浅野長矩




























































 

凡例
浅野長矩

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浅野長矩

時代
江戸時代中期
生誕
寛文7年8月11日(1667年9月28日)
死没
元禄14年3月14日(1701年4月21日)
改名
犬千代(幼名)、長矩
別名
又一郎、又市郎、浅野内匠頭(通称)
諡号
梅谷
戒名
冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士
官位
従五位下・内匠頭

播磨赤穂藩主[1]
氏族
浅野氏
父母
父:浅野長友、母:内藤忠政の娘・波知
兄弟
長矩、長広(大学)

正室:浅野長治の娘・阿久里(瑤泉院)

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 赤穂藩主


    • 1.2 殿中刃傷


    • 1.3 取調


    • 1.4 処断決定


    • 1.5 長矩切腹




  • 2 刃傷の理由


  • 3 性格


  • 4 当時の大名としての評価


  • 5 持病


  • 6 治世


  • 7 家系


  • 8 脚注


    • 8.1 注釈


    • 8.2 出典




  • 9 関連項目





生涯



赤穂藩主


寛文7年8月11日(1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際大学がある場所)において生まれる。母は長友正室で鳥羽藩主・内藤忠政の娘・波知。幼名は祖父・長直、父・長友と同じ又一郎


寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年1月26日(1675年2月20日)に長友が死去。また生母である内藤氏の波知も寛文12年12月20日(1673年2月6日)に亡くなっており、長矩は幼少期に父も母も失った。


延宝3年3月25日(1675年4月19日)、長矩は9歳で赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7日(5月1日)には4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日(6月16日)には、三次藩主・浅野長治の娘・阿久里姫との縁組が江戸幕府に出願され、8月8日(9月27日)になって受理された。これにより阿久里は延宝6年(1678年)より赤穂藩の鉄砲洲上屋敷へ移った。


延宝8年8月18日(1680年9月10日)に従五位下に叙せられ[注釈 1]、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた[注釈 2]


天和元年(1681年)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。またこの年の8月23日(1684年10月4日)、15歳にして山鹿素行に入門して山鹿流兵学を学ぶようになる。天和2年3月28日(1682年5月5日)には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、のち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中足守藩主・木下公定であった。


天和3年2月6日(1683年3月4日)には、霊元天皇の勅使として江戸に下向予定の花山院定誠・千種有能の饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき高家・吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。


勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。またこの結婚と前後する5月18日には家老・大石良重(大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。


しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石良雄もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。


この年の6月23日(8月15日)にはじめて所領の赤穂に入り、大石良雄以下国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来する。


江戸在留中の貞享元年8月23日(1684年9月24日)に弟の長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は江戸で亡くなる。


江戸在留中の元禄3年12月23日(1691年1月21日)に本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍した[注釈 3]


元禄6年(1693年)12月22日(1694年1月17日)には備中松山藩の水谷家が改易になったのを受けて、その居城である松山城の城請取役に任じられた。これを受けて長矩は、元禄7年2月18日(1694年3月24日)に総勢3500名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山(現在の岡山県高梁市)へと赴いた。2月23日(3月18日)、水谷家家老・鶴見内蔵助より同城を無血で受け取った。長矩は開城の翌日には赤穂への帰途についたが、名代として筆頭家老・大石良雄を松山城に在番させ、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの1年9か月の間、浅野家が松山城を管理することになる。


また元禄7年8月21日(1694年10月9日)、阿久里との間に子がなかったため、弟の長広を仮養子に迎え入れるとともに新田3,000石を分知して幕府旗本として独立させた。さらに翌元禄8年12月29日(1696年2月2日)には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。なお「長矩危篤」の報は原元辰(足軽頭)を急使として大石良雄ら国許の重臣にも伝えられた[注釈 4]


しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年5月頃(1696年6月頃)には完治した。この前後の5月9日(6月8日)火消し大名としての活躍から本所材木蔵火番に任じられる。元禄11年8月1日(1698年9月4日)に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年6月16日(1700年7月31日)には桜田門御番に転じた。同年11月14日(12月23日)には弟・長広と土方雄豊の娘の婚儀が取り行われた。


