トルコ










トルコ共和国

Türkiye Cumhuriyeti











トルコの国旗 トルコの国章
(国旗) (国章)


国の標語:Yurtta Sulh, Cihanda Sulh
(トルコ語: 国に平和、世界に平和)


国歌:İstiklal Marşı(トルコ語)
独立行進曲


トルコの位置









































公用語

トルコ語

首都

アンカラ
最大の都市

イスタンブール

政府












大統領

レジェップ・タイイップ・エルドアン

副大統領

フワット・オクタイ


面積











総計

783,562km2(37位)
水面積率
1.3 %


人口











総計(2012年)

75,627,384人(18位)

人口密度
88人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2013年) 1兆5,615億[1]トルコリラ


GDP (MER)





合計(2013年) 8,200億[1]ドル(18位)


GDP (PPP)











合計(2013年)
1兆4,435億[1]ドル(17位)
1人あたり 18,874[1]ドル



建国
 - 宣言

共和制宣言
1923年10月29日

通貨

トルコリラ (TRY)

時間帯

UTC +3(DST:なし)

ISO 3166-1
TR / TUR

ccTLD

.tr

国際電話番号
90



トルコ共和国(トルコきょうわこく、トルコ語: Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。


北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。




目次






  • 1 国名


  • 2 歴史


  • 3 政治


  • 4 軍事


  • 5 国際関係


    • 5.1 トルコとヨーロッパ


    • 5.2 トルコとアジア


    • 5.3 日本国との関係


    • 5.4 ギリシャとの関係


    • 5.5 アルメニア共和国との関係


    • 5.6 アゼルバイジャン共和国との関係


    • 5.7 MIKTA




  • 6 地方行政区分


    • 6.1 主要都市




  • 7 地理


    • 7.1 気候




  • 8 経済


    • 8.1 工業


    • 8.2 観光


    • 8.3 農業


    • 8.4 鉱業


    • 8.5 経済成長


    • 8.6 貿易


    • 8.7 交通




  • 9 国民


    • 9.1 民族


    • 9.2 宗教


    • 9.3 言語


    • 9.4 人名


    • 9.5 教育




  • 10 文化


    • 10.1 食文化


    • 10.2 文学


    • 10.3 音楽


    • 10.4 建築


    • 10.5 世界遺産


    • 10.6 祝祭日




  • 11 メディア


    • 11.1 インターネット




  • 12 スポーツ


  • 13 写真


  • 14 脚注


  • 15 参考文献


  • 16 関連項目


  • 17 外部リンク





国名


トルコ語による正式国名は、Tur-Türkiye Cumhuriyeti.ogg Türkiye Cumhuriyeti(テュルキイェ・ジュムフリイェティ)[ヘルプ/ファイル]、通称 Türkiye(テュルキイェ)である。公式の英語表記は、Republic of Turkey。通称 Turkey(ターキー)。日本語名のトルコは、ポルトガル語で「トルコの」を意味する形容詞turcoに由来する。漢語表記の土耳古
英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey, Turquie など、「トルコ人の国」を意味する名でこの国家を呼んできたが、元来多民族国家であったオスマン帝国の側では「オスマン国家」などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。


Türk(テュルク)は、アナトリアへの移住以前、中央アジアで暮らしていたトルコ人が、モンゴル高原を中心とする遊牧帝国、突厥を築いた6世紀頃にはすでに使われていた民族名だが、語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に、突厥の建国を以って「トルコの建国」と考えている。




歴史



アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末頃から鉄をつくる技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる[2]


トルコの国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)とトルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・東ローマ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた地である。


一方、北アジアではトルコ(テュルク)系民族として突厥が552年にモンゴル系民族の支配から独立した。現在のトルコ共和国ではこれを以てトルコの最初の建国とみなしている。その後、東西に分裂し、中央アジアのアラル海東岸に割拠した西突厥の部族の一つから部族長ツゥグリル・ベグが出て西進を始めボハラ地方を部族で占領しセルジューク朝成立させた。さらに西進して1055年バクダッドに入城、アッバース朝のカリフよりスルタンに指名された。事実上アッバース朝に変わってセルジューク朝がメソポタミアの支配者となる。しかし東アジアで覇権争いに敗れた契丹系の西遼が中央アジアに移動し、父祖の土地を占領すると、これと争って大敗して急激に衰え、後にフラグの侵攻を受けて滅亡する。


