ロナウジーニョ







この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はデ・アシス、第二姓(父方の姓)はモレイラです。
















































































































































ロナウジーニョ Football pictogram.svg

Ronaldinho Kazan.jpg
2017年のロナウジーニョ

名前
本名
ロナウド・デ・アシス・モレイラ
Ronaldo de Assís Moreira
愛称
ガウショ (Gaúcho)、ロニー、ファンタジスタ
ラテン文字
Ronaldinho
基本情報
国籍
ブラジルの旗 ブラジル
スペインの旗 スペイン
生年月日
(1980-03-21) 1980年3月21日(38歳)
出身地
ポルト・アレグレ
身長
182cm[1]
体重
80kg
選手情報
ポジション
FW / MF
利き足
右足
ユース
1987-1998
ブラジルの旗 グレミオ
クラブ1

クラブ

出場

(得点)
1998-2001
ブラジルの旗 グレミオ

44

(21)
2001-2003
フランスの旗 パリ・サンジェルマン

55

(17)
2003-2008
スペインの旗 バルセロナ

145

(70)
2008-2011
イタリアの旗 ミラン

76

(20)
2011-2012
ブラジルの旗 フラメンゴ

33

(15)
2012-2014
ブラジルの旗 アトレチコ・ミネイロ

45

(16)
2014
メキシコの旗 ケレタロ

25

(8)
2015
ブラジルの旗 フルミネンセ

9

(0)
通算

432

(167)
代表歴
1996
 ブラジル U-17

6

(2)
1999
 ブラジル U-20

5

(3)
2000-2008
 ブラジル U-23

10

(3)
1999-2013
ブラジルの旗 ブラジル

97

(33)










1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

ロナウジーニョ (Ronaldinho) こと、ロナウド・デ・アシス・モレイラ(Ronaldo de Assís Moreira, 1980年3月21日 - )は、ブラジル・ポルト・アレグレ出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。ポジションはフォワード。愛称はガウショ (Gaúcho)[2]


バルセロナ時代には中心選手として2度のリーガ・エスパニョーラ優勝と14年ぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験し、2004年と2005年の2年連続でFIFA最優秀選手賞を、2005年にはバロンドールを受賞[3][4]。ブラジル復帰後の2013年にはアトレチコ・ミネイロでコパ・リベルタドーレスを制覇し、ヨーロッパと南米の両方を制した史上8人目の選手となった[3]。またブラジル代表としては2002 FIFAワールドカップ優勝に貢献[4]。オーバーエイジ枠で出場した北京オリンピックでは銅メダルを獲得した。


高いテクニックから生み出される独創的なプレーや、試合中にもしばしば笑顔を見せるサッカーを楽しむプレースタイルからファンタジスタと呼ばれた[3][4]




目次






  • 1 人物


    • 1.1 名前・愛称


    • 1.2 家族




  • 2 経歴


    • 2.1 幼年期


    • 2.2 クラブ


      • 2.2.1 グレミオ


      • 2.2.2 パリ・サンジェルマン


      • 2.2.3 バルセロナ


      • 2.2.4 ミラン


      • 2.2.5 フラメンゴ


      • 2.2.6 アトレチコ・ミネイロ


      • 2.2.7 ケレタロ


      • 2.2.8 フルミネンセ


      • 2.2.9 現役引退




    • 2.3 代表




  • 3 プレースタイル


  • 4 個人成績


    • 4.1 クラブ




  • 5 代表歴


    • 5.1 得点




  • 6 エピソード


    • 6.1 リバウドとの関係




  • 7 タイトル


    • 7.1 クラブ


    • 7.2 代表


    • 7.3 個人




  • 8 脚注


  • 9 参考文献


  • 10 外部リンク





人物



名前・愛称


ニックネームのロナウジーニョとは、本名のロナウド(葡:Ronaldo)に縮小辞-inhoがついたものであり、「小さなロナウド」の意である。これは、ブラジル代表選出当時に既にロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマがいたことから、区別の為にロナウジーニョと呼ばれたものである。また、ロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマ自身も1996年アトランタオリンピックにおいてブラジル代表に選出された際にはロナウジーニョとして登録されており、ロナウジーニョでも紛らわしかったことから、ガウーショとも呼ばれる。ガウーショとは南米のカウボーイを意味し、リオグランデ・ド・スル州、サンタカタリナ州などブラジル南部地域出身者の気質を表わした語であり、ロナウジーニョ自身の出身地に基づいたものである。


Ronaldinhoは、日本語ではナウジーニョと発音・表記される。出身地であるポルト・アレグレなどの南部では、R発音は昔のポルトガル語発音であるラ行も多いが、現在ブラジルではリオなどの北部を中心として広い範囲でブラジルポルトガル語からR発音はハ行で読むのがほぼ一般的になりつつある。したがって日本でもナウジーニョというネイティブに近い表記・呼称もある。


なお、本記事ではロナウジーニョで統一する。



家族


ロナウジーニョの代理人でもある、実兄のロベルトは、1999年にアシスという登録名でコンサドーレ札幌に在籍していた。幼いころに父親を発作で亡くし、それ以来、ロベルトが父親代わりとなっていた。


元々は貧しい家庭環境だったが、兄のロベルトがグレミオとプロ契約したことで、6歳の時にプール付きの豪邸に移り住んでいる。ロナウジーニョの回想のなかの「家の中で椅子や犬を相手にドリブルの練習をしていた」という話からも、広々とした家に住んでいたことが窺える。



経歴



幼年期


ロナウジーニョは1980年3月21日、父ジョアン・アシスと母ミゲリーナ・モレイラの3番目の子としてブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレ
[5]に産まれた。人口150万人のこの町は先住民とポルトガルからの入植者の他、スペイン、アフリカ、イタリア、ポーランド、ウクライナ、ロシア、ユダヤなど多数の移民が暮らしを営み、それぞれの文化が複雑に融合した独特の雰囲気を持った町で、住民はガウーショ(カウボーイ)と呼ばれていた[6]。帝王切開でロナウジーニョを取り上げた担当医は彼の右足に違和感を覚え、整形外科医の診察を受けるよう両親に進言したという[7]。家は貧しく、両親は共働きであったため、ロナウジーニョの面倒は主に祖母アルベルティーナと姉デイジや多くの親戚が見ていた[8]。10ヶ月を数える頃には歩き始め、父はロナウジーニョにサッカーボールとサッカーシューズを買い与えた[9]。以降サッカーに夢中になったロナウジーニョは、家の中や中庭で兄ロベルトや4匹の飼い犬を相手にサッカーの技術を高めていった[10]


