幸徳事件
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幸徳事件(こうとくじけん)は、大逆事件の一つであり、明治天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や禁固刑判決を下した事件である[1]。
同時期には米国でマッキンリー大統領暗殺事件、ポルトガル王国でカルルシュ1世暗殺事件などの無政府主義者、社会主義者、共和主義者によるテロリズムが多発しており、この事件は国内に衝撃を与えた。
政府はこの事件の発覚を受け、跋扈していた社会主義者、無政府主義者を調査摘発し、根絶を図ったが、この過程で政府による捏造もあったとされている。
一般に「大逆事件」と言われる際は、この幸徳事件を指す。幸徳秋水事件ともいう[2]。
目次
1 概要
1.1 明科事件
1.2 逮捕・判決・処刑
1.3 抗議運動
2 関連年表
3 脚注
4 参考文献
5 関連人物
6 関連項目
7 外部リンク
概要
明科事件
明治天皇暗殺計画に関与したのは、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の5名であり、秋水は実行計画には関与せず著作に専念したとされる[3]。宮下は長野県東筑摩郡中川手村明科(現・安曇野市)の明科製材所で爆裂弾を製造、1909年(明治42年)11月3日に同村大足で爆破実験をおこなった[1]。1910年(明治43年)1月に千駄ヶ谷の平民社で実行計画が練られた[1]。
逮捕・判決・処刑
1910年(明治43年)5月25日に多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まった。検挙には武富済、取り調べには小原直などの検事が関わった。1911年(明治44年)1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決[4]。1月24日に11名が、1月25日に管野がそれぞれ絞首刑に処された。
布施柑治によると、秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述した[5]。
刑死した人物は秋水の他、管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の12人。特赦無期刑で獄死した人物は、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮釈放された者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治の7人。
赤旗事件で有罪となり獄中にいた大杉栄、堺利彦、山川均、および獄中にいる期間に妻であった菅野スガを幸徳に寝取られた上に一方的に離縁となり、幸徳と菅野を恨み疎遠となっていた荒畑寒村は連座を免れたが、この事件の影響により社会主義運動は数多くの同調者を失い、暫時運動が沈滞したため「社会主義冬の時代」と呼ばれる。
戦後、再審請求が提訴されたが、1967年に最高裁は、免訴の判決を下し、再審請求が事実上できないことを示した。
抗議運動
判決の2ヶ月前の1910年(明治43年)11月22日を皮切りに、アメリカの無政府主義者、エマ・ゴールドマンらがニューヨークで抗議集会を開くなどの抗議運動を展開した。さらにイギリスやフランスにも抗議運動が起こり、日本大使館に抗議デモが押し寄せた
[6][7]。
関連年表
1908年(明治41年)
7月14日 - 第2次桂内閣成立。- 9月 - 平民社、巣鴨へ移転。
1909年(明治42年)
2月13日 - 宮下太吉、巣鴨の平民社に幸徳秋水を訪ね初対面、天皇暗殺計画を示唆、新村忠雄とも初対面。
3月18日 - 平民社を千駄ヶ谷へ移転、管野スガが平民社に住み込む。
5月25日 - 宮下、秋水宛に「爆裂弾の調合が判った」旨の書簡。
7月15日 - 警視庁、平民社を家宅捜索し、管野スガを検挙。
11月3日 - 宮下、長野県東筑摩郡中川手村大足(現・安曇野市)の大足山中で爆裂弾の爆発実験。
1910年(明治43年)
3月22日 - 平民社解散。秋水、管野は湯河原へ向かう。
5月14日 - 新村の明科入りを察知した駐在巡査が、新村を尾行。
5月21日 - 宮下、爆弾の材料を中川手村明科の明科製材所の工場に移す。
5月23日 - 長野県松本警察署長、宮下に関わる爆発物取締罰則違反容疑の報告書を受け取る。
5月25日 - 松本警察署が宮下、新村らを爆裂弾製造所持(爆発物取締罰則違反容疑)で逮捕(明科事件)。大逆事件の大検挙がはじまる。
5月31日 - 検事総長、(旧)刑法73条(大逆罪)に該当すると判断。
6月1日 - 秋水、管野らを湯河原で逮捕。
11月12日 - アナキストのエマ・ゴールドマンら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛に抗議文を送付。
