第三次ハリコフ攻防戦
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| 第三次ハリコフ攻防戦 | |||||||
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第二次世界大戦東部戦線中 | |||||||
1943年1月から3月にかけての東部戦線南部のハリコフにおける戦線の状況。 | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
| 指揮官 | |||||||
| 戦力 | |||||||
346,000 | 70,000 | ||||||
| 被害者数 | |||||||
戦死 45,219 戦傷 41,250 | 戦死・戦傷・行方不明 11,500 | ||||||
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第三次ハリコフ攻防戦(だいさんじハリコフこうぼうせん)は、1943年2月19日から3月まで、ハリコフを中心にウクライナで行われたドイツ軍とソ連軍の戦闘のことである。ドイツではドネツ戦役と呼ばれ、ソ連側ではドンバス・ハリコフ作戦と呼ばれている。ドイツの反撃によりハリコフとベルグラードは再奪還された。
目次
1 背景
1.1 ソ連軍の攻勢(1月末〜2月中旬)
2 両軍の戦力
2.1 ドイツの戦力
2.2 赤軍の戦力
3 経過
3.1 ドイツ軍の第一次反攻(2月19日〜3月6日)
3.2 ドイツ軍の第二次反攻(3月初旬〜中旬)、クルスクの戦いへ
4 結果
5 題材とした作品
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
背景
ソ連軍の攻勢(1月末〜2月中旬)
1943年の初め、ソ連軍はスターリングラードにてドイツ第6軍を包囲した上で、さらにドン川へと攻勢をかけた事で[1]、ドイツ国防軍は戦線崩壊の危機を迎えていた[2]。スターリングラード攻防戦でのソ連の勝利が確定し、1943年2月2日には第6軍の司令官がすべて降伏し、9万にも及ぶ将兵が赤軍の捕虜となり、ドン軍集団の第6軍がスターリングラードで壊滅した[1][3]。スターリングラードでのドイツの損害の合計は捕虜も含め、12万[4]から15万[1]にも及んだ。1942年を通してのドイツは人的損害を190万人近く出し[5]、1943年の初めに国防軍は東部戦線において軍の定員を47万人を下回る兵しか充足できなかった[6]。バルバロッサ作戦開始時国防軍は3300両の戦車を保有していたが[7]、1月22日地点で東部戦線の全戦線にて残っていたのはわずか495両だった[8]。さらにこれらの戦車は大半が旧式のもので、全ての戦車が東部戦線全体に分散していた[9]。ソ連軍のドン方面軍がスターリングラードでドイツ軍を撃滅した後、スタフカはヴォロネジからロストフまで進軍しドイツのA軍集団を包囲するという攻勢の命令を下した[10]。一方北部では、デミャンスク東方に形成されていたドイツ軍突出部・中部にあたるスモレンスク東方のドイツ軍に攻撃を加え、3月中に奪還した。
1月29日、南西方面軍がドニエプル川まで進出し、ドン軍集団・A軍集団との連絡を遮断し、クリミアへ追い詰める「早駆け作戦」が発動された。続いて、2月2日赤軍はヴォロネジ方面軍が引き続き弱体化したドイツB軍集団に攻勢をかけ、ハリコフの奪還を狙う「星作戦」を発動させた。ヴォロネジ方面軍は第3戦車軍を、南西方面軍は第6軍と臨時に編成されたポポフ戦車軍を先方とし、南方面軍は5個軍を先頭として、それぞれの目標へと進撃していった。これは、ドイツ軍の南方3個軍集団(A・B・ドン)を包囲殲滅する作戦であった。星作戦の結果、ソ連はベルゴロド、ハリコフ、クルスクを奪還した[11]。マルキアン・ポポフ少将率いる4個戦車旅団が先鋒となり、ドネツ川を渡り、ドイツ軍の背後を取ろうと進軍した[12]。
2月6日、ドン軍集団のマンシュタインが総統大本営でアドルフ・ヒトラーと今後の作戦構想において会談し、ドネツ地域にソ連軍を引き入れて流動的な防御を行うことを主張した。それに対してヒトラーは、ドン川下流の湾曲部に沿う「バルコニー」突出部のドネツ地域全体は何としても保持しなければならないと主張して、マンシュタインの主張を認めなかった。
1943年ハリコフ付近の第1武装親衛隊の兵士たち
