UWF
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UWF(ユー・ダブリュー・エフ)は、かつて存在した日本のプロレス団体。正式名称はユニバーサル・レスリング・フェデレーション、ユニバーサル・レスリング連盟。
目次
1 概要
2 第1次UWF
2.1 旗揚げまでの経緯
2.2 旗揚げ
2.3 活動停止
3 新日本プロレスとの業務提携
4 第2次UWF
4.1 活動再開
4.2 崩壊
5 タイトル
6 所属選手
7 スタッフ、役員
8 来日外国人選手
9 参考文献
10 脚注
概要
UWFの活動時期は、1984年3月、元新日本プロレスの新間寿が創立し、85年9月に活動休止した第一次UWF(ユニバーサル・レスリング連盟)、通称「旧UWF」、1985年12月から1988年3月まで続いた新日本プロレスとの業務提携期、前田日明が新日本プロレスを解雇された後、1988年4月に旗揚げ、1991年1月に崩壊した第2次UWFの3期に分かれる。
UWF崩壊後はプロフェッショナルレスリング藤原組、UWFインターナショナル、リングスの3団体に分裂した。
入場式等で使われたメインテーマは(通称「UWFのテーマ」)UWFの象徴とされ、UWF出身選手が大一番で使用したり[1]人によってはテーマ自体を神聖と捉えている人もいる。現在では高校野球の応援歌としても使われている。
UWFの思想から派生した格闘系プロレス団体を総称してUWF系、略してU系という。
アメリカにビル・ワットが主宰していた同名プロレス団体「Universal Wrestling Federation」が同時期に存在したが交流も関係も全くない。スティーブ・ウィリアムスらが保持していたUWFヘビー級王座は、このビル・ワット版UWFの認定王座である。
日本にも同名プロレス団体「ユニバーサル・プロレスリング」が設立されているが関連はなくスタイルも異なる。混同を避けるため当ページのプロレス団体を「UWF」、ユニバーサル・プロレスリングは「ユニバーサル」と呼び分けることもある。
第1次UWF
ファン及び専門誌では旧UWFとも呼ばれる。所属選手はユニバーサルと呼ばれる場合がある。
旗揚げまでの経緯
設立の裏には当時、新日本プロレスのアントニオ猪木が起こした事業「アントン・ハイセル」の失敗により猪木が莫大な負債を抱えて、その補填をする為に新間寿と反猪木派社員が反目。新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサル・レスリング連盟(UWF)である。前田日明によるとクーデター事件により新たな資金源が必要になった猪木がフジテレビと契約するために作ったという[2]。一時クーデター派によって新間は専務取締役兼営業本部長を解任されて同時に猪木も代表取締役社長を一時的に解任。しかし「猪木なしでの新日本プロレス中継はありえない」というテレビ朝日の介入によりクーデターは未遂に終わる。
そういった経緯から設立前には猪木を含めた新日本所属選手の参加が噂されて旗揚げ戦のポスターにも当時の新日本主力選手や主力外国人選手の写真が載せられたが(「私はすでに数十人のレスラーを確保した」というフレーズまで刷り込まれた)結果としては前田を始めセミファイナル以下のレベルの選手が旗揚げに参加にするにとどまった。なお前田は「猪木さんが「俺も後から行くから先に行ってくれ」と言われたので移籍した」と後に発言している。また佐山聡は後に男性誌の連載記事にて前述にあるような事件の内幕を暴露している。
外国人選手に関しては表立ってはいなかったがジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが窓口となり選手を斡旋している(旗揚げシリーズには、テリーが主戦場としていたテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングからボブ・スウィータンとスコット・ケーシー、テネシー州メンフィスのCWAからダッチ・マンテルが来日)[3]。これは旗揚げ前に新間から馬場に「猪木とUWFを作るがそれがきっかけで外人引き抜き戦争が再燃しないように外人ルートで協力してくれ」と依頼があったためといわれており、マーク・ルーインやカリプス・ハリケーンといった全日本プロレスへの来日経験者がUWFに登場したのはこのためである。