ジミー・カーター



















































ジミー・カーター
Jimmy Carter ノーベル賞受賞者

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アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第39代大統領

任期

1977年1月20日 – 1981年1月20日
副大統領

ウォルター・モンデール



Flag of Georgia (U.S. state).svg ジョージア州
第76代州知事

任期

1972年1月12日 – 1975年1月14日

出生

(1924-10-01) 1924年10月1日(94歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ジョージア州プレーンズ(英語版)
政党

民主党
出身校

ジョージアサウスウェスタン大学
ジョージア工科大学
配偶者

ロザリン・カーター
子女
ジョン・ウィリアム
ジェームズ・アール
ジェフリー・ドネル
エイミー・リン
署名

Jimmy Carter signature.gif








ノーベル賞受賞者ノーベル賞

受賞年:2002年

受賞部門:ノーベル平和賞

受賞理由:数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した


“ジミー”ジェームス・アール・カーター・ジュニアJames Earl "Jimmy" Carter, Jr., 1924年10月1日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。ジョージア州上院議員(英語版)、ジョージア州知事、第39代アメリカ合衆国大統領を歴任。2002年ノーベル平和賞受賞。身長5フィート9.5インチ(約177cm)[1]。バプテスト派キリスト教信者。


長らく南部バプテスト連盟系列の教会の信徒だったが、南部バプテストが神学的・政治的に保守化を強めたことから2000年には脱退し、その後進歩派の「新バプテスト連盟」(New Baptist Covenant、新バプテスト契約)の創始者のひとりになっている。




目次






  • 1 経歴


  • 2 政治経歴


    • 2.1 地方政治


    • 2.2 1976年の大統領選挙




  • 3 大統領職


    • 3.1 国内政策


    • 3.2 外交政策


      • 3.2.1 人権外交


      • 3.2.2 共和党による外交批判


      • 3.2.3 対中韓政策




    • 3.3 政権




  • 4 大統領退任後


    • 4.1 積極的な外交活動


    • 4.2 イスラエル批判の本を出版


    • 4.3 慈善活動


    • 4.4 USSジミー・カーター


    • 4.5 癌の公表




  • 5 弟の不祥事


  • 6 自伝


  • 7 トピック


  • 8 脚注


  • 9 関連項目


  • 10 外部リンク





経歴


カーターは、食料品店主兼農家のジェームズ・アール・カーター・シニアと看護師のリリアン・ゴーディ・カーターの長男(第1子)として、ジョージア州プレーンズ(英語版)の町で生まれた(初の病院生まれの大統領である)。アーチェリーの近くで成長した。ジョージア工科大学で理学士の学士号を取得。


第二次世界大戦終結後の1946年に海軍兵学校に入校。同年ロザリン・スミスと結婚。カーターは大西洋および太平洋の艦隊で潜水艦に勤務し、その後ハイマン・G・リッコーヴァー提督によってアメリカ海軍の原子力潜水艦の開発推進プログラムの担当者に選ばれた。1952年12月12日、カナダのチョーク・リバー研究所の試験原子炉NRXで原子炉が暴走、燃料棒が溶融する原子力事故が発生した。カーターはアメリカ海軍の技術者として事故処理にあたり、被曝もしている。1953年、ジョージア州下院議員になったばかりの父親の死に伴い大尉として海軍を退役。当初は低所得者向け公営住宅に暮らすが、妻と共に公共図書館で自学してピーナッツ栽培に取り組み、成功を収める。



政治経歴



地方政治



教育委員を始めとする地域の評議員を経験したカーターは、1961年にジョージア州上院議員に立候補。当初は落選とされたが、選挙不正を提訴して認められ当選となる。再選の後、1966年の州知事選民主党予備選に立候補。3位に終わったが、上位候補の思想がかけ離れている中で、カーターの穏健リベラル的な立場が注目され頭角を現した。1970年の州知事選で当選。1971年から1975年までジョージア州知事を務めた。州知事としては人種差別撤廃、行政改革、校区の貧富の差による教育格差の是正などに取り組んだ。