2月中旬には戦況はさらに悪化しており、A軍集団はカフカスから後退し、ホリト軍支隊と南方軍集団の第4装甲軍は突出部にあるミウス川以東地域から後退していた。2月9日にはソ連軍はクルスク=ベルゴロド=ハリコフ北部のラインまで前進した。2月15日、2個戦車旅団がドニエプル川下流のザポリージャに迫った。ザポリージャはロストフ方面への最後の道であり、南方軍集団の本部、及び第4航空艦隊が駐留していた[13]。13日ヒトラーはハリコフの死守を命じたが、15日SS装甲軍団がハリコフから撤退、赤軍によって2月16日に奪還された[14]。ヒトラーは直ちにマンシュタインの本部があるザポリージャに飛んだ。マンシュタインはハリコフへの即時反撃は効果がないと主張したが、突出した赤軍の側面へのマンシュタインの5個装甲師団による攻撃は成功して、ハリコフを再占領することはできると考えた[15]。2月19日赤軍戦車部隊はドイツの戦線を破り、ザポリージャへと接近した。悪化する戦況の中で総統はマンシュタインに作戦上のフリーハンドを与えた。ヒトラーがこの地を離れた時、赤軍は飛行場から30kmの地点まで迫っていた[16]。19日時点で、南西方面軍はドニエプル川目前まで前進していた。
ソ連軍は星作戦の次の作戦としてギャロップ作戦を発動させた。この作戦はルハーンシクとイジュームを奪還することでドイツをドネツ川から押し出し、戦況をさらに悪化させる事を目的とした。スタフカはこの作戦によってロシアの南部戦線で完全に勝利し、大祖国戦争を勝利することができると考えた[17][18]。
ドイツ第6軍の降伏により、包囲していた6個軍がコンスタンチン・ロコソフスキーの元に再編成され、ロコソフスキーの部隊は第2戦車軍と第70軍によって強化された[19]。これらの戦力はドイツの中央軍集団と南方軍集団の繋ぎ目であるハリコフに再配置され、ドンバス作戦に用いられた[20]。この作戦はデスナ川を渡りドイツ中央軍集団を攻撃する事でオリョールにおけるドイツの突出部を殲滅する作戦であった[19]。もともとは2月12日から15日の間に作戦が開始される予定だったが、軍の展開が遅れたためスタフカは2月25日に作戦を延期した[21]。その間にソビエト第60軍はドイツ第2装甲軍の第4装甲師団をクルスクから追い出そうとし、同時にドイツ第2装甲軍団をドイツ軍の側面へと向かわせた。これらのロコソフスキーの攻撃によりドイツ軍の前線の間に60kmほどの裂け目が生じた[22]。ソビエト第14軍と48軍はドイツ第2装甲軍の右翼を攻撃し、わずかに前進した間[23]、ロコソフスキーは2月25日に攻勢を開始し、ドイツ軍の戦線を突破し、南部にてドイツ第2装甲軍とドイツ第2軍の間を分断し、包囲を形成しつつあった。しかしドイツ軍の予想外の抵抗によりこの作戦の大幅に遅れ[23]、ロコソフスキーは中央と左翼において限定的な前進しか行えなかった[24]。一方ソビエト第2戦車軍団はドイツ後方を160km前進することに成功し、それに伴い、ソビエトの軍の側面の距離は100kmも増加した。
ソ連軍の攻勢は続きマンシュタイン元帥は第3SS装甲師団(第4装甲軍団指揮下)によって強化されたSS装甲軍団を用いれば反撃できると判断したが、ヒトラーは7つの補充が完了していない装甲師団、自動化師団のみを直近の反撃のために使う許可を出した。リヒトホーフェン元帥指揮下の第4航空部隊は部隊を再編成し、出撃回数を1月の250回から2月には1000回に増加させ、ドイツ軍の航空優勢を確保した[25]。2月20日、赤軍はザポロージャに対して無謀な進軍を行い[26]、これがドネツ戦役として知られるドイツの反撃の狼煙となる[27]。
両軍の戦力
1943年の1月13日から4月3日にかけて、推定500,000名の赤軍の兵士がヴォロネジ=ハリコフ攻勢として知られる作戦に参加していた[28][29]。東部戦線全体では6,100,000名の兵士が従軍していたが、659,000名の兵士が負傷のため戦闘不能であった。一方ドイツ軍は東部戦線全体で2,200,000名の兵士が従軍しており、またノルウェーに100,000名の兵士が駐屯していた。結果として、赤軍は2月初旬にはドイツ軍と比較して、2倍以上の人員を展開していた[30]。しかしこの戦いの間の戦線の拡大と損害の増加により、マンシュタインの反撃が始まった時、ドイツは局地的に数の優位を活かすことができた。例として、戦車の数を比較するとマンシュタインの350台の戦車は赤軍の戦車と交戦した際、7対1の比率で数で勝っており、物資と燃料の補給もドイツの戦車の方が行き渡っていた[31]。
ドイツの戦力
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は第三次ハリコフ攻防戦の南方軍集団の司令官であった。
