中島湘煙
中島 湘煙(なかじま しょうえん、文久3年12月5日(1864年1月13日) - 明治34年(1901年)5月25日)は、明治時代の女権拡張運動家・女性著作家である。本名は俊(とし)、のち俊子(としこ)に改名。旧姓岸田(きしだ)。土佐藩出身の神奈川県令・中島信行の後妻となり、活動を展開した。
年譜
- 1863年 12月5日(旧暦)、現在の京都府に生まれる。
1877年 京都府女子師範学校に入学するが、間もなく病気のため退学する。
1879年 槙村正直・山岡鉄舟の推挙で宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(後の昭憲皇太后)に漢学を進講する。
- ※出仕した時期は1878年とする説もある。
1881年 秋に御用掛を辞め、各地を遊歴する。その際、高知で自由党員の坂崎紫瀾・宮崎夢柳を知る。
1882年 1月、京都に戻る。
- 同年4月、中島信行らの日本立憲政党の大阪での演説会で「婦女の道」の題で演説。以後1884年まで政治演説に従う。
1883年 10月、滋賀県大津での演説後、拘引され入獄する。
1884年 1月、上京。
- 同年5月、星亨主宰の新聞『自由燈(じゆうのともしび)』に論説を発表する。
1885年 中島信行とともに受洗する。
1886年 この頃中島家に入る。巌本善治主宰の『女学雑誌』に湘煙の筆名で論説を発表する。自宅で塾を開く。
1887年 7月、翻案『善悪の岐(ふたみち)』を粧園女史の筆名で『女学雑誌』に発表。
- 同年9月頃、新栄女学校の和漢学科主任になる。
- 同年12月、保安条例により信行とともに東京を退去し、横浜に移る。
1888年 1月、『女学雑誌』に漢詩を発表する。
- 同年3月、神奈川県久良岐郡戸太町太田(現:横浜市南区南太田町)に移住。
- 同年5月頃、フェリス和英女学校名誉教授になる。
1889年 2月、小説『山間の名花』を『都の花』に発表する。
1892年 11月、イタリア公使になった信行とともにローマに出発する。
1893年 9月、病気のため信行とともに帰国する。
1897年 1月、小説『一沈一浮』を『文芸倶楽部』に発表する。
1898年 11月、神奈川県大磯町に転居し、夫婦ともに療養する。
1899年 1月、随筆・日記『大磯だより』を1900年3月まで『女学雑誌』に発表する。
- 同年3月26日、信行が肺結核のため54歳(数え年)で逝去する。
1901年 5月25日午後1時15分に肺結核のため大磯で逝去する。享年39(数え年)。法号は葆光院殿月洲湘烟大姉[1]。遺骨は大磯の大運寺に埋葬される。
1902年 3月、石川栄司(育成会主幹)・藤生てい(藤生貞子)編の遺稿集『湘烟日記』が育成会より刊行される。
脚注
^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)233頁
外部リンク
湘烟日記国文学研究資料館