1976年の大統領選挙




フォード大統領と討論するカーター


1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬。当初は「ジミーって誰のこと」(Jimmy, Who?)という言葉が流行するほど知名度が低かったが、ウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民にクリーンなイメージと満面の笑顔をアピール。選挙戦では世論調査会社を活用し、各州が抱える問題の情報を収集し、それに対応するメディア戦略をとった。その結果、現職のジェラルド・R・フォード大統領を破り、一般投票の50.1%を獲得し勝利した。(投票率は戦後最低)



大統領職





アンディ・ウォーホルとともに




キャンプデービッドでメナヘム・ベギンとアンワル・アッ=サーダートとともに




SALTIIに調印するカーターとソ連のレオニード・ブレジネフ書記長




ボンサミットでヘルムート・シュミット首相や福田赳夫首相、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領やジュリオ・アンドレオッティ首相らと





リチャード・ニクソン(中央)と中国の鄧小平(右)とともに、1979年





ヴァンス国務長官と、1977年


就任式のあと、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。このパレードが非常に好評であったため、その後多くの大統領がこれに倣っている。


世論調査のデータを盲信する傾向があり、ホワイトハウスに専属の調査員を常駐させるなど力を入れた。しかし、集計ミスの結果(「国民はアメリカの将来を悲観視している」というデータ)を真に受けて緊急テレビ会見を行い、支持率を急落させたこともあった。このころには、トレードマークの笑顔も、あまり見られなくなっていた。


内外政策の度重なる失敗、特にイランアメリカ大使館人質事件への対応の拙さにより国民の支持を失い、1980年の大統領選挙で共和党候補で元カリフォルニア州知事のロナルド・レーガンに選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10ポイント近い差をつけられ敗北。1期で政権の座を去った。


なお、アメリカ大使館人質事件では、カーターがホワイトハウスを去ったその日に人質が解放されたことから、海外のマスコミを中心に「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだ」という報道が見られた。



国内政策


就任後に施行したいくつかの経済政策の失敗と、1979年のイラン革命に前後した石油危機などから、カーター政権中は高インフレと不況が国内を覆うことになった。任期中に外交において様々な問題が降りかかったこともあり、これらの国内問題を解決することはできなかった。1979年3月28日には、スリーマイル島原子力発電所事故もおこっている。なお、エネルギーの生産と調整に関与する内閣レベルの組織であるエネルギー省の設立(1977年)と、教育行政を管掌する教育省の設立(1979年)を行った。エネルギー省の設立は在任前後に起きたオイルショックを受けてのことである。なお、かつて教育行政は保健教育福祉省(現・保健福祉省)によって行われていた。


カーター時代の経済政策で後に影響を与えたものの一つに、1978年10月に成立した航空規制緩和法(英語版)(Airline Deregulation Act)が挙げられる。この規制緩和によって路線の参入規制や運賃設定の規制が撤廃された結果、サウスウエスト航空などの格安航空会社が台頭する一方、パンアメリカン航空、イースタン航空など従来の大手航空会社の経営が悪化して倒産し、激しい競争から生き残るために航空会社同士の合併が進んだ結果、2013年にはアメリカン航空・ユナイテッド航空・デルタ航空とサウスウエスト航空でアメリカ国内の航空市場シェア87%を占める寡占状態となった[2]。また、投資コスト抑制のための機材の老朽化や経験不足のパイロットが増えたことなどから、大事故が何件も発生することになったという指摘もある[3]



外交政策



人権外交


冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定「キャンプデービッド合意」を締結させるなど、中東における平和外交を推進した。なお1977年3月16日にマサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした(しかしながら、この発言が在米ユダヤ人の反感を買い、先に述べた1980年の大統領選挙の敗北の一因となった)。