11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がもアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族と対立・混交しつつ次第に定着していった。これら群小トルコ系君侯国はチンギスハーンの孫フラグのバグダッド占領、イルハーン帝国成立後もアナトリア西端に割拠して生き残り、その一つから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブールを都とし、東はアゼルバイジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。モンゴル系のチムールにアンゴラ(アンカラ)の戦いで敗れ一時滅亡するがチムールの侵略に、アナトリア南部の険に依って抵抗し、命脈を保った一族がチムールの死後にオスマン朝を復興した。


19世紀、衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立した。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した。また、東部では、アルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人たち(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たち)は国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした。この抵抗運動をトルコ独立戦争(1919年5月)という。1920年4月アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。シャリーアは国法としての地位を喪失した。トルコは大陸法だけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。


第二次世界大戦後、ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年NATOに、また1961年OECDに加盟した。NATOとOECD加盟の間は西陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年ごろ、トルコはユーロバンクの資金調達先となったので外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量をぐんぐん増やしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するトルコは、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。


国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。


またキリスト教(正教会)を国教とするアルメニア共和国とも緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派はトルコ東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。ナブッコ・パイプラインの拡張にかかわる国際問題となっている。



政治




EUとトルコ





レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領



1982年に定められた憲法では、世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており、憲法の目的(世俗主義、他)を達成するためにそれぞれの役割を果たすことが期待されている。このことが、世俗派と宗教的保守派との対立を助長し、その対決が終息しない遠因ともなっている。立法府として一院制のトルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi、定数550名、任期5年)がある。行政は議会によって選出される国家元首の大統領(任期7年)が務めるが、首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は、下級審である司法裁判所、刑事裁判所、および控訴審である高等控訴院、憲法裁判所で構成され、通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断、党員の政治活動禁止と言った政治的な事項についても判断できる。


その後、2007年の憲法改正(英語版)により大統領は国民投票により選出されることとなり、また任期も7年から5年へと短縮された。2010年の憲法改正(英語版)を経たのち、2017年の憲法改正(英語版)では大統領権限が強化され、議院内閣制を廃止することが定められている。



政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式を採っている。この制度のために、2002年の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された公正発展党 (AKP) と、野党で中道左派系・世俗主義派の共和人民党 (CHP) の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。2007年7月22日に実施された総選挙では、公正発展党が前回を12ポイントを上回る総得票率 47 % を獲得して圧勝した。共和人民党が議席を減らし、112議席を獲得。極右の民族主義者行動党 (MHP) が得票率 14.3 % と最低得票率 10 % 以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。



ムスタファ・ケマル・アタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ(憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議 (Milli Güvenlik Kurulu) が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。1980年の二度目のクーデター以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は1997年にイスラム派の福祉党主導の連立政権を崩壊に追い込み、2007年には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経てアブドゥラー・ギュル外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、軍が最早以前のように安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部にこもったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。


2009年3月29日、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党・公正発展党が世俗派野党・共和人民党などを押さえ勝利した。


2010年9月12日には、与党・公正発展党 (AKP) が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合 (EU) 加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58%の支持で承認された。投票率は 73 % であった。エルドアン首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向けトルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合 (EU) の執行機関欧州委員会は、トルコのEU加盟に向けての一歩だと讃えた[3][4][5]


2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任し、アフメト・ダウトオール外相が首相となったが、2016年5月22日にはビナリ・ユルドゥルムが新たな首相に就任した。


その後、2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され、2018年7月9日に首相職は廃止された。



軍事





トルコ陸軍のコブラ装甲車



トルコには軍事組織として、陸軍・海軍・空軍で組織されるトルコ軍 (Türk Silahlı Kuvvetleri) と内務省に所属するジャンダルマ(憲兵隊、Jandarma)・沿岸警備隊 (Sahil Güvenlik) が置かれている。トルコ政府は2011年末までに金銭を納めることで兵役を免除可能とすることで事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが、三軍併せておおむね65万人程度の兵員数である。また、ジャンダルマ・沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍・海軍の指揮下にはいることとされている。ただし、ジャンダルマについては、平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。