6月に予定されていた旗揚げシリーズ第2弾は外国人勢が強化され、キングコング・バンディ、トミー・リッチ、ジャイアント・キマラなどが来日することになっていた[3]。新間の退陣後は木村、剛、マッハ隼人をブッカーにカナダ沿海州のアトランティック・グランプリ・レスリングやメキシコのEMLL(現:CMLL)からの招聘ルートを独自に開拓。カナダからはフレンチ・マーテル、レオ・バーク、ザ・UFO、スウィート・ダディ・シキ、キューバン・アサシンなどのベテランのほか、ダニー・クロファットもフィル・ラファイアーの名義で第1次UWFに初来日している。
旗揚げ
1984年4月11日、埼玉県大宮市の大宮スケートセンターで旗揚げ戦を開催。ポスターに掲載されていた猪木を始めとする当時における新日本主力選手やハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントら当時における新日本のトップ外国人選手は誰も出場しなかった。そのため、これらの選手の来場を期待したファンからの罵声や当日の興行には関係のない猪木、長州力、藤波辰巳らのコールがメインイベントの前田の試合中に発生するなど波瀾含みのスタートだった。旗揚げシリーズは路線も定まらない状態だったが、前田の師匠格である藤原喜明が髙田伸彦を引き連れ参加したあたりから方向性が定まり始め、道場で行われるスパーリングのような関節を取り合う攻防を中心としたレスリングスタイルに転換していく。殴打技や蹴り技も取り入れており、極真会館の空手家でキックボクサーの山崎照朝を特別コーチに招いて指導を受けた[4][5]。その様子は後に極真会館の空手選手の松井章圭と専門誌「ゴング格闘技(1987年8月号)」で対談した際に前田自ら語っている[4][5]。
1984年7月23日と24日、後楽園ホールで行われた、「UWF無限大記念日」に佐山聡がザ・タイガーとして現役復帰、佐山が設立したタイガー・ジムでインストラクターを務める山崎一夫を引き連れて参戦することになる。大会が成功した後も一部のマスコミやファンの強力なバックアップもあり山崎共々、継続参戦することになり8月4日に正式に入団を果たす。後に新日本を退団した木戸修も加わることになり基本となる陣容はこれで固まった。なお佐山は復帰の条件として一部フロントの追放を挙げ、これにより新間は正式にUWFから手を引いた(この時、新間に追従する形で浜田も離脱)。彼らはカール・ゴッチの門下生であったことからゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加。ゴッチ自身も居住地のフロリダからスコット・マギーやジョー・マレンコ、ヨーロッパからジョニー・ロンドスやピート・ロバーツなど外国人選手のブッキング及び若手選手の指導を協力。ここにUWFの目指す「レスリング=ゴッチ流ストロングスタイル」という一応のラインができあがる。
佐山はリングネームをスーパー・タイガーと改めて、9月7日に後楽園ホール大会「UWF実力No.1決定戦」の第1ラウンドで藤原を、9月11日には同所での第2ラウンドで前田を倒して「実力No.1」の称号を獲得。試合は「シングルマッチが中心」「ロープワークを廃する」「相手の技を簡単に受けない」など従来のプロレスのショー的要素を廃して、「キックが急所にまともに入ったら誰であってもまともに立っていられない」「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開。従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持して一部に「UWF信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。
その一方で、佐山のUWF移籍問題で社長の浦田昇が暴力団を介して佐山のマネージャーだったショウジ・コンチャを強要した容疑で逮捕されるなどスキャンダルも報じられた。また、木村と剛が「ビクトリー・ウィークス」シリーズ後に離脱。これはゴッチ流ストロングスタイル路線を嫌ったことが理由ともされていたが、外国人選手のブッキング窓口を巡るトラブルが真相である[6]。