他にも、前々任者のニクソン政権時代から推進されてきたソビエト連邦とのデタント路線を、SALT IIの締結などでさらに推し進めたものの、ソ連のアフガニスタン侵攻を批判して1980年モスクワオリンピックをボイコットした。またパナマ運河のパナマへの返還などを実現させた。



共和党による外交批判


しかし、CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使館人質事件及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」[4]の失敗、アフガニスタン紛争を許したことなどから、共和党などから「弱腰外交の推進者」と叩かれることになった。


イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日はカーターが後継のレーガンに政権を譲り、ホワイトハウスから去った日でもあった。



対中韓政策


中華人民共和国に対しては、前々任者のニクソン大統領と前任者のフォード大統領の中華人民共和国への接近政策を受け継いで中華民国(台湾)との断交を決定し、同国と対立している共産主義の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、1979年1月1日に国交を樹立した。同月に鄧小平が訪米し、カーターと会談している。これにより米華相互防衛条約は無効化され、米国はアメリカ台湾協防司令部(英語版)在台アメリカ軍事顧問団(中国語版)を廃止して在台米軍(中国語版)を撤退させた。中華民国との国交断絶後は「台湾関係法」を制定し、現在に至っている。


大韓民国に対しては、選挙公約で在韓米軍の撤退も掲げていた[5]。また、韓国政府が、朴正煕の軍事独裁である点や、極秘裏に核兵器開発計画を進めていたこともあって批判的な姿勢を取り、朴正煕率いる軍事政権との関係は険悪だったとされる[6]



政権































































































































職名 氏名
任期

大統領 ジミー・カーター 1977 - 1981
副大統領 ウォルター・F・モンデール 1977 - 1981

国務長官 サイラス・ヴァンス 1977 - 1980
  エドマンド・マスキー 1980 - 1981
財務長官 マイケル・ブルーメンソール 1977 - 1979
  ウィリアム・ミラー 1979 - 1981
国防長官 ハロルド・ブラウン(英語版) 1977 - 1981
司法長官 グリフィン・ベル(英語版) 1977 - 1979
  ベンジャミン・R・シヴィレッティ(英語版) 1979 - 1981
内務長官 セシル・D・アンドルス(英語版) 1977 - 1981
商務長官 ジュアニータ・M・クレップス(英語版) 1977 - 1979
  フィリップ・M・クルズニック(英語版) 1979 - 1981
労働長官 レイ・マーシャル(英語版) 1977 - 1981
農務長官 ロバート・セルマー・バーグランド 1977 - 1981
保健教育福祉長官 ジョセフ・アンソニー・カリファノ 1977 - 1979
保健福祉長官 パトリシア・ロバーツ・ハリス 1979 - 1981
教育長官 シャーリー・マウント・ハフステッドラー 1979 - 1981
住宅都市開発長官 パトリシア・ロバーツ・ハリス 1977 - 1979
  モーリス・エドウィン・ランドリュー(英語版) 1979 - 1981
運輸長官 ブロック・アダムズ(英語版) 1977 - 1979
  ニール・E・ゴールドシュミット(英語版) 1979 - 1981
エネルギー長官 ジェームズ・R・シュレシンジャー 1977 - 1979
  チャールズ・W・ダンカン(英語版) 1979 - 1981



大統領退任後



積極的な外交活動




歴代大統領とともに(右端がカーター)


大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した成果を上げられず、イラン革命やソビエトのアフガニスタン侵攻を許したが、大統領職を退いてからは1981年にカーターセンターを設立し、積極的な外交活動で知られている。




  • 1994年、核開発疑惑により朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とアメリカとの間で一触即発の危機に陥った折、ジェームス・レイニー駐韓アメリカ大使の要請を受け、アメリカ大統領経験者として初めて訪朝して金日成主席と会談。北朝鮮の核開発凍結と査察受け入れで合意し、同年の米朝枠組み合意とつながっていった。しかしその後も北朝鮮は核兵器・弾道弾の開発を極秘裏に継続し、ついにはアメリカ本土を対象とした核攻撃計画まで表明するに至った[7]


