東山道




東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。




目次






  • 1 「東山道」の呼称


  • 2 行政区画としての東山道


    • 2.1 変遷




  • 3 道(みち)としての東山道


    • 3.1 現代




  • 4 脚注


    • 4.1 注釈


    • 4.2 出典




  • 5 参考文献


  • 6 関連項目





「東山道」の呼称


往時の読み方については、「とうさんどう」の他にも「とうせんどう」「ひがしやまみち」「ひがしのやまみち」「ひがしやまのみち」「ひがしのやまのみち」そして「やまのみち」など諸説ある。


奈良時代に平城京の一部、西大寺の敷地であった場所から発掘された木簡に「東巽道」と書かれており、巽を撰の略字とみなして東山道=東撰道であったとして、「とうせんどう」が正しい読みであるとする説がある[1]


現代ではあまり使われないが、東山道の貫く国や地域を東山地域とよぶことがある。



行政区画としての東山道



令制国一覧 > 東山道



東山道の範囲と概略の経路


以下の諸国が含まれる。畿内から近い順に記載。




  • 近江国(現在の滋賀県)


  • 美濃国(現在の岐阜県南部)


  • 飛騨国(現在の岐阜県北部)


  • 信濃国(現在の長野県)

    • 諏方国 - 721年に信濃国より分立。731年に再統合。現在の長野県中部・南部に相当。



  • 上野国(現在の群馬県)


  • 下野国(現在の栃木県)


  • 武蔵国(現在の埼玉県、島嶼を除いた東京都のうち隅田川より西の地域、および神奈川県北東部) - 771年に東海道に所属変更。


  • 陸奥国(現在の福島県、宮城県、青森県、岩手県、秋田県北東部) - 陸奥国は7世紀に常陸国より分立。


    • 石背国 - 718年に陸奥国より分立。数年後に再編入。

      • 岩代国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の福島県中通り・会津に相当。



    • 石城国 - 718年に陸奥国より分立。数年後に再編入。現在の福島県浜通りに相当。

      • 磐城国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の福島県浜通りに相当。



    • 陸前国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の宮城県に相当。


    • 陸中国 - 1869年に陸奥国より分立。現在の岩手県に相当。


    • 陸奥国 (1869-) - 陸前・陸中を分離後の部分。現在の青森県と岩手県二戸郡。




  • 出羽国(現在の山形県、秋田県の一部) - 712年に越後国出羽郡を割いて出羽国を建てる。同年10月陸奥の国の最上・置賜両郡を出羽国に編入。1869年、羽前国と羽後国に分割され消滅。


    • 羽前国 - 現在の山形県に相当。


    • 羽後国 - 現在の秋田県に相当。





変遷





道(みち)としての東山道


律令時代の東山道は、畿内と東山道諸国の国府を結ぶ幹線道路である駅路で[2]、律令時代に設けられた七道の中で中路とされた。ただし中路とされたのは近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道である。陸奥国府・多賀城より北は小路であり、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。東山道には、駅伝制により30里(約16 km)ごとに駅馬(はゆま)10頭を備えた駅家(うまや)が置かれていた。


飛騨・出羽は行政区画で東山道に区分されていたが、国府には幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐していた。また出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。


東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝2年(702年)12月10日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録がある[2]。この記述が示す地域の経路は、美濃国の坂本駅(現・中津川市)から神坂峠を越え伊那谷に至るルートを取っている[3]。また『続日本紀』には、天平9年(737年)に東山道の北端にあたる陸奥国から出羽国に通じる新道の建設工事の様子を示す記述も残されており、陸奥国の鎮守府将軍である大野東人が軍隊を率いて、色麻柵(しかまのき、現・宮城県加美町)から急峻な奥羽山脈を越えて、出羽国最上郡玉野(現・山形県尾花沢市)を経て、北の比羅保許山(ひらほこやま、現・山形県金山町付近)まで至る160里[注釈 1]の道を開発したとされる[4]


奈良時代当初は、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられ、上野国新田より曲がって武蔵国府(現・府中市)に至り、戻って下野国足利へ進むコース(またはこの逆)が東山道の旅程であった。すなわち武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属した。他の東京湾岸の令制国は東海道に属したが、元々の東海道は、相模国から海路で上総国・安房国を渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていた。その後、海路に代わり相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、宝亀2年10月27日(771年12月7日)に武蔵国は東海道に入れ替わった。なお、甲斐国(現 山梨県)は駿河国、伊豆国とともに東海道に属しており、旅程も東海道に組み込まれていた。なお、尾張国・甲斐国については元々東山道に属していたものが、後に武蔵国と同様に東海道に移されたと言う見解も存在する[1]


