オットー・シュトルーベ
オットー・リュドヴィゴヴィッチ・シュトルーベ | |
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Otto Struve on a 1949 US Post envelope | |
生誕 | Отто Людвигович Струве (1897-08-12) 1897年8月12日 ロシア帝国 ハリコフ(現 ウクライナ) |
死没 | 1963年4月6日(1963-04-06)(65歳) アメリカ合衆国 カリフォルニア州バークレー |
国籍 | アメリカ合衆国 |
研究分野 | 天文学 |
出身校 | ハリコフ大学 |
主な受賞歴 | 王立協会フェロー[1] |
プロジェクト:人物伝 |
オットー・リュドヴィゴヴィッチ・シュトルーベ(Otto Lyudvigovich Struve, ロシア語 Отто Людвигович Струве, 1897年8月12日 - 1963年4月6日)はロシア生まれのアメリカで活躍した天文学者である。
フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ(Friedrich Georg Wilhelm von Struve 、1793-1864)から4代にわたり6人の有名な天文学者をだしたシュトルーベ(ストルーヴェ / ストルーベ / シュトルーヴェ / シュトルーフェ)家 (Struve) の最後の天文学者である。ヤーキス天文台長、国際天文学連合の会長などをつとめた。
生涯
(991) マクドナルダ | 1922年10月24日 |
(992) スウェージー | 1922年11月14日 |
ハリコフに生まれた。大学在学中に第一次世界大戦がはじまり、徴兵された。さらにロシア革命では、白軍として戦い負傷した。内戦に白軍が敗れると、父親のルドヴィッヒ・シュトルーベと亡命したが父親は1920年にセヴァストポリで死去した。1年半のトルコでの亡命生活中に兄弟も失った。援助を依頼したドイツの叔父ヘルマン・シュトルーベも1920年に死去したが、シカゴ大学所属のヤーキス天文台の所長エドウィン・フロストから仕事をえることができ、アメリカ合衆国に渡り天文学のキャリアを積むことになった。1923年に学位をとり1927年にアメリカ市民権を得た。
特に恒星天文学の分野で多くの業績を挙げ、同時に一般向けの書籍も数多く執筆した。1937年にはぎょしゃ座イプシロン星のモデルをジェラルド・カイパー、ベンクト・ストレームグレンと共に発表して反響を巻き起こし、現在に至る研究の先鞭を付けた。
1932年から15年間ヤーキス天文台の台長を務めた。また、1952年から1955年にかけて国際天文学連合の第10代会長に就任[2]、1959年7月1日にはアメリカ国立電波天文台 (NRAO) の初代台長に就任 (~1961年12月1日)[3]するなど天文学に関わる組織の要職を務めた。
1925年に結婚したが、子供がいなかったため天文学のシュトルーベの家系は絶えることになった。カリフォルニア州バークレーで死去。
受賞歴
賞
- イギリス王立天文学会ゴールドメダル (1944年)
ブルース・メダル (1948年)
ヘンリー・ドレイパー・メダル (1949年)
ヘンリー・ノリス・ラッセル講師職 (1957年)
命名
- 小惑星:(2227)オットー・シュトルーヴェ (Otto Struve)
- 月のクレータ:シュトルーヴェ(オットー・シュトルーベを含む3人のシュトルーベの功績を記念)
脚注
^ Cowling, T. G. (1964年). “Otto Struve 1897-1963”. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 10: 282–304. doi:10.1098/rsbm.1964.0017.
^ “Otto Struve”. 国際天文学連合. 2015年11月28日閲覧。
^ “National Radio Astronomy Observatory Archives: NRAO Timeline”. アメリカ国立電波天文台. 2015年11月28日閲覧。