鄭冑
鄭 冑(てい ちゅう、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の政治家。字は敬先。沛国の人。父は鄭札。子は鄭豊。呉主伝にひく『文士伝』に詳しい。
生涯
鄭札の末子で、若いころから文武の資質・才能を備えており名を知られていた。
賢良に推挙されて、のちに建安太守に昇進した。この時呂壱の食客が法に触れたので逮捕して獄に下し、厳しく取り調べて殺した。これを恨んだ呂壱は鄭冑を孫権に讒訴した。孫権はこれを信じて立腹して鄭冑を召喚したが、潘濬と陳表とが鄭冑を弁護し命乞いしたために許された。
赤烏2年(239年)の春三月、宣信校尉に任じられて羊衜と孫怡とともに遼東に赴いて魏の将の張持や高慮を破って、その男女を捕虜として帰国した[注釈 1]。
執金吾に転任した。
大平2年(257年)の八月、鄱陽と新都の住民が反乱を起こすと丁密と鍾離牧とともにこれを討伐する。この時鄭冑は歩兵校尉であった[1]。
脚注
^ 呉主伝本伝では羊衜らが勝利しているが、『文士伝』では魏に破られ帰還したとある。
出典
^ 『三国志』の呉書孫亮伝