7歳になると州立アルベルト・トーレス小学校へ入学したが、翌年に兄ロベルトがグレミオとの間でプロ契約を締結し、クラブチームから新しい住居が提供されることとなったため、その引越しとともにグアルージャの州立ランゲンドンク初等教育学校へ転校している[11]。ジョアンは早い段階でロナウジーニョの才能を見抜いていたとされており、ロベルトがグレミオと契約を交わした際に、指導者に「将来、超一流の選手になるはずの子が家にいます。ロナウドと言います」と伝えている[12]



クラブ



グレミオ


ロナウジーニョはグレミオの下部組織でサッカーを始め、1998年のコパ・リベルタドーレスでトップチームデビューした[13]。2001年にはイングランドのアーセナルFCがロナウジーニョとの契約に興味を示したが、彼はEU圏外選手であり、イギリスの労働許可証の取得条件を満たさなかったため、この移籍話は破談となった[14]。同年にはスコティッシュ・プレミアリーグのセント・ミレンFCにレンタル移籍することを検討したが、偽造パスポート事件に巻き込まれたために取りやめとなった[15]



パリ・サンジェルマン


2001-02シーズン

2001年、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCと5年契約を結んだ[16]。移籍金は500万ユーロ。パリ到着後、背番号21を与えられ、ブラジル代表のアロイジオ (Aloísio José da Silva)、ミケル・アルテタ、ジェイジェイ・オコチャなどが在籍する攻撃陣の一員に加わった。2001年8月4日のAJオセール戦 (1-1) で途中出場してリーグ戦デビューし[17]、2001-02シーズン前半戦は先発出場と途中出場を交互に繰り返した。10月13日のオリンピック・リヨン戦 (2-2) では途中出場し、79分に移籍後初得点となる同点弾をペナルティキックで決めた[18]。ウィンターブレーク後のASモナコ戦 (1-2)、スタッド・レンヌFC戦 (2-1)、RCランス戦 (1-1)、FCロリアン戦 (5-0) では4試合連続得点を記録し、2002年3月16日のトロワAC戦 (3-1) では残留争いに苦しむ相手から1試合2得点を記録した。4月27日のFCメス戦 (2-0) でシーズン最後のゴールを挙げ、移籍初年度のリーグ戦は9得点でシーズンを終えた。同シーズンはクープ・ドゥ・ラ・リーグでもチームに大きな影響を与え、ラウンド16のEAギャンガン戦ではハーフタイムに途中出場して後半だけで2得点を挙げた。チームは準決勝に進出し、準決勝でFCジロンダン・ボルドーに敗れた。プレーでは移籍初年度から健闘したが、「サッカーよりもパリでの夜遊びで注目を集め、ブラジルでの休暇から予定通りに帰国しない」と主張するルイス・フェルナンデス監督との確執によって台無しとなった[13]


2002-03シーズン

2002年夏には背番号を10に変更し、2002-03シーズンに臨んだ。2年目のシーズンは1年目と比較して失望の残るシーズンであったが、それでも見事な成績を残した。2002年10月26日、オリンピック・マルセイユとのル・クラスィク (3-1) で2得点を挙げた。最初の得点は直接フリーキックによるもので、カーブしたボールは壁の横を通り抜けてベドラン・リュンジュ (Vedran Runje) が守るゴールに吸い込まれた。スタッド・ヴェロドロームで行われたアウェー戦でも得点し、3-0で快勝した。クープ・ドゥ・フランス準決勝のFCジロンダン・ボルドー戦 (2-0) では2得点を挙げ、再び称賛を集めた。22分に先制点を決め、81分にはGKウルリッヒ・ラメが適切なポジション取りをしていたのにもかかわらず、頭を抜くチップシュートを決めて試合を締めくくった。これらの活躍で、パリ・サンジェルマンFCの観客にスタンディング・オベーションを贈られた。クラブにとって不幸なことに、決勝のAJオセール戦 (1-2) ではロナウジーニョ自身もチームも本来の調子を出せず、ロスタイムのジャン=アラン・ブームソンの得点に屈した。2002-03シーズンのリーグ戦は11位と失望の順位に終わり、欧州カップ戦出場権を逃したことで、ロナウジーニョは他クラブへの移籍希望を明らかにした。



バルセロナ




FCバルセロナでのロナウジーニョ


2003-04シーズン

当初、FCバルセロナのジョアン・ラポルタ会長はデヴィッド・ベッカムの獲得を公約していたが、ベッカムはレアル・マドリードに移籍したため、FCバルセロナはロナウジーニョの獲得争いに参加し、マンチェスター・ユナイテッドFCよりも高額な3000万ユーロのオファーを提示して獲得に成功した[19][20]。アメリカのワシントンにあるロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムで行われたACミランとの親善試合でデビューし、その試合で1得点を挙げて2-0で勝利した。2003-04シーズン前半戦には負傷離脱していた時期もあったが[21]、復帰後はチームをリーグ戦2位に導いた。


2004-05シーズン

2004年12月20日にはFIFA最優秀選手賞を受賞し、2004-05シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たした。2005年3月8日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦・チェルシーFC戦セカンドレグ (2-4) では2得点を挙げたが、2試合合計4-5で敗退が決まった[22]


