耽羅





耽羅

耽羅國







? - 1402年

李氏朝鮮


耽羅の位置









首都

星主庁→済州牧満衙






xxxx年 - 1402年

高鳳礼


変遷





1402年
滅亡





























耽羅
各種表記

ハングル:

탐라、탐모라、둔라

漢字:

耽羅、耽牟羅、屯羅

発音:

タムナ、タンモラ、トゥルラ

日本語読み:

たんら、ちんら、たむら・たんもら、とんら

ローマ字:

Tamna,Tammora,Dulla
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耽羅国発祥の地とされる三姓穴。耽羅国は朝鮮半島本土の諸王国とは異なる独自の「三姓神話」を有した[1]


耽羅(たんら、ちんら[註釈 1]、朝鮮語: 탐라)は、朝鮮半島沖の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀初め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記される[註釈 2]




目次






  • 1 略年表


  • 2 歴史


  • 3 民族・言語系統


  • 4 支配者


    • 4.1 耽羅王国時代


    • 4.2 耽羅郡(済州)時代




  • 5 脚注


    • 5.1 註釈


    • 5.2 出典




  • 6 参考文献


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





略年表


この年表の月は旧暦表示である。




  • 476年4月 百済の文周王に朝貢した(『三国史記』)。


  • 498年9月 百済の東城王に服属した(『三国史記』)。


  • 508年12月 南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた(『日本書紀』)[2]



梁職貢図に百済の附庸国で下枕羅



  • 660年6月 百済滅亡


  • 661年5月 王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った[3]


  • 662年2月 新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった(『三国史記』)。


  • 665年8月 日本へ使者を送って来朝した[4]


  • 666年1月 王子の姑如らを日本に派遣して朝貢した[5]


  • 667年7月 佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した[6]


  • 669年3月 王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した[7]


  • 673年5月 王子の久麻藝や都羅、宇麻らを送って日本に朝貢した[8]

  • 673年8月 天武天皇即位にあたり耽羅王と王子の久麻藝らに大乙上の冠位を賜る。


  • 675年9月 王子の久麻伎が入貢し筑紫に宿泊する。

  • 675年9月 耽羅王姑如が難波に来朝する。


  • 676年2月 天武天皇が耽羅の使者に船一艘を賜る。


  • 677年8月 王子の都羅らを日本に送って朝貢した。



歴史


耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられている。[註釈 3]。歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡[9]が初見であり(「三姓神話」)、韓族とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。


『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し[10]、498年に百済の東城王に服属した[11]とあるように、498年以後は百済に朝貢していた。しかし660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。662年には新羅に服属したとみられる[12]が、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。また、継体天皇二年(五〇八)『南海中耽羅人初通百済国』とあり、日本書紀では、百済と初めて通じたのが508年と記録されている。


当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。


東シナ海の海上交通の要衝であった耽羅国は海上貿易の拠点となり、9世紀の商人張保皐(生年不明 - 846年)は新羅王の認可の下、耽羅と莞島を拠点に新羅、唐、日本の三国との貿易を盛んにし、北は日本の能登半島(石川県)や十三湊(青森県五所川原市)から南は広州、西は山東半島に及ぶ海上貿易を行い、航海安寧のために観世音菩薩を祀るための法華寺を耽羅と莞島に、赤山法華院を山東半島に建立し、この三寺院の建立によって耽羅は大乗仏教による共通の信仰と共に東亜世界と結ばれた[13]


935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、938年に耽羅国の星主の高自堅は高麗に服属した[14]。高麗は1105年に「耽羅郡」を設置し、1108年に「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた[15]


1121年には済州と改称したが、星主、王子など旧来の支配者の称号は認めていた。高麗支配下での済州島では1168年の良守の乱や、1202年の煩石・煩守の乱、1267年の文幸奴の乱など、高麗の京来官への済州島民の反乱が度々発生している[16]


大元ウルス(モンゴル帝国)は服属させた高麗軍と共に、1270年に済州島に逃れてきた三別抄を1273年に制圧した後(三別抄の乱)、1275年に済州島を高麗から分離させて名を耽羅に戻した上でモンゴル帝国の直轄地にし、モンゴル馬を放牧するための牧場を置いた[17]。この大元ウルスの時代には代官ダルガチが置かれ、また、この頃から済州島は流刑地となった[17]。元は1294年に耽羅を高麗に返した。