路線変更はファンの支持を得たが、佐山の参戦は諸刃の剣だった。佐山は山崎とのタイガージム時代から「新格闘技」と称して、しっかりしたルールにのっとった新しいスタイルの正しいスポーツを模索して、プロレスではなく「シューティング」、その選手には「シューター」という単語を使うようになり、そのプロデュースを手がけることにたいへん熱心だったことから徐々に試合ルールなどに口を出すようになり実際それは実行されていった。佐山は最初の試みとして藤原とノーフォールマッチを行い勝利すると1985年に所属選手の戦績から実力査定を行うリーグ戦を開催してランキング制度を導入してAリーグとBリーグの2軍制を取り入れた。「反則をより明確にする」、「フォールは体固めとブリッジフォールしか認めない」「減点ポイント制を導入してロープエスケープを繰り返しポイントがなくなった時点で負けとなる」、「UWF認定のキック専用シューズ以外を付けてファイトする時はキック攻撃を行なってはならない」など内実あまりに実験的な試みを数多く取り込んでいったため佐山以外の所属選手は徐々にフラストレーションを募らせていくことになる。
活動停止
「テレビ局が付いていなければ団体運営は出来ない」と言われていた時代にUWFはテレビ番組が無かった。旗揚げ当初はフジテレビが放送するという話もあったが立ち消えになっている[7]。その後TBSで放送するという話も持ち上がったが、これも諸問題から立ち消えとなり最終的にはテレビ東京の番組「世界のプロレス」で一部の試合が放送されたが放送局の関係でネット局も少なく、しかも定期放送ではなかったためアピールするには不充分だった。アピール度や放送する事で入ってくる放映権料も無い事で資金繰りに苦しんでいた中でスポンサーを務めていた豊田商事(一時団体名を「海外UWF」と名乗った事もある)会長の永野一男が殺害されるなど、さらに資金繰りが悪化したばかりでなく豊田商事事件の影響でテレビ東京からも試合中継を打ち切られた[8]。
またリングでは目指すスタイルの問題及び佐山が実権を握り自分に都合のいいように団体改革を推し進めたことで佐山とその他選手の間に徐々に溝が生じて経営悪化も目に見えていた。1985年9月2日、大阪府立臨海スポーツセンターでは社長の浦田と新日本の山本小鉄との会談が行われて新日本との業務提携交渉がスタートしたが[9]当日の興行では第2回公式リーグ戦で前田が佐山に喧嘩マッチを仕掛けたことで、ついに不協和音が表に噴出してしまう。佐山は前田の蹴りが自分の下腹部に当たったとしてレフェリーに反則を主張。前田の反則負けとなるが実際は下腹部には当たっておらず佐山が一方的に試合を終わらせたものと見られている。その後前田は欠場。この事件は暗い影を落として同月11日、後楽園ホール大会を最後に活動停止したがリングでの解散宣言は行われなかった。
その後、UWFは債権者からの催促を避けるべくスポンサー獲得に奔走したが5台あったリース契約の営業車の内4台がリース代金滞納であったためにリース会社に引き上げられるなど興行が不可能な状態となった[9]。佐山も同時に再びプロレス界から身を引き佐山の標榜する新しい格闘技「シューティング(後の修斗)」の設立に力を注ぐことになる。
新日本プロレスとの業務提携
活動停止後に社長の浦田昇は新日本プロレスと全日本プロレスとの本格的な提携交渉を開始。全日本との交渉は長州力らのジャパンプロレスやラッシャー木村らの旧国際プロレスの選手たちも上がっており所属選手全員を受け入れる余力はなかった事から決裂して新日本との交渉に望みをかけた[9]。新日本との交渉は当初は難航したが1985年12月6日、新日本との業務提携を結んだことを発表。前田日明、高田延彦、山崎一夫、藤原喜明、木戸修が古巣である新日本に電撃復帰。前田は挨拶に立った新日本のリングで「この1年半UWFの戦いがなんであったかを確認するために新日本に来ました」と宣言して新日本との安易な融合を否定して対決する道を選んだ。なお、崩壊以前から前田はジャイアント馬場から「全日本に来ないか」と誘われていたが、馬場が必要としたのは前田と高田だけだったので他の選手の事を考え断っている[9]。
