愍帝 (西晋)




















































愍帝 司馬鄴

西晋

第5代皇帝
王朝
西晋
在位期間
313年6月7日 - 316年12月11日
都城
長安
姓・諱
司馬鄴

彦旗
諡号
孝愍皇帝
生年
永康元年(300年)
没年
建興5年12月20日
(318年2月7日)

司馬晏

荀勗の娘
年号
建興 : 313年 - 317年

司馬 鄴(しば ぎょう、300年 - 318年)は、西晋の第5代皇帝。字は彦旗。正式な諡号は孝愍皇帝だが、一般的に愍帝と呼称される。武帝司馬炎の孫。父は呉王司馬晏。母は荀氏(荀勗の娘)。兄に淮南王司馬祥、弟に済南王司馬固・済陰王司馬衍がいる。



生涯


300年、司馬晏の三男として生まれた。8月、淮南王司馬允の乱に連座して秦王司馬郁が殺害されると、代わって秦王に封じられた。308年、散騎常侍・撫軍将軍を拝名した。


311年6月、洛陽が漢軍の攻勢により陥落し、懐帝は捕らわれの身となった。司馬鄴は洛陽を脱出して密県に出奔し、母の兄弟の司空荀藩・司隷校尉荀組・中領軍華恒・河南尹華薈らと合流した。荀藩らは行台(臨時政府)を立て、司馬鄴を盟主に仰いだ。やがて、密県は漢の勢力圏から近かった事から、南へ移動して許昌に駐屯した。当時、長安もまた漢軍の勢力下にあったが、安定郡太守賈疋らが挙兵して長安を攻め立てていた。司馬鄴は賈疋を驃騎将軍・雍州刺史に任じ、酒泉郡公に封じた。10月、豫州刺史閻鼎は撫軍長史王毗・司徒左長史劉疇・太傅参軍鄒捷・河陰県令傅暢らと議論を重ね、長安への遷都を決断した。司馬鄴は牛車に乗せられ、閻鼎と共に宛から武関に向かったが、上洛において盗賊から襲撃を受けて数百人が殺害された。閻鼎は敗残兵をかき集めると、進軍を再開して藍田に入り、賈疋に使者を送った。賈疋はこれに応じ、兵を出して司馬鄴一行を迎え入れた。12月、司馬鄴が雍城に入ると、賈疋は輔国将軍梁綜を派遣して司馬鄴を守らせた。


312年3月、涼州刺史張軌は檄文を発して司馬鄴を補佐するよう関中の諸将に呼びかけ、また前鋒督護宋配に歩騎二万を与えて長安に向かわせ、西中郎将張寔に3万を、武威郡太守張琠に2万を与えて後続とした。4月、賈疋らは漢軍を長安から撤退させ、司馬鄴を雍城から長安へ奉迎した。9月、閻鼎らにより皇太子に立てられ、長安に行台が建てられた。司馬鄴は祭壇に登って天と五帝に報告し、社稷・宗廟を建立し、大赦を下した。賈疋に征西大将軍を加え、南陽王司馬保を大司馬とした。また、閻鼎を太子詹事に任じ、百官を総監させて朝政を委ねた。12月、始平郡太守麹允・撫夷護軍索綝らが閻鼎と対立し、これを誅殺した。賈疋もまた漢の彭天護に敗れて戦死したので、司馬鄴は麹允を雍州刺史に任じ、朝政の主管や官員の選抜を委ねた。