1368年に中国に明朝が成立すると、高麗は「親明反元」に転じ、1374年に25,000人の軍隊を送って牧胡(耽羅に土着化したモンゴル人)を滅ぼし、再びこの島を高麗の直轄地にした(牧胡の乱)[18]


高麗に代わった李氏朝鮮は、1404年に星主、王子などの伝統ある称号を廃止し、1416年には済州牧使の下に県も設置した。これより内地(韓国では陸地という)と同様の地方支配体制となった。1445年には李氏朝鮮によって身分としての星主、王子なども廃止され耽羅人に対して、儒教による朝鮮文化への同化政策が進められた[19]



民族・言語系統


耽羅民族は「星主」という国王を中心として、独自の神話・称号文化を持った民族だったが、王氏高麗の侵略や高麗への併合を通じ、強引に推し進められた同化政策により混血が進み、さらに李氏朝鮮を経て現在の韓国済州島民になった。


作家大宅壮一の著書「炎は流れる」の朝鮮編には、「済州島民は朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近い」とある。


『三国志』『後漢書』によれば、耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち[20]、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。


日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎」、「始如」、「椽磨」、「久麻伎」、「都羅」、「宇麻」等の名が知られてる。いずれも耽羅の固有語を万葉仮名のように表したものだと思われるが、その意味などは全くは分かっていない。


アレクサンダーボビンによると、「耽羅」という名称は、日本語の「たにむら(谷村, 'valley settlement')」や 「たみむら(民村, 'people's settlement')」で分析することができるという。したがってボビンは15世紀以前朝鮮語が済州島の支配言語になるまで、島では日本語族系の言語が使われたと推測した。



支配者



耽羅王国時代



























































































































































































ハングル
漢字
고을라왕 高乙那王
건왕 建王
삼계왕 三継王
일망왕 日望王
도제왕 島済王
언경왕 彦卿王
보명왕 宝明王
행천왕 幸天王
환왕 歓王
식왕 湜王
욱왕 煜王
황왕 惶王
위왕 偉王
영왕 栄王
후왕 厚王
두명왕 斗明王
선주왕 善主王
지남왕 知南王
성방왕 聖邦王
문성왕 文星王
익왕 翼王
지효왕 之孝王
숙왕 淑王
현방왕 賢方王
기왕 璣王
담왕 聃王
지운왕 指雲王
서왕 瑞王
다명왕 多鳴王
담왕 談王
체삼왕 体参王
성진왕 声振王
홍왕 鴻王
처량왕 処良王
원왕 遠王
표륜왕 表倫王 
형왕 迥王
치도왕 致道王
욱왕 勗王
천원왕 天元王
호공왕 好恭王
소왕 昭王
경직왕 敬直王
민왕 岷王
자견왕 自堅王[21]


耽羅郡(済州)時代















































































ハングル 漢字
고자견 高自堅
고말로 高末老
고유 高維
고조기 高兆基
고정익 高挺益
고적 高適
고여림 高汝霖
고정간 高貞幹
고순 高巡
고복수 高福寿
고인단 高仁旦
고수좌 高秀佐
고석 高碩
고순량 高順良
고순원 高順元
고명걸 高明傑
고신걸 高臣傑
고봉예 高鳳礼

いずれも1446年に世宗 (朝鮮王)が訓民正音(後のハングル)を公表する以前の支配者名である。



脚注



註釈





  1. ^ 『古事類苑』、神宮司庁、1903年、269頁、「耽羅ハ一二耽牟羅二作ル、或ハ度羅二作ル」とされ、同頁の和漢三才図会 十三 異国人物 耽羅 耽牟羅の記載において、耽羅のふりがなに「ちんら」がみえる。


  2. ^ ほかに、州胡(チュホ)、渉羅(ソムナ)、純羅(スルラ)、度羅(トラ)という表記も見られる。


  3. ^ 『高麗史』地理志2(耽羅縣)による。下部に伝説にかかる部分を引用する。なお、成立時代未詳の『瀛州誌』には、同様の伝説を記すが、「我是日本國使也」に相当する箇所が「我東海上碧浪國使也」となっている。



