小林秀雄 (批評家)
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小林 秀雄 (こばやし ひでお) | |
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![]() 小林秀雄(1951年) | |
誕生 | (1902-04-11) 1902年4月11日 ![]() (現・東京都千代田区猿楽町) |
死没 | (1983-03-01) 1983年3月1日(80歳没) ![]() |
墓地 | 東慶寺 |
職業 | 文芸評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | ![]() |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 東京帝国大学文学部仏文科卒業 |
活動期間 | 1929年 - 1983年 |
ジャンル | 文芸評論 |
代表作 | 『様々なる意匠』(1929年) 『ドストエフスキイの生活』 (1935年-1937年) 『無常といふ事』(1946年) 『モオツァルト』(1946年) 『考えるヒント』(1974年) 『本居宣長』(1965年-1976年) |
主な受賞歴 | 日本芸術院賞(1951年) 読売文学賞(1953年) 野間文芸賞(1958年) 文化功労者(1963年) 文化勲章(1967年) 日本文学大賞(1978年) |
デビュー作 | 『様々なる意匠』(1929年) |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日[注釈 1] - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
目次
1 人物
2 経歴
3 業績
3.1 学生時代
3.2 詩人ランボーとの出会い
3.2.1 思想と実生活論争
3.3 支那事変の始まり
3.4 真珠湾攻撃後
3.5 敗戦
3.5.1 ラスコーリニコフの悪夢
3.5.2 ゴッホと近代絵画
3.6 1960年安保まで
3.6.1 『感想』(ベルクソン論)
3.6.1.1 ベルクソン哲学の時代背景
3.6.1.2 ベルクソン哲学の特徴
3.7 1960年安保前後
3.8 晩年
4 逸話等
5 系譜
6 主な著作
6.1 著作集(現行)
6.2 対談(現行)
7 主な翻訳
8 DVD・CD
9 関連書籍
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 参考文献
12 関連項目
13 関連人物
14 外部リンク
人物
近代日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学にも造詣と鑑識眼を持っていた。
妹の高見沢潤子は、作家・随筆家、その夫は『のらくろ』で著名な漫画家・田河水泡。
長女の明子は、白洲次郎・正子夫妻の次男・兼正の妻。英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二兄弟は従弟にあたる。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 2]。
経歴
1902年(明治35年)4月11日、東京市神田区(現東京都千代田区)猿楽町に小林豊造、精子の長男として生まれた。本籍地は兵庫県出石郡出石町鉄砲町。父豊造はベルギーでダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術と機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している[1]。1915年(大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常、西竹一ら、一期上には富永太郎、蔵原惟人、河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造没。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。
1925年(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海、中島健蔵、三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也と識る。同年11月、長谷川泰子と同棲。1928年(昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 3]。1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論等を講じた。
1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らと『文學界』を創刊。1935年(昭和10年)1月、『文學界』の編集責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。1938年(昭和13年)6月、明治大学教授に昇格。
1946年(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[3]。1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(昭和51年(1976年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。1983年(昭和58年)3月1日、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶應義塾大学病院で死去[4]。
業績
学生時代
父・豊造の洋行土産のレコードと蓄音機によって、小林は若い頃から音楽ファンであり、友人間で流行したレコードの竹針に否定的だった学生時代や、レコード針のテストのために父に貸し出したレコードをガリガリにされて憤慨したという回想も残っている[5]。豊造の洋行土産であるバイオリンのレッスンを受けていた時期もあり(後年、小林は「ノコギリ引き」と評している)、府立一中時代には、河上徹太郎と「ブーブーガンガン」モーツァルトの合奏をするために楽器を鳴らしていた[6]。学生時代にはマンドリンクラブに所属し、演奏会なども催している。父豊造は小林19歳の時に没しており、以後、小林は家長としての責任を背負うことになる。同年、第一高等学校在学中に神経症で休学している。初期の文章には、当時の自身に対する言及が散見される。同世代の若者が新劇に熱心だったのを尻目に、小林は歌舞伎などの旧劇を好んだと回想している。後年の「平家物語」を論じる時などの小林の壮麗たる筆致にその影響を見ることができる[注釈 4]。学生時代には美術室に一人こもって、絵画彫刻に親しんだということを書いている。一高時代から文芸同人誌に短編を発表し、志賀直哉、武者小路実篤の賞賛を受けるなどしていた[6]。
詩人ランボーとの出会い
転機は[独自研究?]大正末年、帝大仏文科在学中の23歳の春に神田の書店街でフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの詩集『地獄の季節』の「メルキュウル版の豆本」と出会ったことである[注釈 5]。後年に書いた「ランボオIII」で、ニーチェ自身のショーペンハウアー体験になぞらえて「(通りの)向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」と書いている。以後、二十代の小林はランボーを中心に展開することになる。[要出典]
学生時代は講義は休みがちな不良学生で乱読家で、在学中1926年(大正15年)の24歳時に東大仏文研究室の「仏蘭西文学研究」に発表した「人生斫断家アルチュル・ランボオ」(現行タイトル「ランボオI」)を読んだ指導教官の鈴木信太郎らが「これほど優秀なら」と卒業認可した。大正末期から昭和初期にかけては、第一次世界大戦後の混乱から生じた西洋進歩主義の崩壊時期であり[注釈 6]、一方で大戦末期にロシア革命が成立し、日本の知識人においても社会主義から共産主義への以降への強いシンパシー(共感)は時代の流れであった。このような時代にあって、19世紀に早々と、[要出典]
そら、科學だ。どいつもこいつも又飛び附いた。肉體の爲にも魂の爲にも、―― 醫學もあれば哲學もある、―― たかが萬病の妙藥と恰好を附けた俗謡さ。
それに王子樣等の慰みかそれとも御法度の戲れか、やれ地理學、やれ天文學、機械學、化學・・・・・・
科學。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう。これが大衆の夢である。
俺達の行手は『聖靈』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も僞りもない。
俺には解つている、たゞ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ。あゝ、喋るまい。
— 『地獄の季節』小林秀雄訳
と、近代的進歩主義に懐疑と反逆のつぶてを投げつけた[独自研究?]『地獄の季節』のランボーとの出会いがあった。
1930年(昭和5年)より、文藝春秋において文芸時評を始める。その文字通り人生を斫断するかの如き歯切れの良い「溌剌とした」(当時、小林が好んだ言葉)、挑発的な批評スタイルによって、小林は新進批評家としての地位を確立した。[要出典]後年になり、小林は若い時代を顧みて「当たるだろうと思ってやり、果たして当たった」という旨のことを書いている[7]。この時代、日本の知識人は、知的に停滞した前近代的な守旧派と社会主義の二者択一を迫られ、かつ知識人は社会主義に対して何らかの反駁を行う元気もない状況にあり、そのどちらにも与しない小林の批評態度の鮮烈さが支持されたのである。[独自研究?]この時期、小林らは同人誌「作品」を立ち上げ、小林はランボーの『飾画』を掲載している[8]。
初期小林批評の勢いは、翌年1931年(昭和6年)の始めに同じく文藝春秋で発表した「マルクスの悟達」で頓挫する[注釈 7]。後年、小林は文藝春秋創立者の菊池寛を回顧する文章で、菊池が比較的早い時代から、日本の急激な左傾化が、かえって反動ファシズムを引き起こす懸念を持っていたことを書いており、このような菊池ら文藝春秋上層部の配慮が小林に対する圧力となったものと、以後の小林の文章からは推察される。[独自研究?]