そして元禄14年2月4日(1701年3月13日)、二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。



殿中刃傷






浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこの頃、吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのため吉良帰還までの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と推測する説もある。


一方、東山天皇の勅使の柳原資廉・高野保春、霊元上皇の院使・清閑寺熈定の一行は、2月17日(3月26日)に京都を立った。勅使の品川(現東京都品川区)到着の報告を受けて長矩も3月10日(4月17日)、伝奏屋敷[注釈 5]へと入った。3月11日(4月18日)、勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中・土屋政直と高家・畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使御馳走人の浅野も紹介された。翌3月12日(4月19日)には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍・徳川綱吉に下賜する儀式が執り行われた。さらに翌日の3月13日(4月20日)、将軍主催の能の催しに勅使・院使が招かれた。この日までは長矩は無事役目をこなしてきた。


そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。この儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番・梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ長矩が背後から近づき、吉良義央に対して小サ刀(実戦用ではなくアクセサリー的な刀)で切りつけた。梶川が書いた『梶川筆記』に拠れば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされる。しかし浅野は本来突くほうが効果的な武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春(村豊)や高家衆、茶坊主達たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏と畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。長矩もまたその場から連行された。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。長矩が連れて行かれた部屋は諸書によって違いがあるが、おそらく中の口坊主部屋と考えられる(『江赤見聞記』『田村家お預かり一件』などが「坊主部屋」と明記している)。



取調


捕らえられた長矩が取り調べに対し、何と答えたかについては確かな史料は無い。それどころか取り調べが行われたかどうかすら確かな史料からは確認できない。


幕府目付多門重共が書いた『多門筆記』(多門は虚言癖があると言われており、その筆記の取扱いには注意を要する)によると、多門が目付として長矩の取り調べを行った。その際に長矩は「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」とだけ述べ、吉良に個人的遺恨があって刃傷に及んだことは述べたが、刃傷に至る詳しい動機や経緯は明かさなかったという。あとは「上野介はいかがに相成り候や」と、吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると、長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。



処断決定


午の下刻(午後1時50分頃)、奏者番の陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣した。未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られた。


この護送中に江戸城では、長矩の処分が決定していた。将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。前述の『多門筆記』によると、若年寄の加藤明英、稲垣重富がこの決定を目付の多門に伝えたが、多門は「内匠頭五万石の大名・家名を捨て、お場所柄忘却仕り刃傷に及び候程の恨みこれあり候は、乱心とても上野介に落ち度これあるやも測りがたく(略)大目付併私共再応糾し、日数の立ち候上、いか様とも御仕置き仰せつけられるべく候。それまでは上野介様も、慎み仰せつけられ、再応糾しの上、いよいよ神妙に相い聞き、なんの恨みも受け候儀もこれなく、全く内匠頭乱心にて刃傷に及び候筋もこれあり候はば、御称美の御取り扱いもこれあるべき所、今日に今日の御称美は余り御手軽にて御座候」と抗議したと書いている。これを聞いて加藤と稲垣も「至極尤もの筋。尚又老中方へ言上申すべし」と答え、慎重な取り調べを老中に求めてくれたというが、結局は大老格側用人・柳沢吉保が「御決着これ有り候上は、右の通り仰せ渡され候と心得べし」と称して綱吉への取次ぎを拒否したため、即日切腹が確定したのだと同書中で述べている。


江戸城内や幕府の行事における刃傷事件はこれまでにも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。ここまで綱吉が切腹を急いだのは、政治的意味合いがあったとする説がある。長矩の母方の叔父・内藤忠勝が同じような事件を起こしたことがあるにも拘わらず、近親者が同様の事件を起こしたことから、これまでの処罰の軽さが今回の事件の一因となったと考え、苛烈な処断となった、とする説がある。



長矩切腹


以下は一関藩の『内匠頭御預かり一件』による。


申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされた。その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを二杯所望した。田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長期の監禁処分を想定し、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。


宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、庭先の切腹場へと移された。庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。


『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」という辞世を残したとしている。さらに多門の取り計らいにより、片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。


