グレッグ・バレンタイン
グレッグ・バレンタイン | |
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プロフィール | |
リングネーム | グレッグ "ザ・ハンマー" バレンタイン ベビーフェイス・ネルソン ジョニー・ファーゴ ジョニー・バレンタイン・ジュニア ブルー・ナイフ |
本名 | グレゴリー・ウィスニスキー |
ニックネーム | ザ・ハンマー 金髪の爆撃機 |
身長 | 183cm |
体重 | 113kg(全盛期) |
誕生日 | (1950-09-10) 1950年9月10日(68歳) |
出身地 | ![]() ![]() キング郡シアトル |
トレーナー | ジョニー・バレンタイン スチュ・ハート ザ・シーク |
デビュー | 1970年 |
グレッグ・バレンタイン(Greg Valentine、本名:Gregory Wisniski、1950年9月10日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州シアトル出身。ニックネームはザ・ハンマー(The Hammer)。父親は妖鬼の異名を持つジョニー・バレンタイン。
目次
1 来歴
1.1 日本での活動
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴
学生時代にアルバイトとしてリングに上がった経験を持つ。1970年にカルガリーでスチュ・ハートの門下生となり本格的にプロレスを学び、同年7月にアンジェロ・モスカを相手にデビュー(5分ほどで敗退)。その後ザ・シークの元でもトレーニングを受けている。
若手時代はベビーフェイス・ネルソン(Baby Face Nelson)やジョニー・ファーゴ(Johnny Fargo)のリングネームを名乗り、AWA傘下のローカル・エリアやNWF、テキサスのアマリロ地区などで試合をしていた。
1974年からエディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区のCWFに移り、当初はジョニー・バレンタイン・ジュニア(Johnny Valentine, Jr.)、後にグレッグ・バレンタイン(Greg Valentine)の名前で活動する。当時、父親のジョニー・バレンタインはまだ現役選手として第一線で活躍しており、父の意向から息子ではなく「弟」と称していた(息子がデビューするほどの年齢であることが公になると、自分の商品価値が下がってしまうとジョニーが懸念したため[1])。
1975年2月にロサンゼルスでエドワード・カーペンティアを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得して注目を浴び、4月には当時ジャック・ブリスコの保持していたNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。
同年10月、父ジョニーやリック・フレアーが乗ったセスナ機が墜落するという事故が起きる。この時の怪我で父は引退。グレッグはこの事件後に、ジョニー・バレンタインの息子であるということを公表し、1976年よりジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区を主戦場とする。リック・フレアーとの金髪コンビで同地区認定のタッグ王座を何度となく獲得し、次代を担うヒールとして期待された。
1978年、ニューヨークのWWFに登場。当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドと抗争し、メインイベンターの地位を確立した。1983年まではWWFとNWAを行き来しながら試合をしており、NWAではフレアーやロディ・パイパー、ワフー・マクダニエルらと抗争し、USヘビー級王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を3回に渡って獲得するなどトップ戦線で活躍した[2]。

ホンキー・トンク・マン(後方)とのタッグチーム、リズム&ブルース
1984年より、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始していたWWFに定着。ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦する一方、ティト・サンタナとインターコンチネンタル・ヘビー級王座を巡り名勝負を繰り広げる。1985年からはジョニー・バリアントをマネージャーに迎え、ブルータス・ビーフケーキとのドリーム・チーム(The Dream Team)で活動。8月24日にバリー・ウインダム&マイク・ロトンドのUSエクスプレスからWWF世界タッグ王座を奪取し、翌1986年4月7日のレッスルマニア2において、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスに敗れるまで戴冠した[3]。1989年にはジミー・ハートを新しいマネージャーに、ホンキー・トンク・マンとリズム&ブルース(Rhythm and Blues)を結成し、ブレット・ハート&ジム・ナイドハートのハート・ファウンデーションなどと抗争した。1991年のWWF離脱後はWCWに参戦。1992年2月17日、テリー・テイラーと組んでロン・シモンズ&ビッグ・ジョッシュからUSタッグ王座を奪取している[4]。
その後インディー団体を転戦し、2004年にWWE殿堂に迎えられた(インダクターはジミー・ハート)。2008年3月31日には、WWE・RAWにて行われたリック・フレアーの引退セレモニーに出席した。
日本での活動
日本には、1970年代半ばから新日本プロレスに参戦し、常連外国人の一人であった。1975年12月4日にはイワン・コロフと組んでアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦。同王座には1979年11月16日にも、マサ斎藤とのコンビで新王者チームの坂口&長州力に挑戦している。同年12月4日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が保持していたWWFジュニアヘビー級王座に体重を減らして挑戦し、好勝負を展開した。1990年代は日米レスリングサミットやSWS、バトラーツなどにも来日しており、日米レスリングサミットではザ・グレート・カブキとシングルマッチで対戦した。
得意技
- エルボー・ドロップ
- エルボー・バット
- 足4の字固め
獲得タイトル
- アメリカン・レスリング・アソシエーション
- AWAミッドウエスト・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ミラー)
- ナショナル・レスリング・フェデレーション
- NWF世界タッグ王座:2回(w / ドン・ファーゴ)
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
- NWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ドン・ファーゴ)
- NWAハリウッド・レスリング
- NWAアメリカス・ヘビー級王座:2回
- NWAビート・ザ・チャンプTV王座:2回
- NWAトライステート
- NWA USタッグ王座(トライステート版):2回(w / ビル・ワット、ゴージャス・ジョージ・ジュニア)
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
NWA USヘビー級王座(ミッドアトランティック版):3回
NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):4回(w / バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、リック・フレアー×2)- NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:2回
- NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / リック・フレアー)
NWAミッドアトランティックTV王座:2回
- メープル・リーフ・レスリング
- NWAカナディアン・ヘビー級王座(トロント版):1回
- ワールド・レスリング・フェデレーション / ワールド・レスリング・エンターテインメント
WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座:1回
WWF世界タッグ王座:1回(w / ブルータス・ビーフケーキ)
WWE殿堂:2004年度
- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング
- WCW USタッグ王座:1回(w / テリー・テイラー)
- ワールド・レスリング・カウンシル
- WWCカリビアン・ヘビー級王座:1回
- WWCユニバーサル・ヘビー級王座:1回
- インディー
- NWA北米ヘビー級王座:1回(1994年にダラスで新設されたインディー団体のタイトル)
- IWCCWヘビー級王座:1回
- AWFタッグ王座:1回(w / トミー・リッチ)
脚注
^ 『THE WRESTLER BEST100』P229(1981年、日本スポーツ出版社)
^ “NWA United States Heavyweight Title [Mid-Atlantic]”. Wrestling-Titles.com. 2015年3月29日閲覧。
^ “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2015年3月29日閲覧。
^ “WCW United States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年3月29日閲覧。
外部リンク
- WWE Hall of Fame
- Profile at Online World of Wrestling
- Profile at Cagematch
- Mid-Atlantic Gateway Interview
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