1986年1月、新日本からの要求により猪木への挑戦権を賭け、5選手による「UWF代表者決定リーグ」が新日本の新春シリーズのなかで行われる。2月5日、大阪城ホールで、リーグ戦を勝ち抜いた藤原喜明と前田日明によるUWF代表者決定戦が行われ、試合は両者リングアウトののち延長戦となり、終盤、前田は藤原を裸絞めに決めるが、その一方、藤原も前田をレッグロックに捕える。藤原が口から泡を吐いて失神同然になったものの、前田も同時にタップ。レフリーのミスター高橋は藤原の勝利を告げ、UWF代表として猪木への挑戦権を獲得した。翌2月6日、両国国技館での新日本対UWFの頂上対決は、かつての師匠とその付き人の一戦となる。試合は猪木があくまでも自分が格上であることを意識した試合運び。藤原のアキレス腱固めには「極める角度が違う」と上から目線のアピール。さらには局部への蹴りや顔面へのストレートパンチとラフファイトの末、藤原は絞め落とされ敗戦。直後、前田がリングに乱入し勝ち名乗りを上げる猪木の顎に不意打ちのハイキックを見舞いダウンさせた。前田は反則技を織り交ぜた上で藤原に勝利した事に激昂、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!」と猛批判し、これを契機に新日本プロレスとUWFの全面抗争に突入する。
彼らはUWFスタイルを貫いて新日本に真っ向からイデオロギー対決を挑み、2つの異なるスタイルが対決するスリリングな展開(実際は新日本はロープの反動を利用しないUWFスタイルでの戦いを強いられることになった)はタイガーマスク(初代)の引退と長州力が率いる維新軍の大量離脱、マシーン軍団の登場による迷走等によりかつての勢いを失いかけていた新日本の戦い模様に再び火をつけ、ファンも出戻り組のUWFを大いに歓迎。当時、ワールドプロレスリングで実況担当していた古舘伊知郎はこれを「闘いのカムバックサーモン現象」と呼んだ[10]。
その中で今も語り継がれる名勝負や名シーンも数多く生み出されている。1986年3月26日、東京体育館で新日本対UWFの5対5イリミネーションマッチが行われた(改築前の東京体育館における最後のプロレス興行でもあった)。4月29日、津市体育館での前田対アンドレ・ザ・ジャイアントのシュートマッチは先鋭化する一方の前田を潰すために新日本が画策。この試合はテレビ収録されたにもかかわらず、あまりに異質な試合になったためお蔵入りとなった。前田は「やっちゃっていいんですか」と何度もセコンドに確認を入れて[11]結果的にアンドレを戦意喪失に追い込んでいる。10月9日、両国国技館での2大異種格闘技戦で行なわれた前田対ドン・中矢・ニールセン戦での劇的勝利で前田は猪木に代わり「新・格闘王」という称号を得る。高田と元全日本の越中詩郎のIWGPジュニアヘビー級王座を巡る対決を中心としたジュニア戦線の充実(第2期ジュニア黄金時代)なども大きな話題となった。
この中でも特筆される戦いとしては1986年6月12日、大阪城ホールで行なわれたIWGPリーグ戦で前田対藤波辰巳(現:藤波辰爾)によるシングルマッチが挙げられる。前田は序盤から容赦ないキックを顔面や胸板に浴びせ藤波を圧倒するも藤波はすかすことなく真っ向から受けて、さらにコーナーの藤波に対して放った縦回転の大車輪キック(今でいう浴びせ蹴り)により藤波は額を切り大流血、最後は前田自らロープに飛ぶというUWFとしては異例の行動を取る[12]。前田の放ったフライング・ニールキックと藤波のジャンピング・ハイキックが空中で交差して両者後頭部から落ちてのダブルKOという壮絶な結末になった。この対決後に前田は「無人島と思っていたら、そこに仲間がいた」と語り上辺ではUWFと新日本の雪解けを予感させた。しかし新日本・UWFともにフラストレーションは高まる一方で、熊本県水俣市の旅館で設けられた親睦の宴席では、双方泥酔し大暴れした挙げ句に旅館を破壊する騒動を起こした[13][14]。
1987年、全日本に転出していた長州らジャパンが新日本に電撃復帰。この頃から徐々にUWFは閑職化していく。6月12日、両国国技館でIWGPリーグ戦の決勝戦の猪木対マサ斎藤戦で猪木が4連覇を達成した後にいつまで経ってもリング上が猪木世代に支配されていることに苛立った長州が「前田、おまえは噛み付かないのか?今しかないぞ俺たちがやるのは」とリングから藤波と前田を巻き込むように世代闘争をアピール。これに前田が「どうせやるんだったら世代闘争に終わらんとな、誰が一番強いか決まるまでやればいいんだよ決まるまで」と呼応したことで猪木、斎藤ら旧世代軍と長州、藤波、前田を中心とする新世代軍の戦いが始まるにつけてUWFの存在意義は形骸化してしまう。
