関本大介





















































関本 大介
Daisuke Sekimoto

関本 大介 Daisuke Sekimotoの画像
プロフィール
リングネーム
関本 大介
本名
関本 大介
ニックネーム
マッスル・モンスター
肉体凶器
怪力無双
身長
175cm
体重
120kg
誕生日
(1981-02-09) 1981年2月9日(38歳)
出身地
大阪府大阪市鶴見区
所属
大日本プロレス
スポーツ歴
野球
トレーナー
本間朋晃
山川竜司
デビュー
1999年8月10日
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関本 大介(せきもと だいすけ、1981年2月9日 - )は、日本のプロレスラー。大日本プロレス所属。


鍛え上げられた肉体が特徴で、その肉体自体が「凶器」と自称する。大日本プロレスの代名詞であるデスマッチはあまり行わないが、メジャー団体の選手とも頻繁に試合を行っている。




目次






  • 1 来歴


    • 1.1 2004年


    • 1.2 2005年


    • 1.3 2006年


    • 1.4 2007年


    • 1.5 2008年


    • 1.6 2009年


    • 1.7 2010年


    • 1.8 2011年


    • 1.9 2012年


    • 1.10 2013年


    • 1.11 2014年


    • 1.12 2015年


    • 1.13 2019年




  • 2 得意技


  • 3 タイトル歴


  • 4 テーマ曲


  • 5 エピソード


  • 6 出演


    • 6.1 CM


    • 6.2 映画




  • 7 出典


  • 8 外部リンク





来歴


父は関本自身が「絶対君主」と評するほど厳格な存在であり、父に課せられたトレーニングであった足上げ腹筋の際に足を下ろさないようにライターを構えられたことがある。しかし本人はそれを虐待とは思っておらず、むしろ「でも結局ライターの火なんて、落ちたら風圧で消えますよね。火も弱いし、風でなびくから、親父のほうが「熱い」ってなって(笑)。それが面白くて、でも笑ったら怒られるから、こらえていたら逆に腹筋が鍛えられるっていう。意味の分からない鍛え方をしてましたね」と後に週刊誌のインタビューで振り返っている。父に対しても恨みなどは全く抱いておらず、むしろ「感謝しかない。今は仲が良いですし、ほんとに感謝しかないです」と、父が厳しくしていたからこそ辛いことがあっても耐えられるようになったと言っている[1]。幼い頃からプロレスへの憧れはあったものの、野球好きだった父親の影響で中学・高校と明徳義塾に通い、野球部に所属。「大介」の名も荒木大輔にちなむ。ポジションは一塁手で[2]、中学時代には4番も打った[3]


中学時代の終わりに、大阪府立体育会館で行われた全日本プロレスのチャンピオン・カーニバル公式戦、小橋建太対スタン・ハンセンの試合を観戦したことをきっかけに[4]、はっきりとプロレスラーを志すようになる。高校進学すると全国から有望な選手が集まり(同級生に寺本四郎・高橋一正がいる)、本人曰く「四軍まである中で文句無しの四軍」になってしまう。しかし、控えゆえ監督・コーチの目が届きにくいことを逆手に、野球の練習ではなく筋トレに終始。3年間プロレスラーとしての素養を磨く。当時監督の馬淵史郎によれば、「打球の速さは寺本より上」だったという。当時相撲部の留学生として明徳に在籍していた、後の横綱・朝青龍(同い年、関本が一学年上)とウェイトトレーニングで張り合い、腕相撲では勝利したというエピソードもある[3][4]


同級生の高橋がヤクルトスワローズから声をかけられていた繋がりから、ヤクルトのスカウト部長であった片岡宏雄のつてでグレート小鹿と面談[3]。高校を卒業した1999年、大日本プロレスに入団。8月10日、地元大阪での対伊東竜二戦でプロレスデビュー。



2004年


10月22日、後楽園ホールにおいてマッドマン・ポンドを相手に蛍光灯100本デスマッチを敢行(事実上のデスマッチデビュー戦)。蛍光灯・ホッチキス・ノコギリ攻撃などで額及び背中から大流血の洗礼を浴びたが、蛍光灯への原爆固めを決めて逆転勝ちを収めた(19分32秒)。これ以降、2005年までデスマッチ路線を中心に流血の抗争を繰り広げた。