2005-06シーズン

2005年9月にはFIFPro年間ベストイレブンとFIFPro年間最優秀選手賞を受賞し、同年にはUEFA年間最優秀選手賞も受賞した。さらに、FIFA最優秀選手賞の投票では956点を集め、2位のフランク・ランパード(306点)に3倍以上の大差をつけて2年連続で受賞した。2005年11月19日、レアル・マドリードとのエル・クラシコ (3-0) では2得点を挙げた。勝利を決定づける2点目を決めると、アウェーでのダービーマッチにもかかわらずレアル・マドリードのファンからスタンディング・オベーションが贈られた。2006年1月には3年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。UEFAチャンピオンズリーグ準々決勝・SLベンフィカ戦セカンドレグでは先制点を決めた。準決勝のACミラン戦ファーストレグではリュドヴィク・ジュリの決勝点をアシストし、2試合合計1-0で決勝に駒を進めた。5月26日に行われた決勝ではアーセナルFCを2-1で下して優勝を果たした。決勝の2週間前にはセルタ・デ・ビーゴに1-0で勝利してリーガ・エスパニョーラ2連覇を決めており、キャリア初の2冠を達成した。全公式戦を通じて自己最多の26得点を挙げ、UEFAチャンピオンズリーグの大会最優秀選手に選ばれた。


2006-07シーズン

2006年11月25日のビジャレアルCF戦では2度目となるオーバーヘッドキックでの得点を決め、FCバルセロナでのリーグ戦得点数が50点に達した。このビジャレアル戦での得点は少年時代から夢見ていたゴールであると後に語っている[23]。12月にはFIFAクラブワールドカップに出場し、準決勝のクラブ・アメリカ戦 (4-0) では1得点1アシストの活躍を見せたが、決勝のSCインテルナシオナル戦 (0-1) に敗れて準優勝に終わった[24]。この大会でロナウジーニョはブロンズボールに輝いた。SCインテルナシオナル戦の翌日にはFIFA最優秀選手賞が発表されたが、2006 FIFAワールドカップで優勝したイタリア代表のキャプテンであるファビオ・カンナヴァーロ、準優勝のフランス代表のキャプテンであるジネディーヌ・ジダンに次ぐ3位に終わった[25]。2007年1月、最多となる29万票以上を集めてUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに3年連続で選出された[26]。エル・クラシコ (3-3) で負傷し、3月13日のチャリティマッチには出場できなかった[27][28]


2007-08シーズン

2008年2月3日のCAオサスナ戦に出場し、FCバルセロナでの公式戦通算200試合出場を達成した。しかし、2007-08シーズンは全体的に負傷に苦しめられ、4月3日には右足の筋肉断裂により一足早くシーズンを終えた[29]。5月19日、ラポルタ会長は「ロナウジーニョは新たなチャレンジを必要としている」と発言し、トップ選手としてやっていくためには移籍が必要であると主張した[30]。6月6日、マンチェスター・シティFCのタクシン・シナワットオーナーはロナウジーニョの獲得に興味を示した[31]。6月28日、ロナウジーニョとリオネル・メッシはベネズエラで開催された人種差別撲滅のための親善試合でそれぞれのチームのキャプテンを務め、試合は7-7の引き分けに終わった。彼は2得点2アシストを記録したが、この試合がFCバルセロナの選手としての最後の試合となった[32]。2010年のジョアン・ガンペール杯前日、FCバルセロナのファンと選手たちに対して「FCバルセロナでの5年間が最高の時期であった」とする手紙を公開した[33]



ミラン




ACミランでプレーするロナウジーニョ


2008-09シーズン

2008年7月、ロナウジーニョはマンチェスター・シティFCからの移籍金2550万ポンドのオファーを拒否し[34]、イタリア・セリエAのACミランと3年契約を結んだ。年俸は約510万ポンド(650万ユーロ)であり、移籍金は約1450万ポンド(1850万ユーロ)と考えられている[35][36]。希望の背番号10は既にクラレンス・セードルフが着けていたため、生まれ年の1980年に因んで背番号80を選んだ。9月28日、インテルとのミラノ・ダービー (1-0) で初得点を挙げた。10月19日のUCサンプドリア戦 (3-0) では初の1試合2得点を記録した。11月6日、UEFAカップグループリーグのSCブラガ戦では93分に決勝点を挙げた。2008-09シーズンは全大会を通じて32試合に出場して10得点した。良好なスタートを切った後、コンディション不良に苦しんで途中出場が多くなり、ACミランでの初年度は失望に終わった。


2009-10シーズン

2009-10シーズン序盤はベンチから試合開始を迎えることも多かったが、その後調子を取り戻し、攻撃的ミッドフィールダーから馴染み深い左ウイングに役割を変え、このシーズンのチームの最優秀選手と言ってもよい活躍を見せた。2010年1月10日、アウェーでのユヴェントスFC戦 (3-0) では2得点を挙げた。翌週の1月17日に行われたシエナ戦 (4-0) では、1点目をペナルティキック、2点目をコーナーキックからのヘディングシュート、3点目を20ヤードの距離からのミドルシュートで決め、移籍後初のハットトリックを達成した[37]。1月16日には移籍後初めてのUEFAチャンピオンズリーグの試合となるマンチェスター・ユナイテッドFC戦に出場し、序盤に得点してリードを得たが、ポール・スコールズとウェイン・ルーニー(2点)に得点を許して最終的に2-3で敗れた。4月13日、カルチョ・カターニア戦 (2-2) でマルコ・ボリエッロの得点をアシストし、アシスト数はリーグトップの14に達した[38]。5月15日にはホームでのユヴェントス戦 (3-0) で2得点を記録し、ライバル相手に1シーズンで計4得点を記録した。この試合はレオナルド監督のACミラン監督としてのラストマッチとなった。なお、2008-09シーズンもペナルティキックを1度失敗していたが、2009-10シーズンは3度もペナルティキックを失敗している。


2010-11シーズン

2010年夏にマッシミリアーノ・アッレグリ監督が就任し、4-3-3フォーメーションではなく主に4-3-1-2フォーメーションが採用された。2010-11シーズン開幕戦のUSレッチェ戦 (4-0) ではキレの良いプレーを見せたが、役割が変更になると徐々にフェードアウトし、シーズン前半戦は11試合出場無得点に終わった。



フラメンゴ





フラメンゴでプレーするロナウジーニョ(2011年2月)


