岩城隆恕
凡例 岩城隆恕 | |
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 明和2年3月18日(1765年5月7日)[1] |
死没 | 文化14年5月21日(1817年7月5日)[1] |
別名 | 熊吉→采女[1] |
戒名 | 徳臣院義嶽有勝[1] |
墓所 | 東京都板橋区小豆沢の総泉寺[1] |
官位 | 従五位下・伊予守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 出羽亀田藩主 |
氏族 | 岩城氏 |
父母 | 父:岩城隆恭、母:妾[1] |
兄弟 | 隆恕(次男)、八千姫(恵眼院、細川斉茲正室)、信(七女、織田信応正室)ら |
妻 | 正室:松平乗祐娘 |
子 | 隆喜、前田長粲(前田長英養子)、 山本茂高、隆謨、恵照院(前田利和正室)等、計5男12女 |
岩城 隆恕(いわき たかのり)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。出羽国亀田藩7代藩主。
明和4年(1767年)、6代藩主・岩城隆恭の次男として生まれる。天明元年(1781年)閏5月1日、江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見する[1]。天明2年(1782年)12月29日、隆恭の死去により家督を継いだ[1]。天明4年(1784年)12月16日、従五位下・伊予守に叙位・任官する。天明6年(1786年)、駿府加番に任じられる。
文化14年(1817年)5月21日、死去。享年53。長男・隆喜が跡を継いだ。
脚注
- ^ abcdefghi『亀田岩城家譜』
出典
- 『亀田岩城家譜』
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