指揮権は平時には大統領に、戦時には参謀総長 (Genelkurmay Başkanı) に属すると憲法に明示されており、戦時においてはトルコには文民統制は存在しない。また、首相および国防大臣には軍に対する指揮権・監督権は存在しない。ただし、トルコ軍は歴史的にも、また現在においてもきわめて政治的な行動をとる軍隊であり、また、国防予算の 15 % 程度が議会のコントロール下にない軍基金・国防産業基金等からの歳入であるなど、平時においてもトルコ軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果、軍はいわば第四権と言った性格を持ち、世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的・社会的影響力を発揮してきた。


1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗、経済発展に伴う社会の成熟・多様化により、軍部の影響力は以前より低下している。


軍事同盟としては1952年以降NATOに加盟し、1992年以降はWEUに準加盟している。また、1979年それ自体が崩壊するまでCENTO加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年には実際にアメリカ合衆国・イスラエル・トルコの3国で共同軍事演習が行われた。


NATO加盟国としては唯一、中露が主導する非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており、2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。



トルコ南東部においてはPKKとの戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている[6][7]



また2016年には、ペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を結んだ[8]



国際関係



外交面では北大西洋条約機構 (NATO) 加盟国である。また、NATO加盟国としては唯一、非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり、中露との軍事協力も行うなど、もはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。



トルコとヨーロッパ


トルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としている。現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつある。トルコはヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。



トルコとアジア


トルコの国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり、人口でもアジア側が9割弱を占める。



  • 首都アンカラはアジア側に位置し、最大の都市であるイスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがる海峡都市である。

  • 歴史的にもセルジューク朝をはじめイラン(ペルシャ)やイラクの影響が強い。

  • 日本の公式見解では、中東アジアの国として分類されている。



日本国との関係



1890年(明治23年)に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。


日本には多くのトルコ友好協会があり、トルコとの交流が積極的に行われている。


<トルコ政府系団体>



  • ユヌス・エムレ インスティトゥート東京 トルコ文化 センター[9]


  • 東京ジャーミイ・トルコ文化センター(東京)[10]


<トルコ政府連携協会>



  • 日本・トルコ協会(東京)[11]

  • 大阪・トルコ協会(大阪)[12]

  • 九州・トルコ協会(福岡)[13]

  • 北海道日本トルコ友好協会(北海道)[14]

  • 日本・トルコ婦人クラブ(東京)

  • 日本トルコ文化経済交流支援協会(愛知)

  • 日本トルコ友好協会(東京)[15]

  • 砺波市トルコ友好交流協会(富山)

  • 柏崎トルコ友好協会(新潟)

  • 日本ガレノス協会(群馬)[16]

  • 日本トルコ文化協会(京都)[17]

  • 神戸・トルコ友好協会 トルコーべ(兵庫)

  • 和歌山トルコ文化協会(和歌山)

  • 串本トルコ文化協会(和歌山)[18]



ギリシャとの関係



隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコに当たる地域を支配していたが、やがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後、19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立し、「大ギリシャ主義」を掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争、第1次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こり、ギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったためにキプロス独立後にキプロスと北キプロスに分裂した。



アルメニア共和国との関係


隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県などトルコ東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。


一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々、アルメニア王国とトルコの国境は時代により大きく変化しており、国民国家の概念が成立する前から対立が続いた。またトルコはイスラーム信者が多く、アルメニアにはキリスト教を国教にしている宗教対立の側面もある。



アゼルバイジャン共和国との関係







MIKTA


MIKTA(ミクタ)は、メキシコ (Mexico)、インドネシア (Indonesia)、大韓民国 (Korea, Republic of)、トルコ (Turkey)、オーストラリア (Australia) の5ヶ国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。



地方行政区分





トルコの地方行政区画



トルコの地方行政制度はオスマン帝国の州県制をベースとしてフランスに範をとり、全土を県 (il) と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事 (vali) が置かれ、県の行政機関 (valilik) を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い、県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。


県の下には民選の首長を有する行政機関 (belediye) をもった市 (şehir)があり、郡の下には自治体行政機関のある市・町 (belde) と、人口2000人未満で自治体権限の弱い村 (köy) がある。イスタンブール、アンカラなどの大都市行政区 (büyük şehir) は、市の中に特別区に相当する自治体とその行政機関 (belediye) を複数持ち、都市全体を市自治体 (büyük şehir belediyesi) が統括する。