2011年冬にはアメリカのロサンゼルス・ギャラクシー、ブラジルのSCコリンチャンスやSEパルメイラス、イングランドのブラックバーン・ローヴァーズFCなど様々なクラブがロナウジーニョに関心を示した。特に幼少時代を過ごしたグレミオから強い関心を示されたが、2011年1月11日にCRフラメンゴと2014年末までの契約を交わし[39]、1月13日に行われたお披露目では2万人以上のファンに迎えられた[40]。2月6日のボアヴィスタSC (Boavista SC) 戦 (3-2) で移籍後初得点を記録し[41]、2月27日に行われたタッサ・グアナバラ (Taça Guanabara) 決勝の同一カード (1-0) では右足での直接フリーキックで決勝点を決め、トロフィー獲得に貢献した。CRフラメンゴにとっては19度目の同大会制覇であり、2ヶ月後にはリオ・グランデ・ド・スル州選手権とタッサ・リオ (Taça Rio) でも優勝を果たした。


2012年5月31日にフラメンゴとの契約を一方的に解除した[42]



アトレチコ・ミネイロ


2012年6月、アトレチコ・ミネイロへ移籍。契約はシーズン終了まで。2013年7月25日、クラブ史上初のコパ・リベルタドーレス制覇を達成し、史上8人目となる欧州&南米王者に輝いた[3]。モロッコで行われたFIFAクラブワールドカップ2013では準決勝と3位決定戦に出場し、2得点を挙げた。



ケレタロ


2014年9月、リーガMXのケレタロFCに加入した[43][44]。2015年6月20日にメキシコのケレタロを退団した。



フルミネンセ


2015年7月11日、ブラジルのフルミネンセFCに入団することをクラブ公式HP上で発表した[45]。契約期間は2016年末までで、背番号は「10番」を着用。





バルセロナSCのメンバーとして親善試合に出場したロナウジーニョ(2016年)



現役引退


フルミネンセ退団後は無所属の状態が続いたが、2018年1月16日に代理人である兄ロベルトから現役引退が発表された[3][4]


2018年10月、FCバルセロナは、ロナウジーニョが2018年ブラジル大統領選挙でジャイール・ボルソナーロを支持したとしてロナウジーニョの大使としての仕事を減らす処分を発表した。チーム関係者は「ボルソナーロ氏が30年に及ぶ政治家活動の中で行ってきた、女性嫌悪や同性愛者差別、人種差別などの行為は、バルサの赤と青のユニフォームの精神として受け入れられるものではない」ことを理由とした[46]



代表




ロナウジーニョ(右)とルーラ大統領




ロナウジーニョ(右)とスイス代表のマルガイラス


1999-2002

全ての年代でブラジル代表に選ばれた数少ない選手の一人である。1997年にはU-17ブラジル代表としてFIFA U-17ワールドカップで優勝し、ブロンズボールに輝いた。1999年はブラジル代表で大きな結果を残した年となった。4月にはナイジェリアで開催されたFIFA U-20ワールドカップに出場し、グループリーグ最終戦(1得点)と決勝トーナメント1回戦のU-20クロアチア戦(4-0、2得点)で計3得点を挙げた。準々決勝でU-20ウルグアイ代表に敗れ、2大会連続のベスト8に終わった。6月26日、コパ・アメリカ1999前最後の親善試合となったラトビア戦 (3-0) でブラジル代表初出場を果たし、コパ・アメリカ1999中に代表初得点を記録した。コパ・アメリカが閉幕して1週間後にはFIFAコンフェデレーションズカップ1999に招集され、メキシコに3-4で敗れた決勝以外の全ての試合で得点した。特に準決勝のサウジアラビア戦 (8-2) ではハットトリックを達成し、大会得点王と大会最優秀選手賞を同時受賞した。2000年前半にはCONMEBOLプレオリンピック大会 (CONMEBOL Men Pre-Olympic Tournament) に出場し、7試合で9得点を挙げて優勝に導いた。同年夏にはU-23ブラジル代表としてシドニーオリンピックに出場したが、優勝したU-23カメルーン代表に準々決勝で敗れた。ロナウジーニョは4試合に出場し、U-23カメルーン戦での1得点に終わった。


2002年には初めてのFIFAワールドカップとなる2002 FIFAワールドカップの代表メンバーに選ばれ、コパ・アメリカ1999を共に制したロナウドやリバウドなどと共に脅威的な攻撃陣を構成した。大会を通じて5試合に出場して2得点し、更にいくつかの重要なアシストでもチームに貢献した。最初の得点はグループリーグの中国戦 (4-0) であり、次の得点は準々決勝のイングランド戦 (2-1) であった。この試合で彼は35mの距離から直接フリーキックを蹴り、デヴィッド・シーマンが守るゴールネットを揺らした。この得点の7分後にダニー・ミルズへのファールで退場処分を受けたが、フリーキックでの得点が決勝点となって準決勝進出を決めた。準決勝は出場停止であったが、決勝のドイツ戦 (2-0) には先発出場し、5度目の優勝を果たした。


2003-2006

次に参加した大会は2003年のコンフェデレーションズカップであったが、どの試合でも得点を挙げることができず、低調なプレーのブラジル代表はグループリーグで敗退した。2004年、カルロス・アルベルト・パレイラ監督は代表の主力選手を休ませるため、ロナウジーニョをコパ・アメリカ2004のメンバーに加えず、メンバーの大部分を本来なら控えの立場の選手で構成した[47]。2005年6月にはコンフェデレーションズカップに出場し、決勝のアルゼンチン戦 (4-1) ではマン・オブ・ザ・マッチに選出された。この大会を通じて3得点を挙げ、1999年大会を含めた得点数を9得点とし、通算最多得点者のクアウテモク・ブランコと並んだ。


