(518年 - 527年)はローマ教皇との関係修復に腐心することになった。
6世紀のユスティニアヌス1世(527年 - 565年)の時代には、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊した。一方、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、533年のアド・デキムムの戦いでヴァンダル族を破ってカルタゴを奪還すると、ヴァンダル戦争(533年 - 534年)で地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、442年(455年)以来ヴァンダル族に占領されていた旧都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。528年にトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成したが、529年にはギリシャの多神教を弾圧し、プラトン以来続いていたアテネのアカデメイアを閉鎖に追い込み、数多くの学者がサーサーン朝に移住していった。
535年のインドネシアのクラカタウ大噴火の影響で535年から536年の異常気象現象に見舞われた。イタリア半島においてはゴート戦争(535年 – 554年)が始まる。543年、黒死病(ユスティニアヌスのペスト)。ラジカ王国をめぐるサーサーン朝ペルシアとの抗争(ラジカ戦争)で手がまわらなくなると、スラヴ人(542年)・アヴァール(557年)などの侵入に悩まされた。546年に東ゴート軍は、イサウリア人の裏切りによってローマを陥落させることに成功し、この時のローマ略奪と重税によって、いわゆる「ローマの元老院と市民」(SPQR)が崩壊し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。552年にナルセス将軍が派遣され、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum、タギナエの戦い イタリア語: Battaglia di Tagina 英語: Battle of Taginae)でトーティラを敗死させ、東ゴートは滅亡した。翌年、イタリア半島は平定された。
565年にユスティニアヌス1世が没すると、568年にはアルプス山脈を越えて南下したゲルマン系ランゴバルド人によってランゴバルド王国が北イタリアに建国された。558年、突厥の西面(現イリ)の室点蜜はサーサーン朝のホスロー1世との連合軍でエフタルを攻撃し、567年頃に室点蜜はエフタルを滅ぼした。その後、室点蜜とホスロー1世の関係が悪化し、568年に室点蜜からの使者が東ローマ帝国を訪れた。572年から始まったビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)で、東ローマ帝国もサーサーン朝に対抗する同盟相手を求めていたため、576年に達頭可汗にサーサーン朝を挟撃することを提案した。588年、第一次ペルソ・テュルク戦争でサーサーン朝を挟撃した。598年、達頭可汗がエフタルとアヴァール征服を東ローマ帝国の皇帝マウリキウスに報告した。602年にユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺され、混乱の中でフォカスが帝位を僭称した。
7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った(サーサーン朝のエジプト征服)。フォカスは、逆襲のためにサーサーン朝ペルシアへ侵攻した(東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年))。
中期(610年頃 - 1204年)
危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
608年にカルタゴのアフリカ総督大ヘラクレイオスが反乱を起こし、610年にカルタゴ総督・大ヘラクレイオスの子のヘラクレイオス(在位 : 610年 - 641年)が皇帝に即位した。ヘラクレイオスは、西突厥の二度にわたる戦争(第二次ペルソ・テュルク戦争、第三次ペルソ・テュルク戦争)に助けられ、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアをニネヴェの戦い (627年)で破るなどして東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)に勝利し、領土を奪回することに成功した。627年にハザールを主力とする「東のテュルク」と同盟を結んだが、628年に統葉護可汗が殺され、後継者問題にゆれる西突厥との同盟関係は失われた。
東ローマ領内では既に4世紀からラテン語の重要性は次第に低下しつつあり、ギリシア語が徐々に事実上の公用語へと変わっていた[28]。それでもなおラテン語は「ローマ人の言語」としてその重要性の維持が試みられもしたが、5世紀中には文官たちにとってラテン語の習得はもはや必要なものではなくなっていた[28]。軍はラテン語の伝統を最も長く保持し、6世紀に至るまで公式の行政文書をラテン語で書いたが、全体として東ローマ帝国領内におけるラテン語使用が時間と共に低迷するの潮流は変わらなかった。ヘラクレイオスはこの変化を公式に認め、620年にはギリシア語が公用語であることを承認した[2][29]。またヘラクレイオスはサーサーン朝に対する勝利の後、古くから皇帝を指す通用的な用語であった「バシレウス(ヴァシレフス)」を公式儀礼用語として使用するようになった。この言葉はラテン語の「インペラトル」に対応し、以降帝国の滅亡まで用いられた。古くからのローマ的称号であるアウグストゥス(アウグストス)も公式儀礼用語として使用され続けたが、その場合でも「信者ヴァシレフス」が必ず付された[30]。
アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)
サーサーン朝への攻撃を開始したイスラム帝国(正統カリフ)は、カーディスィーヤの戦いでメソポタミアからサーサーン朝を駆逐して間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻した。636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失った。641年、ヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦(マストの戦い)でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失った。
656年、イスラム帝国内で第三代カリフのウスマーンが暗殺され、第一次内乱(656年 - 661年)が始まる。661年、ウマイヤ朝が成立。