  • 2002年5月、キューバを訪れ、同国指導者のフィデル・カストロと会談。1959年の革命とその後の関係悪化以来、初めてキューバを訪問したアメリカ大統領職経験者となった。


  • 2010年8月26日、再び北朝鮮を訪問し、同国への不法入国罪で服役していたアメリカ人男性のアイジャロン・ゴメスを釈放するよう交渉を行い、特赦。ゴメスと共に出国した[8]


  • 2011年南部スーダン独立住民投票の監視に参加した[9]


これらの功績により、「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」ことを評価され、2002年にノーベル平和賞を受賞した。



イスラエル批判の本を出版


2006年11月、"Palestine peace not apartheid"(日本語版:『カーター、パレスチナを語る―アパルトヘイトではなく平和を』)を出版した。ユダヤ・ロビーといわれる圧力団体が大きな力をもって存在し、政治、経済などを主としてあらゆる分野の主要ポストに多数ユダヤ系が見られたり、アメリカの全人口のたった2%にすぎないが、イスラエル在住のユダヤ人を少し上回る数のユダヤ人が居住するアメリカにおいて、政治家によるイスラエル批判というのはタブーに等しく、発売後かなりの大反響を巻き起こし、ベストセラーとなった。カーターはその大統領就任の経緯からしても、他の歴代大統領たちと比較してイスラエルやユダヤ人社会に過剰に配慮しなくてはならない理由はなかったが、ユダヤ人の多くは民主党の支持者であり、さすがに任期中は公然とパレスチナの味方をすることはとてもできず、この出版で真実を吐露することとなった。この本においてカーターは「ハマースなどパレスチナ側にも非があるが、問題発生から60年、ここまで問題をこじらせたのはイスラエルである」と言い切る。イスラエル建国60周年にあたる2008年に日本でも出版された。



慈善活動


貧困層への住宅建設とコミュニティ設立を中心に活動しているNGO「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」の活動を支援しており、同NGOが行っているボランティア活動に同行したり、テレビCMに出演している[10]



USSジミー・カーター


潜水艦の乗組員として勤務した経験のあるただ1人の大統領として、海軍は潜水艦にカーターの名を命名した。ジミー・カーター (USS Jimmy Carter, SSN-23) は、命名時にまだ生存している人名を付けられた少数のアメリカ海軍艦船のうちの一隻として、1998年4月27日に命名された。



癌の公表



  • 2015年8月12日、肝臓の手術の過程で、癌が体の複数の部位へ転移していることがわかったと発表した。以後はジョージア州の病院で治療を受けるという[11]

  • 2015年8月21日、カーター自らが記者会見を行い、脳に癌が転移していることを発表した。以後は定期的に放射線治療を受けるという。



弟の不祥事


弟がリビアで22万ドル(2017年のレートで約2500万円)を受け取っていたことが判明した[12]



自伝



  • Jimmy Carter 1976 Why not the best? (Bantam books) = 1979 酒向克郎訳 『なぜベストをつくさないのか : ピーナッツ農夫から大統領への道』 英潮社.


トピック



  • カーターは連邦議会議員の経験はなく、大統領就任前はジョージア州知事、ジョージア州議会上院議員をそれぞれ1期ずつ務めたのみで、大統領選出馬時も当初は全米的な知名度が皆無に等しかった。大統領選出馬を決断し、実母に報告した際は、彼の母親ですら「どこの会長(プレジデント)に立候補するって?」と訝ったという[13]


  • 1977年、大統領だったカーターはジョン・F・ケネディ暗殺事件の再調査を命じ、下院に「暗殺問題調査特別委員会(英語版)」を設置した。しかし、疑義の多いウォーレン委員会の結論を覆せるだけの証拠を発見できず、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行説を否定する結論は出されたものの、何者かによる陰謀の存在を立証するには至らなかった。なお、暗殺問題調査特別委員会の調査資料の核心部分は2029年の公開まで封印される。


