ウォルター・デュークス
ポジション | センター |
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身長 | 213cm (7 ft 0 in) |
体重 | 100kg (220 lb) |
基本情報 | |
本名 | Walter F. Dukes |
ラテン文字 | Walter Dukes |
誕生日 | 1930年6月23日 |
国 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニューヨーク州ロチェスター |
ドラフト | 1953年 地域ドラフト |
選手経歴 | |
1955-1956 1956-1957 1957-1963 | ニューヨーク・ニックス ミネアポリス・レイカーズ デトロイト・ピストンズ |
ウォルター・デュークス(Walter Dukes、1930年6月23日 - 2001年2月)は1950年代のアメリカ合衆国の元バスケットボール選手。出身地はニューヨーク州ロチェスター、出身大学はシートン・ホール大学。1950年代のアメリカ男子バスケットボールリーグNBAのデトロイト・ピストンズで活躍した。
目次
1 経歴
1.1 NBAキャリア
1.2 引退後
2 外部リンク
経歴
シートン・ホール大学でプレイしたデュークスは最終学年の1952-53シーズンには平均26.2得点22.2リバウンドを記録し、通算734リバウンドはNCAAデビジョン1の新記録となった。同校もデュークスとスターガードのリッチー・リーガンに率いられ、1952年のNITには決勝まで進出するが、トム・ゴーラ擁するラ・サール大学の前に敗れる。しかし翌シーズンは31勝2敗の成績を収め、NIT優勝も果たし、デュークスはオールアメリカンに選ばれた。
この年のドラフトではニューヨーク・ニックスから地域ドラフトによる指名を受けるが、デュークスは大学卒業後はエキシビジョンチームのハーレム・グローブトロッターズと年25,000ドルの契約を結び、2年間を同チームで過ごした。
NBAキャリア
デュークスは1955年にニューヨーク・ニックスに入団する。当時としては破格の長身と大学時代の目覚しい活躍により、後世に「ウィルト・チェンバレン以前のウィルト・チェンバレン」とまで言わしめたが、NBA入り後は膝の故障に見舞われ、本来の実力を発揮できなくなったデュークスは"職人"としての選手キャリアを歩むことになる。
ニックスでの1年目から故障に見舞われたデュークスは7.8得点7.4リバウンドと成績は振るわず、1シーズンでミネアポリス・レイカーズにトレードされることになった。レイカーズではクライド・ラブレットのサポート役として10.1得点11.2リバウンドを記録するも、やはり1シーズンでデトロイト・ピストンズに移籍している。
ピストンズ移籍後も毎シーズン平均ダブル・ダブルを稼ぐ選手として活躍。1959-60シーズンにはキャリアハイとなる15.2得点13.4リバウンドを記録し、初のオールスターにも選ばれた。ピストンズで6シーズンプレイし、1962-63シーズンを最後にNBAから引退した。
NBA通算成績は8シーズン553試合の出場で、5,765得点(平均10.4得点)6,223リバウンド(平均11.3リバウンド)だった。デュークスのプレースタイルの特徴として、ファウル数の多さがあげられる。1957-58シーズンと1959年には2年連続通算ファウル数でリーグトップとなり、また4シーズン連続で通算ファウルアウト数でリーグトップとなっている。8シーズンの間で計121回のファウルアウトはヴァーン・ミッケルセンに次ぐリーグ2番目の記録である。
引退後
引退後はニューヨークの法律学校に通い、弁護士となるが、1975年には無許可のまま弁護士を続けていたことが発覚し、有罪判決を受けている。
2001年3月に亡くなる。70歳だった。自宅で死後1ヶ月以上経って警察に発見されたため、正確な死亡時期は分かっていない。
外部リンク
- Basketball-Reference.com
- Hoopedia