主要都市



トルコの都市人口率は2003年時点で 66.3 % であり、世界平均より20ポイント高く、比較的都市への人口集中が進んでいるといえる。三大都市圏として2大陸にまたがるイスタンブール(都市的地域人口1137万2000人、2007年)、首都アンカラ(372万9000人)、港湾都市イズミル(264万9000人)が挙げられる。その他、都市的地域人口が100万人を超える都市としては、ブルサ(156万2000人)とアダナ(153万人)があり、また同50万人を超える都市は、ガズィアンテプ、コンヤ、アンタルヤ、カイセリ、メルシン、エスキシェヒル、ディヤルバクル、サムスンである。このうち、アナトリア高原など山岳部に位置する都市は、アンカラ、ガズィアンテプ、コンヤ、ディヤルバクル、カイセリ。国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。






  • アンカラ - 首都


  • イスタンブール - 最大の都市

  • アクサライ

  • アダナ

  • アンタキヤ

  • アンタルヤ

  • イズニク

  • イズミル

  • ヴァン

  • エディルネ

  • エスキシェヒル

  • エルズィンジャン

  • エルズルム

  • カイセリ

  • ガズィアンテプ

  • カルス

  • ギョレメ

  • クシャダス

  • コンヤ

  • サフランボル

  • サムスン

  • スィヴァス

  • ダルヤン

  • チャナッカレ

  • ディヤルバクル

  • デニズリ

  • トラブゾン

  • ネヴシェヒル

  • ブルサ

  • ベルガマ

  • ボル

  • ユルギュップ






トルコの国土




地理




トルコの地形図


国土はヨーロッパ大陸とアジア大陸にまたがり、北の黒海と南のエーゲ海・地中海を繋ぐボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡によって隔てられる。北緯35度から43度、東経25度から45度に位置し、東西1600km、南北800kmに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山(国内最高峰で休火山、標高 5137m)がある。


トルコは国内に多くの断層を持つ地震国であり、近年では、1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が大規模な被害を受けた。なお、他の地震国の多くと同様、国内に数多くの温泉が存在し、中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。



気候


中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に、温暖なイメージととらえられがちであるが、それら沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海・地中海沿岸地方は温暖でケッペンの気候区分では地中海性気候に属し夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。 イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じてトルコで最も降水量が多い場所で深い緑に覆われている。一方、国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。東部アナトリア地方は亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、東部の標高1500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り、−40°Cに達することさえあるほどの酷寒地である。ヴァン県のチャルディラーン (Çaldıran) では1990年1月9日にトルコ国内最低となる−46.4°Cを記録している。高温記録としては1993年8月14日にシリア国境に近いマルディン県のコジャテプ(Kocatepe)で48.8°Cを記録している[19]

































































































































































































































トルコ各地の平年値(統計期間:1960年 - 2012年、出典:トルコ気象庁)
平年値
(月単位)

マルマラ地方 

エーゲ海地方

地中海地方

中央アナトリア地方

エディルネ

イスタンブール

ブルサ

イズミル

デニズリ

アンタルヤ

アダナ

カフラマンマラシュ

アンカラ

コンヤ

カイセリ

エスキシェヒル

スィヴァス

ヨズガト

気候区分
Cfa Cfa
Cfa
Csa
Csa Csa
Csa Csa
BSk BSk
Dsb BSk
Dsb Dsb
平均
気温
(°C)
最暖月
24.7
(7月)
24.4
(7月)
24.5
(7月)
28.0
(7月)
27.4
(7月)
28.4
(7月)
28.5
(8月)
28.4
(8月)
23.5
(7月)
23.6
(7月)
22.6
(7月)
21.7
(7月)
20.2
(7月)
19.7
(7月)
最寒月
2.6
(1月)
6.5
(1月,2月)
5.2
(1月)
8.8
(1月)
5.8
(1月)
9.8
(1月)
9.6
(1月)
4.8
(1月)
0.3
(1月)
−0.2
(1月)
−1.8
(1月)
−0.1
(1月)
−3.3
(1月)
−1.9
(1月)