ギリシア火薬を用いてアラブ船を攻撃するローマ軍
674年から678年までのコンスタンティノポリス包囲戦では、連年イスラム海軍(ウマイヤ朝)に包囲され、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされたが、難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功した。680年にはオングロスの戦いでテュルク系ブルガール人に破れ、681年の講和で北方に第一次ブルガリア帝国が建国された(ブルガリア・東ローマ戦争、680年 - 1355年)。698年、カルタゴの戦いではイスラム軍(ウマイヤ朝)に敗れ、カルタゴを占領されてカイラワーンに拠点を構築された[31][32][33]。その後も8世紀を通じてブルガリアから攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。
717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年にイスラム帝国軍(ウマイヤ朝)を撃退(第二次コンスタンティノポリス包囲戦)。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異は後にフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化した。
女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世(カール大帝)に「ローマ皇帝」の帝冠を授け、802年10月31日のクーデターでニケフォロス1世が即位し、803年にパクス・ニケフォリを締結したが、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海はフランク王国・東ローマ・イスラムに三分された。

アモリオンの戦い(838年)
イスラム軍(アッバース朝)とは、804年のen:Battle of Krasos、806年のen:Abbasid invasion of Asia Minor (806)で戦火を交えたが敗北し、貢納金を支払う条件で和約を結んだ。811年には第一次ブルガリア帝国に侵攻したが、撤退時のプリスカの戦い(英: Battle of Pliska、ブルガリア語:Битка при Върбишкия проход - バルビツィア峠の戦い)で皇帝ニケフォロス1世が殺害され、後継者問題が起こった。ミカエル1世ランガベーが皇帝に即位し、対立していたフランク王国と妥協し、カール大帝の皇帝就任を承認。813年にヴェルシニキアの戦いで再び第一次ブルガリア帝国に敗北し、レオーン5世への譲位を余儀なくされた。814年に第一次ブルガリア帝国のクルムが死去すると、オムルタグと30年不戦条約を結んだ。827年にアラブ人(アッバース朝支配下のアグラブ朝)がシチリア島へ侵攻し(ムスリムのシチリア征服、827年-902年)、シチリア首長国(831年 - 1072年)が成立。902年にイブラーヒーム2世がタオルミーナを攻略してシチリア島の征服が完了した[34]。
こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人・正教会・ギリシア文化を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。
最盛期(9世紀 - 11世紀前半)

1025年の東ローマ帝国

軍装のバシレイオス2世
東ローマ帝国の全盛期を現出した

ヨハネス2世コムネノス
彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えた
9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。一方、東ローマ皇帝とローマ教皇の対立はフィリオクェ問題をきっかけとして再び顕在化した。バシレイオス1世はローマ教会との関係改善を図ってフォティオスを罷免した「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂した[35]。
政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。
10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)
1011年、西からノルマン人の攻撃を受けた(ノルマン・東ローマ戦争、1011年 - 1185年)。
しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は政治的混乱が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発した。1040年にはブルガリア (テマ制)でen:Peter Delyanの反乱が起こり、ピレウスも呼応して蜂起した。
セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)
1055年、セルジューク・東ローマ戦争が始まり、1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたため、東からトルコ人が侵入して領土は急速に縮小した。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人のルッジェーロ2世には南イタリアを奪われた。
1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し[36]、トルコ人からの領土奪回を図った。
アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。
ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)
1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世を廃して帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)も、セルビア王国(1171年)・第二次ブルガリア帝国(1185年)といったスラヴ諸民族が帝国に反旗を翻して独立し、また地方に対する中央政府の統制力が低下する中で、有効な対策は打てずにいた[37]。
第4回十字軍
十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権[38]を建てて抵抗することとなった。
後期(1204年 - 1453年)
帝国の再興(1204年 - 1261年)

1265年のバルカン半島及び小アジア