  • 1977年に打ち上げられたボイジャー探査機に搭載されたゴールデンレコードにメッセージを入れたことで、世界で初めて地球外にメッセージを送った人物となった。


  • 1979年4月に故郷ジョージア州で釣りをしていた際、乗っていたボートにウサギが近づいてきたため追い払うという出来事が発生し、マスコミ等によって格好のネタにされた(ジミー・カーターウサギ事件)。

  • 1979年6月に東京サミットのため来日。この時に夫人と共に六本木の焼き鳥店や狛江市内の蕎麦屋へ来店している。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れているように報道されたが、実際には大使館側の予約であること、その場に居た客も「仕込み」のサクラであることが判っている。同様の演出はその後の大統領来日の際にも行われている。日本初の米国領事館が置かれた静岡県の下田を夫人と娘と共に27日に訪れ、タウンミーティングとパレードを行った[14][15]。翌1980年7月9日の大平正芳の葬儀にも参列した[16]

  • カーターは1990年、梵鐘が縁で広島県甲奴郡甲奴町(現三次市)に訪問した。1994年には同町にジミー・カーター・シビックセンターが落成、カーターも再訪した[17]。また同町内の球場はカーター記念球場と命名されている。また、ピーナッツの種(ランナー種)が送られ、その後「カーターピーナッツ」として地域の特産品になっている[18]


  • 2007年2月11日に授賞式が行われた「第49回グラミー賞」で、オーディオブック「Our Endangered Values:America's Moral Crisis」が最優秀朗読アルバム賞を受賞した。

  • 自伝に“Why not the best?”(なぜベストをつくさないのか)がある。これは海軍で原子力潜水艦開発計画に従事していたとき、上司のハイマン・G・リッコーヴァー提督に突きつけられた言葉から来ている。

  • 大統領職を退いてからは、生まれ故郷のジョージア州プレーンズで暮らしている。プレーンズの町はピーナッツの名産地であり、自身もピーナッツ栽培農家であったカーターは、毎年秋に開かれるピーナッツフェスティバルに参加しており、町の名士として活動している[19]。なお、同町出身で妻でもあるロザリンの実家もピーナッツ栽培を家業としていた。


  • 2012年、ハーバート・フーヴァーの31年7カ月の記録を更新し、退任後最長寿の元大統領となった。また、民主党選出の歴代大統領経験者では最高齢である。なお、共和党選出の大統領を含めた場合は、ジョージ・H・W・ブッシュ(存命、94歳でカーターより111日年長)に次ぐ高齢の大統領経験者となる。

  • ホワイトハウスの流儀に馴染めず、来客の朝食もパン食だけということが多く、人気がなかった。私的な食費のみならず、晩餐会の来客の食事費用も大統領一家持ちなうえに、2ケタのインフレによる物価高騰に悩まされ、しかも成人した子供たちや、母親や弟までがホワイトハウスに同居していたため、生活費に困っていたからである。ホワイトハウスに飾る花も業者から買わずに野草を摘むようにさせていたほどであった。公園で花を摘んでいた生花係が警官に職務質問を受けることも頻繁にあった[20]



脚注




  1. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー


  2. ^ New American Airlines Means 'Big 4' Control US Skies(CNBC 2013年2月14日)


  3. ^ 予防時報別冊 防災温故知新「米国の航空規制緩和と安全」(日本損害保険協会)


  4. ^ http://www.aljazeera.com/focus/2010/04/20104258191144983.html


  5. ^ <トランプ流安保どこへ>カーター政権と類似 「思いやり予算」の背景 沖縄タイムズ、2016年11月14日


  6. ^ 金桂元が後年、雑誌のインタビューで発言


  7. ^ “北朝鮮、自衛のため米国に対する核先制攻撃権を行使する=KCNA” (日本語). Reuters. (2013年3月7日). http://jp.reuters.com/article/JPNKorea/idJPTYE92604U20130307 2013年3月7日閲覧。 