この戦いの発起人である長州が「俺はフライングするぞ」の一言で旧世代軍との戦いの終結を早々に一方的に宣言したことと斎藤が猪木との共闘を嫌い再び戦うことを選んだためジャパン(長州)とUWF(前田)の間で確執ができ、ついに1987年11月19日、後楽園ホールで行われた維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて前田が長州を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという俗に言う「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負い、プロレスにおける暗黙のルールである「故意に相手に怪我をさせるような攻撃はしてはならない」という禁を破った前田はその行為を内外から問題視されて無期限出場停止処分となった(前田本人は「長州さんに蹴りを入れる前に肩を叩き ”今から蹴りますよ” と合図を送ったが、肩を叩かれた長州さんが横を向いてしまった」「事件ではなく事故」と語っている)。その解除条件としてメキシコ遠征を言い渡されるものの、これを拒否。1988年2月1日付けで新日本から解雇通達を受ける。
第2次UWF
ファン及び専門誌では新生UWFとも呼ばれる。
活動再開
1988年、前田が設立。第1次UWFはスポンサーを見つけられず興行的に苦戦して活動停止に追い込まれたが新日本プロレスとの業務提携時にUWFスタイルをテレビを通じてアピール出来た事から全国的にファンの支持を得る事に成功して5月12日、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。チケットがわずか15分で完売する等、旗揚げ前から異常なまでの盛り上がりを見せた。所属選手6名のみでの再出発となったが、前田日明は挨拶で「選ばれし者の恍惚と不安2つ我あり」と心境を述べた。
6月11日、札幌中島体育センターで復活興行を開催。復活興行2戦目では会社を休んで遠方からやってくるファンもいたほどで(ターザン山本が「密航」なる言葉まで生み出した)放送作家の高田文夫や作家の夢枕獏も札幌まで足を運んだと言う。チケットぴあなどのチケット販売代理業を有効活用してレーザーライトやスモークによる会場演出といった旧来のプロレスとは異なる新しさを持っていた。
旗揚げ当初から興行も従来からのシリーズ巡業形式ではなく月1回の単発形式に絞って各地の主要な会場を回るビッグマッチ形式を採用して連戦による選手の著しいコンディション低下を予防。試合では蹴りによるハードヒットを繰り返すためコンディション維持を考えるとそうせざるを得なかった、ということもある。大会ごとの記念グッズを作ったり前の大会を完全収録したビデオを次の大会でいち早く販売することで収益を上げて興行数の少なさを補う、など新たな試みがなされた。これらの試みは所属選手のクオリティーの高い試合を生み出す要因となり、またファンにも「いち早くUWFを観たければ会場に行くしかない」という飢餓感を刺激して大成功を収める。
8月13日、有明コロシアムでシュートボクシングとの合同興行「真夏の格闘技戦」でメインイベントに前田対ジェラルド・ゴルドー戦をおいて成功させると以降も大会を開く度にチケット完売記録が続いていき当時、冬の時代を迎えていたプロレス界において唯一天井知らずの人気を獲得してトップを独走していった。またこの後からルール面での整備にも着手し、第1次UWFでも試された。
- 試合は全てシングルマッチ1本勝負。
- 勝敗はKOもしくはギブアップのみでピンフォールなし。
- 5度のダウン(3度のロープエスケープで1度のダウンと算定)でTKO負け。
以上の基本的な枠組みを決定して高田延彦、山崎一夫が早い段階で前田に匹敵する力をつけていったことによって団体内のパワーバランスも安定する。その後、高田対ボブ・バックランド戦や前田対クリス・ドールマン戦などで話題を振りまく。
1989年、新日本を退団した藤原喜明、船木誠勝、鈴木実(現:鈴木みのる)が入団し、駒がそろったところで11月29日に東京ドームで「U-COSMOS」を開催。チケット発売日だけで4万枚のセールスを記録して最終的に6万人を動員。