第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス(在位:1205年 - 1222年)、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス(在位:1222年 - 1254年)の賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。
モンゴル襲来(1223年 - 1299年)
周辺国では、1223年のカルカ河畔の戦い以来、モンゴル帝国による東欧侵蝕(チンギス・カンの西征、モンゴルのヨーロッパ侵攻)が始まり、1242年にはジョチ・ウルスがキプチャク草原に成立し、1243年のキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝がモンゴル帝国(1258年にイルハン朝に分裂)の属国化し、1245年のヤロスラヴの戦いではハールィチ・ヴォルィーニ大公国がジョチ・ウルスの属国化した。
3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス(在位:1254年 - 1258年)の死後、摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)が実権を握った。1259年9月、ペラゴニアの戦いで、アカイア公国・エピロス専制侯国・シチリア王国の連合国軍をニカイア帝国(東ローマ亡命政権)軍が破り、1261年にはコンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝(1261年 - 1453年)を開いた。
フレグの西征で1258年にはイルハン朝がイラン高原に成立していた。さらに1260年にモンケが没して帝位継承戦争が勃発し、1262年11月にはベルケ・フレグ戦争でジョチ・ウルスとイルハン朝の争いが始まる中、東ローマ帝国はジョチ・ウルスと直接接触することになった。
1265年に、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルス軍がトラキアに侵攻し、ミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北し、ジョチ・ウルスと同盟することになった。[39]その後も1271年、1274年、1282年、1285年にモンゴル軍はヴォルガ・ブルガールに侵攻していた。
1277年に第二次ブルガリア帝国でイヴァイロの蜂起が起こり、ミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し、1285年に第二次ブルガリア帝国はジョチ・ウルスに従属した。この間の1282年に、テッサリアで反乱が起こり、ノガイ・ハーンはトラキアへミカエル8世への援軍を送ったが、ミカエル8世は病気になり急死した。ミカエル8世の息子・アンドロニコス2世パレオロゴスは、援軍をブルガリアと同盟するセルビア王国攻撃に用いた。1286年に、セルビア王国のステファン・ウロシュ2世ミルティンが講和を申し入れた。
アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無く、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に攻撃された。
オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)
1352年に東からオスマン帝国のオルハンに攻撃されてブルサを奪取され(ビザンチン内戦 (1352年 - 1357年))、1352年には領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の共同皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)とヨハネス6世カンタクゼノス(在位:1347年 - 1354年)は、1354年のガリポリ陥落でオスマン帝国スルタンのオルハンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。
1380年のクリコヴォの戦いで急速に国力を増大したモスクワ大公国がジョチ・ウルスを破り、周辺国でも激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡後に、モスクワ大公国は正教会の擁護者の位置を占めることになる。
14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。
この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。
滅亡(1453年)

コンスタンティノープルの陥落
1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。ハンガリー人のウルバン (Orban) が開発したオスマン帝国の新兵器「ウルバン砲」による砲撃に曝され、圧倒的に不利な状況下、東ローマ側は守備兵7千で2か月近くにわたり抵抗を続けた。5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落、皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり・近世の始まりとする学説が多い。同年には百年戦争が終結し、この戦いを通じてイギリス(イングランド王国)とフランス(フランス王国)は王権伸長による中央集権化および絶対君主制への移行が進むなど、西ヨーロッパでも大きな体制の変化があった。
1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。
なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。また1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している[40]。
政治
東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」
画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの
イデオロギー
東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「キリストによる最後の審判まで続く、地上最後の帝国」だと考えられていた。(東ローマ国民が本気にしていたかは疑問だが建前で)自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、世界創造紀元の使用にも現れる。
このイデオロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる。
政治体制
東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ。東ローマの皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「元老院・市民・軍」によって推戴された「地上における神の代理人」「諸王の王」だとされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。
しかし、皇帝の地位自体は不安定[41]で、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような(6世紀のユスティニアヌス1世や9世紀のバシレイオス1世など)、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。
このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。
行政制度
属州制からテマ制へ
地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になった。
テマ制は、自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。
テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人やペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。
テマ制の崩壊
しかし安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れだした。10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できるが、このような傾向の直接の原因は820年もしくは821年に起こったソマスの乱であると考えられている。このソマスの乱によって一時はコンスタンティノープルも占領されたため、高度な官僚制的行政機構が麻痺し、治安が悪化した。このため中小の土地所有者がわずかに残存していた地方の大土地所有者やテマ長官などの庇護を求め、彼らのもとに土地が集中することとなった。
ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、レオーン6世の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。ロマノス1世レカペノスの時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。
同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期のバシレイオス2世は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。
この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの傭兵に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位が低下した。
プロノイア制
コムネノス朝の時代にはプロノイア制が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧のレーエン制に擬され、ゲオルク・オストロゴルスキーなどが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。
ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、ヨハネス3世はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。ミカエル8世はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されることがあったという証明であるともいえる。
軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。
プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。またコムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。
自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配はデスポテースという地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。
住民
東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語であったが、12世紀までの東ローマ帝国はセルビア人・ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメニア人などを内包する多民族国家であった。ギリシア人は国民全体の3割ほどだったとする研究者もいる[42]。帝国内の自由民は、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた[43]。
帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人からの出身者もいたが、中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる[44]。7世紀のヘラクレイオス王朝や、9〜11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である[45]。
一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。[46]。
文化
東ローマ帝国は、古代ギリシア・ヘレニズム・古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。
宗教
国の国教と定められた正教会が広く崇拝され、後世にも影響を与えている。また、11世紀の年代史家ヨアニス・ゾナラスによると、伝統的なギリシャ神話の神々に対する信仰は当時まだ行われており[47]、15世紀には多神教の復活を説いたゲオルギオス・ゲミストス・プレトンが現れた。
正教会
帝国の国教であった正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。
「皇帝教皇主義」という誤解