11月22日 - エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会。
11月29日 - 大杉が東京監獄から満期出所。
12月6日 - フランスの社会主義者ら、在パリ日本大使館に抗議して大デモ。
12月10日 - 秋水ほか26人に関する大逆事件の大審院第1回公判(非公開)を開廷。
12月12日 - エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択。
12月24日 - (堺が売文社を設立)。
1911年(明治44年)
1月18日 - 大審院、秋水ら24人に死刑判決、新田融に懲役11年、新村善兵衛に懲役8年の判決が下された。大逆罪適用のため、有罪判決は未遂、準備のみであっても死刑のみであり、また1審限りで控訴は行えなかった。
1月19日 - 明治天皇の「仁慈」により12人を死刑から無期に減刑。
1月24日 - 幸徳秋水ら11人の死刑執行。
1月25日 - 管野の死刑が執行された。
3月17日 - 大杉、大阪在住の大逆事件犠牲者家族を見舞いに東京を出発。
6月1日 - (平塚らいてうらが青鞜社発起人会)。
8月25日 - 第2次桂内閣総辞職。
9月1日 - (平塚らいてうらが『青鞜』創刊)。
1913年(大正2年)
1月26日 - 大杉が大逆事件刑死者の墓参り。
1914年(大正3年)
6月24日 - 無期に減刑された秋田監獄の高木顕明(僧侶)が、真宗大谷派(東本願寺)による僧籍削除を苦に自殺した。
1915年(大正4年)
7月24日 - 新村善兵衛が千葉監獄より仮出獄。
1916年(大正5年)
5月18日 - 三浦安太郎が長崎監獄で自殺。
7月15日 - 佐々木道元が千葉監獄で獄死。
10月10日 - 新田融が千葉監獄より仮出獄。
1917年(大正6年)
7月27日 - 岡本穎一郎が長崎監獄で獄死。
1919年(大正8年)
3月6日 - 峯尾節堂が千葉監獄で獄死。
1920年(大正9年)
4月2日 - 新村善兵衛が大阪で死去。
1925年(大正14年)
5月10日 - 飛松与次郎が秋田刑務所より仮出獄。
1929年(昭和4年)
4月29日 - 崎久保誓一が秋田刑務所より、成石勘三郎・武田九平が長崎刑務所より仮出獄。
1931年(昭和6年)
1月3日 - 成石勘三郎が死去。
4月29日 - 岡林寅松・小松丑治が長崎刑務所より仮出獄。
10月1日 - 坂本清馬が秋田刑務所から高知刑務所へ移送。
1932年(昭和7年)
11月29日 - 武田九平が自動車事故死。
1934年(昭和9年)
11月3日 - 坂本清馬が高知刑務所より仮出獄。
1937年(昭和12年)
3月20日 - 新田融が東京で死去。
1945年(昭和20年)
10月4日 - 小松丑治が死去。
1948年(昭和23年)
9月1日 - 岡林寅松が高知で死去。
1953年(昭和28年)
9月10日 - 飛松与次郎が熊本で死去。
1955年(昭和30年)
10月30日 - 崎久保誓一が死去。
1960年(昭和35年)
2月23日 - 「大逆事件の真実を明らかにする会」発足(事務局長:参議院議員・坂本昭)。
1961年(昭和36年)
1月18日 - 再審請求運動が起こる(再審請求人:坂本清馬、森近栄子[8])。
1967年(昭和42年)
7月5日 - 最高裁、再審請求を棄却。
1975年(昭和50年)
1月15日 - 坂本清馬が死去。
1996年(平成8年)
4月1日 - 和歌山県新宮市の浄泉寺(浄土真宗)が大逆事件を見直し、獄中で自殺した高木の僧籍復帰(名誉回復)。
2001年(平成13年)
8月25日 - 和歌山県新宮市で「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成された。
脚注
- ^ abc荻野富士夫Yahoo!百科事典 大逆事件
^ 繰り返される朝日の歴史乱用Japan In Depth
^ 荻野富士夫
^ 「幸徳傳次郎等無政府主義者の 大逆事件=判決下る 大審院の特別裁判◇二十四名死刑(1.19東朝)」新聞集成明治編年史編纂会編『新聞集成明治編年史 第14卷(第3版)』林泉社、1940年、pp.359-364
^ 布施 1974 [要ページ番号]
^ 『人物叢書 幸徳秋水』西尾陽太郎(吉川弘文館)311p
^ 『大逆事件 生と死の群像』田中伸尚(岩波書店)88p
^ 森近運平の実妹
参考文献
- 布施柑治 『布施辰治外伝 幸徳事件より松川事件まで』 未来社、1974年12月。ISBN 978-4-624-11038-3。
関連人物
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関連項目
- 大逆事件#幸徳秋水事件関連
- 治安維持法
外部リンク
- 『計画』:新字旧仮名 - 青空文庫
『計画』:旧字旧仮名 - 青空文庫 - 幸徳秋水事件で弁護人を務めた平出修が事件後、幸徳秋水と管野スガをモデルにして描いた小説。1912年(大正元年)9月4日、『スバル』に掲載。