しかし、これはいずれも『多門筆記』にしか見られない記述である。『多門筆記』では、柳沢出羽守とかくべきところを美濃守と書いてあったり仙石伯耆守であるべきところを後に改名した丹後守になっていたり、刃傷事件現場について「畳に夥しいほどの血が」というように大げさな記述があったりと、信用出来ない記述があまりにも多い。「多門筆記は後世の別人の作」という見方はかなり有力であり、この辞世は、春風に吹かれて夜桜が散っているという情景と自らの心境を重ねたものであるが、前日の雨と強風で桜はすでに散ってしまった後の可能性が高い。


さらに『多門筆記』によれば長矩の切腹場所が一国一城の主にあるまじき庭先である事について多門は庄田安利に抗議したという。しかし庄田は「副使のくせに正使である拙者に異議を唱えるな」とまともに取り合わなかったのだという。例によって多門の自称なので疑わしく見えてくるが、庄田は翌年高家・大友義孝(吉良義央の同僚で友人)や東条冬重(吉良義央実弟)など吉良派の旗本たちと一緒に呼び出され、「勤めがよくない」として解任されてしまっていることから、どうやら庄田が吉良寄りと思われるような態度をとったことは間違いないようだ。


なお比較的資料の価値が高い『内匠頭御預かり一件』の方には長矩の側用人片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残したことが記されている。それによれば「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という遺言であったという。尻切れになっている謎めいた遺言であるが、これが原文なのか、続く文章は幕府をはばかって田村家で消したのか、真相は不明である。


その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。


長矩の遺臣たちのその後は、赤穂事件の項を参照のこと。



刃傷の理由


長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。
主に以下のような遺恨・対立の説がある。


遺恨・対立の理由


  1. 院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より付届けが少なかった、あるいは浅野は渡さなかった(『徳川実紀』、尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』

  2. 勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(『沾徳随筆』)

  3. 長矩夫人の阿久里に吉良が横恋慕した(『仮名手本忠臣蔵』の影響で広まった)

  4. 塩田を原因とする説


  5. 増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに吉良は長矩にだけ教えなかった(『岡本元朝日記』、『寺坂私記』)

  6. 長矩の美少年な児小姓を吉良が望んだが、長矩が断った(『誠忠武鑑』)

  7. 浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、長矩が断った(『聴雨窓雑纂』)

  8. ある茶会で披露された書画について吉良は「一休宗純の真筆」と鑑定したが、長矩が「贋作だ」と述べた(赤穂精義参考内侍所)

  9. 吉良が皇位継承問題に介入したため、尊皇家・山鹿素行の門下である長矩が怒った(『元禄快挙別禄』)

  10. 悪名高い吉良に長矩が天誅を下そうと思った(『赤城盟伝』)




1:もっとも一般的で『忠臣蔵』の映画やドラマ、小説などで採用されているのがこの賄賂説である。吉良は賄賂をむさぼるのが好きで長矩が賄賂を拒否したために辱められたという記述などは『徳川実紀』や当時の尾張徳川家の『鸚鵡籠中記』にみえる。


2:水間沾徳(赤穂藩士大高忠雄・神崎則休・富森正因・萱野重実らの俳諧の師匠)の『沾徳随筆』の中にある「浅野氏滅亡之濫觴」によると「勅使饗応役の費用を浅野家は700両で提案し、浅野は吉良が不在だった2月に高家の畠山義寧に相談して了承を得ていたが、3月になってから吉良がこれに異議を唱え、費用を1200両とせよと命じたことで両者が不和になり、刃傷の原因となった」とある。このうち、吉良が1200両と提案したのは一度目の御馳走人の時に対して元禄時代は大幅に物価が上がっていたためとされる。ただし、浅野が一度目を御馳走人を務めた時の費用は400両とされ[2]、当時、二倍ほどあがっていた物価に対する費用としては800両あたりが妥当で、1200両は一度目に較べると三倍の予算にあたり、当時の物価の上昇を考慮しても高額であるといえる。