東ローマ帝国の政教の関係を指して「皇帝教皇主義(チェザロパピズモ)」と呼ぶことがあるが、これには大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していた。
しかし、正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある。聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、主催はエイレーネーによるものの、決定したのはあくまで公会議である。ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。
実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。
宗教論争
東ローマ帝国では単性論・聖像破壊運動・静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語(コイネー)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。
法律
ユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『ローマ法大全』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、9世紀後半のバシレイオス1世による『ローマ法大全』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『ローマ法大全』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典 (Basilika) 』(帝国法)編纂である。
この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、ブルガリア・セルビア・ロシアなどの正教会諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』のスラヴ語訳を用いた。
経済

レオーン3世とコンスタンティノス5世を描いたノミスマ
東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した(ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある)。特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された絹織物(東ローマ帝国の養蚕伝来)や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。
しかし、12世紀以降は北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。
主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった[48]。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。
軍事

12-13世紀のフレスコ画に描かれた東ローマ兵士
初期の軍制
初期の東ローマ帝国は、2世紀末にディオクレティアヌス帝が採用した後期ローマ帝国の軍事制度を継承した。軍隊は、リミタネイ(辺境部隊)とコミタテンセス(野戦部隊)に大別された。リミタネイは辺境属州を担任するドゥクス(軍司令官)の指揮下で国境防衛にあたった。コミタテンセスははるかに広い地域を担当するマギステル・ミリトゥム(方面軍司令官)の指揮下で大都市に駐屯し、帝国軍の主力として戦地に出撃した[49]。野戦部隊は辺境部隊に比べ精鋭であり、給与等は優先されていた。
歩兵は依然ローマ軍の主力ではあったものの、騎兵の重要性が拡大していた。例えば478年には、東方野戦軍は8000の騎兵と30000の歩兵から編成され、357年のユリアヌス帝はストラスブルグの会戦に於いて10000の歩兵と3000の騎兵を率いていた。
騎兵部隊は細分化され、ローマ軍の4分の1は騎兵部隊で構成されるようになった。騎兵の約半数は鎧・槍・剣を装備する重装騎兵からなる。("スタブレシアニ")。弓を装備していた者もいたが、散兵としてではなく突撃の援護の為に用いられた。
野戦部隊には"カタフラクタリイ"や"クリバナリイ"等の重装騎兵も編成されていた。弓騎兵 ("エクイテス・サジタリィ")も含む軽騎兵("スクタリィ"、"プロモティ")は有用な斥候・偵察兵としてリミタネイで多く用いられた。"コミタテンセス"の歩兵はレギオン、アウクシリア、ヌメリ等と呼称される500から1200人の部隊に編成されていた。これらの重装歩兵は槍・剣・盾・鎧・兜を装備し、軽歩兵隊の援護を受けていた。
ユスティニアヌス1世の軍隊はペルシア帝国の脅威を受けた5世紀の危機に応じて再編された。レギオン・コホルス・アラエといった以前の帝国軍の編成は消え、代わりにタグマやヌメルスと呼ばれるより小規模な歩兵部隊や騎兵隊が取って代わった。タグマは300から400人で編成され、2つ以上のタグマでモイラ、2つ以上のモイラでメロスが編成された。
ユスティニアヌス帝時代には以下の様な軍に分かれていた。
- 帝都の護衛隊
- コミタテンセス(ユスティニアヌス帝時代にはストラティオタイと呼ばれていた)。ローマ軍の野戦部隊である。ストラティオタイは主にトラキア、イリュリクムとイサウリアから兵は集められた。
- リミタネイ(ユスティニアヌス帝時代にはアクリタイと呼ばれていた)。国境の要塞に駐留し、守備を担っていた。
- フォエデラティ。蛮族の志願兵から構成され、ローマ人士官の元で騎兵として編成された。
- 同盟軍。フン族・ヘルリ族・ゴート族やその他の蛮族から供給され、彼ら自身の族長が指揮していた。土地や報償金を見返りとして戦った。
- ブケラリィ。将軍や貴族など高位の人間の私兵であり、野戦軍の騎兵戦力として重要な地位を占めていた。その規模は雇い主の裕福さに左右されていた。兵士はヒュパスピスタイ(盾持ち)と呼称され、士官はドリュフォロイ(槍持ち)と呼ばれた。ドリュフォロイは雇い主と皇帝に厳粛な忠誠を誓っており、ベリサリウス将軍麾下のドリュフォロイなどは有名である。
テマとタグマ
7世紀にアラブ人に敗れて帝国の版図が著しく縮小したとき、帝国の軍制もまた根本的な変化を余儀なくされた。小アジアに退却した野戦部隊は、残存領土に分かれて駐屯し、テマ(軍団)となった。テマは敵と決戦して打ち破ろうとはせず、拠点防衛とゲリラ戦を組み合わせて受け身の抗戦に徹した。かつての辺境部隊の役割を担ったわけだが、この時代のテマには敵を国境線で防ぎ止めることができず、中央から主力軍が来て敵を撃破してくれるという希望もない。敵の侵入を許しながら征服されずに戦いぬく戦略であった[50]。テマの兵士は平時は農民で、諸税を免除される代わりに武器を自弁した[51]。
