曾我兄弟の仇討ち

一万丸 箱王丸(曾我兄弟) 歌川国芳画
曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた[1]。
目次
1 経緯
2 事件の余波
3 頼朝暗殺未遂説
4 曽我物語
5 ゆかりの地・行事
6 関連作品
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
経緯

「武勇見立十二支 曽我五郎 午」 歌川国芳画
以下の経緯は主に『曽我物語』による。
所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。
祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。
祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。ただし『吾妻鑑』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。
文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。
兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き、「この願いが成就するなら祐経の首をください、成就しないなら私達が拝殿を出たらすぐに蹴り殺してください」と祈請した。この時、兄弟が詠んだ和歌が伝えられている[2]。
ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我十郎祐成[2]
天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我五郎箱王丸[2]
祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。あなたたちに引き出物をあげましょう」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経が木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった)[2]。別当は「これらの刀は見知っている人も多かろう。くれぐれも「箱根の別当から与えられた」とは言いなさるな。仇討ちが成功した時に「あの別当が兄弟に刀を与えたのだ」と騒がれては大変じゃからの。京の町で買ったとでも言っておきなさい」と二人に言った[2]。二人が去る時間になると、別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう」と言い、そこで和歌を詠んだ[2]。
夢ならで またも逢ふべき 身ならねば 見るおもかげに 袖朽ちぬべし ― 箱根の別当[2]
建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した小舎人の五郎丸によって取り押さえられた。
翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児犬房丸に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。
事件の余波
『吾妻鏡』によると、6月1日に祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免した。18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ信濃善光寺に赴いたが、その時19歳だったと記されている。また、出家して律師と号していた曾我兄弟の末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害している。
また、この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ、範頼は8月17日に伊豆修禅寺に幽閉された。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。20日には祐成・時致の異父兄弟である京ノ小次郎が範頼の縁座として処刑されている。
この事件の際に常陸国の御家人が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある[3]。
頼朝暗殺未遂説
工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある[4]。また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親襲撃自体には息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある[5]。
曽我物語
この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。
ゆかりの地・行事
静岡県富士地域の地方新聞である富士ニュース5月21日号(掲載年不明)によれば関東から九州にかけて14ヵ所の墓所があるという。曾我兄弟の墓は現在、願成寺 (横浜市)の無縁仏の一群の横にひっそりと置かれている[6]。- 曾我兄弟の墓とされるものの中で有力とされるものに、曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(神奈川県小田原市曽我谷津)が挙げられる[7]。城前寺の由来は、曾我兄弟の死後に叔父の宇佐美禅師がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている[7]。建久4年(1193年)5月28日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年5月28日に、城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが[8]、2011年に寺側からの申し出により中止となり[9]、保存会が駅前や公園など市内各所で関連行事を続行している[10]。
- 曾我祐成を討った仁田忠常の陣屋が置かれたという静岡県富士宮市の曽我八幡宮東側の丘の上にも、祐成が討たれたとされる地点に曾我兄弟の墓が建てられている[11]。1295年(永仁3年)成立だが、現存する五輪塔は江戸時代のものを復元している[12]。
鹿児島市では毎年7月に郷中教育の一環として、曾我兄弟の仇討ちの故事に倣い、和傘を燃やす「曽我どんの傘焼き」を開催している[13]。
千葉県匝瑳市山桑には、「曽我兄弟ノ宮」がある。これは、曾我兄弟に仕えた当地出身の鬼王兄弟が二人の遺髪・遺品を故郷へ持ち帰り、弔ったものである。
関連作品
- 歌舞伎・能・浄瑠璃
- 曾我兄弟をもとにした作品には能・謡曲の「元服曽我」「小袖曽我」、幸若舞の「十番斬」「和田宴」、浄瑠璃の「根元曽我物語」「夜討曽我」「世継曽我」「曽我会稽山」、歌舞伎の「寿曽我対面」「夜討曽我狩場曙」「曽我十番斬」「兵根元曽我」「傾城嵐曽我」など多数あり、それらは「曽我物」と総称される[14]。延宝年間(1673年 - 1681年)ころから、続々と曽我物の続狂言が生まれ、宝永から享保年間(1704年 - 1736年)ごろはことに人気が高く人々に好まれたため、江戸では各座、正月狂言として必ず新作の曽我物を上演する慣わしとなり、明治初年まで続いた[15]。
- 小説
高橋直樹『天皇の刺客』(文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋
- 映画
- 『曾我兄弟狩場の曙』(1908年)
- 『曾我十番斬』(1916年)
- 『永禄曾我譚』(1917年、小林)
- 『小袖曽我』(1920年)
- 『夜討曽我』(1923年、帝キネ)
- 『曽我』(1927年)
- 『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)
- 『夜討曽我』(1929年、マキノ)
- 『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)
- 『富士の曙 少年曾我』(1940年)
- 『曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康)
- テレビドラマ
- 『曾我兄弟』(1959年、日本テレビ)
- 『草燃える』(1979年、NHK大河ドラマ)
- 漫画
湯口聖子 『夢語りシリーズ 天翔ける星』秋田書店
- 歌謡曲
- 長編歌謡浪曲曽我の討入り (三波春夫)
脚注
注釈
出典
^ 今野慶信「曽我十郎/・五郎」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 186ページ
- ^ abcdefg「曾我物語」
^ 菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6)
^ 三浦周行「曾我兄弟と北条時政」、石井進「曾我物語の歴史的背景」
^ 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
^ 『曽我兄弟へ贈る鎮魂歌 / 関東観察図鑑』内、富士ニュース図版。2010年3月18日閲覧。
- ^ ab城前寺、謡蹟を訪ねて(その1)曽我物語ゆかりの地、2004年7月6日更新分。2010年3月19日閲覧。
^ かさ焼き祭り小田原市デジタルアーカイブ
^ 「曽我の傘焼まつり」中止、保存会も解散へ/小田原神奈川新聞、2011.03.31
^ 曽我の傘焼まつり(5月下旬)小田原市、2014年08月20日
^ 曽我兄弟の仇討ち、富士宮市ホームページ、郷土資料館、「富士の巻狩と曽我兄弟の仇討ち」展。2010年3月19日閲覧。
^ 元箱根石仏石塔群(曽我兄弟の墓) 2010年3月19日閲覧。
^ 曽我どんの傘焼き鹿児島三大行事保存会
^ 曽我物日本大百科全書
^ 曾我物松竹「歌舞伎公式総合サイト 歌舞伎美人」
参考文献
坂井孝一『曾我物語の史実と虚構』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2000年) ISBN 4-642-05507-X
坂井孝一『曾我物語 物語の舞台を歩く』(山川出版社、2005年) ISBN 4-634-22460-7
関連項目
- 曾我祐成
- 曾我時致
吾妻鏡 - 建久4年5月28日、29日から記載あり。
外部リンク
- 曽我物語・国民文庫本
曽我十郎神社大祭[リンク切れ]
- 曽我十郎首塚 - 内子町ホームページ