当時、世界は大恐慌の入り口にあり、日本は統帥権問題を端に発した軍部の暴走、その延長として起きた満州事変と5.15事件による立憲政治の中断、特別高等警察の設置などによる緊迫した情勢下にあった。間もなく小林は、文藝春秋の連載を終了することになる。この時期に書かれた小林の「Xへの手紙」は、「マルクスの悟達」以後の経緯についての苦渋に満ちた弁明と暗黙の転向宣言とも取れる内容となっている。この時期以後、小林はランボーについて触れることが急減し、内心に複雑な屈折を抱えたまま文筆活動を継続することとなる。小林は言わば仮面の下にランボーを隠さずには文筆活動を続けることが不可能になったのであり、以後の評論では、ランボーとの出会い以前に小林に影響を与え、ランボーによって捨て去ったフランスの象徴詩人ボードレールや同じくフランスの哲学者ベルクソンに対する言及が増えて行く[注釈 8][注釈 9]。[独自研究?]
以後、日中戦争開始後になっても小林は、マルクスについて単なる反共主義以上の関心を以て断続的にではあるが執拗に論じ続けることになる。[独自研究?]また敗戦直前に獄中死した唯物論哲学者で好敵手[注釈 10]だった[独自研究?]戸坂潤の誘いを受けて唯物論研究会に名を連ねてもいる。小林はまた、転向者の面影を書いた文章も少なからず残している。戦後『大東亜戦争肯定論』を著し、戦後論壇に論議を起こした林房雄が、二度の入獄を経て転向する以前の好感を持てるユーモラスな性格の左翼文学青年時代を書き、林自身の興味深く辛辣な転向論を紹介している。この時代にあっては左翼知識人の検挙と転向は日常的な出来事であった。[独自研究?]
小林のドストエフスキー論はこの時期以後に始まる。ドストエフスキー論で小林は、帝政ロシアの反動体制において西欧進歩主義の世界に遠い憧憬の眼を投げる若いインテリゲンチャについて「どれもこれも辛すぎる夢」というドストエフスキーの青年期の書簡での言葉を引きつつ、ファシズム興隆期の戦前昭和で生きる自らを仮託している。[独自研究?]
1933年(昭和8年)より発刊された「文學界」の同人となり、1936年(昭和11年)には創元社に編集顧問として参加している。創元社で小林は『ランボオ詩集』、『ドストエフスキイの生活』などを出版して同社の盛名に貢献している。
思想と実生活論争
日中戦争が始まる前年の1936年(昭和11年)に、小林は正宗白鳥との間で、ロシアの文豪レフ・トルストイの最晩期の家出を巡って、後年「思想と実生活論争」と呼ばれることになる論争を行う。これは、大作家トルストイが晩年になり家出によって路傍に斃死したことを、白鳥がそれをトルストイ夫人との不和を原因として大作家における凡人の苦労として共感を寄せたことに対して小林がやや大人げないとも言える攻撃的な異論をぶつけたものである[注釈 11]。この論争についての小林の白鳥に対する論駁は晦渋で、一見要領を得ないものである。[独自研究?]この時期より間もなく、小林は現代詩についての評論を発表し、そこでこの時期には珍しく封印中の詩人ランボーを引き合いに出している。また、やや時間をおいて別の文章でトルストイの家出を「ロシアの古い巡礼の霊」が彼を誘い出したというようなことを言っている。これからのことから、小林はトルストイの家出を、天才的詩作を惜しげもなく抛棄して放浪の生活に身を投じた詩人ランボーに引き寄せて理解していたものと推測できるであろう。[独自研究?]
支那事変の始まり
詩人中原中也とは、帝大時代に富永太郎を介して知り合った。富永は1925年(大正14年)早逝。初期の小林の文章には、若き小林と中原が公園のベンチに並んで腰掛けている時、無言のまま無数の落ちていく海棠の花びらを異常な集中力で追う小林を中原が突如制止して、小林がそれを呆れて中原の「千里眼」と評したという回顧がある[9]。中原は支那事変(日中戦争)の始まった1937年(昭和12年)10月に病没、小林は一週間病院に詰めた。小林の「戦争について」は、中原の死による小林の青春の終わりを宣言するように翌月発表された。この小林の文章の響きは、同時期に論じていたドストエフスキーの「作家の日記」における露土戦争へのドストエフスキーの肯定宣言に似ている。この文章で小林は「人生斫断家アルチュル・ランボオ」以来の宿命論を持ち出して以下のように書いている。
日本に生まれたといふ事は僕等の宿命だ。誰だつて運命に関する知恵は持つてゐる。大事なのはこの知恵を着々と育てることであつて、運命をこの知恵の犠牲にする為にあわてる事ではない。
この時期以後、戦時中の小林の文章には口癖のように「日に新たな」という言い回しが登場する。これは小林の手によって翻訳されたランボーの『飾画』(イルミナシオン)終章「天才」における、
世界よ、日に新たな不幸の澄んだ歌声よ。
という一句を連想させるものである。
小林は「戦争について」から間もなく、ベルクソンに深く影響を受けた歴史哲学の随想「歴史について」を序文に『ドストエフスキイの生活』を出版している。これについて小林が珍しく素直な喜びの感想を残しているのは、この出版が戦争協力に対する対価であった可能性を匂わせる。ドストエフスキー論に似つかわしくない歴史哲学が序文に付されているのもカモフラージュと言えなくもない。戦時中の小林は、哲学者カントの空気のない空間で羽ばたく鳩をしばしば持ち出して、政治的不自由に不満を抱く自由主義者を非難している[注釈 12]。
小林は戦争協力講演で、「主義(イデオロギー)」の不毛を説き、「これは僕の勝手な説ではない」と前置きし二宮尊徳の名前を持ち出すなどしている。津田左右吉の自由主義的歴史研究の弾圧された頃には、ランボー「地獄の季節」が岩波文庫に収録された[注釈 13]。
知的障害を持つ画家山下清が話題になった時期には、彼の画の感性については評価しつつも、精神性の欠如を指摘して退けている。これは山下が放浪を始める以前のことである。小林の態度を「大人げない」と取るか、「知的障害者の作なのであるから」という態度を是とするかは意見が分かれるであろう。また、当時の最先端の娯楽であった映画(活動写真)についての少なからぬ数の論考もこの時期に残している。戦後には、黒澤明のドストエフスキー映画『白痴』公開後に「『白痴』についてⅡ」を著し後に対談も行っている。また小林周辺から、戦後の小津安二郎作品に関わった文学者が出ている。
小林は戦時中、6度にわたり中華民国(大陸本土)を訪問している。最初の訪問は1938年(昭和13年)3月で、日本軍から文藝春秋の特派員として招聘され、満洲を回った。1940年(昭和15年)になると小林は、菊池寛らによる文芸銃後運動の一員として、戦争を支援するため川端康成、横光利一ほか 52人の小説家とともに日本国内、朝鮮および満洲国を訪問し幾つかの文章を残している。1938年(昭和13年)の訪問は、従軍中の火野葦平に対する芥川賞の陣中授与式も兼ねており、火野は『麦と兵隊』でその時のことを書いている[注釈 14]。