3:横恋慕の筋書きは、仮名手本忠臣蔵が下敷とした太平記において、忠臣蔵で吉良を仮託した高師直が長矩を仮託した塩冶判官を陥れてその妻を奪おうとしたくだりからきたものである。


4:近年主張されるようになった説に三河国吉良庄の一部で製造されている饗庭塩の出来が悪いため、出来がいいことで評判の赤穂塩の製造方法を聞き出そうとしたが断られた、もしくは江戸の塩市場の争いとなったのではないかとする説を吉良出身の作家の尾崎士郎が唱えていた。しかし、実際には吉良義央の領地にあったとされる塩田の遺跡は旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。


5:増上寺の畳替えについては、当時の秋田藩の家老岡本元朝の日記『岡本元朝日記』、『寺坂私記』などに畳替えの件で揉めたことが書かれている。『岡本元朝日記』の元禄14年(1701年)5月27日には、


「風説によると、事前に浅野が吉良に畳替えに必要か尋ねたところ、不要と言われ、先例を調べてもそのような先例がないので、浅野も納得してそのままにしておいた。だが、前日の14日になって、老中の阿部正武に尋ねたら、新しくせよと、申されたと吉良が言い出し、浅野はそれを聞いて狼狽して、老中に照会すべきことであれば、自分から聞き合わせたのに、あなたがそれを不要といった。だからこそ、事前に聞き合わせ、必要があればそうしたというのに。それを先日は無用といったのに、今日になってそのようなことを言うとはどういうことか。すでに今日はこうして登城しており、明日朝のことをどうしたら良いというのか。と問いただしたところ、義央はあらゆることに、吝嗇では御馳走は勤まらないと返答した。これが長矩の意趣であると取り沙汰している」といったことが書かれている。

6~10の遺恨・対立の説については赤穂事件の項に詳細が書かれているため、そちらを参照。



性格


  • 吉良の手当てをした栗崎道有の『栗崎道有記録』は、浅野長矩は癇癪持ちであったと記す。

  • 同時代の儒学者の室鳩巣は著作『赤穂義人録』の中で「長矩は人と為り強硬(また「武骨者」と傍注をつけている)屈下せず」と頭を下げることを好まない性格であったと記している。

  • 享保2年(1717年)生まれの旗本・伊勢貞丈が書いた『四十六士論評』には、

「浅野内匠頭が弟大学は、延享寛延の頃まで存命にて、予が相番にて、御小姓組を勤めたりき、其談しを聞しに、内匠頭は性甚だ急なる人にてありしとぞ、吉良へ賄賂を贈るべしと家臣勧めけれども、内匠頭用いずして、武士たるもの追従をもつて賄賂を贈り、人の蔭をもつて公用を勤むべき事に非ずと云ひけると云う、又大石が自筆の其時の日記少しばかりありしを、予見し事もありき」とある[3]

しかしながら、浅野大学は享保19年(1734年)に65歳で亡くなっていることが『寛政重修諸家譜』などによって判明しているため、それから10年以上が経過している延享(1744~1748年)、寛延(1748~1751年)の頃に、生きている浅野大学と話すことは、不可能である[4]。加えて、浅野大学は享保9年(1724年)に嫡子の長純に家督を譲って隠居しているため、延享2年(1745年)に28歳で御小姓組に番入りした伊勢貞丈が浅野大学と共に勤務し、相番することも年齢や勤務時期からしても不可能であった[4]。これらのことから、伊勢貞丈の『四十六士論評』の史料としての信頼性、そして、浅野大学から聞いたという話の信憑性は限りなく、低いとされている。


  • 延宝8年(1680年)6月26日には、第四代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父・内藤忠勝も永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易となっていることから、母方の遺伝子説を唱える説もある。


当時の大名としての評価


  • 元禄3年(1690年)頃の諸大名の評判が記されている『土芥寇讎記』には、


「長矩、智有りて利発なり。家民の仕置きもよろしき故に、士も百姓も豊かなり。女色好むこと、切なり。故に奸曲のへつらい者、主君の好むところにと随いて、色能き婦人を捜し求めて出す輩、出頭立身す。いわんや、女縁の輩、時を得て禄を貪り、金銀に飽く者多し。昼夜閨にあって戯れ、政道は幼少の時より成長の今に至って、家老の心に任す」とある[5]