降水量
(mm)
最多月
72.9
(12月)
99.1
(12月)
109.6
(12月)
147.5
(12月)
93.0
(12月)
251.2
(12月)
133.9
(12月)
132.6
(12月)
51.2
(5月)
44.8
(12月)
55.0
(4月)
48.4
(12月)
61.6
(4月)
81.1
(12月)
最少月
24.1
(8月)
20.9
(7月)
16.1
(7月)
1.9
(7月)
8.4
(8月)
1.8
(8月)
5.0
(8月)
0.8
(8月)
10.9
(8月)
5.6
(8月)
5.4
(8月)
8.7
(8月)
6.0
(8月)
8.9
(8月)
平年値
(月単位)

東アナトリア地方

南東アナトリア地方

黒海地方

アール

アルダハン

カルス

エルズルム

ハッキャリ

マラティヤ

ヴァン

ディヤルバクル

ガズィアンテプ

シャンルウルファ

キリス

ゾングルダク

サムスン

トラブゾン

気候区分

Dfb
Dfb Dfb
Dfb Dsa
BSk Dsa
Csa Csa
Csa Csa
Cfb Cfa
Cfa
平均
気温
(°C)
最暖月
21.2
(7,8月)
16.3
(7月)
17.6
(8月)
19.3
(7,8月)
25.0
(7月)
27.4
(7月)
22.3
(7月)
31.2
(7月)
27.8
(7月)
31.9
(7月)
28.1
(7月)
21.9
(7月)
23.3
(8月)
23.4
(8月)
最寒月
−10.8
(1月)
−11.4
(1月)
−10.4
(1月)
−9.4
(1月)
−4.7
(1月)
0.1
(1月)
−3.5
(1月)
1.8
(1月)
3.0
(1月)
5.6
(1月)
5.6
(1月)
6.0
(1,2月)
7.3
(2月)
6.9
(2月)

降水量
(mm)
最多月
74.2
(4月)
91.3
(6月)
77.2
(5月)
67.8
(5月)
125.7
(4月)
57.8
(4月) 
57.2
(4月)
71.4
(12月)
100.2
(1月)
86.5
(1月) 
88.1
(12月)
158.0
(12月)
117.1
(10月)
85.2
(11月)
最少月
12.3
(8月)
18.6
(1月)
20.3
(1月)
17.0
(8月)
2.5
(8月)
1.6
(8月)
3.4
(8月)
0.3
(8月)
2.1
(8月)
0.2
(8月)
1.2
(7月)
54.4
(5月)
35.5
(7月)
32.8
(7月)


  • 最暖月22°C未満・・・薄水色

  • 最寒月−3°C未満(= 亜寒帯 (D) の条件)・・・薄水色、水色、青色



経済




トルコ最大の都市イスタンブール。



IMFによると、2013年のトルコのGDPは8,200億ドル(約88兆円)で、世界第18位である。一人当たりのGDPは10,721ドルで、世界平均を若干上回る[1]。産業は近代化が進められた工業・商業と、伝統的な農業とからなり、農業人口が国民のおよそ40%を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々がトルコ本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量を巡る国際問題が起きることもある。



工業


工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。



観光


ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、経常収支が赤字であるトルコにとって貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3683万人。その後、シリア騒乱に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件(2015年)、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため2016年は約2500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。


空路のほか、クルーズ客船も利用されている[20]。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール、内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。



農業


地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では、地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち、農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。



鉱業


トルコの国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年時点では亜炭・褐炭の採掘量が6348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり、世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの1/20に過ぎない。原油(252万トン)と天然ガス(12千兆ジュール)も採掘されている。


金属鉱物資源では、世界第2位(200万トン、世界シェア17.9%)のマグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトを産出する。


しかしながら、石炭は発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。


石油・天然ガスについては黒海で開発を進め、2002年の段階から生産を始めていたが、近年石油は100億バレル、ガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって、国内消費分を賄うことができるようになるとの見通しである。



経済成長




100トルコリラ


1990年代の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。


2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラ (TL) を1新トルコリラ (YTL) とする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている。


近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている[21]



貿易




色と面積で示したトルコの輸出品目


トルコの貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し、輸入656億ドルであった。ただし、サービス収支、例えば観光による収入(90億ドル、2002年)、所得収支、例えば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため、経常収支はほぼバランスが取れている。


輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。


輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、連合王国7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ (21.7%)、ついで衣料品である。


輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、連合王国5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車 (12.1%)、ついで自動車用部品である。



