顕宗天皇







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顕宗天皇






第23代天皇



在位期間
顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日

先代
清寧天皇
次代
仁賢天皇

陵所
傍丘磐坏丘南陵

弘計王
別称
弘計天皇
来目稚子
袁祁王
袁祁之石巣別命
袁奚天皇
父親
市辺押磐皇子
母親
荑媛
皇后
難波小野王
皇居
近飛鳥八釣宮
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顕宗天皇(けんぞうてんのう、正字体:顯宗天皇、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。




目次






  • 1 系譜


    • 1.1 系図




  • 2 皇居


  • 3 略歴


  • 4 実在性について


  • 5 陵・霊廟


  • 6 在位年と西暦との対照


  • 7 脚注


  • 8 関連項目


  • 9 外部リンク





系譜


市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる。



  • 皇后:難波小野王(難波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)

『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』にも「子無かりき」とある。



系図















































































































































































































































































































































































































 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
[毛野氏族]
 
 
 
 
 

10 崇神天皇
 
 

11 垂仁天皇
 

12 景行天皇
 
日本武尊
 

14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫命
 
 

13 成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 彦坐王
 
丹波道主命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 山代之大
筒木真若王
 
迦邇米雷王
 
 息長宿禰王
 

神功皇后
(仲哀皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

15 応神天皇
 

16 仁徳天皇
 

17 履中天皇
 
市辺押磐皇子
 
飯豊青皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

18 反正天皇
 
 
 
 
 
 

24 仁賢天皇
 

手白香皇女
(継体皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

23 顕宗天皇
 
 

25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

19 允恭天皇
 
木梨軽皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

20 安康天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

21 雄略天皇
 

22 清寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

春日大娘皇女
(仁賢皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛
二派皇子
 
 意富富杼王
 
 乎非王
 
彦主人王
 

26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

忍坂大中姫
(允恭皇后)
 
 




皇居


都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)。『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。



略歴




志染の石室


安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石郡や美嚢郡の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。


同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあったが[1]、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)[2]



実在性について


古くから、億計・弘計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって劇的な要素が強く、なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしない。


近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた[3]。兄弟が畿内周辺を彷徨し、聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、当時に溯る民俗的背景がほのみえ、両皇子発見譚に史実性を認めながらも、詳細には意見は割れている。


また、両皇子発見譚が史実ではなかったとしても「史実でない物語が付加された」ということにすぎず、天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、億計・弘計の両天皇の存在を主張する意見[4]も少なくない。



陵・霊廟





顕宗天皇 傍丘磐坏丘南陵
(奈良県香芝市)



陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県香芝市北今市にある傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。


上記とは別に、奈良県大和高田市築山にある宮内庁の磐園陵墓参考地(いわぞのりょうぼさんこうち)では、顕宗天皇が被葬候補者に想定されている[5]。遺跡名は「築山古墳」。


皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、神戸市西区押部谷町木津には、顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。この神社の他にも西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。




在位年と西暦との対照


当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。



脚注


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  1. ^ 意祁命は、少し陵の傍らを掘っただけで顕宗天皇のもとに戻り、「既に壊しつくした」と奏言するが、早く戻ったことを不審に思い問いただすと、事実を述べ、顕宗天皇の「父王の仇を報いるために必ずその陵を破壊しつくすはずが、なぜ少し掘っただけなのか」との問いに、「父王の怨みをその霊に報いようと欲することは、誠に道理があります。しかし雄略天皇は、父の怨みではあっても叔父(実際は従兄弟)であり、天下を治められた天皇であるため、その陵を破壊すれば、後世の人の誹謗を買うことになる。」と答えている。『古事記』


  2. ^ ただし、『古事記』に登場する志毘臣は、『日本書紀』で武烈天皇と恋争いをしたとされる平群鮪と同一人物で、彼と争った天皇については2つの伝承が存在していたとする説もある(笹川尚紀「『日本書紀』の編纂と大伴氏の伝承」(初出:『日本史研究』第600号(2012年)/笹川『日本書紀成立史攷』(塙書房、2016年)ISBN 978-4-8273-1281-2))。


  3. ^ 若井敏明の説では億計王・弘計王の兄弟を発見したのは「忍海部」の人物であることから、実は兄弟は早くから飯豊王の保護下に匿われており、発見は半ば出来レースだったと推測する。これに対し角林文雄などの説では物語の構成・展開に信憑性を認め、発見は本当に偶然だったとしている。


  4. ^ 田中卓、安本美典など


  5. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。




関連項目







  • 『古事記』

  • 『日本書紀』



外部リンク



  • 傍丘磐坏丘南陵 - 宮内庁




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