真珠湾攻撃後
小林は太平洋戦争開戦について、「三つの放送」で次のように記している。
「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。(中略)その為に僕等の空費した時間は莫大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。
何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つたりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。
やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。何故なら、僕等の経験や知識にとつては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は動かせぬではないか。名人の至芸と少しも異るところはあるまい。名人の至芸に驚嘆出来るのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。処が今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た。
対米開戦翌年には小林は編集者として長く関係して来た「文學界」[注釈 15]において盟友河上徹太郎の司会の元で「近代の超克」座談にオブザーバー的に参加している。ここで小林は、近代科学と形而上学の分離を説くなどする下村寅太郎を中心にした科学論に口を挟み、下村の言葉を受けて、
自然を拷問にかけて口を割らせるといふ、近代科学をそんなに巧く言った人が他にあるかね。
という言葉を吐いている。また小林は戦時中、「自然を征服するとは、自然に上手に負けること」であると、鈴木大拙を思わせる言葉を残している。
しかし、小林の戦争協力姿勢は時を追って勢いを失い、戦争末期には小林は口を開くのがおっくうそうであったと言われ、仲間内では「小林は何をやって食っているのか」が話題になるほどであったという。この時期の小林の目立つ仕事は時局柄、「当麻」、「実朝」、「平家物語」、「無常といふ事」など日本の古典についての文章が多い。小林は敗戦の二年前の1943年(昭和18年)、旅行中の南京で『モオツアルト』を書き始めた。これはモーツァルトを中心に立てた一種の天才論であると同時に、終わりの予感が兆し始めた一つの時代への「レクイエム」でもあった。この後、しばらくの間小林は若い時期からの音楽を聴く習慣を途絶させた[10]。
敗戦
GHQが公職追放令を発布して間もない1946年(昭和21年)1月12日、雑誌「近代文学」の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」[注釈 16]で小林は、出席者の本多秋五による小林の戦時中の姿勢への言及を受けて以下のような発言を行った。
僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。
必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。
どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。
僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。
一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである[11]。
村松剛に「吉本は戦争中天皇主義者だったのに、今は最左翼のような顔をしている」と批判されたことがあると自ら述べる吉本隆明は、「戦争中もいい加減なことを書いていた連中」が「戦後も、すぐに「文化国家の建設」とか言い始める始末」と対比しながら、敗戦の放心状態にあって小林のこの発言の一貫性について膝を打ったという旨のことを第五次小林秀雄全集によせたインタビューで述べている。「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった。また、吉本は小林の「マルクスの悟達」に至るまでの文章を挙げてマルクスを一番良く理解していたのは小林だったと評価している[12]。なお吉本は、戦前および敗戦時の小林については高評価しながらも、戦後の小林については「僕が左傾化し、熱心とは言えない読者になった頃、小林秀雄は、「無常という事」の延長線上の、ある閉じられた領域の中でくるくる巡回しているだけではないか、と思えてきたんですね。左翼から見ると尚更そうなのですが、いい文章を書いてはいるんだけれども、思想的な停滞を感じざるを得ない。」小林秀雄晩年の作品『本居宣長』についても「宣長論の勘所は、二つあると思います」、「記紀神話に書かれたことをそのまま素直に受け取ればいいという宣長の考え」「勘でいやに正確な古典日本語の読解をやっているなという国学者としての宣長」「その二点の考察が欠けているとともに、停滞感だけはいかんともしがたく、その論旨で書評を書きました」と述べている。
この年の半ば頃、小林の実母である小林精子が没し、左翼論壇による戦責追求、戦時中からの明治大学の教授職の辞職[注釈 17]などが連続して起き、酩酊状態で水道橋の駅のホームから崖下に転落して奇跡的に軽傷で済むというようなことも起きている。小林はこの転落事件に強がりを見せながら触れているが、小林の娘の回想では帰宅時には生気の抜けたような青白い顔をしていたとのことである。
この座談会「コメディ・リテレール」で、小林は文芸時評へのやや乱暴な決別宣言をしている。(「サント・ブウヴの発明した、あの文芸時評という溌剌たる形式、これも頂点に達してしまった批評形式ではないのかね。誰でもやれるようになった。例えば、匿名批評というような形式が盛大になれば、もう誰れがやってもいいのだ。第一流の批評家は必ず新しい形式を発明するだろう。まあ、そんな確かな自信が勿論あったわけではないが、何か新しい批評の形式というものを考えるようになった。そして、ジャーナリズムから身を引いてしまったのだ。」「コメディ・リテレール」より)この後、間もなく小林は「マルクスの悟達」以後、殆ど触れることのなかったランボーについての論を新たに発表し(「ランボオIII」)、ドストエフスキーの『罪と罰』についての二つ目の作品論「『罪と罰』についてII」を発表するが、全体として戦後の小林の文筆活動における近代文学評論のウェイトは低下して行くことになる。
ラスコーリニコフの悪夢