2006年にはドイツで開催されたワールドカップのメンバーに選ばれ、アドリアーノ、ロナウド、カカと共に構成されたマジック・カルテットの一員として全5試合に先発出場した。しかしブラジル代表は全体的に低調で、この4人組は計5点しか奪えなかった。ロナウジーニョはグループリーグの日本戦でジウベルトの得点をアシストしたが、代表キャリアの中でも最悪の大会となり、大会を通じて無得点1アシストに終わった。準々決勝のフランス戦 (0-1) では何もできず、ブラジル代表は枠内シュートを1本しか打てない体たらくで敗退が決まった[48]。この代表チームはブラジル帰国後にファンやメディアの批判にさらされ、フランス戦の2日後の7月3日には、チャペコ (Chapecó) にあった7.5m(23フィート)ものグラスファイバーと樹脂製のロナウジーニョの彫像が過激なファンによって破壊された[49]。この彫像は2004年にFIFA最優秀選手賞受賞を記念して設立されたものだった。同じ日、バルセロナに戻ったロナウジーニョは自宅にアドリアーノを招いてパーティを催し、ナイトクラブで早朝まで夜遊びを続けた。このことは多くのブラジルのファンに「努力の足りないブラジル代表に裏切られた」という感情を抱かせた[50]


2007-2010

2007年3月24日のチリ戦 (4-0) ではFIFAコンフェデレーションズカップ2005決勝以来となる得点(2得点)を決め、2年近くにも及んだ連続無得点期間を終わらせた[51]。同年にはコパ・アメリカ2007が開催されたが、疲労のために出場免除を申し出て、ドゥンガ監督はロナウジーニョの大会欠場を許可した[52]。10月にはエクアドルとの親善試合 (5-0) を戦ったが、数人の選手たちとリオデジャネイロの高級ナイトクラブでパーティを催し、翌朝11時にナイトクラブを出たが、メディアを避けるために車のトランクに隠れて移動したとされる[53]。この夜遊びが原因でスペイン帰国が遅れたとして、FCバルセロナの試合では先発から外されて議論を呼んだ。


2008年7月7日、オーバーエイジ枠として北京オリンピックのブラジル代表メンバーに加わった[54]。FCバルセロナはチャンピオンズリーグの試合に彼を出場させたいとして、初めはブラジル代表への招集を拒否しようとしたが、ACミランへの移籍が合意に達したためにオリンピックへの出場が許された[55]。グループリーグのU-23ニュージーランド戦 (5-0) で2得点を挙げたが、準決勝でU-23アルゼンチン代表に敗れ、3位決定戦のU-23ベルギー代表に勝利して3位となった。


コンディションを取り戻した後は、2010年5月11日に2010 FIFAワールドカップのブラジル代表候補30人に選ばれ[56]、自身も南アフリカ行きを熱望していたが[57]、ドゥンガ監督は本大会に出場する23人のメンバーからロナウジーニョを除外した[58]。ジャーナリストの中には、ロナウジーニョ、アレシャンドレ・パト、アドリアーノ、ロナウドのような選手を選外とすることはブラジルの伝統的なプレースタイルであるJoga Bonitoを放棄する兆しであると主張する者もいた[59]


2011-

2011年9月5日のガーナとの親善試合で10ヶ月ぶりに代表に復帰すると、得点こそ奪えなかったものの好調をみせ、監督のマノ・メネゼスに「彼を代表へ復帰させなければならない」と言わしめた[60]。同年10月11日のメキシコとの親善試合では代表では4年ぶりとなる得点を挙げ、勝利に貢献した[61]



プレースタイル


当代最高のスキルを持つ選手と称される[62][63]。高い得点能力を持つためウィングや中央のいくつもの攻撃ポジションをこなすことが出来[64][65]、またミッドフィルダーでは典型的な10番のようにプレーしているがフォワードやウィンガーのようにも展開する[65][66]。非常にクリエイティブなプレイヤーであるにもかかわらずペナルティエリアの内外で正確なフィニッシャーであり、またフリーキックやペナルティキックのスペシャリストである[65][67]


加速力・敏捷性・バランス・ボールコントロール・ドリブル能力が特に賞賛されており、1対1の状況でフェイントを使い個人で抜くことが出来る[68][69]。特に1970年代のブラジルのスター・リベリーノから学んだ「エラシコ」は彼の得意技の一つである[70][71]。ESPNは彼を速さ・精力性・巧みさ・トリッキーさ・スキルフル・奔放さを持つ司令塔と称している[72]



個人成績



クラブ



2015年9月29日現在[73]














































































































































































































































































































































































































































































































































































クラブ
シーズン
リーグ
カップ
国際大会
その他[1]
合計
出場
ゴール
アシスト
出場
ゴール
アシスト
出場
ゴール
アシスト
出場
ゴール
アシスト
出場
ゴール
アシスト

グレミオ
1998
14 1 0 2 0 0 15 3 2 17 4 48 8
2
1999
17 6 0 3 0 0 4 2 24 15 48 23
0
2000
21 14 0 6 6 0 22 21 49 41
0
合計
52 21 0 11 6 0 19 5 2 63 40 145 72 2

パリ・サンジェルマン
2001-02
28 9 8 6 2 0 14 2 2 48 13
10
2002-03
27 8 6 7 3 0 4 1 2 38 12
8
合計
55 17 14 13 5 0 18 3 4 86 25 18

バルセロナ
2003-04
32 15 11 6 3 1 7 4 2 45 22
14
2004-05
35 9 10 0 0 0 7 4 4 42 13
14
2005-06
29 17 15 2 1 1 12 7 6 2 1 1 45 26
23
2006-07
32 21 8 4 0 1 11 3 3 2 0 2 49 24
14
2007-08
17 8 2 1 0 0 8 1 2 26 9
4
合計
145 70 46 13 4 3 45 19 17 4 1 3 207 94 69

ミラン
2008-09
29 8 6 1 0 1 6 2 1 36 10
8
2009-10
36 12 18 0 0 0 7 3 1 43 15
19
2010-11
11 0 3 0 0 0 5 1 1 16 1
4
合計
76 19 26 1 0 1 18 6 3 95 26 31

フラメンゴ
2011
31 14 7 5 1 1 3 2 0 13 4 52 21
8
2012
2 1 0 0 0 0 8 2 6 9 4 19 7
6
合計
33 15 7 5 1 1 11 4 6 22 8 71 28 14

