道元




















































道元

正治2年1月2日 - 建長5年8月28日(旧暦)
(1200年1月19日 - 1253年9月22日(ユリウス暦))

道元禅師
諡号
仏性伝燈国師[1]、承陽大師[2]
尊称
高祖
生地
山城国乙訓郡久我村 誕生寺
没地
京都
宗旨
曹洞宗
寺院
永平寺

天童如浄
弟子
孤雲懐奘
著作
『正法眼蔵』、『永平清規』

永平寺承陽殿

道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月19日)- 建長5年8月28日(1253年9月22日))は、鎌倉時代初期の禅僧[3]。日本における曹洞宗の開祖[3]。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄[3]。一般には道元禅師と呼ばれる。徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた[注釈 1]




目次






  • 1 生い立ち


  • 2 主な活動


  • 3 教義・思想


  • 4 著書


  • 5 脚注


    • 5.1 注釈


    • 5.2 出典




  • 6 参考文献


  • 7 関連書籍


  • 8 関連項目


  • 9 外部リンク





生い立ち


道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に生まれた。幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。


一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった[4]。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。


四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。


伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って[3]、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。



主な活動




道元禅師示寂の地




  • 建暦3年(1213年) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。[要検証]


  • 建保2年(1214年) 天台座主公円について出家し[3]、仏法房道元と名乗る。

  • 建保3年(1215年) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める[3]

  • 建保5年(1217年) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事[3]


  • 貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り[3]

  • 南宋の宝慶1年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟[3]。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ[3]曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。[要追加記述]その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)である。


  • 安貞2年(1228年) 帰国[要検証]。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある。(一夜碧巌)


  • 天福元年(1233年) 京都深草に興聖寺を開く[3]

  • 1234年 孤雲懐奘が入門[3]。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した[3]。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。


  • 寛元元年(1243年)7月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転[3]。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)

  • 寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。

  • 寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。


  • 宝治2-3年(1248-49年)[要検証]、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。


  • 建長5年(1253年) 病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘[注釈 2]に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で[要出典]没す[3]。享年54(満53歳没)。死因は瘍とされる。



教義・思想


  • ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる[3]。道元のこの立場は修証一等本証妙証と呼ばれ、そのような思想は75巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の12巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった[3]


  • 成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。


  • 鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。

  • 道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている[注釈 3]






著書



  • 『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう、七十五巻本+十二巻本+補遺)

    • 『正法眼蔵 正法眼蔵随聞記』 (日本古典文学大系81、岩波書店、初版1965年)
       西尾実・鏡島元隆・酒井得元・水野弥穂子校注

    • 『現代語訳正法眼蔵』(全12巻、西嶋和夫訳 金沢文庫、1970年)

    • 『全巻現代訳正法眼蔵』(全2巻、高橋賢陳訳 理想社、1971年)

    • 『正法眼蔵』(全4巻、水野弥穂子校注、岩波文庫、1990年-93年、ワイド版1993年)

    • 『現代語訳 正法眼蔵』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社、河出文庫(新版)、2004年)



  • 『永平廣録』(えいへいこうろく、全十巻)

    • 『永平廣録』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社 上中下、2005年)

    • 『永平廣録 道元禅師の語録』(篠原壽雄、大東出版社全3巻、1998年) 

    • 『永平廣録提唱』(西嶋和夫訳、金沢文庫11分冊、1997年)

    • 『道元和尚廣録』(寺田透訳、筑摩書房 上下、1995年)

    • 『道元禅師語録』(鏡島元隆編、講談社学術文庫、1990年)- 文庫判は各抄版

    • 『道元「永平広録・上堂」選』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫)

    • 『道元「永平広録・頌古」』(大谷哲夫全訳注、同上)

    • 『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(大谷哲夫全訳注、同上、2005-2014年)



  • 『普勧坐禅儀』-『永平広録』巻八
    • 『道元「小参・法語・普勧坐禅儀」』(大谷哲夫全訳注、講談社学術文庫、2006年)


  • 『永平清規 (典座教訓、対大己法、弁道法、知事清規、赴粥飯法、衆寮箴規)』
    読みは(えいへいしんぎ(てんぞきょうくん、たいたいこほう、べんどうほう、ちじしんぎ、ふしゅくはんほう、しゅうりょうしんぎ))


    • 『永平清規 典座教訓提唱』、『赴粥飯法提唱』(各・西嶋和夫、金沢文庫、1991-92年)

    • 『道元禅師の『典座教訓』を読む』(秋月龍珉、ちくま学芸文庫、2015年)

    • 『道元・日々の生きかた 典座教訓・赴粥飯法・衆寮箴規』(佐藤達全、大法輪閣、2001年)

    • 『典座教訓 赴粥飯法』(中村璋八ほか2名訳注、講談社学術文庫、1991年)