ツアーリの秘密警察が跳梁する帝政ロシアにおいて、ドストエフスキーは人道主義的作品によって新進作家として華々しいデビューを飾った。間もなく社会主義サークル活動のかどで流刑の憂き目にあったドストエフスキーが、ペテルスブルクに帰還したのは1858年である。翌年、ダーウィンが「種の起源」を発表し、西洋キリスト教世界の伝統的世界観が合理主義の号令と共に激変を始める。日本では幕末に相当し、アメリカを先頭とする西洋列強と江戸幕府との間で通商条約の締結が行われている。この時期、ドストエフスキーは西欧へ視察良好へ出かけ、帰国後『地下室の手記』を皮切りに『カラマーゾフの兄弟』に至る一連の問題作の著作を開始する。『罪と罰』はその二作目に当たり、発表された1866年は日本では明治維新の二年前に当たる。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは選良主義的超人思想にとりつかれたノイローゼ気味の青年である。ラスコーリニコフは運命の歯車に引きずられて哲学的殺人を起こし、自らの挑戦に敗北して自首し、流刑地に送られる。この作品の終わり際に、主人公が病にうなされて黙示録的な悪夢を見るという、一見するとストーリーとは直接関わりのない不思議な場面が唐突に挿し挟められている。「アジアの奥地」で発生した意志と知性を持つ魔性の微生物がヨーロッパに蔓延し、人類は傲慢と孤独の狂気に取り憑かれて世界は崩壊してしまうというのが悪夢の内容である。
敗戦間もない1948年(昭和23年)に発表された「『罪と罰』についてII」で、小林は以下のような言葉を残している。
誰に、新しい旋毛虫が笑へようか。理性がこの世に発生したのが、偶然アジアの奥地であつたとしても、誰に文句の附けようがあらう。
『罪と罰』で主人公はキリスト教的に救済されるが、この悪夢について作者ドストエフスキーはそれ以上、何の解説もせずに物語を終える。ドストエフスキー作品では唯一終末論が取り扱われ、冒頭で日本人の風習が話題になる次作『白痴』が発表されたのは、日本では明治維新の年に当たる1868年である。
ゴッホと近代絵画
「『罪と罰』についてII」発表と前後して、小林はたまたま訪れたゴッホ展で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける。以後、しばらくの期間をゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。
『ゴッホの手紙』はゴッホの書簡からの引用を多用しながら、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。
ある普遍的なものが、彼を脅迫してゐるのであつて、告白すべきある個性的なものが問題だつた事はない。或る恐ろしい巨きなものが彼の小さな肉体を無理にでも通過しようとするので、彼は苦しく、止むを得ず、その触覚について語るのである。
— 「ゴッホの手紙」
ゴッホは読書家であり、その書簡にはドストエフスキーの名前なども見える。
一見、乱読した文学書に影響されて、議論をしてゐる様に見えるが、実は彼には告白といふものしか出来ない。要するにかういふ事だ、この画家は、働く手を休めると、自分の裡にじつと坐つてゐる憂鬱な詩人の眼に出会はなければならない。
— 「ゴッホの手紙」
小林は後に1963年(昭和38年)にみすず書房から出版された「ゴッホ書簡集」の監修もつとめ、この書簡集は小林没後に始まった80年代バブル期の絵画「ひまわり」購入騒動の頃に新訳に置き換えられるまで日本人のゴッホ信仰のバイブルでもあった。岩波文庫にも1955年(昭和30年)よりゴッホ書簡集は収録されていたが、書簡引用の多い小林の『ゴッホの手紙』はそれらの先駆的な意味があると言える[注釈 18]。
プロテスタントとかカソリックとか其他何々教会とか言ふ組織のなかで提供される、皆にあんなにしやぶられたキリストより、ルナン[注釈 19]のキリストの方が、どれほど慰めになるか。恋愛だつて同じ事ではないか。ルナンの『アンティ・キリスト』は出来るだけ早く読みたい。
どんなものかは見当はつかぬが、一つ二つは不滅なものが見付かるに違ひないと、前以つて信じてゐる。
— 「ゴッホの手紙」書簡からの引用
1960年安保まで
ゴルフを嗜む小林(1954年)
この時期の小林の文章は、ゴッホなどの絵画論と並行して日本の古典、小林特有の音楽的関心からのニーチェ論などの重要なものも多いが、一方で緊張感の抜けた雑文も増える。またジークムント・フロイトについての言及が増えるのも戦後の時流の影響と無縁ではないであろう。60年安保以前には、吉田茂[注釈 20]、南原繁、鈴木大拙などと共にNHKラジオに登場するなどもしている[注釈 21]。
小林は1952年(昭和27年)から翌年までヨーロッパへ旅行する途中、ギリシャ・エジプトなどの古代遺跡を巡り、紀行文を遺している。この時期以後、小林はプラトンの著作への関心を深める。但し、小林のプラトンへの関心はむしろソクラテスに対する関心であり、[注釈 22]これを元にソクラテスのダイモニオンを論じた「悪魔的なもの」を書き、60年安保を前後する時期の『考えるヒント』に繋がる。
1958年(昭和33年)には、小林が悪影響を懸念して死後公開を禁じ、第五次全集で故人の遺志を裏切る形で公開された未完のベルクソン論の連載を開始する。この連載の契機となったのは何よりこの時期の小林のギリシャ哲学への傾斜であろうが、当時内外論壇を賑わしたコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』[注釈 23]の神秘主義的進化論の影響も考えられる。この時期、小林の盟友河上徹太郎は『日本のアウトサイダー』という評論を著し、これを小林は出版事情については言葉を濁しながら[注釈 24]、『考えるヒント』で紹介している。
『感想』(ベルクソン論)
ベルクソン哲学の時代背景
1859年にダーウィンが『種の起源』を公表した当時、イギリス(大英帝国)ではダーウィンに先んじジャーナリストのロバート・チェンバースが匿名[注釈 25]で出版した、万物進化論[注釈 26]を主張する『創造の自然史の痕跡』が話題となっていた。これについてダーウィンは「下等」、「高等」という概念を人間の主観的価値観の産物であって科学的な概念とは言えないとして、その科学的価値には否定的な評価を下している。一方で、その影響が自らの学説の普及するために一役買ったことについては一定の評価を下している。このような、「下等」な生物が「高等」な生物に変化するという形式の「進化論」は、ダーウィンの指摘するとおり近代科学の水準に至っていない疑似科学であるが故に、ダーウィン以前から存在していたが充分な影響力を持つには至らなかった。ダーウィン自身、当初は自らの自然選択説を疑似科学の代名詞たる「進化論」の範疇に入れることを拒否していた。疑似科学としての「進化論」の本質はその説が生命の謎、或いはその究極的な目的を説明することであり、これは本質的に科学的な証明の不可能な形而上学である。