8世紀後半に帝国が存亡の危機を脱すると、テマの細分化とともに、テマに地方行政を担わせる改革が進み、地方制度としてのテマ制が作られた[52]。テマ制では、テマ(軍団)の長官(ストラテーゴイ)が地方行政の長官を兼ね、軍管区であり行政区でもあるその管轄地をもテマと呼ぶ。
また8世紀後半にはコンスタンティノス5世がテマから選抜した兵士をもとに首都に常備軍(タグマと呼ばれる)を整備したことで、地方軍と中央軍の二本立ての体制が復活した。外国人傭兵を部隊に編成したタグマ[53]、地方国境に駐屯したタグマも作られた[54]も作られた。
10世紀にはタグマが増設・強化されて領土拡大戦争の主力となった。[55]。その一方でテマ兵士を含む自由農民が没落し、有力者が土地を広げて農民を隷属させる社会変化が進んでいた[56]。有力者は帝国の最強兵科である重装騎兵を供給したが、貴族化して帝国の軍隊を私物化し、反乱を頻発させた[57]。
プロノイア制の時代
1081年に有力貴族から出て即位したアレクシオス1世は、有力貴族を軍の主力に据えることで軍事制度を立て直した。貴族の私兵だけでなく、皇帝自らの私兵というべき直属軍の育成に意を用い、外国人傭兵も依然として大きな比重を保った[58]。
軍隊の規模
軍隊の規模は論争となっている。Warren Treadgold[59]による算定値を参考に以下に示す(300年から1453年の間の軍隊構成員数の変遷は東ローマ帝国の軍隊(英語版を参照)。
年 | 773 | 809 | 840 | 899 |
---|---|---|---|---|
テマ軍合計 |
62,000 | 68,000 | 96,000 | 96,000 |
タグマ合計 |
18,000 | 22,000 | 24,000 | 28,000 |
合計 |
80,000 | 91,000 | 120,000 | 124,000 |
用語の表記方法について
日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。
このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。
脚註
- ^ abc世界大百科事典 第2版 - ビザンティンていこく【ビザンティン帝国】 コトバンク. 2019年1月3日閲覧。
- ^ abcDavis 1990, p. 260.
^ 和田廣. 日本大百科全書(ニッポニカ) - ビザンティン帝国 コトバンク. 2019年1月3日閲覧。
^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年
^ 『世界大百科事典』平凡社、1998年、ローマ理念
^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年
^ 「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P23))
^ ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる。(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、p.1)
^ なお、分割統治した当初はあくまでもそれまでの分割統治同様、一つの帝国を二人で分割統治する体制と捉えられていた。例えば、は443年に地震で破損したローマ市のコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。本村凌二編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233
^ 「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も古代ギリシア・ローマ時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」[井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』(京都大学学術出版会 P5))
^ ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンは Byzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich が用いられるのが一般的である。
^ 例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。
^ 「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P71-72))
^ カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。
^ 梅田良忠編『東欧史(世界各国史13)』(山川出版社、1958年)
^ 渡辺金一『中世ローマ帝国―世界史を見直す—』 (岩波書店、1980年)。
^ 井上浩一(大阪市立大学教授)など。
^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
- ^ ab秀村欣二「古代・中世境界論」『秀村欣二選集 第4巻』、2006年
^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫、2008年
^ 『The Oxford Classical Dictionary 4th ed.』Rome(History)、2012年
^ 米田利浩「古代末期のギリシア文化」『ギリシア文化の遺産』南窓社、1993年
^ 根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』山川出版社、2008年
^ 小田謙爾「解体前夜のローマ帝国」『古代地中海世界の統一と変容』青木書店、2000年
^ ゲオルク・オストロゴルスキー著、訳)和田廣『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
^ 弓削達『永遠のローマ』講談社学術文庫、1991年
^ 古代ローマにおいて皇帝とは、その職務に相応しいとみなされた実力者が指名されるもので、無能とみなされた皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されるのが伝統であったが、帝国東部においてはアルカディウスが実に20年以上にも渡り帝位を維持し、その死を待ってテオドシウス2世に帝位が継承された。一方で古代ローマの伝統を色濃く残した帝国西部においては、ホノリウスの帝位は元老院によって否定され、対立皇帝や短命皇帝が相次ぎ、5世紀末には西方正帝の地位そのものが廃止された。