交通




トルコ航空




トルコ高速鉄道


トルコにおいて交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄 (TCDD) が存在し 10,940 km の路線を保有・運営しているが、きわめて便が少なく不便である。また、駅舎・路線・その他設備は整備が不十分で老朽化が進んでいる。2004年には国鉄は最高時速 160 km の新型車両を導入したが、7月にその新型車両が脱線事故を起こし39名の死者を出した。これは、路線整備が不十分なまま新型車両を見切り発車的に導入したことが原因といわれている。この事故は国鉄の信頼性を一層低下させ、その後鉄道乗客数は激減している。その後、路線の新設や改良に巨額の投資をし始め、2007年4月23日、エスキシェヒール - アンカラ間にて最高時速250kmのトルコ初のトルコ高速鉄道が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設がすすめられ近代化が図られている。


トルコ政府は道路整備を重視しており、トルコ国内の道路網は2004年時点で63,220kmにおよんでいる。また、イスタンブール・アンカラを結ぶ高速道路 (Otoyol) も完成間近となった。貨物輸送はもちろん、短距離・長距離を問わず旅客輸送の中心もバスによる陸上輸送が中心で、大都市・地方都市を問わずトルコの都市には必ず「オトガル」と呼ばれる長距離バスターミナル (Otogal/Terminal) が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。


トルコでは雇用所得がまだ低いことや、高額の自動車特別消費税(1600cc未満37%、1600cc以上60%、2000cc以上84%)、非常に高価なガソリン価格(2008年時点で1リットル当たり3.15YTL(約280円)程度)のために、自家用車の普及はあまり進んでいない。また、農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日には、アンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。




国民


トルコ共和国の位置するバルカン半島やアナトリア半島は、古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり、複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国成立の過程にも、これらの地域事情が色濃く反映されている。



民族




1910年時点での小アジアの民族分布。青がギリシャ人、赤がトルコ人、黄色がアルメニア人、茶色がクルド人居住地域


トルコ共和国以前に存在した多言語、多宗教国家のオスマン帝国では、このような地域事情を汲み取って「ゆるやかな統治」を目指して統治を行い、帝国では信仰の自由を大幅に認めていたため、住民にオスマン帝国民という意識はほとんどなかった。各自の信奉するイスラム教や東方教会のキリスト教(ギリシア正教、アルメニア正教、シリア正教)といった宗教に分かれ、さらに言語ごとに細かいグループに分かれて宗教・言語のエスニック・グループの集団が存在し、イスラム教徒ではトルコ語、クルド語、アルバニア系、などの母語グループに分かれていた。この集団が、永らく人々のアイデンティティ形成と維持に主導的な役割を果たしてきたといえる。このため、国民国家としてのトルコ共和国成立に伴い、国内における民族意識(ナショナリズム)の醸成が急務となっていたが、国内最大多数派であるトルコ人ですら、何をもってトルコ人と定義するのかを画一的に判断することが非常に困難であった。このことは、1830年のギリシャ独立以降、トルコと隣国ギリシャ間でバルカン半島とアナトリア半島をめぐり領土紛争の勃発する要因となり、1922年に紛争の抜本的解決を目的に締結されたローザンヌ条約と住民交換協定では、トルコ国内に住む正教会信者のトルコ語話者は「ギリシャ人」、逆にギリシャ国内に住むイスラム教徒のギリシャ語話者は「トルコ人」と規定され、それぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。


こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべてトルコ語を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時にその時に、トルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。


少数派の民族としては、クルド人、アラブ人、ラズ人、ギリシャ人、アルメニア人、ヘムシン人、ザザ人、ガガウズ人などが共和国成立以前から東部を中心に居住している。特に、クルド人はトルコ共和国内でトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400~1,950万人と言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党 (DP) とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送であるTRTの第3チャンネル (TRT3) においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した[22]


なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域(南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、トルコ国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党 (DEHAP) はトルコ全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降は全国的な農村部から都市への移住が増加に伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。



宗教





イスタンブールを代表するモスクのスルタンアフメト・モスク


宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の 99 % 以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉するトルコ国民の大半はスンナ派に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者がトルコ国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には20%を越えるとも言われている。


その他の宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期からトルコ共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。


一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。トルコ国内にある東方正教会の神品を養成するための「ハルキ神学校」は1971年からトルコ政府命令によって閉鎖されており、東方正教会へのトルコ政府からの圧迫の一つとなっている。