一方、ダーウィンの学説はそれが近代科学の枠組みにある限り「生命とは何か」という哲学的な問いには無関心であり、「種の起源」という名の通りに生命の多様な「種」がいかにして発生したかについての理論であり、「生命はいかにして誕生したか」という問いには無力である。それが社会のダーウィン学説に対するイメージからいかに隔たっていようとも、これは動かしがたい真理である。ダーウィンの有力な協力者であり、現代では疑似科学的な進化論者の見本と見られているトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択説を教えられた当時の感想を「何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ」というものだったと言っている。これは、ハクスリーの思索態度が哲学的であって、科学的でなかったことによるものであろう。「ラマルク主義」で有名な、19世紀初頭のジャン=バティスト・ラマルクによる『動物哲学』以来、近代科学の水準を満たさない進化論学説のバリエーションは豊富であり、それぞれの理論の特徴についての議論はあるが、その内にはダーウィンの祖父エラズマスや、ハクスリーと共にダーウィンの有力な協力者であったハーバート・スペンサー、また小林が論じたフランスの哲学者ベルクソンも入れられるであろう。ベルクソンは著作中、スペンサーへの敬意を隠していない。
伝統的キリスト教会の神学では、世界は神が七日で創り、人間の祖先は塵から創られたアダムと、アダムの肋骨から創られたエバであるとして来た。このような世界観を無批判に受け入れる限り、人間の存在する意味を我々が改めて問う必要はない。一方、ダーウィンの学説が主張するのは「人間の先祖がサルである」という事実だけであり、しかもこの事実だけで伝統的なキリスト教神学の権威を無効化するには充分である。しかしダーウィンの学説は神学ではなく、仮にキリスト教の神学を抛棄するならば、人間の存在する意味を改めて規定する新しい神学が必要になる。それが、疑似科学的進化論の意義であったと言える。ダーウィン学説についての科学的厳格さを伴った論争では、ハクスリーやスペンサーのような疑似科学的進化論からのダーウィン学説の擁護者は間もなく排除されることになった。しかし、教会の権威に代わる新たな神学を必要とする世俗社会では、ハクスリーやスペンサーの権威が不要になることはなかった。かくて現代に至るまで、科学としてのダーウィン学説と疑似科学としての進化論の、社会における混同は多かれ少なかれ続いており、小林もまたこの混同から完全に逃れきっているとは言えない[注釈 27]
19世紀半ば以後、ダーウィン学説と共に西欧を中心とした自由主義的な世俗社会は、原罪論も最後の審判もない楽観主義の哲学を受け入れた。この楽観主義はしかし、20世紀初頭の第一次世界大戦の惨禍によって打ち砕かれた。(参照:実存主義#不安の時代)第一次世界大戦後の西欧社会の知的潮流は、この言わば新しい神学の崩壊、乃至は解体から始まる。西洋哲学史におけるこの時代のランドマークとなる、ドイツの哲学者ハイデッガーの『存在と時間』、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、いずれも楽観主義の哲学における形而上学の解体を主眼として展開されている。また、大戦以前から進化論哲学を主導して来たベルクソンのような哲学者自身、自ら路線変更を強いられた時代でもあった[注釈 28]。
ベルクソンの四冊の主著で、最後に発表された『道徳と宗教の二つの源泉』(1932年)を除いた他の三著は、第一次世界大戦(1914-18)以前の1889年から1907年にかけ公刊された。最終の「二源泉」刊行までの間が開いているのは、戦後のベルクソンが賢人会議に参加するなど、思索よりも大戦後の平和活動に熱心だったせいである。また三著がそれぞれ意識現象、生理現象、生物現象を扱った進化論哲学であるのに対し、最終の「二源泉」は、どちらかと言えば社会学的考察である[13]。進化論哲学者としてのベルクソン哲学の要となる部分は、小林が文筆活動を始めた第一次世界大戦前に刊行されていたのである。
ベルクソン哲学の特徴
ダーウィン学説の普及と共に盛んになった進化論哲学は、科学の発展を大前提とするが故に人間の理性を絶対視する「自然の光」、或いは主知主義の哲学であり、ベルクソンの哲学も例外ではない。ベルクソンをアリストテレスに象徴されるような伝統的な理性の哲学と区別するのは、その直観主義であると言われる。しかしベルクソンは、第一次世界大戦前の1903年に発表した『形而上学入門』で「知的直観」“intuition intellectuelle”と書いた箇所を、大戦後 ―― つまり思想背景としての進化論を抛棄した後と思われる時期に発表した論文集に転載するにあたり「心的直観」“intuition spirituelle”と書き直している[14]。この戦前のベルクソンの直観主義は、我々日本人が禅仏教で歴史的に親しんでいるような宗教的直観主義とは異なるベルクソン哲学の特徴的なものであろう。また、この知的直観主義と対をなしてベルクソン思想を特徴付けるものにイマージュ論がある。ベルクソンにとって、「イマージュ」とは単なる心的表象とは異なる、一種の観念実在論である。このベルクソンのイマージュ論の影響は、小林においてはそのドストエフスキー伝の序文をなす「歴史について」で見られるような、(ややグロテスクな)実在論的な歴史哲学となる。ベルクソンのイマージュ論は、彼が一時期会長を務めた英国心霊現象研究協会が研究対象にしたエクトプラズムを連想させるものがある。また、ベルクソンの宗教観もこれに倣ったものであり、後年、英国国教会が心霊主義を内偵して秘密提出し、暴露されたと言われる報告書における心霊主義の宗教観についての批判は、ベルクソンの宗教思想を非常に連想させる。
愛の崇高さについても、新約聖書の「神は愛なり」という主張に匹敵するものが見られることは事実だが、キリストの持つ贖罪性についての叙述などは、人間の罪の重荷を背負ってくれるという根本的な(キリスト者の)受容の信仰ならびに十字架上での勝利ではなく、どうやら(復活における)物質化現象という奇跡を生じさせるある種のエネルギーのことであるらしく、キリスト教的福音の教えには遠く及ばないことがしばしばである。
「英国国教会“スピリチュアリズム調査委員会”多数意見報告書」
ベルクソンは、いずれ科学の発展が死後生の謎をも解き明かすことを期待する。これは現代ではいささか牧歌的に過ぎる態度と言わざるを得ないが、ともかくも小林の『感想』冒頭における小林自身の超自然的体験談は、このようなベルクソンの俗流神秘主義の影響を受けていると言えるであろう。小林のこのような形での超心理学的問題についての関心は、最晩年の未完となった『正宗白鳥の作について』(1981年(昭和56年)-1983年(昭和58年))までに至る。ここで小林は、論旨が脱線しユング論が展開され、「心の現実に常にまつわる説明しがたい要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明・・・」という引用文で、我に返ったように絶筆となった。