- ^ ab尚樹 1999, pp. 272-275
^ 尚樹 1999, pp. 272-275
^ 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』(2005)pp, 19-22
^ “Tunisia - Carthage”. www.sights-and-culture.com. 2012年9月20日閲覧。
^ “ʿAbd al-Malik”. www.britannica.com. 2012年9月20日閲覧。
^ “Battle of Carthage (698)”. www.myetymology.com. 2012年9月20日閲覧。
^ ヒッティ, フィリップ・K 『アラブの歴史』下、岩永博訳、講談社〈講談社学術文庫〉、1983年、初版。ISBN 4-06-158592-4。、p.509
^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは一般に1054年が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは東西教会の分裂を参照)。
^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
^ ハリス 2018, pp. 272-279
^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
^ ミカエル8世の娘(Euphrosyne)がノガイ・ハーンの妃になった。
^ もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「ツァーリ」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。
^ 中期以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、コンスタンティノポリスの市民は、7世紀のヘラクレイオス帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。
^ ただし中世のバグラトゥニ朝アルメニア王国自体は、東ローマと敵対していたことが多かった。また帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた
^ これはかつての古代ローマ帝国でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。
^ 渡辺金一『中世ローマ帝国』(岩波新書)第一章
^ Byzantine Paganism
^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社〈講談社現代新書〉、1990年、204頁)、ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年、90頁)
^ 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10頁。
^ 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、10-12頁。
^ 井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制」、2-3頁。
^ 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、9頁。
^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、43頁。
^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、40-41頁。
^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、39-40頁。
^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、41頁。
^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、44-45頁。
^ 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化」、45-47頁。
^ Treadgold(1998),p.67"
文献
参考文献
井上浩一 『ビザンツ帝国』 岩波書店〈世界歴史叢書〉、1982年- 井上浩一「総論:7-12世紀のビザンティオン軍制 比較史研究のために」、『古代文化』、41巻2号、1989年。
- 井上浩一 『生き残った帝国 ビザンティン』 講談社現代新書、1990年/講談社学術文庫、2008年。ISBN 978-4-06-159866-9
- 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』 筑摩書房、1996年/白水社〈白水Uブックス〉、2009年。ISBN 978-4-560-72109-4
- 井上浩一・栗生澤猛夫 『ビザンツとスラヴ 〈世界の歴史11〉』 中央公論社、1998年/中央公論新社〈中公文庫〉、2009年。ISBN 978-4-12-205157-7
大月康弘 『帝国と慈善 ビザンツ』 創文社、2005年。ISBN 978-4-423-46058-0
- 小田昭善「11世紀ビザンティオン兵制の変化 マケドニア朝からコムネノス朝へ」、『古代文化』 41巻2号、1989年。
ゲオルク・オストロゴルスキー 『ビザンツ帝国史』 和田廣訳、恒文社、2001年- ミシェル・カプラン 『黄金のビザンティン帝国 文明の十字路の1100年』 井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年。ISBN 978-4-422-21078-0
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』、中野好夫・朱牟田夏雄・中野好之訳、筑摩書房(全11巻)、1976〜93年/ちくま学芸文庫(新訂版・全10巻)、1995〜96年。(東ローマ帝国期は中盤以降)
桜井万里子編 『ギリシア史』 山川出版社〈新版世界各国史〉、2005年。ISBN 978-4-634-41470-9。東ローマ期を扱った第4章の執筆者は井上浩一。
鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社現代新書、1992年、ISBN 978-4-06-149097-0
尚樹啓太郎 『コンスタンティノープルを歩く』 東海大学出版会、1988年、ISBN 978-4-486-01020-3