『高麗史』巻57地理志2 耽羅縣


初無人、三神人從地聳出其主山北麓有穴曰毛興、是其地也。長曰良乙那、次曰高乙那、三曰夫乙那、三人遊獵荒僻、皮衣肉食。一日、見紫泥封蔵木函、浮至東海濱、就而開之、函內又有石函。有一紅帶紫衣使者、隨來開函、有靑衣處女三人及諸駒犢五穀種、乃曰:「我是日本國使也、吾王生此三女、云西海中嶽降神子三人、將欲開國而無配匹、於是命臣侍三女而來、宜作配以成大業。」使者忽乘雲而去、三人以年次分娶之。就泉甘土肥處射矢卜地、良乙那所居曰第一都、高乙那所居曰第二都、夫乙那所居曰第三都、始播五穀且牧駒犢、日就富庶。十五代孫高厚、高淸、高季昆弟三人、造船渡海、泊于耽津、蓋新羅盛時也。于時客星見南方、太史奏曰:「異國人來朝之象也。」及厚等至、王嘉之、稱厚曰星主、以其動星象也。令淸出袴下、愛如己子、稱曰王子。又稱其季曰都內。邑號曰耽羅、以初來泊耽津而朝新羅也。各賜寶蓋・衣帶而遣之、自此子孫蕃盛、敬事新羅。以高爲星主、良爲王子、夫爲徒上。其後服事百濟、除星主・王子之號、以其爲佐平使者、爲恩率。及羅濟亡、耽羅國主見太子未老、朝高麗太祖、因賜星主・王子爵瑞山。






出典





  1. ^ 文(2008:16-21)


  2. ^ 『日本書紀』19継体天皇2年12月 南海中耽羅人初通百済国。


  3. ^ 『日本書紀』26斉明天皇7年5月丁己条 耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。


  4. ^ 『日本書紀』27天智天皇4年8月条 耽羅遣使来朝。


  5. ^ 『日本書紀』27天智天皇5年春正月戊寅条 是日耽羅遣王子始如等貢獻。


  6. ^ 『日本書紀』27天智天皇6年7月己巳条 秋七月己未朔己巳。耽羅遣佐平椽磨等貢獻。


  7. ^ 『日本書紀』27天智天皇8年条 己卯朔。己丑(3月11日)耽羅遣王子久麻伎等貢獻。丙申(3月18日)賜耽羅王五穀種。是日王子久麻伎等罷歸。


  8. ^ 『日本書紀』29天武天皇2年5月壬辰条 耽羅遣王子久麻藝都羅宇麻等朝貢。


  9. ^ 『魏志』巻30烏丸鮮卑東夷伝:又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髠頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,市買韓中。


  10. ^ 『三国史記』26百済本紀4(文周王2年4月条):耽羅國獻方物。王喜拜使者爲恩率。


  11. ^ 『三国史記』26百済本紀4(東城王20年8月条):王以耽羅不修貢賦親征至武珍州。耽羅聞之遣使乞罪乃止。耽羅即耽牟羅。


  12. ^ 『三国史記』6新羅本紀6(文武王2年2月6日条):耽羅國主佐平徒冬音律【一作津】來降。耽羅自武德以來臣屬百濟。故以佐平爲官號。至是降爲屬國。


  13. ^ 文(2008:22-23)


  14. ^ 文(2008:24)


  15. ^ 高野(1996:16)


  16. ^ 文(2008:24-25)

  17. ^ ab文(2008:25)


  18. ^ 文(2008:26)


  19. ^ 文(2008:28)


  20. ^ 『魏志』巻30烏丸鮮卑東夷伝:又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,言語不與韓同,皆髠頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,市買韓中。


  21. ^ Go Jagyeon, formerly King Jagyeon of Tamna was Governor of Tamna from 933-938




参考文献



  • 高野史男 『韓国済州島――日韓を結ぶ東シナ海の要石』 中央公論社〈中公新書1326〉、東京、1996年10月25日、発行。ISBN 4-12-101326-3。


  • 伴信友 『日本書紀考』 岸田吟香他 1883年

  • 文京洙 『済州島四・三事件――「島のくに」の死と再生の物語』 平凡社、東京、2008年4月18日、初版第1刷発行。ISBN 4-583-45437-6。



関連項目



  • 済州島

  • 済州特別自治道

  • 遣耽羅使

  • 済州島四・三事件

  • 耽羅民族



外部リンク



  • 済州の歴史

  • 高氏鐘門会




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