ノーマン・スマイリー、マック・ローシュ、バート・ベイル、ジョニー・バレット、ウェリントン・ウィルキンス・ジュニア、ディック・レオン・フライ等の常連外国人選手もいるにはいたがスタイルの違いや招聘にかかる諸経費の問題からなかなか定着する新顔は現れず、また日本人選手が充実していたことで、ほとんどの試合は日本人対決で賄われていった。
崩壊
順風満帆かと思われていたがスポンサーでもあったメガネスーパーのプロレス界参入によりSWSとの業務提携話が発生したためフロントと選手間に不協和音が流れ始める。さらに社長の神真慈と一部フロントの会社経理における不正疑惑が発覚して、それを糾弾した前田が会社への背任行為として5ヶ月間の出場停止処分を受けた[15]。1990年12月1日、松本運動公園体育館(現・信州スカイパーク体育館)で船木の呼びかけにより欠場中の前田を含む全選手がリングに勢揃いして万歳三唱、選手の一致団結をアピールし新団体設立を印象付けたが最終的には社長の神が所属選手全員を解雇して、これをもって解散[16]。
その後、前田が先頭に立って選手主体による新団体(当時、俗に第3次UWFとも称された)を設立する方向に動き1991年1月、前田宅で藤原を除いた主力選手によるミーティングを行った。新団体の準備を進めていた前田は結束を呼びかけたものの宮戸優光や安生洋二らから不満が噴出。結局、前田がその場で解散を宣言して同年、プロフェッショナルレスリング藤原組、UWFインターナショナル、リングスの3団体に分裂。前田は選手達が解散後すぐに、それぞれのプロレス団体を設立した事について「事前に準備していなければ、こんなに早く会社を起こせる訳がない。自分の知らない所で、みんな動いていた事にショックを受けた」と後に明かしているが、藤原喜明はKAMINOGE誌上でその見解を否定している。
タイトル
- 第1次UWF
- UWFヘビー級王座
- 当初はWWF(現:WWE)会長だった新間寿の伝手でWWFインターナショナル・ヘビー級王座(UWF版)だったが新日本プロレスに全く同じ名前のWWFインターナショナル・ヘビー級王座が存在して同じ名前の王座が2つ存在すると言う異常な事態となった(数年前に復活して藤波辰爾と長州力が争っていた王座)。王者であった前田はWWFのエリアで防衛戦を1度だけ行ったが、それが最初で最後の防衛戦となり新間がUWFから離れた事によってWWFとの関係も無くなり王座はUWFヘビー級王座と改称されたが防衛戦は行われないままUWFヘビー級王座は自然消滅となった。
- 第2次UWF
- 王座は設けていない。
所属選手
- 第1次UWFと第2次UWFの両方に所属
- 前田日明
- 高田延彦
- 山崎一夫
- 藤原喜明
- 中野龍雄
- 宮戸成夫
- 安生洋二
- 第1次UWFのみ所属
- スーパー・タイガー
- 木戸修
- 剛竜馬
- グラン浜田
- マッハ隼人
- ラッシャー木村
- 空中正三
- 神田秀宣
- 岡本剛
- 広松智
- 星名浩
- 森泰樹
- 第2次UWFのみ所属
- 船木誠勝
- 鈴木みのる
- 田村潔司
- 垣原賢人
- 冨宅祐輔
- 内藤恒仁
高山善廣(練習生)
長井弘和(練習生)
海老名保(練習生)
森重正臣(練習生)
スタッフ、役員
- 第1次UWFと第2次UWFの両方に所属
北沢幹之(レフェリー)
ミスター空中(第1次UWFは選手兼レフェリー、第2次UWFはレフェリーに専念)
神真慈(第1次UWFはリングアナウンサー、第2次UWFは代表取締役社長)
- 第1次UWFのみ所属
遠藤光男(レフェリー)
浦田昇(代表取締役社長)
- 第2次UWFのみ所属
野呂田秀夫(リングドクター)
川崎浩市(エージェント)
鈴木浩充(専務取締役)
来日外国人選手
参考文献
- 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.2』 ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583621876。
- 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.3』 ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583622026。