313年4月、平陽において懐帝が処刑された。長安に懐帝崩御の報が届くと、司馬鄴は祭奠を挙行し、その死を哀悼した。その後、皇帝に即位すると、大赦を下して建興と改元した。衛将軍梁芬を司徒に、雍州刺史麹允を使持節・領軍将軍・録尚書事に、京兆尹索綝を尚書右僕射に任じた。5月、琅邪王司馬睿(後の元帝)を侍中・左丞相・大都督・陝東諸軍事に任じ、南陽王司馬保を右丞相・大都督・陝西諸軍事に任じた。また司馬睿・司馬保へ詔を下し、共に協力して晋室復興を図ろうと呼び掛けた。やがて、索綝を衛将軍・領太尉に任じ、輔政を命じた。当時、長安城内の戸数は百に満たず、家屋は崩壊して草木が生い茂り、器具は欠損して糧道は通じず、車は公私合わせて四乗しかないという有様であった。百官には官服も印綬も支給されず、桑板に官号を手書きして渡していたという。同月、漢の中山王劉曜が司隷校尉喬智明・武牙将軍李景年・平西将軍趙染と共に長安攻撃の為に襲来し、蒲坂に駐軍した。司馬鄴は麹允へ黄白城に拠って漢軍を阻むよう命じた。8月、司馬鄴は殿中都尉劉蜀を建業に派遣し、司馬睿へ漢討伐の詔を伝えさせた。しかし、司馬睿は江東がまだ定まっていない事を理由に出征を辞退した。この時、司馬鄴の諱を避けて建業は建康と名を改めた。9月、麹允は漢軍に幾度も敗れたので、司馬鄴は索綝を都督・征東大将軍に任じて節を与え、麹允を救援させた。10月、麹允・索綝が城外にいるのを見て、趙染が奇襲を仕掛けて長安外城に侵入した。司馬鄴はこれを聞くと、射鴈楼に逃れた。趙染は龍尾山下の晋軍の諸陣営を焼き払い、千人余りを殺すか捕えた後に撤退した。11月、麹允は索綝と共に劉曜を破り、喬智明を討ち取った。


314年1月、大赦を下した。2月、司空王浚を大司馬・都督幽冀諸軍事に、衛将軍荀組を司空・領尚書左僕射兼司隸校尉・知行台事に、涼州刺史張軌を太尉・涼州牧に、并州刺史劉琨を大将軍・都督并州諸軍事に任じた。また、張軌を西平郡公に封じ、子の張寔を副刺史に任じた。3月、漢の将軍石勒が薊城を攻略し、大司馬王浚が殺害された。4月、大赦を下した。5月、太尉張軌が亡くなると、子の張寔に涼州の統治を引き継がせた。5月、劉曜・趙染・殷凱が数万の兵を率いて長安に迫ったが、麹允が撃破して殷凱を討ち取った。6月、趙染が長安に襲来すると、索綝がこれを大破した。司馬鄴は索綝を驃騎大将軍・尚書左僕射・録尚書事に任じ、承制行事(皇帝の代理として政治を行う権利)の特権を与えた。7月、趙染が北地を攻撃したが、麹允はこれを撃破して趙染を射殺した。10月、張寔を都督涼州諸軍事・涼州刺史に任じ、張軌の爵位である西平公を継がせた。


315年2月、司馬睿を大都督・中外諸軍事・右丞相に、司馬保を相国に昇進させ、司空荀組を太尉・領豫州牧に、大将軍劉琨を司空・都督并冀幽三州諸軍事に任じた。また、劉琨に協力して漢軍と戦っていた代公拓跋猗盧を代王に進封した(代の建国)。4月、大赦を下した。6月、霸陵(文帝陵)・杜陵(宣帝陵)・薄太后陵(霸陵南)が盗掘に遭い、金・帛が盗まれた。当時、朝廷の服章は多くが不足していたので、司馬鄴は詔を発して残った財宝を集めさせ、内府に入れた。また、勅命を下し、雍州に討ち捨てられた屍を収葬するよう命じた。さらに、陵墓を修復し、これを犯す者は三族を誅すと宣告した。9月、劉曜が北地に侵攻すると、麹允を大都督・驃騎将軍に任じ、北地救援を命じた。10月、豫州牧・征東将軍索綝を尚書僕射・都督宮城諸軍事に任じた。劉曜は北地から転進して馮翊を攻略し、馮翊太守梁粛は万年県に逃走した。麹允は霊武に駐軍していたが、漢軍を恐れて進軍出来なかった。この時、司馬鄴は秦州にいる相国司馬保に兵を出すよう幾度も要請し、司馬保はようやくこれに応じて出征を決意し、鎮軍将軍胡嵩を救援に赴かせた。麹允は長安を放棄し、司馬鄴を奉じて相国司馬保を頼ろうとしたが、索綝は「司馬保が天子を得たら、私欲に用いるだろう」と反対したので取りやめた。これにより、長安以西は司馬保の命を優先して司馬鄴の命に従わなくなった。長安では食糧の供給は絶えて百官は窮乏し、野稲を採って飢えをしのぐ有様となった。12月、涼州刺史張寔が皇帝行璽一紐を発見し、司馬鄴へ送った。