2005年


2005年にアブドーラ小林とのタッグチーム『マッスル&ファットです。』で、2006年には友人でもある佐々木義人とのタッグでBJW認定タッグ王座にも就いている。



2006年


2006年1月、大日本道場を利用したジム運営を行うと発表し、5月11日にスポーツジム『横浜マッスルファクトリー』を正式にオープンする一方、自ら目標とする田中将斗・マンモス佐々木との、力と力の勝負を繰り広げる。


5月5日の大会にて、DDTの柿本大地とのタッグで、佐々木健介・中嶋勝彦と対戦。



2007年


1月31日の大会では、小島聡、金村キンタローとタッグを組み、川田利明と初対決した。そして3月8日の大会で崔領二の持つNWA認定UNヘビー級王座に挑戦し、大熱戦の末、18分00秒ジャーマン・スープレックス・ホールドでベルトを奪取。第7代王者となった。


4月29日の大日本プロレスの大会で、新日本プロレスの中西学との対戦熱望を表明。関本・井上勝正vs中西・平澤光秀戦が予定されていたが、試合3日前から頭痛を訴え、大会当日に診察した結果、脳浮腫と診断され、大日本統括部長・登坂栄児から、対中西戦の中止は勿論、改善が見られるまで全ての大会を欠場させると発表。


5月の大会から復帰すると、5月27日、ZERO1-MAXシングルマッチ 火祭り出場者決定戦 時間無制限1本勝負 NWA UNヘビー級選手権で対神風戦に勝利。


7月には念願の関本vs中西のシングルマッチが行われたが、敗戦。それから間もなくの大日本後楽園大会では、LOCK UP狭山大会のメンバーに、裕次郎(中西側)・マンモス佐々木(関本側)を加えた6人タッグマッチが行われ、平澤をジャーマン・スープレックスでフォールし勝利。中西に対し8月20日・大日本後楽園大会でのシングルでの再戦を要求、受理された。


8月20日、大日本・後楽園大会で中西との二度目のシングルが行われたが敗戦。その後、LOCK UPで中西とタッグを組み、中西のプロレス理論を学んだ。


11月、ZERO1-MAXのNWA認定UNヘビー級選手権試合で、パートナーでもある佐々木義人に敗れ、ベルトを失った。


12月11日、プロレス大賞技能賞を受賞。



2008年


10月のプロレス・エキスポではライバルの田中とタッグを結成し、大陸別タッグトーナメントで優勝を果たした(準優勝はモーターシティ・マシンガンズ)。



2009年


2009年4月のZERO1の大会で崔領二の持つ世界ヘビー級王座に初挑戦したが敗戦した。やがて7月の大会にて岡林裕二とともに木高イサミ&竹田誠志の持つBJW認定タッグ王座に挑戦し勝利。第27代王者となった。



2010年


2010年1月のZERO1の大会にて、川田の持つ世界ヘビー級王座に挑戦したが敗戦。2月のユニオンプロレスの大会で石川修司の持つKO-D無差別級王座に挑戦し勝利。第31代王者に。7月25日、DDT両国大会にてHARASHIMAの挑戦を受け敗退しKO-D無差別級のタイトルを失う。9月9日にはバンビキラーの持つZERO1世界ヘビー級王座に再挑戦し勝利、第9代王者となった。



2011年


3月21日・全日本プロレス両国国技館大会にて、征矢学・真田聖也組の持つアジアタッグ王座に岡林裕二と共に挑戦し勝利、第85代王者となる。そのまま夜の大日本後楽園大会に凱旋。