アトレチコ・ミネイロ
2012
32 9 15 0 0 0 31 9
15
2013
14 8 2 2 0 2 14 6 7 8 6 36 18
11
2014
2 0 0 9 1 2 4 0 13 1
2
合計
48 17 17 2 0 2 23 7 9 12 4 85 28 28

ケタレロ
2014-15
25 8 4 4 0 0 29 8
4
合計
25 8 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 29 8 4

フルミネンセ
2015
7 0 0 2 0 0 9 0
0
合計
7 0 0 2 0 0 9 0 0
キャリア合計
441 165 116 51 16 7 132 44 43 99 53 3 723 279 168


^ブラジル国内州選手権と国内のスーパーカップ戦


代表歴


国際Aマッチ出場数 97試合


出典[74][75]






























































































ブラジル代表 国際Aマッチ
出場 得点
1999 13 7
2000 5 1
2001 4 1
2002 10 4
2003 8 2
2004 10 6
2005 12 6
2006 9 0
2007 11 5
2008 2 0
2009 3 0
2010 1 0
2011 5 1
2012 1 0
2013 3 0
通算l 97 33


得点


出典[75]




















































































































































































































































































































































































































































エピソード



  • 2008年4月、アムウェイのサプリメントブランドであるニュートリライトとグローバル契約を結んだ。


  • ナイキのCMにも多く出演しており、主にその華麗なボール捌きを題材にしている。特に、ボールを一度も落とす事なく4連続でクロスバーに当てると言う映像は、実際のプレーなのか合成映像なのか論争になり、現在も真偽は不明だが本人は合成であることを否定している。ナイキジャパンのスタッフで、現地にいた人間は「あれは実際にやったプレー」と証言している。

  • 2006年にはナイキとの縁で、ファンであるマイケル・ジョーダンと対談した。スーパースターであるロナウジーニョも、さすがに憧れのジョーダンの前では子供のように目を輝かせていた。

  • 2006年には、ゴマブックスから人生を叙事的につづった『ロナウジーニョ The Smiling Champion』が出版された。

  • W杯やコンフェデ杯などでは、セレソンの中で率先してサンバを歌っている姿などが見かけられる。サンバ楽器のパンデイロの演奏の腕前はプロミュージシャン並みだと言われている。2006年には彼自身がサンバなどのブラジル音楽を選曲したコンピレーションCD「ゴー!ゴー!ロナウジーニョ」[76] が発売されており、1曲目では彼がサンバを歌っている曲が聴ける。

  • 大の負けず嫌いで、勝負事では手を抜かないことは有名だが、反面 燃え尽き症候群のようなことも多々見られる。日韓W杯優勝、05-06CL優勝後のロナウジーニョの言動の変貌ぶりは周りの人間を驚かせたという。

  • 試合中もサッカーを楽しむことを忘れない選手であり、たびたび笑顔をちらつかせプレーしている[4]。これほど笑顔を絶やさずプレーする選手は、かつてのセレソンの英雄ガリンシャとロナウジーニョをおいて他にいないと言われている。

  • 世界屈指の人気選手であり、Twitterのフォロワー数は2014年6月現在で約968万人である。世界のあらゆるアスリートの中でもクリスティアーノ・ロナウド、カカ、レブロン・ジェームズ、ネイマールに次いで5番目に多い[77]



リバウドとの関係


ロナウジーニョにとってロナウドは特別な存在であることは良く知られているが、リバウドとの関係はあまり知られていない。雑誌で、バルセロナ加入時に「リバウドやロナウドのような僕のアイドルのあとを追う事が出来て嬉しい」と語っている。


2002年の日韓大会でのイングランドの強力センターバック・コンビのソル・キャンベル、リオ・ファーディナンドを相手にカウンターでロナウジーニョがドリブルでひきつけてからのリバウドへのパスにより1点をもぎ取った。


2002年夏、ルイス・ファン・ハールの監督復帰によってリバウドとバルサの間に決定的な亀裂が生じた。このような状況の中、10番としてやってきたのがフアン・ロマン・リケルメであった。その後、リバウドはミランへと移籍。リケルメは後の2006年W杯でアルゼンチン代表の主軸を担う選手だが、彼はプレーにムラがあり、当時の監督ファン・ハールの戦術にもフィットしなかった。当時リバウドはジダンらと並び称される世界最高の選手の一人ながら、プレーやポジション、チームでの役割は異質なものがあり、その穴を埋めるのは至難の技だったと言える。そんな中バルサが目をつけたのが、当時パリ・サンジェルマンに所属していたロナウジーニョであった。


スペインはフランスと違いポルトガル語が通じやすい上に生活習慣にも共通点が多く、元々ロナウジーニョはスペインに行きたいという願望があった。そしてブラジル代表とFCバルセロナで10番を背負っていたリバウドの後釜としてカンプ・ノウの舞台に立ち、その上でタイトルの獲得、バロンドール、年間最優秀選手などの個人タイトルを獲得し、はては代表で背番号10を付けていく経緯は大変意味深である。結果的にはリバウドの辿ったミランへの移籍も決まった。



