第二次中東戦争
第二次中東戦争(スエズ戦争) | |
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戦争:第二次中東戦争 | |
年月日:1956年10月29日~1957年3月 | |
場所:主にシナイ半島 | |
結果:軍事的にはイスラエル側、政治的にはエジプト側の勝利。スエズ運河はエジプトの国有化へ。 | |
交戦勢力 | |
イスラエル イギリス フランス | エジプト 援助国: チェコスロバキア |
指導者・指揮官 | |
ダヴィド・ベン=グリオン国防大臣 モーシェ・ダヤン国防軍参謀総長 チャールズ・ケートレイ英仏連合軍司令官 ピエール・バルジョー英仏連合軍副司令官 | アブドルハキーム・アーメルエジプト国防大臣兼最高司令官 アリー・アーメル東部軍司令官 |
戦力 | |
イスラエル軍 175,000 イギリス軍 45,000 フランス軍 34,000 | エジプト軍 70,000 |
損害 | |
イスラエル軍 死者 197 イギリス軍 死者 56 負傷者 91 フランス軍 死者 10 負傷者 43 | エジプト軍 死者 1,650 負傷者 4,900 捕虜 6,185 |
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第二次中東戦争(だいにじちゅうとうせんそう、ヘブライ語: מלחמת סיני、アラビア語: العدوان الثلاثي)は、エジプトとイスラエル、イギリス、フランスがスエズ運河を巡って起こした戦争のこと。スエズ動乱、スエズ危機、シナイ作戦、スエズ戦争などとも呼ばれている。
目次
1 背景
1.1 スエズ運河
1.2 エジプト革命
2 戦争の推移
2.1 戦争計画
2.2 イスラエルの侵攻
2.3 停戦と撤退
2.4 戦後
2.5 輸送力の不足
3 注釈
4 出典
5 参考文献
6 関連項目
背景
スエズ運河
スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかしこの建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡された。エジプトはイギリスの財政管理下におかれ、後に保護国となった。運河はイギリスにとってインド、北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点であり、その重要性は2つの世界大戦によって証明された。第一次世界大戦時、運河は英仏によって同盟国側の船舶通航が禁止された。第二次世界大戦時は北アフリカ戦役において粘り強く防衛された。
エジプト革命
1952年に軍事クーデターで政権を掌握した自由将校団は、ナギーブ将軍を大統領に擁立すると、翌年に国王を退位させ共和制へと移行させた。また、スエズ運河地帯に駐留していたイギリス軍を撤退させる協定を結ばせる一方で、米ソ二大国のどちらにも関わらない非同盟主義にたつなどアラブ世界の糾合に努めた。しかし、アメリカ合衆国がイスラエルへの配慮からエジプトへの武器供与に消極的だったこともあり、1955年9月27日に東側陣営のチェコスロヴァキアと兵器協定を締結し新式の兵器を購入すると、中東における軍備供給の独占を崩された西側諸国との関係が悪化してフランスは対抗措置として最新の戦闘機をイスラエルに売却し、アメリカ合衆国やイギリスなどからアスワン・ハイ・ダム建設資金の世界銀行の融資を撤回されるという報復を受けた[1]。こうした中、1956年に大統領に就任したナセルは、7月26日にスエズ運河の国有化を行なった[2]。
戦争の推移
戦争計画
このナセルのやり方に憤慨した英国首相アンソニー・イーデンは運河の国際管理を回復するために数ヶ月間に渡りエジプトとの交渉を続けたが、結実は成せず、フランスと協力してエジプトへの軍事行動を構想し始めた[3]。
また、フランスは当時アルジェリア戦争においてエジプトがアルジェリア民族解放戦線に対する各種援助を提供する実質上の庇護者であると誤解し、ナセル政権を打倒することこそがアルジェリアにおける紛争終結に結びつくと考えた。
7月から8月にかけてパリとロンドンを訪問したイスラエルの国防省長官シモン・ペレスは英国とフランスがエジプトへの軍事行動を本格的に考えていることを知り、9月半ばに再びパリへ戻り、戦争に備えるための武器の調達に奔走した。フランスはイスラエルへの武器提供を積極的に支援し、ペレスはフランスのイスラエル支持の姿勢を確かめることになった[4]。
英仏両国政府はエジプトに侵攻してスエズ運河地帯の確保を画策したが、第二次世界大戦以後、かつてのような侵略目的の戦争は非難を浴びる社会となっていたことから、英仏が目をつけたのが第一次中東戦争でエジプトと敵対していたイスラエルであった。(エジプト革命の際にイスラエルはエジプトを攻撃しており、これに激怒したナセルは、イスラエルのインド洋への出口であるアカバ湾と紅海をつなぐチラン海峡を軍艦をもって封鎖していた。これによってイスラエルは経済に打撃を受けていた。)