「長矩は賢く、利発である。赤穂藩や民に対する統治も良いために、家臣や百姓も豊かである。女を好むことは、非常である。そのため、悪心をもったへつらう者が、主君の好むところに従って、いい女を探し求めて差し出すような者は出世する。ましてや、そうして差し出された女に縁のある輩は時を得て出世し、富を得る者が多い。昼夜閨で戯れて政治は子供の頃から成長した今になっても、家老に任せている」


前半の評価としては、同じように『土芥寇讎記』の内で評価されている同時代の越前福井の松平昌親が大悪の無道人、備前岡山の池田綱政が愚闇の将、庄内の酒井忠直が闇将、大和郡山の本多忠平が愚将、近江膳所の本多康慶が前代未聞の悪主と評されるなど、徳川一門や譜代でも悪い・愚将などの評価がはっきりとなされ、悪い評価も多い中では[6]、浅野長矩は比較的、褒められている分類に入る。しかしながら、後半については、明らかに女色を好むことや政治のやり方などについて非難されており、全体的な評価としては、諸大名の中では、中の下くらいの評価がなされているといえる。


ただ、浅野長矩の女色を好むという評価については、『土芥寇讎記』以外の同時代の史料に女色を好むといったことが書かれているものがない事や長矩が当時としては珍しく側室を持った記録等が見られない藩主であったことなどから、懐疑的に見る必要がある。また、『土芥寇讎記』では、色を好む(男色・女色を問わず)場合でも、世継ぎをもうけなければならない藩主という立場などから、容認される大名も随所に見られるため、それらの評価基準についても様々な論考がなされている[7]


  • 元禄14年(1701年)に書かれた『諫懲記後正』という土芥寇讎記と同じように、当時の諸大名の評価を記したものには、

「将の嗜むべきは文道である。文なき将は必ず所行が疎かになる。長矩は文道なく、智恵なく、気質は威張らず、小心にして律儀とはいえ、短慮なれば、後々所行については、おぼつかなくなるだろう。されども、長矩は、淳直にして、日常の行いは義に背くことがない。奢らず、忠誠心を重んじ、世間との付き合いもよいということならば、悪いとはいえない。先年、奥方の下女について、少々、非道の沙汰があって、この頃もっぱら世間の聞こえがよくない。すでに、この家は危うきことなりと批判していたが、なんなく事がおさまった。元来、長矩はいい政治が少ないので、領民からむさぼり、所行にも少々よくないことがあるのではないかといえる。そうなれば、長矩の行く末はとても危ぶまれる」などの内容が書かれている[8]

こちらでの評価は、前半は可もなく不可もなくといったものだが、後半は奥方の下女に対する沙汰やそれについての世間の風評、そして、政治のあり方などに非難がなされている。


なお、この奥方の下女について、非道の沙汰方云々というのは、『冷光君御伝記』などから、貞享四年の六月にあった屋敷の女中部屋の屋根に放火があった事件のことだと考えられている[9]


この事件は、奥方で働いていた女中の下女二人が怪しいということで取り調べた結果、罪を認めたので斬罪とした。そして、その後、親類に報告すると、一方の親は納得したが、もう一方の親は納得せず、町奉行所に訴えた。そのため、浅野家からも町奉行の北条安房守に事情を話したところ、5年前から付け火の犯人は勝手に処分してはならない、公儀に連絡し、その指図を受けなければならない、という幕令が出ていたため、町奉行の北条安房守では指図が難しく、浅野家は老中・大久保加賀守忠朝に事情を説明に行った。参勤交代で帰国する予定を延期し、屋敷内物静かに、国元も諸事穏便にと緊張する事態になった。しかし、結局何事もなく無事に事がおさまった。ということが書かれており、上記の記述はこの事件で一時期、緊張状態にあった状況のことを指しているとみられる。また、事件は大久保忠朝らが相談の上で、将軍綱吉に報告せずに、勝手次第に帰国してよいという指図を出して解決していることが同じく、『冷光君御伝記』に見える。ただ、上で取り上げた『土芥寇讎記』にある女色を好むという記述にあるように、奥方の下女にそうした行いをしたことから、世間の聞こえがよくない状況となったということも充分考えられる。