反撃開始時、マンシュタインはXXXXVIII装甲軍団とSS装甲軍団からなる第4装甲軍と[32]、XXXX装甲軍団とLVII57装甲軍団からなる第1装甲軍を有していた[33]。第48軍団は第6装甲師団、第11装甲師団、第17装甲師団から構成されており、SS装甲軍団は第1SS装甲師団、第2SS装甲師団、第3SS装甲師団から構成されていた[32]。2月の初めに、SS装甲軍団の戦力の合計はおよそ20,000名ほどであった。第4装甲軍と第1装甲軍はソ連側の突出部の南方に位置していた。SS装甲軍団はこの突出部の北部に展開しており、南方軍集団の北部の戦線を維持していた[34]。
ドイツ軍はおよそ70,000名の兵力を有していたのに対し、赤軍は210,000名の兵力を有していた[35]。ドイツ国防軍の戦力は低下しており、特に1942年6月から1943年2月の青作戦の損害は深刻であったため、ヒトラーは80万人の新兵を補充することを目的にカイテル、ラマース、ボルマンの3名による委員会を発足させた。このうち、半数は「非基幹産業」から集める予定であった[36]。この人員補充の効果は1943年の5月になってもあまり見られなかったものの、ドイツ軍の戦力はバルバッロサ以来最大の950万人の兵力を確保した[37]。
1943年の初め、ドイツ軍は重度の損害に悩まされた[38]。装甲師団が100台以上の戦車を持つ事はあまりなく、平均で70台か80台の戦車しか使う事が出来なかった[39]。ハリコフの戦いの後、グデーリアンはドイツ軍の機械化を推進する計画を開始した。グデーリアンの努力にも関わらず、ドイツの装甲師団は本来の戦力を13,000名から17,000名の編成で構成している所を、10,000名から11,000名しか充足することが出来なかった[40]。6月までに各装甲師団に100台から130台の戦車を配備した[41]。SSの師団は一般的には他の師団より状態が良く、150台の戦車と自走砲大隊を持ち、歩兵と偵察部隊はトラックにより自動化され[37]、19,000名の編成で構成されていた[42]。この時、ドイツ戦車の大半が未だにIII号戦車とIV号戦車によって構成されていたが、第2SS装甲師団にはティーガーIが配備された[43]。
第4装甲軍はヘルマン・ホト将軍によって指揮されており、第1装甲軍はエバーハルト・フォン・マッケンゼン将軍の指揮下にあった[44]。第6、11、17装甲師団はそれぞれ、ヴァルター・フォン・ヒューナースドルフ、[45]ヘルマン・バルク、[46]フリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリン[47]によって率いられていた。SS装甲軍団はパウル・ハウサー将軍によって指揮されていた。ハウサーは第3SS装甲師団の指揮官でもあった[48]。
赤軍の戦力
1月終わりから2月の初めにかけ、ドイツ南方軍集団に対する守りとして、ブリャンスク方面軍、ヴォロネジ方面軍と南西方面軍を含む前線の赤軍の強化が開始された[49]これらの戦線の部隊はそれぞれマークス・レイテル、[50]フィリップ・ゴリコフ、[51]ニコライ・ヴァトゥーチン[52]によって率いられていた。2月25日、ロコソフスキー元帥の中央方面軍がこの戦いに加わった[22]。
経過
ドイツ軍の第一次反攻(2月19日〜3月6日)
ドイツ軍側は、B軍集団を解消し、マンシュタインのドン軍集団を南方軍集団へ改組。第1装甲軍は南方軍集団へ移され、クライストのA軍集団は第17軍のみを隷下に置いてクバニ橋頭堡へ撤収と、組織的な再編を完了。
一方、ソ連軍は急進撃による補給不足が、しだいに深刻化しており、特にポポフ戦車軍は「すべての車両、動かず」という悲鳴のような状況報告を行っていたが、ドイツ軍戦線は崩壊状態にあると状況を誤認した南西方面軍はさらなる進撃を強要していた。
2月19日にヒトラーが、ザポリージャの南方軍集団司令部を訪問、マンシュタインに即時のハリコフ奪還と戦線の死守を要求するが、マンシュタインはドニエプルと南方軍集団の背後に侵入しつつあるソ連軍の先鋒の撃破を優先するよう説得をしていた時、ザポリージャ近郊のポルタワにソ連軍が出現したという情報が入った。そのお陰で、ヒトラーはザポリージャから退避することになり[53]、マンシュタインに作戦指導を一任した。こうして、フリーハンドを得たマンシュタインは、即刻反撃を命じる。
まず、ミウス川以東地域から後退したホリト軍支隊を、ミウス川沿いに配置して、南方面軍の5個軍の進撃を阻止させ、第4装甲軍を南方軍集団左翼に、北カフカスから後退した第1装甲軍を南方軍集団右翼に秘密裏に配置変更して、ドニエプル川へと伸び切った南西方面軍を、第4装甲軍のSS装甲軍団が西方から、第4装甲軍のXXXXVIII装甲軍団が南方から、第1装甲軍のXXXX装甲軍団が東方からの3方向で突入して攻撃を開始。この攻撃で南西方面軍は、ポポフ戦車軍、第6軍、第1戦車軍が壊滅的な打撃を受けたことにより包囲殲滅され壊走した。この反撃により、ドイツ軍は3月始めにはドネツ川=ミウス川の線までソ連軍を押し戻した。
