桜井勉
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桜井 勉(さくらい つとむ、1843年10月6日(天保14年9月13日) - 1931年(昭和6年)10月12日)は、明治時代の行政官。日本の天気予報の創始者とされる。
目次
1 略歴
2 栄典
3 測候所の設置
4 府県統廃合
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
略歴

出石の生家跡
出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木(現・兵庫県豊岡市)に生まれた。8歳で藩校の弘道館に入門し、その後、堀田省軒、芳野金陵、土井聱牙らの学者に学び、教養を深めた。
明治新政府では内務に携わった。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。その後、徳島県知事、山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任、1902年(明治35年)に退官した。1907年6月22日、錦鶏間祗候に任じられた[1]。
退官後は出石に戻り、『校補但馬考』を著して但馬の郷土史研究の基礎を築いたほか、教育振興などにつとめた。
栄典
1886年(明治19年)11月30日 - 勲四等旭日小綬章[2]
1890年(明治23年)11月1日 - 従四位[3]
測候所の設置
気象台(東京気象台、現気象庁)の設置は、工部省により計画され、内務省によって実現された。その後、内務省地理局長に就任した桜井は気象観測網の整備を進めるが、明治政府には国営で整備する余裕はなかった。このため、桜井は府県に測候所の創設を働きかけ、明治12年(1879年)1月1日、広島県が広島測候所(現広島地方気象台)を設置して気象観測を開始したのを皮切りに、全国に測候所が設置され、気象観測網が整備されていった。
明治20年度には、内務省予算の削減のため、内務省が設置していた11の測候所も地方へ移管されている。
ちなみに、業務重複などによる非効率さや、地方財政状況による観測点維持の懸念などから、1939年(昭和14年)11月1日、全国の気象官署は国営化されている。
府県統廃合
明治9年の府県統廃合の原案作成をしていた内務卿・大久保利通は、内務省高官で但馬出身の桜井勉に、豊岡県と鳥取県の合併について意見を求めた。桜井勉は、歴史的背景からはもっともな案であるが、但馬と因幡の間は山が険しく往来が不便であるため、鳥取県は島根県、豊岡県は飾磨県と合併させる方が適切であると進言した。物産が豊かな飾磨県を当時基盤の弱かった兵庫県と合併させることを考えていた大久保利通は、これに豊岡県を加えると大きくなりすぎるため難色を示した。このため豊岡県を二分し、丹後および丹波の天田郡を京都府、但馬および丹波の氷上郡、多紀郡を兵庫県に編入することを再提案した。
この意見が取り入れられ、現在の京都府と兵庫県が誕生し、一時期鳥取県は島根県と合併(鳥取県は(1881年)9月12日再配置)することになったと言われている。
脚注
^ 『官報』第7194号、明治40年6月24日。
^ 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
関連項目
- 明治館
- 出石焼
- 丹波国
木村熊二(実弟)
近藤朔風(子)
外部リンク
- 出石町観光協会
- 豊岡市
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