タイトル



クラブ


グレミオ



  • コパ・スル (1) : 1999


  • カンピオナート・ガウショ (1) : 1999


パリ・サンジェルマン


  • UEFAインタートトカップ (1) : 2001

バルセロナ



  • リーガ・エスパニョーラ (2) : 2004-05, 2005-06


  • スーペルコパ・デ・エスパーニャ (2) : 2005, 2006


  • UEFAチャンピオンズリーグ (1) : 2005-06


フラメンゴ



  • タッサ・グアナバラ (1) : 2011


  • タッサ・リオ (1) : 2011


  • カンピオナート・カリオカ (1) : 2011


アトレチコ・ミネイロ



  • コパ・リベルタドーレス (1) : 2013


  • カンピオナート・ミネイロ (1) : 2013



代表


U-17 ブラジル代表


  • FIFA U-17世界選手権 (1) : 1997

U-23 ブラジル代表


  • 夏季オリンピック 銅メダル : 2008

ブラジルA代表



  • コパ・アメリカ (1) : 1999


  • FIFAワールドカップ (1) : 2002


  • FIFAコンフェデレーションズカップ (1) : 2005



個人




  • FIFAコンフェデレーションズカップ 最優秀選手 : 1999

  • FIFAコンフェデレーションズカップ 得点王 : 1999


  • カンピオナート・ガウショ 得点王 : 1999


  • シドニーオリンピック南米予選 得点王 : 2000


  • FIFAワールドカップ 優秀選手 : 2002


  • FIFA 100 : 2004


  • ドン・バロン・アワード 最優秀外国人選手賞 (2) : 2003-04, 2005-06

  • EFEトロフィー (1) : 2004


  • FIFA最優秀選手賞 (2) : 2004, 2005


  • UEFAクラブ・フットボール・アワード 最優秀フォワード (1) : 2004-05


  • バロンドール (1) : 2005


  • FIFPro年間最優秀選手賞 (2): 2005, 2006


  • UEFA年間最優秀選手 (1): 2005-06


  • UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー (3) : 2003-04, 2004-05, 2005-06


  • FIFPro年間ベストイレブン (3) : 2004-05, 2005-06, 2006-07


  • ゴールデンフット賞 (1) : 2009


  • プレミオ・クラッキ・ド・ブラジレイロン : 2011, 2012


  • ボーラ・ジ・プラッタ : 2011, 2012


  • ボーラ・ジ・オーロ 2012


  • FIFAクラブワールドカップ 得点王:2013


  • 南米年間最優秀選手賞:2013



脚注


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  1. ^ “A.C. Milan FC profile”. A.C Milan (2008年7月16日). 2008年7月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2008年7月16日閲覧。


  2. ^ Ronaldinho Talk Football 2008年6月22日

  3. ^ abcde“ロナウジーニョが37歳で現役引退…代理人の兄が発表「これで終わり」”. サッカーキング (2018年1月17日). 2018年1月18日閲覧。

  4. ^ abcde“ロナウジーニョが正式に引退発表…ファンを楽しませ続けたファンタジスタが37歳でキャリアに終止符”. GOAL (2018年1月17日). 2018年1月18日閲覧。


  5. ^ 『ロナウジーニョ』pp.61-62


  6. ^ 『ロナウジーニョ』p.62


  7. ^ 『ロナウジーニョ』p.63


  8. ^ 『ロナウジーニョ』p.67


  9. ^ 『ロナウジーニョ』p.68


  10. ^ 『ロナウジーニョ』p.69


  11. ^ 『ロナウジーニョ』p.70


  12. ^ 『ロナウジーニョ』p.77

  13. ^ abRadnedge, Keir, "The priceless prince of Barcelona", World Soccer, January 2005, pp. 8–9


  14. ^ Kidd, Dave. “Arsene KO'd in Dinho bid”. London: The Sun. http://www.thesun.co.uk/article/0,,2002390000-2005590125,00.html 2007年4月12日閲覧。 


  15. ^ McGowan, Stephen (2001年3月30日). “Saints fail in Ronaldinho move”. Scotland – News. ESPN.com Soccernet. 2008年6月6日閲覧。


  16. ^ “PSG sign Ronaldinho”. BBC Sport (2001年1月17日). 2010年2月16日閲覧。


  17. ^ “AJ Auxerre – Paris Saint-Germain”. Ligue de Football Professionnel. (2001年8月4日). http://www.ligue1.com/ligue1/feuille_match/46738 2011年2月16日閲覧。 


  18. ^ “Paris Saint-Germain – Olympique Lyonnais”. Ligue de Football Professionnel. (2001年10月14日). http://www.ligue1.com/ligue1/feuille_match/46633 2011年2月16日閲覧。 


  19. ^ “Objetivo Ronaldinho” (Spanish). El Mundo Deportivo. (2003年6月19日). http://hemeroteca.elmundodeportivo.es/preview/2003/06/19/pagina-2/1379616/pdf.html 2011年2月24日閲覧。 


  20. ^ “Barça break bank for Ronaldinho”. UEFA.com (2003年7月21日). 2011年2月24日閲覧。


  21. ^ “Ronaldinho ruled out for Barça”. UEFA.com. (2003年11月10日). http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=125668.html 2011年2月24日閲覧。 


  22. ^ “Chelsea 4–2 Barcelona”. BBC Sport. (2005年3月8日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/4321491.stm 2006年6月27日閲覧。 


  23. ^ “Ronaldinho fulfils boyhood dream with overhead goal”. ESPNsoccernet. (2006年11月26日). http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=393786&cc=3436 2007年1月6日閲覧。 


  24. ^ “Soccer: Ronaldinho turns on style as Barcelona beat Club America 4–0”. Andrew Breitbart. (2006年12月14日). http://www.breitbart.com/article.php?id=D8M0KC3O1&show_article=1 2010年12月23日閲覧。 


  25. ^ “Cannavaro & Ronaldinho: We already feel like winners”. FIFA. (2006年12月18日). オリジナルの2011年8月27日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110827024645/http://www.fifa.com/classicfootball/awards/gala/news/newsid%3D108757.html 2010年12月23日閲覧。 


  26. ^ “Team of the Year”. UEFA.com. 2010年9月8日閲覧。


  27. ^ “Ronaldinho misses out”. マンチェスター・U公式サイト. (2007年3月13日). http://www.manutd.com/default.sps?pagegid=%7BB4CEE8FA%2D9A47%2D47BC%2DB069%2D3F7A2F35DB70%7D&newsid=410669 


  28. ^ “Manchester United Official Web Site – NEWS AND FEATURES:”. マンチェスター・U公式サイト. 2010年9月8日閲覧。


  29. ^ Tynan, Gordon (2008年4月5日). “Injury ends Ronaldinho's campaign”. Football (UK: インデペンデント). http://www.independent.co.uk/sport/football/european/injury-ends-ronaldinhos-campaign-804944.html 2008年6月6日閲覧。 