スエズ運河の利権を手放したくない英仏と、チラン海峡における自国船舶の自由航行権を確実なものとするためにエジプト軍をシナイ半島から追い払いたいイスラエルは利害が一致したため、三国は事前に調整を重ね、10月末の実行が決定した。英仏の海軍艦隊が地中海エジプト沿岸に派遣され、侵攻を待った。
だが、イスラエルがシナイ半島へ侵攻したところで英仏政府が兵力引き離しのためにイスラエル・エジプト両国に軍をシナイ半島から撤退するように通告した。当然どんな国も自国領土から撤収するはずがないので、エジプトへの制裁を大義名分として英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ追い払った上でスエズ運河地帯を兵力引き離しのための緩衝地帯に設定して平和維持を名目に英仏軍が運河地帯に駐留し、イスラエルはシナイ半島を占領する、というのが三か国が描いた筋書きであった。
イスラエルはこのため、フランスより多くの軍事援助を受け取っている。AMX-13戦車250両を獲得したほか、援助の75mm対戦車砲を搭載したM50スーパーシャーマン50両も整備された[5]。
イスラエルの侵攻
1956年10月29日、午後5時、イスラエル国防軍ラファエル・エイタン中佐指揮の落下傘部隊395人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72kmの地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始した(シナイ作戦)[6]。
イスラエル陸軍は、10個旅団の兵力で3箇所からシナイ半島に侵攻し[7]、アリエル・シャロン大佐の落下傘部隊・第202空挺旅団もイスラエル国境から砂漠を横断する補給路の確保のため陸路シナイに入っている。エジプト軍は、シナイ半島東部やガザ地区に、歩兵2個師団・機甲1旅団などを配置していた[7]が、各所で撃破されている。
第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイスラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。
10月30日午後、ロンドンで英国政府により、スエズ運河から少なくとも16km内陸に入った地点まで兵力を撤収するという最終通告がイスラエル、エジプト両国代表に手渡された。この時点でエジプトは運河を完全に占拠しており、イスラエル軍はそこから約50kmの地点にいたため、この通告は事実上エジプトに対する運河からの撤去命令であり、英仏の目論見によるものであった[6]。
ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河に沈めてバリケードを築いたのである。
10月31日の早朝、エジプト海軍のフリゲート艦イブラヒム・アル・アウワル(旧ハント級駆逐艦)からの砲撃がハイファに向けて行われたが、フランスの駆逐艦クレセントの迎撃や、イスラエルの戦闘機2機、駆逐艦エイラートとヤッフォの攻撃により、イブラヒム・アル・アウワルは被弾、発電機等が破壊された。そのため、イブラヒム・アル・アウワルは降伏し、ハイファ港に曳航された[6]。同日には英仏軍によるエジプト領内への爆撃も開始されている。
通告の回答を保留したイスラエルは単独でエジプトとの地上戦を続けた。シャロンはエジプト側の防御の硬いミトラ峠を攻略しないよう参謀総長モーシェ・ダヤンに命じられていたが、「偵察隊」と称してモルデハイ・グル少佐の指揮する部隊(一個大隊相当、更に一個大隊を増援[7])を送り込み、この部隊はエジプトの待ち伏せに遭うことになった。38人の死者を出したものの峠は攻略され、エジプト側の死者は200人を超えた。この作戦に関してダヤンとシャロンは激しく批判され、2人の確執を生むこととなった[8]。
11月2日までに、イスラエルは途中ソ連製戦車T-34など戦利品を獲得しながらスエズ運河の東15kmの地点までたどり着いた。同じく11月2日に10,000人以上のエジプト軍人が駐屯するガザ地区にも攻撃を加えた、同日中に国連の調停によりガザ地区のエジプト軍政官が降伏した[7]。
英仏軍は11月5日、シナイ半島への侵攻を命じた。さらに英軍は落下傘部隊を以て、スエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。
停戦と撤退
エジプトの降伏は目前かと考えられたが、ここでアメリカ合衆国のアイゼンハワー大統領が、冷戦で対立していたソ連のブルガーニン首相(英仏イスラエルへのミサイル攻撃を主張する強硬派であった)とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即時全面撤退を通告した。連合国として賛成すると考えていたアメリカが事実上エジプト側に回ったことは、侵攻3カ国にとって大きな誤算であった[† 1]。