316年1月、司徒梁芬は司馬鄴の父である司馬晏に帝号を追尊するよう進言したが、索綝らは魏の明帝を先例に挙げ(明帝は分家筋から尊位に即いた皇帝が実父に尊号を贈る事を禁じた)反対した。これにより司馬晏には太保が追贈され、孝王と諡された。4月、涼州刺史張寔は歩騎五千を長安防衛の為に派遣し、同時に涼州諸郡の貢物を届けさせた。司馬鄴は張寔を都督陝西諸軍事に、張寔の弟である張茂を秦州刺史に任じた。7月、劉曜が再び北地に侵攻すると、麹允に歩騎3万を与えて救援を命じたが、戦わずして軍が崩壊してしまった。これにより北地は陥落し、北地郡太守麹昌は長安に逃亡した。劉曜が涇陽に進軍すると、渭北の諸城は尽く陥落してしまい、建威将軍魯充・散騎常侍梁緯・少府皇甫陽らはみな殺された。8月、劉曜が長安外城を攻め落とすと、司馬鄴は小城に籠った。これにより長安は内外が遮断され、城内では食糧が尽きてしまった。鎮西将軍焦嵩・新平郡太守竺恢・弘農郡太守宋哲は兵を率いて長安に向かった。また、散騎常侍華輯は京兆・馮翊・弘農・上洛の四郡の兵を率いて灞上に屯し、鎮軍将軍胡嵩は城西諸郡の兵を率いて遮馬橋に屯したが、結局彼らは劉曜を恐れて進軍を止めてしまった。10月、米一斗が金二両にまで高騰し、長安の飢餓は甚だしくなった。民衆は互いに喰らい合うようになり、死者は人口の半数を優に超えたという。食糧庫には麹しか無くなり、麹允は麹で粥を作って司馬鄴の食事としたが、やがてそれも尽きてしまった。司馬鄴は涙を流して麹允へ「ここまで窮乏しているのに外援もない。恥を忍んで降れば、士民を活かすことも出来るであろう」と言い、降伏を決断した。また「我を誤らせたのは麹、索の二公である」と嘆いたという。11月、侍中宋敞を遣わして劉曜に降伏の書状を送った。司馬鄴は羊車に乗り、上半身の服を脱ぎ、璧玉(高価な宝石)を口に含み、棺と共に東門から出て出降した。群臣は車にすがりつき、司馬鄴の手をとって号泣し、司馬鄴もまた悲哀のあまり咽び泣いた。御史中丞吉朗は自殺した。劉曜は司馬鄴の棺を焼き、璧玉を受け取ると、宗敞に命じて愍帝を一旦宮中に帰らせた。しばらくして、司馬鄴は群臣と共に漢の陣営に移され、間もなく漢都平陽に送られた。尚書梁允・侍中梁濬・散騎常侍厳敦・左丞臧振・黄門侍郎任播・張偉・杜曼・諸郡太守はみな劉曜に殺害され、華輯は南山へ逃走した。漢帝劉聡が光極殿に登り、司馬鄴がその前で叩頭した。この様を見て麹允は地に伏せて慟哭し、やがて自殺した。劉聡は愍帝を光禄大夫に任じ、懐安侯に封じた。


317年10月、劉聡が上林において猟を行うと、司馬鄴は車騎将軍に任じられ、戎服を着用して戟を手にして先導を命じられ、見世物とされた。晋の旧臣はそれを見て嘆き悲しんだ。12月、劉聡は光極殿に群臣を集めて宴を開き、司馬鄴には酒を注がせたり、杯を洗うよう命じた。また、劉聡が厠に入った時は、蓋をとるよう命じた。その姿を見て晋の旧臣が慟哭し、尚書郎辛賓が席を離れて司馬鄴を抱きかかえた。劉聡は怒って辛賓を処刑した。当時、李矩・郭黙らの勢力が活発となっており、彼らは司馬鄴奪還を大義名分に掲げていたので、劉聡は不快がった。劉聡の子である劉粲は上書して「司馬鄴が死ねば民の希望もなくなり、李矩や趙固も利用できなくなります。そうすれば、やつらは戦わずして自滅するでしょう」と進言して。劉聡はこれに同意し、遂に司馬鄴は処刑された。享年18。


これにより司馬昭・司馬炎からの皇統は断絶し、西晋は完全に滅亡した。琅邪王司馬睿が建康において即位した事で晋王朝は継続するが、その支配は江南のみに留まり、一般的に東晋と呼ばれそれ以前の西晋とは区別される。



参考資料











  • 『晋書』- 巻5 帝紀第5

  • 『資治通鑑』- 巻87 - 巻90





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