4月28日・大日本後楽園大会、征矢学・浜亮太組を相手に初防衛。


5月5日・大日本横浜文体、佐々木義人・石川晋也組を相手に二度目の防衛に成功する。


6月19日・全日本・両国大会、征矢学・真田聖也組に敗れ、アジアタッグ王座を失った。


7月24日・DDT両国大会、マサ高梨とともにKO-Dタッグ第38代王者となる。


8月7日・ZERO1後楽園大会、第11回火祭り決勝で佐藤耕平を下して初優勝を飾り、NWAプレミアムヘビー級王座の初代王者に認定された。


10月23日・全日本・両国大会、征矢学・真田聖也に再挑戦し勝利。第87代アジアタッグ王者となる。


12月18日・大日本横浜文体、諏訪魔・征矢匠を相手に初防衛。



2012年


1月3日・全日本・後楽園大会、曙・浜亮太(SMOP)を相手に2度目の防衛に成功。


7月1日・サマーナイトフィーバーin両国へ参戦。全日本プロレスと新日本プロレスの共催大会ではあったが、大日本の選手として7年ぶりに新日本のリングへ登場した。



2013年


3月1日・大日本・後楽園大会、征矢学に勝利し第3代BJW認定世界ストロングヘビー級王座を獲得。


9月8日・WRESTLE-1旗揚げ戦に岡林裕二とタッグで参加。


10月19日・プロレスリング・ノアのグローバル・リーグ戦でのKENTA戦でNOAH初参戦。3勝2敗の成績でリーグの敢闘賞を獲得。


12月9日、プロレス大賞の敢闘賞を受賞。2013年は選考日まで全17団体186試合に参戦し広範囲に活躍したことが評価された。



2014年


2013年12月29日、佐藤耕平との防衛戦で右膝を負傷し、一度復帰するものの1月に記者会見を行い、手術による休養と世界ストロングヘビー級王座の返上を表明。


4月13日の青森大会で復帰。


5月5日の横浜文化体育館大会で石川晋也の持つBJW認定世界ストロングヘビー級王座に挑戦するも、石川の必殺技三脚巴に敗れた。


10月12日のプロレスリング・ノア、横浜文化体育館大会で丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に初挑戦。丸藤の虎王の連打により敗れた。


11月8日、プロレスリング・ノアのグローバル・リーグ戦が10月18日より開催され、昨年を上回る5勝2敗の好成績で、この日行われた優勝決定戦に進出したものの、杉浦貴に敗れ準優勝にとどまった。



2015年


2月15日、DDTのさいたまスーパーアリーナ大会で、岡林裕二と共にKO-Dタッグ第51代王者に。


3月31日、大日本の後楽園大会で石川修司に勝利し、第6代BJW認定世界ストロングヘビー級王座に。


6月7日、ZERO-1の新木場大会で、佐藤耕平と共に第31代NWAインターコンチネンタルタッグ王座に。



2019年


2019年2月19日、宮原健斗と組み「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」メインイベントに出場[5]



得意技



リストクラッチ式ジャーマン・スープレックス・ホールド

相手の片腕をリストクラッチして、ジャーマン・スープレックス・ホールドで固める技。

ジャーマン・スープレックス

強靭な背筋力と安定したブリッジから繰り出される多様なジャーマンは破壊力、芸術性共に天下一品である。「ジャーマン・スープレックスをかけたまま死にたい」と言うほど、ジャーマンにこだわりを持っている。

眉山

ジャーマン・スープレックスをかけている味方ごと、ジャーマン・スープレックスで放り投げる二段ロケット的な合体技。主に岡林とのタッグで使用している。

ラリアット

デッドリー・ドライブ

フロッグ・スプラッシュ

延髄斬り

パワースラム

アルゼンチン・バックブリーカー

岡林と同じタイミングで繰り出すこともある。

ブレーンバスター

主に垂直落下式を使用する。

オーバーヘッドキック

バックを取られた際によく使用する。

トペ・スイシーダ



タイトル歴


大日本プロレス


  • BJW認定世界ストロングヘビー級王座

  • BJW認定ヘビー級王座


  • BJW認定タッグ王座

    • 第15代(パートナーはMEN'Sテイオー)

    • 第21代(パートナーはアブドーラ小林)

    • 第23、30代(パートナーは佐々木義人)

    • 第25代(パートナーはマンモス佐々木)

    • 第27、40、43代(パートナーは岡林裕二)




  • 大日本最侠タッグリーグ戦:優勝(2015、2016年。パートナーは岡林裕二)


  • 横浜ショッピングストリート6人タッグ王座

    • 第5代(パートナーは伊東竜二・"黒天使"沼澤邪鬼)

    • 第11代(パートナーは佐藤耕平・神谷英慶)

    • 第15代(パートナーは橋本大地・神谷英慶)




  • 酒田港インターコンチネンタルタッグ王座(パートナーは橋本和樹)


全日本プロレス



  • 世界タッグ王座(第72、77、84代)(パートナーは岡林裕二)


  • チャンピオン・カーニバル:優勝(2016年)


  • アジアタッグ王座(第85、87代)(パートナーは岡林裕二)


DDTプロレスリング


  • KO-D無差別級王座


  • KO-Dタッグ王座

    • 第38代(パートナーはマサ高梨)

