証如
証如(證如[1]) | |
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永正13年11月20日 - 天文23年8月13日 上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[2]下段・ユリウス暦 | |
証如影像 | |
幼名 | 光仙丸 |
法名 | 證如 |
院号 | 信受院 |
諱 | 光敎 |
尊称 | 証如上人 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | (後の本願寺系諸派) |
証如(しょうにょ、證如[1])[3]は、戦国時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第10世宗主・真宗大谷派第10代門首。山科本願寺住職。諱は光教。院号は信受院。法印権僧正。父は円如。本願寺第8世蓮如の曾孫。九条尚経の猶子。第11世顕如は長男。
生涯
※年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。
永正13年11月20日(1516年12月23日[2] )、誕生。父は遍増院円如[4]。母は慶寿院鎮永尼[5]。
大永5年(1525年)、父方の祖父である本願寺第9世宗主・実如の死去により、10歳で継承し、本願寺第10世宗主となる。実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける。
大永7年(1527年)、当時の本願寺教団と中央権力との親睦を深め安泰を図るため、関白九条尚経の猶子となって青蓮院で後奈良天皇の弟尊鎮法親王を師として得度する。
享禄4年(1531年)、本願寺教団内部で対立(後の山科本願寺の戦いまで含めて享禄・天文の乱と呼ぶ)が起こるが、証如はこれを抑えて法主の指導力強化に努めた。
翌享禄5年(1532年)6月、管領・細川晴元からの要請を受けた外祖父・蓮淳の意向で門徒を動員し、河内国で滞陣中の三好元長(法華宗)を襲撃させる。更に和泉国まで追い立てて敗死させたものの、蜂起した門徒は暴走を続けて大和国へ乱入してしまう。目的以上の破壊力を保持したまま、都へ転進しかねない一向一揆を恐れた晴元は7月に本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結ぶと、天文に改元後の8月24日、当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺を攻撃し、これを焼き討ちにした(山科本願寺の戦い)。これにより山科本願寺を追われた証如は、居所を大坂御坊へ移して大坂本願寺とし、新たな教団の本拠地とした。その後は晴元の養女(左大臣三条公頼の三女・如春尼。長姉は晴元に、次姉は武田信玄に嫁ぐ)を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めた。また、山科本願寺の戦いを教訓として、各地の一向一揆に対してもみだりに乱を起こさないように命じている。
天文15年(1546年)には金沢に尾山御坊を築いて同地方における門徒の統制を強化したが、これは朝倉氏との対立もあって、証如の時代には必ずしも十分に達成されなかった。また、加賀一向一揆の調停という形で北陸地方の門徒集団への介入を深める。
天文18年(1549年)、後奈良天皇より『三十六人家集』を下賜される。これは、後に顕如の時代に石山合戦の和議に尽くした太閤・近衛前久に贈ろうとしたものの、「天下の宝物をみだりに遣り取りすべきでない」として辞退されたという代物で現在も西本願寺に所蔵され、国宝に指定されている。同年、権僧正に任じられている。
天文23年8月13日(1554年9月19日[2] )、39歳にて示寂。本願寺は12歳の顕如が第11世となり継承する。
脚注欄
- ^ ab證如…新字体が用いられる以前の文献に用いられた旧字体。
- ^ abcグレゴリオ暦換算。本願寺派では、グレゴリオ暦に換算した生没年を用いる。
^ 法主を務めた寺号「本願寺」に諱を付して本願寺光教(ほんがんじ みつのり)とも称される。この「本願寺」は便宜的に付されたものであって、氏や姓ではない。
^ 本願寺9世宗主・実如の第3子(次男)。法宗継職前に示寂したため歴代に入らない。
^ 蓮如の六男・蓮淳の娘。
関連項目
享禄・天文の乱 - 天文法華の乱
- 飯盛山城
- 信貴山城
- 神尾山城
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