五十嵐悌三郎
五十嵐 悌三郎(いがらし ていざぶろう、明治26年(1893年)9月21日 - 昭和15年(1940年)5月1日)は、山形県西田川郡栄村(現・鶴岡市)出身の、作曲家、音楽教育者。
目次
1 人物
2 略歴
3 その他
4 著作物
人物
代表的な作曲に、『山形県青年団歌(土井晩翠作詞)』がある。
京城で学校教諭を務める傍ら、李王家の雅楽研究に没頭した。
山形県師範学校での授業の始めには、毎回1曲の歌を歌っていた。
略歴
- 1893年9月21日、山形県西田川郡栄村播磨(現・鶴岡市)に生まれる。
1915年10月、山形県師範学校本科第一部(現・山形大学教育学部) 卒業。
10月15日 - 1917年、小学校教諭などを務める。
1919年11月27日、文部省教員検定試験合格。
11月27日、山形県師範学校の教諭となる。- この頃 『山形県青年団歌(土井晩翠作詞)』を作曲する。
1924年6月9日、京城に渡り、淑明女子高等学校教諭となる。
1925年5月、京城師範学校(現・ソウル大学校師範大学)勤務。
1931年4月、朝鮮総督府李王朝雅楽部勤務。
1932年4月、双葉児童音楽園を開園。
1937年、東京で作曲に専念する。
1937年、郷里の小学校で講習を行う。
1939年10月、筆禍、舌禍、があったとして、軍の留置所に入れられる。
12月14日、同拘留所出所。
- 1940年5月1日、東京で死去。享年47
その他
1964年、童謡と歌曲を50曲収めた遺曲集が発行される。
著作物
- 『洋楽の覊絆を脱せよ』 1938年 大日本国楽振興会創設事務所
- 『優秀国家君が代の楽的新研究』
- 『国家の原理』