ドイツ軍の第二次反攻(3月初旬〜中旬)、クルスクの戦いへ
1943年3月、ハリコフに入るSS装甲軍団配下の第2SS装甲師団ダス・ライヒ所属の4号戦車。
3月7日、南西方面軍を包囲殲滅した第4装甲軍の第48装甲軍団とSS装甲軍団は、ヴォロネジ方面軍の側面を攻撃する為にハリコフ方面に、同じ目的でケンプ軍支隊が、ベルゴロド方面に前進を開始。ソ連軍は西方へ進撃していた第3戦車軍を呼び戻し、ハリコフの防衛に当たらせるが、側面を攻撃されたことにより、ヴォロネジ方面軍の第3戦車軍、第40軍、第69軍は撃破され、逆に包囲の危機に晒されてしまい壊走した。15日にはあえなくハリコフを奪還され、3月中旬にはドイツ軍はベルゴロドも回復した。こうして、スターリングラードの包囲以降続いていたドイツ軍南翼の危機は回避され、むしろソ連軍南翼が崩壊状態に追い込まれた。
次はクルスクで突出している部分へ攻勢をかけるべきであったが、春の泥濘期に入ったこと、突出部北部の中央軍集団が冬期戦の目処がついたことによって部隊の休養を宣言したことなどがあり、双方の軍事行動は一旦中止された。
ドイツはこのクルスク突出部を攻撃する「ツィタデレ作戦」を5月初旬に開始する事を決めていたが、延期に延期が続き、7月からのクルスクの戦いでは十分に整えられたソ連軍の備えに苦しみ、敗退する事になる。
結果
これらの戦いで赤軍は戦死者を45,200名、戦傷者を41,200名ほど出した[54][55]。1943年の4月から7月の間に赤軍は軍の再編成を進め、後にクルスクの戦いとして知られるドイツの再攻勢に備えた。この戦いでのドイツ軍の損害は推測する事は、SS装甲軍団の調査結果以外から難しいが、武装親衛隊の各師団は最も激しい戦いが行われていた時点に展開されていた。3月17日までにSS装甲師団は160名の将校と4300名の徴兵した兵士を失い、おおよそ戦力の44%を失った[48]。
軍事歴史家のべヴィン・アレクサンダーはドイツにとって第三次ハリコフ攻防戦は東部戦線での最後の大きな勝利であると記述している[56]。
ハリコフでの勝利の後、ヒトラーには2つの戦略が提案された。1つ目は後手を取るもので、第三次ハリコフ攻防戦で行った事をクルスクで再現するものであった。いずれ来るソビエトの攻勢に備えて待機し、一度赤軍に進軍させた後、敵の後方に反撃を行い、包囲してしまうものであった。2つ目は先手を打ち、中央軍集団と南方軍集団によって[57]、クルスクの突出部を包囲するものであった。最終的にはヒトラーの判断により、先手を打ち、クルスクの戦いが生じた[58]。
題材とした作品
- ボードゲーム
- 『マンシュタインの切り札』(国際通信社 コマンドマガジン132号)
- 『ドイツ戦車軍団』 「ハリコフ攻防戦」(国際通信社 ジャパン・ウォーゲーム・クラシックス第3弾)
- 『ドイツ南方軍集団』「星作戦」(SPI。ホビージャパン(タクテクス51号)、サンセットゲームズから日本語版出版。)
- 『von Manstein's Backhand Blow』(GMT Games)
脚注
- ^ abcGlantz (1995), p. 141
^ Cooper (1978), p. 451
^ McCarthy & Syron (2002), pp. 177–178
^ McCarthy & Syron (2002), p. 177
^ Megargee (2000), p. 193
^ Cooper (1978), pp. 451–452
^ Cooper (1978), p. 270
^ Cooper (1978), p. 452
^ Cooper (1978), p. 452
^ Glantz (2009), p. 110
^ Glantz (1999), p. 10
^ Glantz (1995), pp. 143–144
^ Glantz (1995), p. 144
^ McCarthy & Syron (2002), pp. 178–179
^ McCarthy & Syron (2002), p. 179
^ Krause & Phillips 2005, pp. 162–163
^ Nipe (2000), pp. 54–64, 67ff, 100
^ Glantz (1995), pp. 143–147.