- 尚樹啓太郎 『ビザンツ東方の旅』 東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01251-1
- 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年2月。ISBN 978-4-486-01431-7。
- 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』 東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉、2005年、ISBN 978-4-486-01667-0
- 中谷功治「テマの発展 軍制から見たビザンティオン帝国」、『古代文化』 41巻2号、1989年、2頁。
根津由喜夫 『ビザンツ 幻影の世界帝国』 講談社選書メチエ、1999年- 根津由喜夫 『ビザンツの国家と社会』 山川出版社〈世界史リブレット〉、2008年、ISBN 978-4-634-34942-1
ジョナサン・ハリス 『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』 井上浩一訳、白水社、2018年2月。ISBN 978-4-560-09590-4。(The Lost World of Byzantium)
益田朋幸 『ビザンティン』 山川出版社〈世界歴史の旅〉、2004年、ISBN 978-4-634-63310-0
- ピエール・マラヴァル 『皇帝ユスティニアヌス』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2005年、ISBN 978-4-560-50883-1
- ポール・ルメルル 『ビザンツ帝国史』 西村六郎訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2003年、ISBN 978-4-560-05870-1
渡辺金一 『中世ローマ帝国 世界史を見直す』 岩波書店〈岩波新書〉、1980年- Davis, Leo Donald. The first seven ecumenical councils (325–787): their history and theology (1990 ed.). Liturgical Press. ISBN 0-8146-5616-1. - Total pages: 342
他の関連文献
- 井上浩一 『ビザンツ 文明の継承と変容』 京都大学学術出版会〈学術選書〉、2009年。ISBN 978-4-87698-843-3
- ベルナール・フリューザン 『ビザンツ文明 キリスト教ローマ帝国の伝統と変容』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2009年。ISBN 978-4-560-50937-1
ジュディス・ヘリン 『ビザンツ 驚くべき中世帝国』 井上浩一監訳/根津由喜夫ほか3名訳、白水社、2010年。ISBN 978-4-12-101684-3
- 井上浩一・根津由喜夫編 『ビザンツ 交流と共生の千年帝国』 昭和堂、2013年。ISBN 978-4-8122-1320-9
- 浅野和生 『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』 中央公論新社〈中公新書〉、2003年。ISBN 978-4-486-01431-7
- 根津由喜夫 『図説 ビザンツ帝国 刻印された千年の記憶』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2011年。ISBN 978-4-309-76159-6
- 橋口倫介 『中世のコンスタンティノープル』 講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
- エレーヌ=アルヴェレール 『ビザンツ帝国の政治的イデオロギー』 尚樹啓太郎訳、東海大学出版会、1989年
- J・M・ロバーツ 『ビザンツ帝国とイスラーム文明』 後藤明監修/月森左知訳、創元社〈図説世界の歴史〉、2003年
- ハンス・ゲオルク・ベック 『ビザンツ世界の思考構造 文学創造の根底にあるもの』 渡辺金一編訳、岩波書店、1978年
森安達也 『ビザンツとロシア・東欧』 講談社〈世界の歴史9 ビジュアル版〉、1985年- 米田治泰 『ビザンツ帝国』 角川書店、1977年
- 和田廣 『ビザンツ帝国 東ローマ一千年の歴史』 教育社歴史新書、1981年
- 和田廣 『史料が語るビザンツ世界』 山川出版社、2006年
- 渡辺金一 『コンスタンティノープル千年 革命劇場』 岩波新書、1985年
- Treadgold, Warren T. (1997). A History of the Byzantine State and Society. Stanford University Press. ISBN 0-8047-2630-2.
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- パレオロゴス朝ルネサンス
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- キエフ大公国
- セルビア王国
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- アルメニア王国
- アンティオキア公国
- ヴェネツィア共和国
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- 東ゴート王国
- 西ゴート王国
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- シチリア王国
- フランク王国
- 神聖ローマ帝国
- サーサーン朝
- ハザール
- イスラム帝国
- ルーム・セルジューク朝
- オスマン帝国
外部リンク
- 日本ビザンツ学会
Ohayashi's Page(小林功・立命館大学文学部教授のサイト。ビザンツ帝国に関する講義録、年代記の翻訳など)
国際ビザンティン学会(フランス語)(英語)(ギリシア語)
Byzantine study on the Internet(アメリカ・フォーダム大学のサイト)(英語)
Byzantine Studies - ダンバートン・オークス・ビザンティン研究所のサイト)(英語)
The Oxford Centre for Byzantine Research - オックスフォード大学(英語)
Institut für Byzantinistik und Neogräzistik - ウィーン大学(ドイツ語)
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