竹本綱大夫
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竹本 綱大夫(たけもと つなたゆう)は、義太夫節の太夫。江戸中期より八代を数える。
目次
1 初代
2 2代目
3 3代目
4 4代目
5 5代目
6 6代目
7 7代目
8 8代目
9 9代目
10 脚注
初代
(生年不詳 - 安永5年10月13日(1776年11月23日))
2代目竹本政大夫の門弟。宝暦11年(1761年)、竹本座出演の記録がある。1776年に湯治で但馬城崎を訪れその帰路の途中に死去した。
通称を「平野屋嘉助」「新ろうじ」。
2代目
(寛延元年(1748年)? - 文化2年8月16日(1805年9月8日))
元は京都猪熊の織物屋の津国屋甚兵衛。そのために「猪熊の綱太夫」と称される。竹本式太夫の門弟。初名を濱太夫。1782年ごろに襲名。
『摂州合邦辻』の「聞く子や 妻はうちと外、顔と顔とは隔たれど・・・」は2代目が表現したもので今日にも残されている。
3代目
(生没年不詳)本名は飴屋万吉。
化政期に活躍。通称を「飴屋綱太夫」、2代目の門弟で濱太夫、紋太夫を経て文化4(1807年)、襲名。文政・天保期には紋下で活躍。天保5(1834年)にむら大夫に名を譲り自らを「三綱翁」名乗った。
4代目
(生年不詳 - 安政2年7月26日(1855年9月7日))
通称を「江戸堀の綱太夫」「近江屋吉兵衛」。大坂と江戸で活躍。3代目の門弟でむら太夫が天保6(1835年)、襲名。
号は3代目が「三綱翁」だったため「四綱翁」という。
5代目
(生没年不詳)
4代目竹本彌太夫の門弟。幕末から明治時代にかけて、主に京都で活躍した。芝太夫、綱登太夫、紋太夫、津島太夫をへて明治1年に襲名。
6代目
(天保11年(1840年) - 明治16年(1883年)9月24日)本名は斎藤太市。
江戸生まれ。嘉永4年(1851年)3代目竹本長門太夫に入門し竹本小定太夫を名乗る。豊竹岡太夫の門下で4代目豊竹錣太夫、その後竹本山城掾の門下になり元治元年(1864年)竹本殿母太夫、明治3年頃には竹本織太夫とそれぞれ改名。明治9年(1876年)、襲名。
「卅三間堂棟由来」、「傾城阿波鳴門」を流行らせた。
7代目
(天保10年(1839年) - 明治45年(1912年)7月23日)本名は櫻井源助。
安政3年(1856年)竹本山城掾の門下で竹本緑太夫で初舞台、その後元治元年(1864年)正月に2代目竹本津太夫、明治43年(1910年)、襲名し引退した。通称「法善寺」という。地味で渋い芸風だったといわれる。
8代目
(1904年7月23日 - 1969年1月3日)
大阪生まれ。本名・生田巌。明治44年(1911年)、2代目豊竹古靱太夫(豊竹山城少掾)の弟子2代目豊竹つばめ太夫を名乗る。昭和11年(1936年)、新義座に参加するが、昭和13年(1938年)、文楽座へ復帰、4代目竹本織太夫を襲名し、昭和23年(1948年)、8代目を襲名。昭和30年(1955年)、人間国宝。1963年、日本芸術院賞受賞[1]。昭和44年(1969年)、日本芸術院会員。著書に『でんでん虫』(布井書房, 1964)、 『芸談かたつむり』(同, 1966)があり、山川静夫による評伝『綱大夫四季』(現在、岩波現代文庫)がある。実子は初代豊竹咲太夫、母方の従兄に瀧廉太郎がいる。
9代目
(1932年2月14日 - 2015年7月20日)
のちの9代目竹本源大夫。
脚注
^ 『朝日新聞』1963年4月10日(東京本社発行)朝刊、14頁。
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