  8. ^ “カーター元米大統領:男性連れ平壌出発 金総書記と会談せず” (日本語). 毎日新聞. (2010年8月27日). http://mainichi.jp/select/world/news/20100827dde007030019000c.html 2010年8月27日閲覧。 


  9. ^ http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/110114/mds1101140053000-n1.htm


  10. ^ ハビタット・フォー・ヒューマニティ


  11. ^ カーター元米大統領、がんの転移を公表 肝臓手術後に発覚 - CNN JAPAN(2015年8月13日閲覧)


  12. ^ http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/10/27/2017102702069.html


  13. ^ 村田晃嗣『レーガン』(中公新書)143頁。


  14. ^ 下田市観光ガイド「宝泉寺」


  15. ^ 開国記念碑 下田市観光協会


  16. ^ 歴史が眠る多磨霊園 大平正芳


  17. ^ カーター元大統領 2002ノーベル平和賞 受賞 甲奴町からお祝いメッセージ三次市ジミー・カーターシビックセンターHP


  18. ^ みよしブランド認定品 認定番号:第27-10号 カーターピーナッツ - 三次市


  19. ^ 週刊myfood クローズアップインタビュー 第十七回:ジョージア州ピーナッツ生産地視察ツアー報告!myfood.jp 2010/10/28


  20. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 光文社 2016年 p106、109-110、158



関連項目



  • ズビグネフ・ブレジンスキー

  • エドマンド・マスキー


  • モハンマド・レザー・パフラヴィー(イラン国王)


  • ルーホッラー・ホメイニー(アヤトラ・ホメイニ)



外部リンク







  • Carter Center

  • Jimmy Carter Library and Museum

  • Jimmy and Rosalynn Carter Partnership Foundation


  • http://www.achievement.org/autodoc/page/car0int-1 Jimmy Carter Interview at Acheivement.org


  • http://www.achievement.org/autodoc/page/car0pro-1 Jimmy Carter Profile at Acheivement.org


  • http://www.achievement.org/autodoc/page/car0bio-1 Jimmy Carter Biography at Acheivement.org


  • http://www.achievement.org/autodoc/page/car0gal-1 Jimmy Carter Photo Gallery at Acheivement.org


  • Biography, via whitehouse.gov


  • Biography via ourgeorgiahistory.com


  • Biography, via geocities.com


  • Navy Years, via submarinehistory.com


  • Inaugural Address of Jimmy Carter via re-quest.net

  • State of the Union Addresses: 1978, 1979, 1980, 1981 (written message) at UCSB's American Presidency Project


  • Audio recordings of Carter's speeches, via Michigan State University


  • Nobel lecture, Oslo, Norway (10 December 2002)
    • Nobel Prize for Carter



  • About the malaise speech, via PBS

    • The malaise speech text, via PBS


  • The 1980 October Surprise

  • "The U.S. President was here" — about Carterpuri, a village in Haryana, India named after President Carter

  • Instruments of Statecraft: U.S. Guerilla Warfare, Counterinsurgency, and Counterterrorism, 1940-1990 Chap. 3 The Carter Years

  • Carter's hand written UFO sighting report of 1969

  • Carter's church and Sunday school teaching schedule

  • More information about the "killer rabbit" incident


  • Jimmy Carterの作品 - プロジェクト・グーテンベルク

  • Jimmy Carter's thoughts on Earth Day 2006

  • カーター ジミー:作家別作品リスト - 青空文庫


  • ジミー・カーター - TEDカンファレンス ウィキデータを編集

    • ジミー・カーター「女性虐待が最大の人権侵害問題と考える理由」の講演映像 - TEDカンファレンス、2015年5月 ウィキデータを編集








先代:

レスター・マッドクス


ジョージア州知事

1971年 - 1975年


次代:

ジョージ・バスビー







先代:

ジェラルド・R・フォード


アメリカ合衆国大統領

1977年 - 1981年


次代:

ロナルド・レーガン











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