言語


公用語のトルコ語のほか、クルド語(クルマンジー)、ザザキ語(ディムリ語、キルマンジュキ語)、チェルケス語派(英語版)(カバルド語、アディゲ語)、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、アラビア語(北メソポタミア・アラビア語(英語版)、アラビア語イラク方言)、バルカン・ガガウズ・トルコ語、ブルガリア語、ギリシア語(ギリシア語ポントス方言)、アルメニア語、カルトヴェリ語派(グルジア語、ラズ語)などが話されている。



人名


1934年に「創姓法」が制定され、全ての国民に姓をもつことが義務付けられたため、上流階級は他のアラブ諸国と同じように先祖の名前や出自に由来する『家名』を姓とし、庶民は父の名、あだ名、居住地名、職業名や、縁起の良い言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は、以前は夫婦同姓のみが認められていたが、2001年の法改正により女性の複合姓が認められ[23]、さらに2014年に最高裁において、婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され、完全な夫婦別姓も選択可能となったことで、選択的夫婦別姓制度が実現している[24]



教育





イスタンブール大学


義務教育機関として、8年制の初等教育学校 (ilk öğretim okulu) が置かれ、そのほか4年制(2004年9月入学以降、それ以前は3年制)の高等学校 (lise)、大学 (üniversite) などが置かれている。ほかに就学前教育機関として幼稚園 (anaokulu) なども存在する。初等教育学校を含めほぼ全ての学校が国立だが、私立学校も存在する。ただし、私立学校の1ヶ月間の学費は、給食費・施設費等込みで一般労働者の月収とほぼ同等で、きわめて高価である。


公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・ÖSSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。トルコにも受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾 (dershane) に通うことも珍しくない。


教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。


2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、トルコ政府は、「さあ、女の子たちを学校へ (Hadi Kızlar Okula)」キャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には、経済事情に加え、男女共学の上、未だ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。


トルコでは、イスラム教の教えに基づいた創造論が学校等で公然と教育されており[25]、進化論への検閲行為[26]などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでの「公的な場」で使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。



文化





メヴレヴィー教団の旋回舞踊


トルコの国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなどさまざまな文明が栄えた地であり、諸文化の混交がトルコ文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくはトルコの世界遺産を参照)。トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。


近現代のオスマン帝国、トルコは、ちょうど日本の文明開化と同じように、西洋文明を積極的に取り入れてきたが、それとともにトルコ文学、演劇、音楽などの近代芸術は、言文一致運動や言語の純化運動、社会運動などと結び付いてトルコ独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で、歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少し、また剣術、弓術などいくつかの伝統的な技芸はすでに失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており、多くの遺跡が長らく管理者すら置かれない事実上の放置状態に置かれてきた。近年は、いくつかの有名なギリシャ・ローマ時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが、依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているが、その保全対策は財政事情もありほとんどまったく手付かずの状態である。



食文化



トルコ料理は伝統的に世界三大料理 とされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理(レバノン料理など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りが付けられたラク が有名。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。



文学




21世紀の小説家、オルハン・パムク。2006年にノーベル文学賞を受賞した。




  • ハリデ・エディプ・アドゥヴァル

  • ナーズム・ヒクメット

  • ヤシャル・ケマル


  • オルハン・パムク - ノーベル文学賞(2006年)



音楽



伝統的なトルコ音楽の一つオスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。



建築


建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、トルコ独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。


俗に「トルコ風呂」などと呼ばれている公衆浴場文化(トルコ本国においては性風俗店の意味はなく、伝統的浴場の意である)は、中東地域に広く見られるハンマーム(ハマム)の伝統に連なる。逆に、中東、アラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。



世界遺産



トルコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件、複合遺産が2件存在する。



祝祭日



















































日付
日本語表記
現地語表記
備考

1月1日
元日

Yılbaşı
法令上は祝祭日ではなく休日

4月23日
国民主権と子供の日

Ulusal Egemenlik ve Çocuk Bayramı


5月19日
アタテュルク記念、
青少年とスポーツの日

Atatürk’ü Anma ve Gençlik ve Spor Bayramı


8月30日
戦勝記念日

Zafer Bayramı

トルコ革命の祖国解放戦争

10月29日
共和国記念日

Cumhuriyet Bayramı

移動

断食明けの祭り(砂糖の祭)