  30. ^ “Laporta: Ronaldinho needs to leave Nou Camp”. FourFourTwo. (2008年5月19日). http://fourfourtwo.com/news/spain/9517/default.aspx 2008年5月19日閲覧。 


  31. ^ Ducker, James (2008年6月5日). “Manchester City set to move for Ronaldinho”. The Times Online (UK: タイムズ). http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/football/premier_league/manchester_city/article4069564.ece 2008年6月6日閲覧。 


  32. ^ “MSN Football”. Msn.football365.com (2010年5月1日). 2010年9月8日閲覧。


  33. ^ “Open letter from Ronaldinho”. FCBarcelona.cat (2010年8月24日). 2010年9月8日閲覧。[リンク切れ]


  34. ^ “Ronaldinho Snubs Man City for A.C. Milan – AOL Fanhouse, 7/16/08”. Soccer.fanhouse.com. 2010年9月8日閲覧。


  35. ^ Scott Anthony (2008年7月15日). “Ronaldinho signs on at the San Siro”. Guardian (UK). http://www.guardian.co.uk/football/2008/jul/15/acmilan.barcelona?gusrc=rss&feed=football 2010年9月8日閲覧。 


  36. ^ Lowe, Sid (2008年7月16日). “Milan secure Ronaldinho on the cheap as Barcelona pay for ham-fisted exit strategy”. The Guardian (London). http://www.guardian.co.uk/football/2008/jul/16/acmilan.serieafootball?gusrc=rss&feed=networkfront 2010年5月22日閲覧。 


  37. ^ Reuters (2010年1月17日). “Ronaldinho hat-trick as Milan win, Juve lose – Europe – ESPN Soccernet”. ESPN. 2010年9月8日閲覧。


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  39. ^ Ronaldinho joins Brazilian club Flamengo BBC Sport、2011年1月11日


  40. ^ “Fans flock to welcome Ronaldinho”. soccer way.com (2011年1月13日). 2011年1月18日閲覧。


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  42. ^ “ロナウジーニョ支払滞納でフラメンゴと契約解消”. goal.com (2012年6月1日). 2012年6月1日閲覧。


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  45. ^ ロナウジーニョの新天地はフルミネンセ「マラカナンでのプレーは興奮する」 soccerking 2015年7月12日


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  47. ^ Brazil victory harms Copa America credibility Sports Illustrated、2004年7月26日


  48. ^ “Ronaldinho no factor in Brazil defeat”. Sports Illustrated. (2006年7月1日). オリジナルの2006年7月5日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060705053643/http://sportsillustrated.cnn.com/2006/soccer/specials/world_cup/2006/07/01/ronaldinho.brazil.ap/index.html 2006年7月7日閲覧。 


  49. ^ “Estátua de Ronaldinho é queimada em Santa Catarina”. UOL Esporte. (2006年7月3日). http://copa.esporte.uol.com.br/copa/2006/ultnot/brasil/2006/07/03/ult3505u683.jhtm 2006年7月4日閲覧。 


  50. ^ “Decepção da Copa, Ronaldinho "festeja" com comida, dança e balada”. Folha Online. (2006年7月4日). http://www1.folha.uol.com.br/folha/esporte/ult92u105276.shtml 2006年7月4日閲覧。 


  51. ^ CNN. http://www.cnn.com/2007/SPORT/football/03/24/brazil.friendly.reut/index.html?section=cnn_latest  [リンク切れ]


  52. ^ Tired Ronaldinho asks to skip Copa America Reuters、2007年5月15日


  53. ^ “Ronaldinho and Robinho dropped by their Primera Liga teams”. Malaysian Star. 2007年12月21日閲覧。


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  57. ^ World Cup 2010: I Am A Better Player At Milan That What I Was At Barcelona – Ronaldinho – Goal.com


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  61. ^ SOCCER KING (2011年10月12日). “ロナウジーニョの4年ぶりのゴールで、ブラジルがメキシコを破る”. SOCCER KING. 2011年10月12日閲覧。


  62. ^ “Will Ronaldinho return to his best?”. 2015年1月15日閲覧。


  63. ^ "Milan Managers Take Different Approaches to Futures". New York Times. Retrieved 14 November 2013


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  65. ^ abc“Ronaldo de Assis Moreira”. 2015年1月15日閲覧。


  66. ^ “Ronaldinho, sei un "trecante" Praticamente un nove e mezzo”. 2015年1月15日閲覧。


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  70. ^ "Football's Greatest - Rivelino". Pitch International LLP. 2012. Retrieved 8 May 2014


  71. ^ David Goldblatt (2009). "The Football Book". p. 129. D Kindersley Ltd,


  72. ^ "Ronaldinho Profile". ESPN. Retrieved 14 November 2013


  73. ^ “Soccerway.com”. http://soccerway.com/players/ronaldo-de-assis-moreira/150/ 


  74. ^ “Ronaldinho Gaúcho”. National-Football-Teams.com. 2017年7月13日閲覧。

  75. ^ ab“Ronaldo de Assis Moreira "Ronaldinho" - Goals in International Matches”. rsssf.com. 2017年7月13日閲覧。


  76. ^ ゴー!ゴー!ロナウジーニョ - ユニバーサルミュージック


  77. ^ The World Cup Reminds Everyone That Soccer Players Are The Most Popular Athletes HUFF POST 2014年6月30日閲覧。




参考文献


  • ルーカ・カイオーリ 『ロナウジーニョ - The Smiling Champion』 堤康徳訳、ゴマブックス、2006年。ISBN 4-7771-0318-8。


外部リンク







  • 公式サイト

  • 公式ブログ

  • Ronaldinho Web

  • ronaldinho10.com

  • 1ronaldinho.com

  • Photos and Videos Ronaldinho

  • ロナウジーニョの部屋


  • Ronaldinho – FIFA主催大会成績 (アーカイブ)


  • Tactical Profile – Football-Lineups.com

  • European Champions Cup/UEFA Champions League Winning Squads


  • Ronaldinho profile FIFA website


  • Ronaldinho - Soccerbase

  • FootballDatabase career stats


  • Ronaldinho profile BBC Sport


  • Ronaldinho career stats Futpédia

















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