道場
講談社旧野間道場
道場(どうじょう)は、武道の稽古を行う施設である。
目次
1 歴史
1.1 江戸時代
1.2 明治・大正・昭和前期
1.3 昭和後期・平成
2 養成道場
3 脚注
3.1 注釈
3.2 出典
4 参考文献
5 関連項目
歴史
江戸時代
道場という言葉は、梵語のbodhi-manda(菩提樹下の金剛座)の訳語で、仏道修行の場を指した。これが転じて江戸時代の初め頃に武術の稽古場のことを指す事例も出てきたが、一般的には「稽古場」と呼ばれていた[1]。
戦国時代の末期は、例えば上泉信綱が柳生宗厳の居城におもむき教授するなどのように、師範は全国を廻って弟子のところに訪ねており、稽古場は個人屋敷を利用するなど専門の施設はなかった。ある程度戦乱が治まると、宮本武蔵との戦いで有名な吉岡流などのように定住して稽古場を持つようになっていったものと思われる。
屋外や土間を稽古場とすることが多かったが、江戸時代中期以降、剣術では竹刀稽古、柔術では乱取り稽古が中心になっていったため、板張りや畳の稽古場が整備されるようになった。江戸など人口の多い地域、例えば江戸三大道場などでは入門者が多数に上り、それまでの個人的な小さい稽古場から大きな稽古場へと変化した。また各藩においても藩校に稽古場を併設する藩が多かった。
この頃の稽古場は師範が弟子の稽古を総見する床があり、そこに日本神話から、「剣の神、武の神」とされた「鹿島大神宮」(タケミカヅチ)、「香取大明神」(経津主神)の二柱の神名を書いた掛軸が掛けてあった。
明治・大正・昭和前期
明治時代以降、剣道や柔道の稽古場を「武道場」と呼ぶようになり、「武」を略して「道場」と呼ぶことが一般的になった[1]。1899年(明治32年)、大日本武徳会は京都に武徳殿を造営し、その後各府県に大日本武徳会支部として武徳殿が整備された。また、学校教育に剣道、柔道が採用されたことにより、学校に道場が設けられた。
1936年(昭和11年)、文部省主催の体育運動主事会議において、「道場ニハ神棚ヲ設クルコト」という答申が行われ、学校の道場への神棚設置が義務化された[1]。神棚は江戸時代の伝統的な道場には無く、この頃から国家神道の影響を受けて設置されるようになったものである[注釈 1]。
太平洋戦争敗戦後、占領軍指令により国家神道が廃止され、また学校教育への武道が禁止されたことに伴い、1946年(昭和21年)1月12日に大日本武徳会から理事長・藤沼庄平名義で都道府県支部長宛に「神殿、神棚等撤廃ニ関スル件」が発せられ、神棚は撤去された。ただし現代においても神棚を祀っている道場は少なくない。また、日章旗を掲げている道場もある[注釈 2]。
昭和後期・平成
現代では都市の過密化や地価の高騰などにより、個人が道場を所有することは難しくなり、体育館や雑居ビルの一室を借りている例も多い。
警察では柔道、剣道、逮捕術が必修とされていることから、各都道府県の警察署、警察学校、警察本部内全てに道場が完備され、全国で見ると数え切れないほどの道場数になる。警察署が柔剣道教室を開き、道場を小中学生に開放していることも多い。
養成道場
上述の通り「道場」自体が武道関連の人材を養成する場をあらわす名称であるが、ここから派生して「養成道場」と名乗る講習セミナー等が以下の通り存在する。
ニューリーダー養成道場
温泉指南役養成道場
整体院養成道場
管理職/管理者養成道場- 次世代監督者養成道場
- 地域学芸員の養成道場
コンサルタント、セミナー講師養成道場
福永法源法の華億万長者養成道場
浄華教師養成道場- スピリチュアル・コーチ養成道場
囲碁棋士養成道場永代塾- プロコン(中小企業診断士)養成道場
TAKAみちのくのプロレスラー養成道場
整体施療師養成目黒整体師養成道場
みちのく雪かき職人養成道場(山形県村山総合支庁)
経営者・後継者養成道場- コーダー道場
脚注
注釈
^ このことについて武道史研究者の中村民雄は、「『道場』は極めて近代的なものであることが分かろう」と述べている[2]。
^ 日本武道館は、いかなるイベントの場合でも日章旗を降ろしてはいけないことになっている。
出典
- ^ abc日本武道学会剣道専門分科会編『剣道を知る事典』122-123頁、東京堂出版
^ 日本武道学会剣道専門分科会編『剣道を知る事典』123頁、東京堂出版
参考文献
日本武道学会剣道専門分科会編『剣道を知る事典』122-123頁、東京堂出版
関連項目
- 道場破り
- 訓練道場
旧武徳殿(現在、京都市武道センターの施設)
平安道場(現存しない。創建当時は武徳殿、通称北野武徳殿)- 武道館
- 弓道場
- 土俵
- 修行
- トレーニングジム
- ボクシングジム
- 体育館
- 競技場
野間道場 - 講談社が社員教育を目的として設立した剣道場