上党郡
















































中国地名の変遷

建置

前211年

使用状況
隋代に廃止
上党郡
前漢 上党郡
後漢 上党郡
三国 上党郡
西晋 上党郡

東晋十六国
上党郡
南北朝 上党郡
上党郡
廃止

上党郡(じょうとう-ぐん)は秦代から隋代にかけて中華人民共和国山西省に設置された郡。時代により行政範囲の変遷が見られたが、おおよそ現在の長治市を中心とする山西省南東部に相当する。隋代の大業年間以降及び唐代にも同名の郡が設置されたが、これは潞州を改称したものであり、管轄区域が大きく異なる。



歴史


上党の地名は古く春秋時代に晋の地名として登場している。上党とは山上の高地を意味する。戦国時代になると趙・魏・韓により晋を分割し、それぞれが上党地区を割拠していた。


秦朝が中国を統一し前221年に36郡を設置した際に中の一つである。郡治は長子県に設置され、前漢代には14県を治めた。長子県、屯留県、余吾県、銅鞮県、沾県、涅氏県、襄垣県、壷関県、泫氏県、高都県、潞県、猗氏県、陽阿県、穀遠県である。前110年(元封元年)に州が置かれると并州に属した。『漢書』によれば、前漢末に73,798戸、337,766人があった[1]。後漢になると13県、26,222戸、127,430人を管轄した。


三国時代、上党郡治は北東の壷口関(現在の長治市、壷関県とは別)に移転している。晋代になると国内の混乱から人口が激減、10県、12,000戸の管轄となり、郡治も更に北東の潞県(現在の長治市潞城区北東部)に移転している。以降も上党郡は歴代王朝により沿襲された。北魏の時代には郡治が壷関に移転、隋代には壷関県が廃止となり上党県に編入され、郡治も上党県(現在の長治市上党区)に移転し、10県、125,057戸を管轄した。


隋朝により廃止され、管轄県は潞州直轄とされた。



脚注





  1. ^ 班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、287頁。










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