戦前のカントを論じた小林の初期文章では、カントの人倫重視の形而上学を「窮余の一策」と評したものがある。この小林の形而上学観はベルクソンを論じるにあたって自らの姿勢を暗に表明しているものと思われる。しかし、概してベルクソンの進化論哲学の体系は、小林がそれと信じた(信じたがった)程には精神的でも芸術的でもなく、小林の文筆活動において我々が論じる価値のあると見る分野に比較してあまりに素朴であり、楽天的に過ぎるのであって、そこから小林が期待するものを汲み上げるのは困難であったと言えるであろう。ベルクソンは生命活動を砲弾の飛び交う戦争のようなイマージュによって提示する。事実、歴史はそのようになったのであって、戦後のベルクソンの平和活動にも関わらず、生物学的民族主義と進化論哲学を奉じるナチス・ドイツがユダヤ人哲学者ベルクソンの住むパリを占拠することになったのである。ベルクソンは遺稿の公開を禁じてナチス占領下のパリでひっそりと最期を迎え、ベルクソンの膨大な遺稿を期待しながら戦後を迎えた小林はそれを知り「恥ずかしかった」と告白している。
1963年(昭和38年)に、小林はソ連作家同盟の招きで訪ソしたのを期に、5年の歳月をかけたベルクソン論を中断した。後に小林は数学者岡潔との対談で、中断の理由として「無学を乗り越えられなかった」と述べている。
小林が封印したベルクソン論『感想』は本人の意志とは無関係に、生誕百年を記念した小林秀雄全集(第五次)・別巻として公刊された。
1960年安保前後
1951年(昭和26年)、アメリカとの片面講和と旧日米安保条約によって一応の区切りの付いた戦後の日本には、戦後にニューヨークに本部を移して新体制として再建された国連への参加に対する、常任理事国ソ連の拒否権という障碍が存在した。1956年(昭和31年)の鳩山一郎内閣による戦後の日ソ国交回復は、このような状況下で行われた。日ソ共同宣言は、戦後の新日本再建に向けた国際社会への本格復帰の始まりとして、国内世論は歓迎ムードに沸いた。しかし、続く60年の新安保条約は、冷戦構造下でのアメリカに対する日本の一方的従属を決定づけるものであり、戦後日本の独立国としての将来への期待を全く裏切るものとして国内世論の激しい抵抗にもかかわらず強行的に締結された[注釈 29]。
小林は戦前から創元社に顧問として関係してきたが、後戦間もない1948年(昭和23年)取締役となり、東京支社はのれん分けされ別法人となった。1951年(昭和26年)に現代社会科学叢書が刊行され、第一回配本のフロム『自由からの逃走』はベストセラーとなる[15]。1954年(昭和29年)に一度倒産「東京創元社」として再開したが、1961年(昭和36年)に再度倒産し、小林は取締役を辞任する。
この年小林は、「考えるヒント」として、評論「忠臣蔵I・II」を発表。ここで小林の浅野内匠頭を書く諧謔調の筆致は、浅野に自らを仮託しているように読めなくもない。同時期の講演「現代の思想」では、本題をそれて「世捨て」を論じており、その声の調子は重く沈み切っている。小林の「世捨て」についての見方は、中国古典を引き合いに出した「世を捨てて市場にいる」というものである。これは、かつて「西行」において取り上げ、重視しながらも「馬鹿正直な拙い歌」と評した作に似ている。
捨てたれど隠れて住まぬ人になれば猶(なお)世にあるに似たるなりけり
晩年
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1963年(昭和38年)の訪ソで、小林はドストエフスキーの墓を訪れるなどし、ソ連・ロシアについての幾つかの文章を残している。「ネヴァ河」では、前年に没した正宗白鳥の、『罪と罰』の最後に登場するネヴァ河を遠い目に見る姿を回想として引いている。この訪ソで『感想』を中断してしばらくし、小林は『本居宣長』の連載を始める。小林には戦時中から日本の古典文学、芸能、絵画、骨董についての文章は数多いが、日本の古典についてのまとまった仕事はこれが最初で最後のものである。
逸話等
小林の批評は個性的な文体と詩的な表現を持ち、さまざまな分野の批評家、知識人に影響を与えた。小林がもたらした新時代の批評形式に対して、創造的批評、という評語が文学界に現れた[16][17][18]。文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も手がけ、ランボー、アラン、アンドレ・ジッド、サント・ブーヴ、ジャック・リヴィエール等の翻訳も行った[19]。酒癖は悪く、深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説が周囲で囁かれていた[20]。鎌倉市に在住[注釈 30]し、文化遺産や風致地区の保存運動にも影響力をもっていた。
系譜
- 小林家
郡司勝義[注釈 31]『小林秀雄の思ひ出 その世界をめぐって』(文藝春秋、1993年)、107-108頁によると、
- 「小林家の祖先は信州上田である。1705年(宝永2年)信州上田藩から仙石政明が但馬出石藩に入部し、1871年(明治4年)の廃藩置県まで出石藩は仙石氏が支配した。小林家はその仙石氏の家臣だった。小林秀雄の父豊造は兵庫県出石町の在、資母村東里の農家清水家に生まれ、7代目小林友右衛門、富子夫妻の養嗣子となった。」という。
(清水)
小林市右衛門重秋━小林友右衛門…(中略)…小林友右衛門……小林豊造━小林秀雄
┃
清水甚兵衛━━━┛
主な著作
- 『様々なる意匠』
- 『Xへの手紙』
- 『志賀直哉』
- 『私小説論』
- 『ドストエフスキイの生活』
- 『無常といふ事』
- 『私の人生観』
- 『モオツァルト』
- 『ゴッホの手紙』
- 『近代絵画』
- 『考へるヒント』
- 『真贋』
- 『感想』(未完のベルクソン論)
- 『本居宣長』
著作集(現行)
- 『小林秀雄全集』(新潮社、全14巻別巻2)。旧字・歴史的仮名遣[注釈 32]
- 『小林秀雄全集 補巻』(全3巻)、脚注・著作補遺。2010年春から夏にかけ刊行
- 『小林秀雄全作品集』(新潮社、全28巻別巻4)。脚注入り・現代かなづかい
対談(現行)
- 『人間の建設』 岡潔と、新潮文庫、2010年(解説茂木健一郎)
- 『小林秀雄対話集』 講談社文芸文庫、2005年、ワイド版2017年(12名との対話)
- 『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』新潮文庫、2014年(12名との対話)、※上記とは異なった収録内容