持病


長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」あるいは痞気という病気を持っていた。精神病・統合失調症との説もある。


実際に、『冷光君御伝記』には「同十一日未明、伝奏衆江戸御着座冷光君(浅野長矩)には少々御不快これにより御保養し、……御持病はこれ御痞気と成られました」とある。


江戸時代に区分されていた精神障害の分類については、「驚」はけいれんを主な症状とする小児の疾患、「癲」は大発作を起こすてんかん、「驚癲」は神経症圏の疾患、「狂」は統合失調症に相当するとして病名などが分けられていた。更に、「狂」は「剛狂」と「柔狂」に分類され、前者は今日の緊張型統合失調症、後者は破瓜型統合失調症に相当し、今日の精神遅滞に相当する「痴鵔」、摂食障害にあたる「不食」の記載も当時の文献などにみられる[10]


しかしながら、浅野が持病としていた痞(つかえ)については、これらに分類されておらず、感情が激した時に胸が苦しくなる、腹のなかに塊のようなものがあって痛む病気、または幼児の腹の病気などとされる[11]


中国の医学書の『黄帝八十一難経』、江戸時代に『黄帝八十一難経』を研究し、解釈本を刊行した徳川将軍家の奥医師であった多紀元胤の『黄帝八十一難経疏証』などにも、



「脾の積、名づけて痞気(ひき)と曰う、胃脘に在りて、覆いて大きさは盤の如く、久しく癒えず、人の四肢をして収めざらしめ、黄疸を発し、飲食すれど肌膚と為らず、冬の壬癸の日を以て之を得るなり。何を以てか之を言えば、肝が病みて脾に伝え、脾は当に腎に伝うべし」

「脾の積は名づけて痞気と言う。胃脘にあって、覆っていて大きさは盤のようで、長期にわたって癒えなければ、人の四肢が収まらず黄疸を発し、飲食しても肌膚にはならない。冬の壬癸の日にこれを得る。何故かというと、肝が病みて脾に伝わり、肝病は脾に伝わり、脾は腎に伝えようとする」


とある。このように痞気は、肝臓や脾(膵臓と脾臓)に関する病気とされていた[12]。そのため、当時の痞(つかえ)や痞気を精神病や統合失調症と見るのは無理があるとされている[13]



治世


  • 当時の赤穂藩で導入されていた塩水濃縮法による入浜塩田法を他家・他藩にも教え、他藩の者達が学びにくることを許可し、積極的に受け入れていた。そのことを示す事例として、以下のようなものがある。

延宝8年(1680年)に製鉄技術調査のために中国地方を訪ねた陸前(宮城県)本吉郡馬龍村の佐藤三右衛門が帰路に、たまたま赤穂に立ち寄り、塩作りの様子を目にした。本吉郡内では古来から製塩が行われていたが、海水をそのまま釜で煮る原始的な方法で莫大な薪を消費していたため、三右衛門は、人手も燃料も効率のよい播州流製塩法を導入しようと3年後の天和3年(1683年)2月16日に、弟の五郎七ら3人で藩の許可を得て仙台を出発。赤穂に5月末まで逗留し、塩煮法を学んだ。帰りには浜子2人を2年間の約束で連れ帰り、翌年の貞享元年(1684年)にも、再来穂した五郎七らが浜大工を雇い入れている。その時のこれらの雇用契約を赤穂の大年寄や庄屋が承認した文書が現存している[14]


また、三石衛門らが営んだ塩田はそれまで仙台藩で行われていた海水直煮法のおよそ3倍の成果があり、新製法を導入して2年で借金を返済し、その後、多くの利潤を上げ、三石衛門は大番士に出世した。そして、赤穂の製塩技法は東北各地に伝播していったという[15]。天和3年(1683年)になって浅野長矩は初めて所領の赤穂に入っているが、佐藤三右衛門らが赤穂藩で上記のように受け入れられ、赤穂藩内でも税収に大きく関わり、重要だったこうした製塩技法を学ぶことができたのは、当時の藩主であった浅野の許可が必要であったと考えられる。