- ^ abGlantz (1996), p. 125
^ Glantz (1999), p. 11
^ Glantz (1995), p. 145
- ^ abGlantz (1996), p. 128
- ^ abGlantz (1995), p. 146
^ Glantz (1996), p. 132
^ Glantz (1996), p. 124
^ McCarthy & Syron (2002), pp. 179–180
^ Glantz (1995), p. 147
^ Glantz (1995), p. 296
^ Language Policy in the Soviet Union by L.A. Grenoble & Eastern Europe and the Commonwealth of Independent States
^ Glantz (1995), p. 303
^ McCarthy & Syron (2002), pp. 179–180
- ^ abvon Mellenthin (1956), p. 252
^ McCarthy & Syron (2002), p. 181
^ McCarthy & Syron (2002), p. 181
^ Glantz (1991), pp. 152–153
^ Glantz (1999), p. 15
- ^ abGlantz (1999), p. 16
^ Clark (1965), p. 294
^ Clark (1965), p. 297
^ Glantz (1999), pp. 16–17
^ Glantz (1999), p. 16
^ Slaughterhouse, p. 393
^ Clark (1965), p. 304
^ McCarthy & Syron (2002), p. 180
^ Slaughterhouse, p. 163
^ Slaughterhouse, p. 165
^ Slaughterhouse, p. 167
- ^ abReynolds (1997), p. 10
^ McCarthy & Syron (2002), p. 181
^ Slaughterhouse, p. 301
^ McCarthy & Syron (2002), p. 180
^ Slaughterhouse, p. 304
^ そこには、ヒトラーが訪問の際に使用した飛行場が近くにあった。
^ Glantz (1995), p. 296; this figure includes personnel losses between 19 February and 15 March 1943.
^ McCarthy & Syron (2002), pp. 180–181
^ Alexander, Bevin. How Hitler Could Have Won World War II: The Fatal Errors That Led to Nazi Defeat (Three Rivers Press: 2001), p 168
^ BattleField: The Battle of Kursk
^ Cooper (1978), p. 456
参考文献
- 第2次大戦 欧州戦史シリーズ、『クルクス機甲戦』、学習研究社、1998年、ISBN 4-05-601989-4
- Cooper, Matthew (1978). The German Army 1933–1945. Lanham, Maryland: Scarborough House. ISBN 0-8128-8519-8.
- Glantz, David M. (1991). From the Don to the Dnepr: Soviet Offensive Operations, December 1942 – August 1943. Routledge. ISBN 0-7146-4064-6.
- McCarthy, Peter; Mike Syryon (2002). Panzerkieg: The Rise and Fall of Hitler's Tank Divisions. New York City, New York: Carroll & Graf. ISBN 0-7867-1009-8.
- Megargee, Geoffrey P. (2000). Inside Hitler's High Command. Lawrence, Kansas: Kansas University Press. ISBN 0-7006-1015-4.
- Reynolds, Michael (1997). Steel Inferno: I SS Panzer Corps in Normandy. New York City, New York: Sarpedon. ISBN 1-885119-44-5.
関連項目
- ハリコフ攻防戦
- 第一次ハリコフ攻防戦
- 第二次ハリコフ攻防戦
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