国連では、英仏の拒否権行使を押し退けて米ソが採択[9]させた国際連合安全保障理事会決議第119号によって平和のための結集決議での国連緊急総会が招集された。英・仏・イスラエルに対し即時停戦を求める決議を求める総会決議997が11月2日に採択された。アメリカ合衆国・国連・ソ連により圧力を受け、11月6日に英仏が停戦受諾、11月8日にはイスラエルも受諾し、全軍の停戦に至った。イスラエル軍の撤退後、休戦ラインのエジプト側にはPKOとして第一次国際連合緊急軍(UNEF)が展開された[10]。これは当時のカナダ外相ピアソンの提案であり、ピアソンは翌年にノーベル平和賞を受賞した。
戦後
結局英仏はスエズ運河を失い、イギリス首相アンソニー・イーデンは敗戦の責任をとらされる形で辞職した。アメリカはナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが、しかし英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができた。
イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして国際社会、主にアメリカから非難された。ダレス国務長官は経済制裁を示唆し、イスラエルは上級特使としてハイム・ヘルツォーグとゴルダ・メイアをアメリカに派遣した。1956年11月14日にイスラエルのクネセト議会で、制圧した全地域からの軍撤退を決める合意が成された。首相兼国防相のベン=グリオンは右派政党の批判を抑えながら、1957年3月16日に撤退を開始させた[11]。
対してエジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとした。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し4月にはスエズ運河の通航を再開した。
しかし英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。フランスもこの戦争で得たものはなかったが、米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。
輸送力の不足
スエズ運河が封鎖を受けたことで西側世界の船舶には不足が生じた。これを補うためアメリカの国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーが現役復帰し民需輸送に従事した[12]。
注釈
^ イスラエル軍の侵攻の6日前の10月23日、ハンガリーの首都ブダペストで発生した民主化を求めるデモに対し、25日にソ連軍が発砲して多数の死傷者が出ていた。いわゆるハンガリー動乱である。アメリカはソ連の暴挙としてこれを強く非難し、第三世界へもソ連非難の論調を巻き起こそうとしていた。しかし、あまりにもあからさまな植民地主義に基づく英仏のエジプト侵攻により、第三世界の非難はむしろ西側諸国へ向いてしまい、ハンガリー動乱を霞ませることによってソ連を幇助し、対ソ非難包囲網の構築を狙ったアメリカの戦略の足を引っ張ってしまった。これがアメリカが英仏側に立たず、彼らを非難した理由である。
出典
^ 池田亮『スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策』(一橋大学、2008年)p494-498
^ 「ナーセル」世界大百科事典第二版
^ ギルバート、千本(p.17)
^ ギルバート、千本(p.18 - 25)
^ 山崎雅弘『中東戦争全史』学習研究社 2001年 ISBN 978-4059010746
- ^ abcギルバート、千本(p.29 - 41)
- ^ abcd図説 中東戦争全史 学習研究社 2002年 ISBN 4056029113
^ ギルバート、千本(p.31、ハイム・ヘルツォーグ著『図解中東戦争』滝川義人訳、原書房、1985年)
^ [1]
^ 鏡(p.74)
^ ギルバート、千本(p.41)
^ 「2-2 NDRF/RRFの歴史」『米国海軍予備船隊制度に関する調査』シップ・アンド・オーシャン財団 1998年5月
参考文献
- マーティン・ギルバート著『イスラエル全史』(下)千本健一郎訳(朝日新聞出版、2009年)ISBN 978-4-02-250495-1
鏡武「中東紛争 その百年の相克」(有斐閣選書、2001年)ISBN 4-641-28049-5
関連項目
- ナショナリズム
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