ただ、この時期、すでに入浜塩田法は赤穂のみならず、瀬戸内の諸藩に広まり、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予、計10国でこうした入浜塩田法が行われ、「十州塩田」と総称されていた[16]。そのため、赤穂藩はこうした製塩技法を秘匿しておく必要性がないと判断した可能性がある。


  • 藩札の導入の開始についても早期から着手していた。藩札と呼ばれる各藩が独自に領内に発行した紙幣の導入は寛文元年(1661年)に開始した越前福井藩、寛永7年(1630年)に発行した備後福山藩などが最初といわれているが、1700・1800年代に藩札を導入し、発行し始めた諸藩が多い中、赤穂藩は延宝8年(1680年)から藩札の導入を開始していた。この時期は、浅野長矩が藩主であった時期であり、こうした新制度の導入については、藩主の決定と幕府への届け出が必要であった。また、藩札については、名目上として、藩札を発行し、藩札の専一流通を規定した藩は数多いが、赤穂藩ほど徹底していた例は稀で、赤穂藩では領地が山に囲まれた地形だったこともあり、領外との取引を行う商人などを除き、領内での藩札の専一流通が確実に行われていたことが史料などによって確認されている[17]。なお、藩札は、領内の通貨不足への対応や財政赤字を補填するため目的などで発行されるため、赤穂藩と浅野長矩はこうしたことや藩札の専一流通による領内の金融政策の掌握などを目的として、諸藩に先駆けて早い時期から藩札の導入を試みたと考えられている。


  • 現在の兵庫県のため池の数が全国で一番多いということからわかるように、播磨・播州は古来から年間降水量が全国平均の約半分ほどの雨が少ない瀬戸内式気候であり、こうした気候や地形などから慢性的な水不足などに陥りやすい地域であったことから、昔から治水事業が盛んに行われていた[18]。そのため、浅野長矩もその治世で、以下のような治水事業・築造を行っていた。

  • 与井の土手:千種川の水害を防ぐ為に作った堤防[19]

  • 赤松のたくみ池 [20]

  • 鳳宮池 [21]

  • 山野里大池:元禄年間に浅野長矩によって築造されたとされる。後に、地域の米作りや治水に大きな業績と偉業を果たした浅野長矩に感謝の意を表すために、寛政十二(1800)年に山野里の村人たちが大池を臨む池畔に浅野長矩公供養碑を建立している。

  • 瓜生大池:瓜生村、上村、菅谷村の百姓が毎年の水不足で困っているという百姓の悩みを聞いて、浅野の殿様が大きな池を掘り、掘り出した土で新たに田畑を開墾することにしたという伝説が残る。史料としては、小林楓村の『相生史話』に収録されている延享4年(1747年)「播磨国赤穂郡瓜生村差出明細帳」に、


「一、溜池三ヶ所、内、字大池 一ヶ所、長九十六間、根置二十一間、馬踏四間、但 田方七町五反歩程の用水に懸申候…覚え、一、新田畑は元禄十二年卯新開浅野内匠頭様御検地」

とあるように、浅野長矩が瓜生大池を始めとしたため池三か所を築造し、瓜生大池には96間の土手、根置(土手の下部)は21間、馬踏(土手の上部)は4間の堤防を築き、新しい田畑などは元禄十二年に浅野長矩が瓜生村で差出検地(領民が石高を申告する検地方法)したという記録が残っており、実際に、浅野長矩が築造したことがわかっている。[22]



家系


赤穂浅野家の家系は広島藩浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男・長重を祖とする家柄。長政が慶長11年(1606年)に、長男・幸長の紀伊37万石とは別に、自らの隠居料として支給された常陸真壁に5万石を慶長16年(1611年)の長政の死後、長重が継いだことに始まる。長重は元和8年(1622年)、常陸笠間に転封。寛永9年(1632年)に長重が死去すると嫡男・長直が跡を継ぐ。