主な翻訳
ポール・ヴァレリー『テスト氏』
アルチュール・ランボー『地獄の季節』 岩波文庫・創元ライブラリー文庫「ランボオ詩集」
アラン『精神と情熱とに関する八十一章』 創元ライブラリー文庫・新潮社「全作品8」- 『小林秀雄全翻訳』(講談社、1981年7月)。新字・歴史的仮名遣で刊行
DVD・CD
- 『学問と情熱 小林秀雄 批評への道』 紀伊國屋書店、紀田順一郎(総合監修)、浜畑賢吉(ナレーター)
- 『小林秀雄講演 新潮CD』(新潮社、現:全8巻、2004年-2010年)
関連書籍
- 『新訂 小林秀雄全集 別巻II 批評への道 付 年譜・書誌』 新潮社、1979年
- 『この人を見よ 小林秀雄全集月報集成』 新潮文庫、2014年。上記を文庫化(一部)
- 『小林秀雄全作品 別巻III 無私を得る道 (上)』 新潮社、2005年。(下)は年譜・書誌
- 『レクイエム小林秀雄』 吉田熈生編、講談社、1983年
- 『小林秀雄 群像日本の作家 14』 小学館、1991年
- 『小林秀雄 鑑賞日本現代文学 16』 清水孝純編、角川書店、1981年
- 『文芸読本 小林秀雄』 河出書房新社、1983年
- 『KAWADE夢ムック 総特集小林秀雄』 河出書房新社、2003年
- 『小林秀雄必携』 吉田熈生編、学燈社、新版1993年。以上は年譜・主な参考文献目録を収録
- 郡司勝義『わが小林秀雄ノート 向日性の時代』未知谷、2000年
- 郡司勝義『批評の出現―わが小林秀雄ノート 第2』未知谷、2000年
- 郡司勝義『歴史の探究 わが小林秀雄ノート 第3』未知谷、2001年
- 廣木寧『小林秀雄と夏目漱石―その経験主義と内発的生』総和社 2013年
- 『学生との対話』国民文化研究会編、新潮社、2014年/新潮文庫、2017年
- 九州での研修講義と質疑応答。(昭和36年~53年夏に5度行った)
脚注
注釈
^ 高見澤潤子の『兄小林秀雄』によれば、本当の誕生日は3月末だったという。
^ 平野謙の母方の祖父の千葉實と小林秀雄の母方の祖母の城谷やす(旧姓千葉)とが兄妹の関係にある。
^ 「編集部員は箕輪錬一(立教出)、鈴木一意(早大出)、水島治男(早大出)、佐藤績(早大出)、上林曉(東大出)と私の六人で、鈴木を除けば、みな学校を出て間のない若手だった。私が一番新参であった。数百篇集った中から最後に二編残った。宮本顕治の『敗北の文学』と小林の『様々な〔ママ〕意匠』である。一等一篇金千円、二等一篇金五百円という規定だったが、どちらを一等にすべきか編集部は迷った。いろいろ議論したがケリがつかないので投票ということになった。結果は三対三。そこで又迷った。小林のは新風に違いないが難解であった。それに反し宮本のは左翼の立場から芥川龍之介を論じたもので、議論は単純明快、言葉に力がこもっていた。結局、左翼文学の勢をふるっていた当時の文壇形勢からしても、『敗北の文学』を一等に推すのが至当ということにきまった。」[2]
^ 後に、チェーホフやイプセンなどの西洋劇を見る機会を得て、戯曲の舞台上にあって生きることについて感嘆し、西洋戯曲を論じた文章を残している。[要文献特定詳細情報]
^ 但し、ランボーを象徴派詩人と見なすか否かについて、小林においては二十代の評価と、それ以後では変化する。
^ 実存主義#不安の時代を参照。
^ ランボーのいわゆる「見者の書簡」には進行中のパリ・コミューンへの強い共感を寄せ、将来、労働者として生きる決意を述べた箇所がある。但し、詩作中のランボーはコミューンの戦いには自ら参加するつもりはないと書いている。パリ・コミューンにはマルクスも関与していた。
^ 初期の小林の評論には「批評とは対象をダシにして自らを語ること」という言及が見えるが、「マルクスの悟達」後で小林は手のひらを返すように「批評とは何としても自らを棚上げすること」と書いている。
^ 「Xへの手紙」が書かれた段階では、既に卒業したこととして「書物に傍点を附して世の中を理解しようとするような小癪な真似」というような自己告白がある。周辺人物による戦後の小林への回想では、ベルクソンの著作を傍線だらけにして、愛着を以て接する小林の姿がある。
^ 検挙された戸坂が仮釈放された時期には、小林は哲学者三木清と共に、明らかに戸坂への共感を意識させるような対談を行っている。三木もまた共産党員の逃亡を手助けしたかどで検挙され、拘留状態のまま戦後間もなく獄中死した。
^ ドストエフスキーの『悪霊』発表後に当たる1870年代の『アンナ・カレーニナ』の頃からトルストイは抑鬱傾向に苦しみ、それまでの自らの作品の殆どを否定するなどして議論の種になっている。
^ 戦後になって小林は、キルケゴールに影響を受けたと言われるノルウェーの戯曲家イプセンについての作家論「ヘッダ・ガプラー」において、その作品「人民の敵」中の「自由主義者とは、自由人が迎え撃つべき最も狡猾な敵だ」という台詞を引いている。
^ 1938年8月。
^ 60年安保締結直後1960年(昭和35年)に火野は自裁するが、小林が取締役を務める東京創元社で自身の「全集」刊行の最中であった。
^ 小林全集に収録されている「文學界」の小林による編集後記は岡本かの子の死について触れた月で終わっている。[要文献特定詳細情報]
^ 出席は、荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本多秋五など、「近代文学」創立メンバー。
^ 「資格審査が煩雑なため」と言われる。小林は当初、講師として明大に勤務を始めたが、戦争協力を始めた時期に教授に昇格している。
^ 小林は『ゴッホの手紙』を書簡集の「抄訳」と呼んでいる。[要文献特定詳細情報]
^ 近代の合理主義的聖書学の父であるフランスのエルネスト・ルナンは、ダーウィンの「種の起源」公表まもない時期に、キリストの「人間宣言」を行って物議を醸した。
^ 戦後間もなく小林は吉田満の太平洋戦争版平家物語とも言うべき『戦艦大和ノ最期』の出版に尽力し、その縁で吉田茂の片腕だった白洲次郎の知己を得ることになった。吉田満は後に、逆コースで「名誉挽回」した旧軍関係者からその作品の戦争への反省の態度について様々なクレームを受けることになる。
^ テレビの普及する以前の時代である。
^ 小林はプラトンの著作において、どこまでがソクラテスで、どこからがプラトンであるのかという問題についての自らの見解を表明している。[要文献特定詳細情報]
^ 前年に福田恆存が中村保男と共訳出版している。
^ ウィルソンの評価は次作以後、急速に落ち込んでいる。
^ 西欧キリスト教の宗教裁判が消滅するのは、19世紀半ばの「種の起源」からしばらくしてからのことである。ダーウィン学説が引き起こした論争の影響による「自由化」以前の大学とは、すなわち神学校を意味した。ダーウィン自身も『種の起源』について尋問を受けるために呼び出しをされた。