  • 『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞうずいもんき) - 懐奘編で道元の言行録。

    • 『正法眼蔵随聞記 新校註解』(大久保道舟校註 山喜房仏書林、1958年)

    • 『正法眼蔵随聞記』(古田紹欽訳注 角川文庫、1960年)

    • 『正法眼蔵随聞記』(和辻哲郎校訂・中村元改訂解説、岩波文庫、1982年(改版)、ワイド版1991年)

    • 『正法眼蔵随聞記』(篠原壽雄訳著、大東出版社〈大東名著選〉、1987年)

    • 『正法眼蔵随聞記』(水野弥穂子訳、ちくま学芸文庫(新版)、1992年)

    • 『正法眼蔵随聞記 現代語訳』(池田魯参訳、大蔵出版、1993年)

    • 『正法眼蔵随聞記』(山崎正一全訳注、講談社学術文庫(新版)、2003年)



  • 『寶慶記』(ほうきょうき、在宋中の道元が師とかわした問答の記録)

    • 『宝慶記-道元の入宋参学ノート』(池田魯参、大東出版社、1989年、新装版2004年)

    • 『道元禅師 宝慶記 現代語訳・註』(水野弥穂子、大法輪閣、2012年)

    • 『道元「宝慶記」全訳注』(大谷哲夫、講談社学術文庫、2017年)



  • 道元禅師全集 原文対照現代語訳』 (全17巻、鏡島元隆監修、水野弥穂子・石井修道・角田泰隆ほか訳註、春秋社、1999年‐2013年)



脚注



注釈





  1. ^ なお、ハイデガーに言及する論調もあるが、これを裏打ちする一次資料は見出されていない。ヤスパースについても同様である。


  2. ^ 懐奘は『正法眼蔵随聞記』を記した[5]


  3. ^ 「今人云はく、行じ易きの行を行ずべし、と。この言尤も非なり、太だ佛道に合はず。…好道の士は易行に志すことなかれ。若し易行を求むれば、定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざるものか[6]」。




出典





  1. ^ 1854年(嘉永7年)孝明天皇


  2. ^ 1879年(明治12年) 明治天皇

  3. ^ abcdefghijklmnopq中村元ほか(編) 『岩波仏教辞典』 岩波書店、2002年10月、第二版、752-753頁。


  4. ^ 道元の父母については、中尾良信編『孤高の禅師 道元』(吉川弘文堂,2003)50頁以下参照。


  5. ^ “正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年8月31日閲覧。


  6. ^ 『永平初祖學道用心集』の「第六、参禅に知るべき事」より。




参考文献




  • 里見弴『道元禅師の話』(岩波書店/新版岩波文庫、1994年)

  • 竹内道雄『道元 人物叢書』(吉川弘文館、1962年)


  • 高橋新吉『道元禅師の生涯』(宝文館、1963年)


  • 圭室諦成『道元』(新人物往来社、1971年)


  • 今枝愛真『道元 坐禅ひとすじの沙門』(NHKブックス:日本放送出版協会、1976年)


  • 菅沼晃『道元辞典』(東京堂出版、1977年)


  • 平野雅章『道元の食事禅』〈日本料理探求全書第十三巻〉(東京書房社、1979年)
    (「典座教訓」と「赴粥飯法」の全文および現代語訳・解説)


  • 鏡島元隆・玉城康四郎編『講座道元』(全6巻 春秋社、1979年-1981年)


  • 水野弥穂子『道元禅師の人間像』〈岩波セミナーブックス〉(岩波書店、1995年)


  • 玉城康四郎『道元』(上下 春秋社、1996年)

  • 鏡島元隆『道元禅師』春秋社、1997年)

  • 大谷哲夫『永平の風 道元の生涯』(文芸社 2001年)


  • 立松和平『道元禅師』上・大宋国の空/下・永平寺への道(東京書籍、2007年/新潮文庫 上中下巻、2010年6月)

  • 『道元禅師と永平寺〜CD版』(日本音声保存)

  • Dogen "Shobogenzo" Ausgewaehlte Schriften.

    ロルフ・エルバーフェルト、大橋良介編でドイツ語訳

    〈井筒ライブラリー・東洋哲学3〉(慶應義塾大学出版会、2006年)





関連書籍



    • 「道元」(同所収)49-61頁

    • 「山中の宗僧」(同所収)63-76頁。

    • 「寶慶寺の雲水」(同所収)77-89頁。

    • 「寂円の画像」(同所収)91-104頁。



関連項目



  • 道元 (小惑星)


  • 栄西-明全

  • 永平寺

  • 總持寺

  • 誕生寺 (京都市)


  • 孤雲懐奘-徹通義介-瑩山紹瑾


  • 禅 ZEN - 2009年公開の日本映画。道元の生涯を描く。中村勘太郎が演ずる。



外部リンク






  • 曹洞禅ネット








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