Ramazan Bayramı
初日の13時から3日半
移動

犠牲祭

Kurban Bayramı
初日の13時から4日半


メディア



インターネット



トルコでは政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したり、インターネットを通じて個人の閲覧記録を収集することを首相に認める法律(インターネット法に関する5641改正法)が可決されている[27][28]


そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており[29]、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)も度々ブロックされている[30][31]

2017年4月29日にはトルコ政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。運輸海事通信省(英語版)はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、「トルコに対して中傷作戦を展開する情報源の一部になっている」と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている[32]



スポーツ




ヤールギュレシ


トルコにおいて国民的なスポーツとしては、まずサッカー(トルコ語でfutbol:発音フトボル)があげられる。トルコ国内には、18のプロクラブが参加するスュペル・リグ (Süper Lig) を頂点に2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部の地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボール・バレーボールなど、他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。


トルコはUEFA加盟国であるため、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグ・UEFAヨーロッパリーグに参加可能である。その中でもイスタンブールのフェネルバフチェ (Fenerbahçe) ・ガラタサライ (Galatasaray) ・ベシクタシュ (Beşiktaş) とトラブゾンのトラブゾンスポル (Trabzon Spor) は4大クラブと呼ばれ、テレビ・新聞などでの報道量も他に比べ抜群に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるためUEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは、半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。また、イスタンブールのフェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの決勝はイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤット・スタドゥで行われ、イスタンブールの奇跡が起こった。サッカートルコ代表は2002 FIFAワールドカップで3位に入るなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝つという珍しい記録を達成した。また優勝したブラジルには2回敗北している。


ほかにプロスポーツとしてはバスケットボール・バレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールはNBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。


また2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。


650年の歴史をもつ伝統格闘技としてヤールギュレシ(オイルレスリング)があり、トルコの国技となっている。アマチュアスポーツとしてはレスリング、重量挙げなど人気がある。またトルコ人の気風を反映してか、柔道・空手道の道場も非常に多い。


競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。



写真




脚注


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  1. ^ abcde“World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月18日閲覧。


  2. ^ 大村幸弘「和平条約と粘土板が物語ること」/ 大村幸弘・永田雄三・内藤正典編著『トルコを知るための53章』明石書店 57ページ


  3. ^ トルコ:国民投票賛成多数、改憲承認 軍・司法の権限縮小 毎日新聞 2010年9月14日[リンク切れ]


  4. ^ トルコ、国民投票で憲法改正を承認 首相が勝利宣言 CNN 2010年9月13日


  5. ^ トルコ、国民投票で憲法改正承認 世俗派との対立先鋭化も EUは歓迎 産経新聞社 2010年9月13日


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参考文献



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  • 新井政美 『トルコ近現代史 : イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房、2001年(改訂版2008年)。ISBN 4-622-03388-7。

  • 大島直政 『遠くて近い国トルコ』 中央公論社〈中公新書〉、1968年。ISBN 4-12-100162-1。

  • 小島剛一 『トルコのもう一つの顔』 中央公論社〈中公新書〉、1991年。ISBN 4-12-101009-4。

  • 小島剛一 『漂流するトルコ 続「トルコのもう一つの顔」』 旅行人、2010年。ISBN 4-947-70268-0。

  • 『トルコ』 鈴木董 編、河出書房新社〈暮らしがわかるアジア読本〉、2000年。ISBN 4-309-72468-X。

  • 鈴木董 『図説イスタンブール歴史散歩』 大村次郷写真、河出書房新社、1993年。ISBN 4-309-72421-3。

  • パット・イエール / リチャード・プランケット / ヴェリティ・キャンベル 『トルコ』 メディアファクトリー〈ロンリープラネットの自由旅行ガイド〉、2004年。ISBN 4-8401-0864-1。

  • 松谷浩尚 『現代トルコの政治と外交』 勁草書房〈第三世界研究シリーズ〉、1987年。ISBN 4-326-39872-8。

  • デイヴィド・ホサム 『トルコ人』 護雅夫訳、みすず書房、1983年


  • 国交樹立以前の文献からよみとく トルコ人の日本観 - 川原田喜子、東京外国語大学、2009年



関連項目



  • トルコ関係記事の一覧

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  • トルコ料理

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外部リンク









































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その他



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  • JCCME - トルコ(日本語)


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