だが、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、利根川(当時)・多摩川・富士川・安倍川・大井川・木曽川・長良川・揖斐川と渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の山道の方がむしろ安全と考えられていた。このため、東海道の渡河方法が整備される10世紀頃までは東山道は活発に機能していた[5]


平安時代には、平安京(京都)との間の運脚(運搬人夫)の日数(延喜式による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り(平安京方面)で後者が下り。上りは調と庸とともに旅費にあたるものも携行したため、下りの約2倍の日数を要したとされる。



  • 東山道:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日)

  • 支路:飛騨国府(14日/7日)

  • 北陸道:出羽国府(47日/24日)


江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された。



現代


律令時代の東山道に相当するルートと並走する形で、幾つかの国道などの一般道路や鉄道が通っている。概ね長浜(滋賀県)から宇都宮(栃木県)までを東西に横断するルートになり、長浜以南(京都方面)と宇都宮以北(多賀城方面)は南北に縦断するルートになるが、高速道路では西から順に名神高速道路・中央自動車道・長野自動車道・上信越自動車道・北関東自動車道・東北自動車道に相当する。


しかし、明治政府が東京を本拠地にして「東京時代」が到来した後は、従来の「近畿⇔北関東・東北内陸部・常磐三陸」の需要は「南関東⇔北関東・東北内陸部・常磐三陸」へと移った。そして、関ヶ原(不破関)と碓氷峠を結ぶ国道や鉄道は、一本の道にされず、幾つもの路線に分断されてしまった。これに加えて、高度経済成長期に「東京・名古屋・大阪の三極集中」が促進された為、例えば岐阜⇔高崎というような東山道沿線の往来が廃れ、さらには近畿地方の経済的・文化的影響力の低下によって近畿⇔北関東・東北の交流も疎遠になったこともあり、関ヶ原と碓氷峠を経由して近畿と北関東・東北内陸部・常磐三陸を結ぶ「東山道」は廃れていった。近年の東北内陸部や常磐三陸から近畿までを往来する高速バスも、最短路が首都高速道路(東京経由の太平洋沿岸ルート)や北関東自動車道(高崎経由の内陸ルート)を経由するよりも、全区間が高速道路で繋がっている磐越自動車道・北陸自動車道経由(長岡経由の日本海沿岸ルート)の方が速い(例:フォレスト号 (大阪 - 仙台線))。このように、幹線道路としての東山道は、全線を通しての「近畿⇔北関東・東北内陸部・常磐三陸」の大動脈とは言えない状況である。


東山道の区間内に限って見ると、東山道の各沿線短区間での交通需要が見込まれるほか、東北地方南東部(宮城県・福島県)および関東地方北部(茨城県・栃木県・群馬県)と長野県間の中距離区間にも地方間としては大きな需要が見込まれており(毎日約32,000人=東京⇔水戸の需要の約50%、東京⇔宇都宮の需要とほぼ同等)、「東山道」経路は地方間では動脈となっている。



【参考】東山道ルートでの、京都⇔多賀城の概算距離(810km)


京都 -(22km)- 草津 (滋賀県) -(57km)- 長浜 -(12km)- 不破関 -(36km)- 岐阜 -(26km)- 美濃加茂 -(56km)- 中津川 -(100km)- 塩尻 -(55km)- 上田 -(20km)- 小諸 -(22km)- 碓氷峠 -(41km)- 高崎 -(112km)- 宇都宮 -(75km)- 白河関 -(152km)- 岩沼 -(25km)- 多賀城



脚注


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注釈




  1. ^ この当時の里を現在の距離に換算すると、約84.2 km。



出典




  1. ^ ab市大樹「律令制下の交通制度」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P10-13

  2. ^ ab武部健一 2015, p. 50.


  3. ^ 武部健一 2015, pp. 50–51.


  4. ^ 武部健一 2015, p. 52.


  5. ^ 北村優季「長岡平城遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7




参考文献


  • 武部健一 『道路の日本史』 中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。


関連項目



  • 日本の交通

  • 日本の古代道路

  • 中山道

  • 中山道六十九次

  • 鉄道:太多線 中央本線 信越本線(しなの鉄道) 両毛線 東北本線

  • 国道:国道21号 国道19号 国道143号 国道142号 国道18号 国道50号 国道293号 国道4号

  • 高速道路:名神高速道路 中央自動車道 長野自動車道 上信越自動車道 北関東自動車道 東北自動車道

  • 高速バス:青葉号




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