ヨゼフ・ケーニヒ
ヨゼフ・ケーニヒ | |
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生誕 | 1875年??月??日 |
出身地 | オーストリア=ハンガリー帝国プラハ |
死没 | (1932-12-05) 1932年12月5日(57歳没) |
学歴 | プラハ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
ヨゼフ・ケーニヒ(独:Josef König、1875年 - 1932年12月5日)は、プラハ出身の指揮者、ヴァイオリン奏者。近衛秀麿とともに、新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)の指揮者を務めた。
目次
1 出生から1926年まで
2 新交響楽団常任指揮者として
3 新交響楽団退任後
4 出典
5 脚注
出生から1926年まで
- 1875年、オーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、オーボエ奏者の息子として生まれる。
プラハ音楽院でヴァイオリンを専攻し、音楽理論をアントニン・ドヴォルザークから学ぶ。
1905年頃、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場管弦楽団のコンサートマスターに迎えられる。ロシア革命後の1925年までその任についていた。
1925年4月、東京で開催された「日露交歓交響管弦楽大演奏会」にロシア側のメンバーとして参加、次席コンサートマスターを務めた。なお、首席コンサートマスターは、後にケーニヒの後任として新交響楽団に着任するニコライ・シフェルブラットであった。- 同年12月、東京放送局専属の指揮者兼ヴァイオリニストとして招聘される。
1926年1月から6月まで、日本交響楽団を指導して12回の定期演奏会を開く。近衛秀麿により新交響楽団が設立された後は、新交響楽団の指揮者として育成に当たった。
新交響楽団常任指揮者として
近衛秀麿が設立した新交響楽団の指揮者として、1927年4月から1929年4月まで在任した。在任時は、近衛が定期公演の指揮、ケーニヒがラジオ放送の指揮を主に担当した。
在任期間中は、楽団員を徹底的に鍛え上げ、現在のNHK交響楽団へ通じる高い演奏水準まで引き上げるとともに、スメタナの交響詩『モルダウ』やラヴェルの『スペイン狂詩曲』、ベートーヴェンの交響曲第9番のプロ団体による日本初演を手がけた。
新交響楽団退任後
1929年5月、東京市芝区三田南寺町の自宅で派出婦に「たわむれた」ところ、ケーニヒの内妻である日本人女性がこれに嫉妬し、派出婦会長を面罵したため、憤慨した派出婦会長が会の名誉のためにケーニヒを告訴[1]。この事件が「不良外人跋扈」と新聞に大きく書き立てられ[2]、日本政府から強制退去処分を受け、同年6月30日に日本から出国。満州国のハルビン交響楽団の指揮者となった。
出典
- 『王道楽土の交響楽』岩野裕一著、音楽之友社 ISBN 978-4276211247
- [鷲見三郎メモリアルソサエティ編纂のヨゼフ・ケーニヒ関連資料]
脚注
^ 「フィルハーモニー」1929年8月号 白濱辰三「何がケーニヒ氏を帰国せしめたか。ケーニヒ氏帰国問題の真相」
^ 大野芳「近衛秀麿」p.171
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