^ 単に生物だけにとどまらず、宇宙そのものが進化するという形而上学説。
^ 今時、ハクスリーやスペンサー、ベルクソンのような古色蒼然たる哲学者を言挙げするのは「死馬に鞭を打つ」ようなものであるという見方はある。これについて科学ジャーナリストのアーサー・ケストラーが『機械の中の幽霊』で、以下のような問題を指摘している。
―― SPCDHという頭文字は「死馬愛護協会(Society for the Prevention of Cruely to Dead Horses)」の略である。これは世界中に支部をもつ秘密結社であって、私たちの現代の知的気候にかなりの影響を及ぼしている。その活動の数例をあげておかなくてはならない。大戦のあいだ、ドイツ政府は六〇〇万人の非戦闘員を死の工場で殺した。これは最初は秘密にしておかれた。事実が漏れるとSPCDHは彼らのために一席弁じて、責任者たちを裁判にかけるのは不公正でありよくないことだと論ずる方針を打ち出した。それは死馬を鞭うつものだというわけである。
ソヴェイエト政府も、スターリン統治時代に、やり方こそ違うがそれに匹敵する規模で、野蛮行為を行った。西欧の進歩派仲間の中でそれに対する公の注意を引こうとする者は、冷戦屋、中傷家、気違いと非難された。スターリンの後継者がこの事実を正式に認めると、それがまだ北京からベルリンまで他の国々を荒らし回り続けていたにもかかわらず、SPCDHはこの件をただちに死馬であると分類した。
イギリスの島国根性、階級差別、社会的俗物主義、言葉のなまりで人を品定めしてしまうことなどはすべて死馬であると宣言され、空中をみたすうつろないななきは亡霊が発するものに違いないとされた。アメリカのドル崇拝、物質主義、大勢順応主義についても同じことがいえる。客間の遊びに、この一覧表をもっと続けていくこともできるだろう。
— (アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』pp.530-531)
^ 他に路線変更をした哲学者に現象学を主導者であり、戦後に『危機書』を著したエドムント・フッサールなどもいる。ベルクソンとフッサールは共にダーウィンが『種の起源』を公表した1859年生まれである。
^ 日米間の通貨レートが変動相場制になるのは70年安保の後であり、60年安保当時の日本の高度経済成長はアメリカへの輸出産業によって一方的に支えられていた。
^ 長年在住した鎌倉市山の上の邸宅は、晩年深い交流があった「吉井画廊」が、長年管理保存していた[21]。
^ 郡司勝義は、全集など多くの著書の編集を担当し、小林の実質的な助手・秘書だった。『小林秀雄の思ひ出』は「文春学藝ライブラリー」で再刊(文庫判、2014年)。
^ 「全集」現行版は第4次で2001年から翌02年に刊行。過去は1950年代に創元社で、1960年代~70年代に新潮社で3度刊行された。
出典
^ 高見沢潤子 『兄小林秀雄』 新潮社、1985年(高見沢潤子の回想録)[要ページ番号]。他に『兄小林秀雄との対話』講談社文芸文庫(新装再刊、2010年)、『生きること生かされること 兄小林秀雄の心情』、『人間の老い方死に方 兄小林秀雄の足跡』各(海竜社)がある。[疑問点 ]
^ 深田久弥 「小林秀雄君のこと」『新訂小林秀雄全集・別巻II』「印象II(第二次小林秀雄全集(新潮社版)月報より」。
^ 『朝日新聞』1951年4月1日(東京本社発行)朝刊、2頁。
^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)144頁
^ 小林秀雄「蓄音機」参照[要文献特定詳細情報]
- ^ ab江藤淳『小林秀雄』第一部。[要文献特定詳細情報]
^ 座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」[要文献特定詳細情報]
^ “作品社|会社概要”. 作品社. 2018年10月16日閲覧。
^ 「中原中也の思ひ出」[要文献特定詳細情報]
^ 「蓄音機」[要文献特定詳細情報]
^ 『考えるヒント』「読者」[要文献特定詳細情報]
^ 『小林秀雄百年のヒント』インタビュー「絶対に違うことを言いたかった」2001年3月12日談話[要文献特定詳細情報]
^ 『世界の名著53 ベルクソン』 澤瀉久敬責任編集(中央公論社、1969年)の解説。
^ 『世界の名著53 ベルクソン』(中央公論社)での、澤瀉久敬解説。
^ “年譜|東京創元社”. 東京創元社. 2018年10月16日閲覧。
^ 作家三島由紀夫は、『文章読本』(中央公論社)[要文献特定詳細情報]で、「日本における批評の文章を樹立した」と評価している。また、「独創的なスタイル(文体)を作つた作家」として森鴎外、堀辰雄と共に小林秀雄を挙げている。三島は、「文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつてしまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである」と述べ、小林秀雄を単なる批評家ではなく、芸術家とみている。
^ 三島由紀夫『横光利一と川端康成』[要文献特定詳細情報](初刊『文章講座6』、河出書房、1955年)
^ 三島由紀夫『批評家に小説がわかるか』[要文献特定詳細情報](初刊は中央公論「文芸特集」 1951年6月号に掲載)
^ 『小林秀雄全翻訳』(講談社、1981年)
^ 隆慶一郎 『時代小説の愉しみ』 講談社文庫、1994年、23頁。
^ 吉井長三 『銀座画廊物語 日本一の画商人生』 角川書店、2008年[要ページ番号]
参考文献
- James Dorsey, Critical Aesthetics: Kobayashi Hideo, Modernity, and the War. Cambridge, MA: Center for East Asian Studies, Harvard University Press, 2009.
関連項目
- 小林秀雄賞
- 清春白樺美術館
- 近代の超克
新潮・文学界・芸術新潮 - 常連寄稿
関連人物
- 辰野隆
- 今日出海
- 河上徹太郎
- 鈴木信太郎
- 大岡昇平
- 福田恆存
- 神西清
- 中村光夫
- 中原中也
- 富永太郎
- 青山二郎
- 永井龍男
- 正宗白鳥
- 岡潔
- 白洲正子
- 井伏鱒二
- 川端康成
- 坂口安吾
- 林房雄
- 河盛好蔵
- 大佛次郎
- 島木健作
- 武田麟太郎
- 野々上慶一
外部リンク
小林秀雄年譜[リンク切れ]
- 小林秀雄の世界
小林秀雄[リンク切れ]・小林秀雄の評伝『本居宣長』[リンク切れ] - Yahoo!百科事典
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