- 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.8』 ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699。
- 『Gスピリッツ Vol.46』 辰巳出版、2017年。ISBN 4777820041。
- 『U.W.F.最強の真実』 宮戸優光著、 エンターブレイン、2003月6月27日。ISBN 9784757715288
- 『U.W.F.戦史』 塩澤幸登著、河出書房新社、2008年8月5日。ISBN 9784309907864
- 『U.W.F.戦史〈2〉1987年〜1989年新生U.W.F.復活編』 塩澤幸登著、河出書房新社、2009年8月1日。ISBN 9784309908434
- 『U.W.F.戦史3』 塩澤幸登著、河出書房新社、2010年11月22日。ISBN 9784309908946
- 『1984年のUWF』 柳澤健著、文藝春秋、2017年1月27日。ISBN 9784163905945
- 『証言UWF 最後の真実』 宝島社、2017年5月17日。ISBN 9784800271235
- 『逆説のプロレスVol.9 新日本プロレス vs UWF「禁断の提携時代」マット秘史』双葉社、2017年8月17日。ISBN 9784575456967
- 『疾風怒涛!! プロレス取調室 UWF&PRIDE格闘ロマン編』 玉袋筋太郎著、毎日新聞出版、2017年10月11日。ISBN 9784620324760
- 『前田日明が語るUWF全史 上』 河出書房新社、2017年12月8日。ISBN 9784309921365
- 『前田日明が語るUWF全史 下』 河出書房新社、2017年12月8日。ISBN 9784309921372
- 『証言UWF 最終章 3派分裂後の真実』 宝島社、2018年5月23日。ISBN 9784800283504
- 『ありがとうU.W.F. 母さちに贈る』 鈴木浩充著、MIKHOTO出版、2018年7月10日。ISBN 9784991022906
- 『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』 田崎健太著、集英社インターナショナル、2018年7月26日。ISBN 9784797673562
脚注
^ 山崎一夫が1998年8月2日のG1 CLIMAX決勝戦、橋本真也戦入場時、2000年2月26日、田村潔司がリングスKOK決勝トーナメント1回戦、ヘンゾ・グレイシー戦入場時にそれぞれ使用
^ 山本小鉄、前田日明 『日本魂』 講談社
- ^ ab『Gスピリッツ Vol.46』P30
- ^ ab『ゴング格闘技』8月号、日本スポーツ出版社、1987年。
- ^ ab北之口太 「大山の告白」『一撃の拳 松井章圭』 講談社(原著2005年4月20日)、第一刷、214頁。ISBN 4062127423。
^ 『Gスピリッツ Vol.46』P32
^ 『日本プロレス事件史Vol.8』P33
^ 『日本プロレス事件史Vol.2』P77
- ^ abcd『日本プロレス事件史Vol.3』P32-34
^ 金沢克彦 (2012年2月2日). “前田日明vs上田馬之助|金沢克彦オフィシャルブログ「プロレス留年生 ときめいたら不整脈!?」”. 2015年9月11日閲覧。
^ 前田日明の弁によれば「やれば必ずどちらかが大怪我をする。それでもいいのか?」と尋ねたが黙殺されたうえ「おい、どうした。セメントだぞ」とけしかけられたという。なおアンドレ・ザ・ジャイアントのセコンドに付いていたのは若松市政。
^ この藤波辰巳(現:藤波辰爾)の流血事件については前田日明が引退後に詳しく解説しておりレガースの下に履いていたシューズの金具が額を切ってしまったと語っている。またミスター高橋も著書の中で偶発的な事故だったと明言している。
^ “蝶野が明かす「旅館丸ごと破壊」の真実”. 東京スポーツ (2017年1月10日). 2017年10月23日閲覧。
^ “武藤敬司が伝説の“旅館破壊事件”語る 900万円の損害賠償”. デイリースポーツ (2017年2月23日). 2017年10月23日閲覧。
^ 『俺たちのプロレス UWFあの頃と今』P84(2014年、双葉社、ISBN 4575454419)
^ 『日本プロレス事件史Vol.3』P52