    • 第51代(パートナーは岡林裕二)

    • 第63代(パートナーは樋口和貞)




KAIENTAI DOJO


  • CHAMPION OF STRONGEST-K王座

  • WEWハードコアタッグ王座


ZERO1


  • 世界ヘビー級王座

  • NWA UNヘビー級王座


  • NWAインターコンチネンタルタッグ王座

    • 第28代(パートナーは曙)

    • 第31代(パートナーは佐藤耕平)




天龍プロジェクト

  • 世界6人タッグ王座

wXw

  • wXw統一世界王座

リアルジャパンプロレス


  • レジェンドチャンピオンシップ(第9代)

プロレス大賞


  • 技能賞(2007年)

  • 最優秀タッグチーム賞(2011年、2016年[6]/パートナーは岡林裕二)

  • 敢闘賞(2013年)


日本インディー大賞

  • MVP・ベストバウト(2010年)

その他

  • 年忘れ!三団体シャッフル・タッグトーナメント優勝(2015年、パートナーは竹下幸之介)[7]


テーマ曲


  • CROWN OF WINNER(大日本プロレステーマ曲コレクションに収録)


エピソード




  • CS放送であるFIGHTING TV サムライのプロレス中継の実況担当の一人である塩野潤二は関本を≪肉体のアマゾン≫と形容し、また相手の無理やりバックをとり得意技のジャーマン・スープレックス(ぶっこ抜きジャーマン)に入る光景も≪人間ブルドーザー≫と形容している。


  • 大谷晋二郎に気に入られており、そのためか巡業に帯同することが多い。大谷とは2001年12月2日の大日本横浜アリーナ大会セミファイナル、2001年9月1日ZERO-ONE後楽園ホール大会「火祭り」公式戦でシングルマッチで対戦しており、好勝負を繰り広げた。


  • 2002年5月2日の新日本プロレス創立30周年記念東京ドーム大会に出場しており、オープニングマッチで金村キンタローと闘い、田中秀和リングアナに高評価を得ている。


  • 阪神タイガースの藤川球児と一打席だけ対戦したことがある。結果はセカンドフライ[8]



出演



CM




  • 西友CM『パチイチの応酬』編/『パチイチ中学生』編/『パチイチ母娘』編(2014年)


  • 電気事業連合会CM『お願い!火力さん』編(2017年7月‐)



映画



  • 恋するマドリ(監督:大九明子) - ヘラクレス運輸作業員 役(2007年)


出典





  1. ^ 「絶対君主の父から逃れたかった」大日本プロレス・関本大介が幼少期から抱いてきた“劣等感”の正体とは? 日刊SPA! 2017.08.01(扶桑社、2017年10月25日閲覧)


  2. ^ “【本誌連載の拡大版】関本大介選手インタビュー(1)|ニュースウォーカー”. 横浜ウォーカー (2009年1月22日). 2013年12月27日閲覧。

  3. ^ abc杉浦泰介 (2013年10月14日). “SPORTS COMMUNICATIONS - 関本大介(プロレスラー/高知・明徳義塾高校出身)第2回「架空のヒーローが現実の目標へ」”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2016年11月21日閲覧。

  4. ^ ab“週刊webゴング No.1166 特集:インタビュー - 関本大介〈大日本プロレス〉 - プレイヤーズ格闘技”. 2008年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月24日閲覧。


  5. ^ “棚橋弘至、馬場さん追善興行メインで3冠王者・宮原健斗と対戦…2・19両国国技館” (日本語). スポーツ報知 (2019年1月31日). 2019年2月17日閲覧。


  6. ^ “最優秀タッグ賞の関本&岡林がゆる~い目標”. 東スポWEB (2017年1月19日). 2017年1月20日閲覧。


  7. ^ バトルニュース (2016年1月1日). “年越しプロレス12.31後楽園大会 大日本、DDT、K-DOJOから16チーム参加の年忘れ!三団体シャッフル・タッグトーナメント”. 2016年1月6日閲覧。


  8. ^ 月刊少年チャンピオン2009年9月号インタビュー




外部リンク



  • 大日本プロレス-選手データ-関本大介

  • 関本大介ぴくんぴくん日記(旧)


  • 関本大介の筋トレ日記 - アメーバブログ


  • 関本大介 (@sekimotodaisuke) - Twitter










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