正保2年(1645年)長直は赤穂へと転封となる。長直は、赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などをおこない、藩政の基礎を固めた名君として知られる。長直の後は嫡男・長友が継承、そして長友の嫡男が長矩である。





脚注


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注釈





  1. ^ 従五位下叙位の口宣案(辞令)。


    口宣案

    上卿 小倉大納言

    延寳八年八月十八日 宣旨

    源長矩

    宜叙從五位下

    藏人頭左近衞權中將宗顯




    訓読文

    上卿(しゃうけい) 小倉大納言。

    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。

    源長矩、宜しく従五位下に叙すべし。

    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕(松木宗顕)、奉(うけたまは)る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)




  2. ^ 内匠頭任官の口宣案(辞令)。


    口宣案

    上卿 小倉大納言

    延寳八年八月十八日 宣旨

    從五位下源長矩

    宜任内匠頭

    藏人頭左近衞權中將宗顯




    訓読文

    上卿 小倉大納言。

    延宝8年(1680年)8月18日宣旨。

    従五位下源長矩、宜しく内匠頭に任ずべし。

    蔵人頭左近衛権中将(藤原)宗顕、奉る。(若狭野浅野家文書(たつの市立龍野歴史文化資料館所蔵)より)




  3. ^ 元禄11年9月6日(1698年10月9日)に発生した江戸の大火の際、吉良義央は鍛冶橋邸を全焼させて失ったが、このとき消防の指揮を執っていたのは浅野長矩であった。長矩が吉良家の旧邸を守らなかったことで吉良の不興を買い、後の対立につながったのではないかなど、刃傷の遠因をこの時に求めようとする説もある。


  4. ^ 原はのちに殿中刃傷の報を国許に伝える最初の急使にも選ばれている。


  5. ^ 現千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部




出典





  1. ^ 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、14-15頁。ISBN 978-4-09-626607-6。 


  2. ^ 山本博文『江戸の「事件現場」を歩く』


  3. ^ 足立栗園『赤穂義士評論 : 先哲』積文社

  4. ^ ab三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜』第2集 364p 国民図書


  5. ^ 『土芥寇讎記』東京大学史料編纂所所蔵


  6. ^ 戴文捷・綱川 歩美・鈴木 圭吾「『土芥寇雄記』に求められた君主像」


  7. ^ 佐藤宏之「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛 : 元禄時代を読み解くひとつの手がかりとして 」


  8. ^ 『諫懲記後正』


  9. ^ 『冷光君御伝記』


  10. ^ 立川昭二『江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)』


  11. ^ 『和名類聚抄』


  12. ^ 『黄帝八十一難経』


  13. ^ 宮澤誠一 『赤穂浪士―紡ぎ出される「忠臣蔵」 (歴史と個性)』 三省堂


  14. ^ 赤穂市『赤穂市史 第5巻』


  15. ^ 廣山堯道『赤穂塩業史』


  16. ^ 山下恭『近世後期瀬戸内塩業史の研究』思文閣出版


  17. ^ 木哲浩「赤穂藩における藩札の史料収集と研究」(日本銀行金融研究所委託研究報告 No . 4)


  18. ^ ひょうごのため池 兵庫県庁


  19. ^ 『上郡民報」2016年12月・2017年1月合併号


  20. ^ 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』


  21. ^ 西播磨県民局 光都土地改良センター『西はりま 地域をまもる水物語』


  22. ^ 相生市史編纂専門委員会 編『相生市史』第4巻 相生市




関連項目



  • 赤穂事件

  • 忠臣蔵

  • 大石良雄

  • 赤穂浪士


  • 水野忠恒と毛利師就(浅野・吉良と同じ刃傷事件で、加害者の水野は改易となった)


  • 大原麗子(浅野長矩の子孫にあたるとされる(大原麗子さん 実は…浅野内匠頭の子孫だった スポニチアネックス 2011年8月1日))


  • 塩冶高貞(『仮名手本忠臣蔵』で、浅野長矩の姿を仮託された人物)






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