呂壱
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呂壱(りょ いつ、? - 238年?)は、中国三国時代の呉の臣。
生涯
孫権の治世に、諸官府および州郡の文書監査官[1]に任ぜられた。しかし呂壱は苛烈な性格で、法を振りかざして厳格に適用する所謂「酷吏」であり、些細な罪であっても必ず上奏して糾弾した。その上、私怨による讒訴もあったため、多くの重臣が罪に陥れられた。主な件には、顧雍・朱拠・鄭冑・刁嘉といった家臣らが讒訴を受けた記録があるが、それぞれ釈放されている。また、各種の専売利益をほしいままにしたという。
潘濬は呂壱の専横を憎み、建業まで出向くと百官を集めて会合を開いた。自ら殺人の罪を被ることで、国のために憂いを除こうと呂壱の殺害を計画したが、計画を知った呂壱が病と称して会合に来なかったため、果たせなかった。その後も孫登・歩騭・李衡といった家臣らが、度々呂壱の悪事を上奏したため、赤烏元年ついに孫権に捕縛された。呂壱の悪事を憎んでいた人々は、彼を面前で侮辱したり、惨刑をもって処刑することを望んだが、顧雍と闞沢はこれらのリンチ行為を許さず、法に従って適切に処刑したという。
その後、孫権は中書郎の袁礼を重臣のもとに遣わし、時事について意見を求めた。
脚注
^ 官名については諸々の表記あってはっきりしない。『呉志』の呉主伝・潘濬伝は「校事」に作り、三嗣主伝注引『襄陽記』は「校書」に作り、顧雍伝・歩騭伝は「中書」に作り、朱拠伝は「典校」に作り、是儀伝は「典校郎」に作り、陸遜伝は「中書典校」に作る。